All Chapters of 流産の日、夫は愛人の元へ: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話

車が病院に着くと、素羽は死んだ魚のような顔をした祐佳に小声で釘を刺した。「今の暮らしを守りたいなら、そんな偉そうな態度はやめときなさい」正妻である自分でさえ、プライドを押し殺して頭を下げているのだ。事の発端である祐佳が、どの口で強気に振る舞えるというのか。祐佳は睨み返してきた。「いちいち指図される筋合いなんてないわよ」もし芳枝のことがなければ、こんな面倒なことには絶対に首を突っ込まなかっただろう。素羽は病室のドアをノックした。中から司野の冷ややかな声が聞こえる。ドアを開けると、司野が優しく美宜に水を飲ませているところだった。その光景があまりにも眩しくて、素羽は思わず拳を握り締めた。司野がこちらを見て、眉間にしわを寄せる。無言で「何しに来た?」と聞いているようだった。素羽は胸の内の波を抑え、「祐佳を連れて、翁坂さんにお詫びに来た」と告げた。そう言って祐佳を見ると、彼女は渋々ながらも「ごめんなさい」と口にした。手術を終えたばかりの美宜は顔色が真っ白で、困惑したように首をかしげる。「どうして謝るの?」素羽が口を開く前に、外から利津が入ってきた。「だって、あいつの妹のせいで美宜ちゃんが死にかけたんだぞ。素羽、お前らはどういうつもり?一人吸血鬼が足りないから、二人で一人の男に群がるつもり?恥という言葉を知らないのか!」素羽は爪を掌に食い込ませながら、顔をしかめた。自分のせいじゃないと分かっていても、どうしようもない現実だった。素羽は悔しさを飲み込み、美宜に向かって頭を下げた。「翁坂さん、今回のことは全部うちの家の落ち度です。どんなご要望も、ご希望も、できる限りお応えします」美宜は顔を横に向け、弱々しくつぶやいた。「司野さん……もう疲れたの」「寝てていいよ」司野は彼女の布団を優しくかけ直し、素羽を見る視線だけが氷のように冷たかった。「連れて出て行け」素羽は握り締めた拳をさらに強くし、胸の痛みが広がる。こんな簡単に終わる話じゃないと分かっていても、司野の偏った態度を見ると、どうしようもなく心が締め付けられた。病院の外。祐佳はゴミ箱を蹴飛ばし、ガチャンという音と共に悪態をついた。「本当に情けないわね!愛人にここまでなめられて、正妻なのに文句のひとつも言えないなんて!役立たず!」素羽は淡々と返す。
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第42話

現実って、本当に皮肉なものだ。素羽は正妻という立場で、毎日決まった時間に美宜へ食事を届けている。その一方で、夫である司野は、それをまったく問題だと思っていない様子だった。美宜の病室は、いつも賑やかだ。訪れるのは、みな司野の友人たち。利津は、素羽が持ってきた昼食をさっさと横取りし、食べながら言った。「おい、司野の家にはこんな腕のいい料理人がいるって、なんで今まで黙ってたんだよ?どうだ、俺んちに来て専属シェフやらないか?給料は相談に乗るぜ」素羽が何も言う前に、美宜が口を挟んだ。「谷川さん、そんなのダメですよ。素羽さんを雇うなんて、立場的に合わないです」だが利津は気にした様子もなく、軽く笑い飛ばした。「何が合わないんだ。家で作ろうが、うちで作ろうが同じだろ?それに俺ならタダ働きはさせないさ」その言葉一つ一つが、素羽の心に鋭く突き刺さる。利津がこんな態度なのも、結局は司野の無関心があるからだ。見ていれば分かる。彼は美宜にはそんなことは言わない。「俺の存在を無視してるのか?」司野が、ようやく自分をかばうように一言返す。だが素羽は感動しなかった。守られたのは自分じゃない。ただ、彼の体面に過ぎないのだ。須藤家の嫁が、外で人の料理人をしているなんて、どれだけ恥ずかしいことか。司野の不満に気づいた利津は、さすがに空気を読んで話題を変えた。「はいはい、わかったよ。手放したくないのは理解した。奪い合いはしないさ」素羽の心は、まだ鋼のように強くなったわけじゃない。平気なふりはできても、本当は胸が苦しかった。これ以上、この息苦しい空間にいたくない。そう思って、病室を出ることにした。幸いなことに、芳枝もこの病院に入院している。美宜の病室を出て、その足で芳枝のもとへ向かった。芳枝は元気そうで、素羽を見ると顔いっぱいの優しさで迎えてくれる。「おばあちゃん」芳枝がいる場所は、素羽にとって唯一の避難所だ。その目に嬉しさが浮かんでいるのを見て、素羽は思わず問いかける。「今日は何だか嬉しそうだね。何かいいことでも?」芳枝は目を細めて笑った。「お父さんがな、私の七十歳の誕生日に、家に帰って祝うって言ってくれたんだよ」その言葉を聞いた瞬間、素羽の笑顔はわずかに凍りついた。松信は孝行息子でも何でもない。損得勘定で動く人間
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第43話

「してないわ」彼を責める理由なんてない。だって自分は、彼が本当に心から望んで娶りたい相手じゃない。ただの取引、欲張りすぎたのは自分の方だ。肩書きだけじゃ足りず、愛まで欲しがってしまった。司野は気にした様子もなく、話題を変える。「美宜がお前の妹のために口を利いた。追及はしないそうだ。これで最後だがな」本当は一番望んだ結果のはずなのに、今、胸が締め付けられる。自分自身が哀れで、情けなく思える。「祐佳の代わりに、お礼を言っておくわ」司野は鼻で笑った。「ほう、今まで気づかなかったけど……ずいぶんと自己犠牲的な人だな」皮肉たっぷりのその言い草。自分だって本当は、わがままに生きたい。けれど自分を育ててくれた芳枝のことを思えば、どうしても捨てられなかった。「26日、時間ある?」素羽はそっと聞いた。「何の用だ?」「その日、おばあちゃんの七十歳の誕生日なの。一緒に来てくれる?」彼は小さく「うん」とだけ答えた。行くとも、行かないとも言わなかったけれど、素羽はそれが了承の印だと分かっていた。また出かけようとする彼の背中に、素羽はもう一度声をかけた。「どこ行くの?」「病院だ」一瞬、胸が凍りつく。言葉を失ったまま、彼が背を向けるのを見送るしかなかった。……時はあっという間に流れ、おばあちゃんの七十歳の誕生日がやってきた。出勤しようとする司野に、素羽は言った。「お祝いの宴は、夕方五時から始まるよ」彼は小さく頷いた。「分かった」「その時、瑞基で待ち合わせしよう」せっかく一緒に行くんだから、芳枝に仲が悪いって思われたくない。彼も「分かった」とだけ答えた。家を出て、司野は瑞基へ、素羽は事務所へとそれぞれ向かった。清人が言った。「今週末、学校の百周年記念式典があるんだ。曽根先生も出席する。素羽も一緒に先生に会いに行かない?」その言葉に、素羽は一瞬手を止めた。もう何年も、大学の先生――曽根雅史(そね まさし)に会っていない。司野と結婚して、筆を置き、家庭に入ることを選んでから、雅史の期待を裏切った顔を見せるのが恥ずかしくて、会いに行けなかった。素羽は目を伏せて言う。「私はやめておくよ。もしよかったら、曽根先生によろしく伝えて」自分なんか、もう顔向けできない。でも清人は笑って言った。「挨
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第44話

車は静かに大通りを走っていた。司野はふと、素羽の薬指が裸なのに気づき、少し戸惑いながら問いかけた。「指輪は?」素羽は一瞬きょとんとして、無意識に指を撫でた。「朝、洗面所に外して置いたまま、出かける時に忘れちゃったの」実は、結婚指輪なんて、とっくの昔に外していた。今日になって彼が気づくなんて思わなかった。積み重ねた年月が残した指輪の跡を見つめながら、素羽の心はどこか遠くへ漂っていった。あの指輪、最初から自分のサイズじゃなかった。けれど、合わなくても、初めてその指に通したとき、素羽はすごく嬉しかった。彼女はこっそりサイズを直し、それから五年も身につけ続けた。でも、現実は教えてくれた。最初から合わなかったものは、どれだけ手を加えても本質は変わらないって。司野は、自分のものじゃない。彼は自分を、好きじゃない。ひんやりとした感触が思考を現実に引き戻した。見下ろすと、司野が小さな四角い箱を差し出している。素羽は戸惑った。「なに?」開けてみると、中にはダイヤの指輪。ますます訳が分からない。なぜ彼がこんなものを自分に?「誕生日プレゼントだ」と司野。「でも、私の誕生日はまだ一ヶ月も先だけど?」「その日は、海外出張で帰れないから」キラキラ輝くダイヤの指輪を見つめて、素羽の心は複雑だった。彼の冷たさには慣れていた。でも、こうして突然優しくされると、耐えられない。揺らいでしまうから。指輪を取り出し、薬指にはめると、サイズはぴったりだった。「気に入った?」ダイヤのきらめきが瞳に映る。胸が、少しだけ、苦しくなった。「うん……うれしい」彼がくれるものだもの。嫌いになれるはずがない。車はそのまま江原家へ到着した。車を降りると、司野はトランクから手土産を取り出した。「これ、おばあちゃんへの贈り物」彼の手にある豪華な包みを見て、素羽は言葉を失う。てっきり、何も用意していないと思っていたのに。だからこそ、彼女は二人の名義で贈り物を用意してきたのだ。「なにしてるの。行くぞ」彼の差し出した腕に、素羽は少しだけためらってから手を絡め、思わず口元が綻ぶ。もうすぐ玄関、というところで、司野の携帯が鳴った。なぜか、素羽は彼にその電話に出てほしくなかった。しつこく鳴り響く着信音。まるで、取ら
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第45話

司野は、すべてを分かっていたはずなのに、それでも迷いなく美宜のもとへ駆けていった。もう家の玄関先まで来ていたのに、それ以上、彼女のために一分たりとも足を止めてくれることはなかった。帰ってくることは、司野にはできなかった。芳枝の誕生日の宴が終わるまで、彼の姿はついぞ見えなかった。こんな結末、彼女には最初から分かっていたことだった。帰り道、素羽は司野の最新の情報を受け取った。それは美宜からのメッセージだった。そこには、司野が美宜の家の台所で忙しそうにしている写真が添付されていた。【司野さんが、私に晩ごはんを作ってくれてるの】スマホの画面を閉じた瞬間、一粒の涙が彼女の目尻からこぼれ落ち、夜風に紛れて消えていった。司野が姿を消したのは、その夜まるごと。翌朝になって、ようやく着替えのために家へ戻ってきた。「悪かったな」謝罪の言葉なんて、素羽には何の意味もなかった。素羽は尋ねる。「もし私と美宜が同時に何かあったら、やっぱり真っ先に彼女の方へ行くの?」司野は彼女の問いに答えなかった。「無意味な仮定には答えない」素羽は自嘲した。ほら、好きじゃない相手には、仮定の話すら嘘で誤魔化してくれないんだ。……雅史に会いに行くその日。前夜、素羽は眠れずにいた。清人は彼女の疲れた顔色を見て、微笑みながら言った。「眠れなかったの?」素羽はコクリと頷き、正直に答える。「緊張してて」清人は笑った。「そんなに怖がることないだろ。曽根先生は人食いの獣でもあるまいし」彼は知らないのだ。雅史は獣よりよほど怖いのだと。聖堂大学(せいどうだいがく)。素羽は、まさかここで司野に会うとは思っていなかった。いや、考えてみれば不思議じゃない。彼はここの卒業生。大学の周年記念式典、成功者として招待されるのは当たり前のことだった。だが、司野は素羽がなぜここにいるのか、不思議そうに尋ねた。「素羽、なんでここに?」素羽は答える。「私も、聖堂大学の卒業生だよ」司野の目に、驚きの色が一瞬浮かんだ。どうやら、素羽が自分の後輩だとは知らなかったらしい。彼は、彼女が自分の後輩だということも知らなければ、彼女が自分のためにこの大学を選んだことも知らない。空気になりたくなかった美宜も、前に出てきて言った。「素羽さんも、聖大に招待されたの
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第46話

「先生、私の結婚相手のこと、ご存じですか?」雅史は、牛のように鼻を鳴らして、またもや不機嫌そうに唸った。素羽は、ますます胸が痛んだ。まさか、雅史がまだ自分のことを気にかけてくれているとは思わなかった。てっきり、もう完全に見放されているのだとばかり……申し訳なさで胸がいっぱいになり、唇を引き結び、鼻の奥がツンとし、目頭も熱くなってくる。雅史は、そんな素羽をうとましそうに睨んだ。「泣きそうな顔して、情けない。まるで年寄りが若いもんをいじめてるみたいじゃないか、やめてくれ」「……」泣く勇気も失せて、素羽は必死に涙をこらえた。そんな空気を和ませようと、清人が口を開く。「そろそろ、式典が始まりますよね?僕がご一緒しましょうか?」雅史は、まるで爆竹みたいに怒りっぽい。「わしがそんなにヨボヨボに見えるのか?杖なんぞ要らん!」「……」彼だって、別に怒らせるようなことはした覚えはない。けれど、思わぬ火の粉が降りかかってきた。雅史の視線が素羽へ。「いつまで突っ立ってるんだ。こっちに来て手を貸せ。師を敬うって言葉も知らんのか?」素羽は一言の反論もできず、慌てて駆け寄った。傲慢で可愛い雅史を眺めながら、清人は小さく首を振って、苦笑した。講堂。雅史は学校が特別に招いた来賓で、最前列に座る。当然、資産家の司野も同じ待遇だ。その縁で、素羽と清人は二列目へ。偶然にも、美宜が素羽の右隣に座っていた。席を替わろうかと清人に目配せしたが、式が始まってしまう。美宜は、馴れ馴れしい口調で話しかけてきた。「素羽さんも来るって知ってたら、司野さんに声かけてもらったのに」彼女の挑発にも、素羽はもう慣れっこだ。会えば必ず、何かしら嫌味を言ってくる。薬でも飲み忘れたんじゃないかと心配になるほどだ。壇上の司野は、姿勢も凛々しく、表情も引き締まり、立ち居振る舞いすべてが人目を惹く。ふと見れば、女学生たちの多くが星のような目で彼を見つめている。その憧れのまなざし、よく分かる。かつての自分も、そうやって彼に夢中になり、彼の後ろ姿を追いかけ続け、ついには司野の妻、戸籍上の女主人になった。これからの人生、彼は自分だけのものだと信じていた。だが現実は、甘い夢を打ち砕いた。美宜のやかましい声が、素羽を現実へ引き戻す。
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第47話

司野と初めて出会ったのは、素羽が十五歳の春だった。ごく普通の下校日のことだ。けれど、素羽にとっては普通なんて言葉は似合わない。ずっといじめに怯えていたから。学校を出てからが、やつらにとっての「お楽しみタイム」だった。案の定、その日もまた、裏路地で囲まれて、恥をかかされた。子供の残酷さは、大人のそれよりもずっと無邪気で、悪辣だ。殴られるだけならまだマシ。制服を破られ、頭から水をぶっかけられ、スマホで裸を撮られたりもした。長い間、屈辱と痛みを受け続けて、素羽の心も体も、もうバラバラ寸前だった。そんな時、司野が現れた。彼はそっと自分の上着を彼女の肩にかけてくれた。汚れた顔を、ためらいもなくハンカチで拭いてくれた。その手つきが、やさしくて、切なかった。「かわいそうに……」素羽の心に死への衝動が芽生えているのを察したのか、彼は彼女の頭をそっと撫でて言った。「しっかり生きろよ。あいつらより強くなって、幸せになるのが、一番の仕返しだ」司野は、彼女の暗闇の中に、初めて灯った光だった。彼は彼女をいじめっ子から救い出してくれただけじゃない。その後、彼らを学校から退学にまで追い込んだ。どうやってあんなことができたのか、当時の素羽には分からなかった。けれど、それから学校はいじめ問題を厳しく取り締まるようになり、彼女は二度と誰にも傷つけられなかった。後になって知ったことだが、彼女の通っていた学園は、須藤家の所有する学校だった。彼はその家の跡取り、司野だったのだ。素羽は、あの温かい光を失いたくなくて、まるで日陰を這う小動物みたいに、ずっと彼のことを目で追っていた。司野は、本当にきれいな人だった。太陽の下に立つ天使のようで、笑顔もまぶしかった。次第に、彼に特別な感情を抱くようになった。素羽の尾行に気づいた司野は、怒るどころか、ふっと笑って「どうして俺についてくるのか?」と聞いてきた。友人たちがからかうように言った。「決まってるじゃん、好きなんだろ?」だが、彼は笑ってそれを否定し、「人の噂を立てるのはやめなよ」とだけ言った。「お前まだ子供だ。勉強に励みなさい。恋愛は大人になってからだよ」その時、彼女はすでに十六歳だったが、彼に「子供」と呼ばれても不思議はなかった。小さくて痩せていて、まるで成長し
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第48話

学校の記念式典が終わった。素羽は、端のほうで恩師である雅史が旧友と話しているのを静かに待っていた。そんな中、横から聞こえてきた会話が、ふと耳に入ってきた。「何年経っても、司野はやっぱり優秀だよなぁ」「そりゃそうだろ、あの人は生まれながらにして恵まれてる。俺たちみたいな庶民とは住む世界が違うんだよ」「もう結婚してるって噂だぞ」「この年齢なら普通だろ?」「でもさ、昔は野坂(のざか)先輩とすごく仲が良かったじゃん?結局、他の人と結婚したんだな」「須藤家の家柄じゃ、やっぱり釣り合いが大事なんだろうな」素羽は、そっと耳を傾けた。なるほど、司野の初恋は野坂という人だったのか。「野坂先輩、今は海外だっけ。どうしてるんだろうね」「どうした?未練でもあんのか?」次の瞬間、二人の目がまん丸になる。すぐに恭しい声が響いた。「須藤社長……」その声に、素羽も後ろを振り返る。そこには、司野が静かに立っていた。彼の表情はまるで湖面のように穏やかで、何を考えているのか誰にも読めない。今の司野は、学生時代とはまるで別人だ。事故の後、素羽の記憶にあるあの明るくて、よく笑う太陽みたいな少年は、どこかへ消えてしまった。今の彼は、まるで生きているのか分からないほど落ち着いている。でも、美宜の前では、そんな大人びた雰囲気も薄れるようだ。さっきまで大きな口を叩いていた二人は、猫に睨まれた鼠のように、そそくさとその場を離れていった。司野は素羽の前に歩み寄る。「曽根先生とは、どんなご関係なのか?」素羽は少し迷って、無難な答えを選んだ。「昔は、師弟関係だった」「昔?」「うん」「どうして?」「あなたと結婚したから」その言葉に、司野の動きが一瞬止まる。何となく察したようだった。まさか自分の妻が、雅史の弟子だったとは思いもしなかったのだろう。「どうして今まで黙ってたんだ?」「聞いてくれなかったから」彼のことが好きだったから、彼の全てを知りたくて調べていた。でも、彼は自分に興味がないから、何一つ知ろうとしなかった。司野は、どこか気まずそうに話題を変えた。「このあと、一緒に食事に行こう」素羽が何も答えないうちに、美宜がどこからともなく現れて、司野の腕に絡む。「司野さん、私初めて聖大に来たんだけど、案内
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第49話

素羽の胸の奥に重くのしかかっていた気持ちは、そのひと言で少し笑いに変わった。彼女は冗談めかして言う。「先生は絶対に死んでも離婚しないタイプかと思ってましたけど、案外お考えが柔らかいんですね」雅史は彼女を睨みつけながらも、「わしを何だと思っとる。時代遅れの頑固爺さんか?そもそも結婚は死刑宣告じゃない。死刑ですら執行猶予があるんだぞ」と返した。「離婚しないって、もしかしてあの贅沢な暮らしが惜しいから?」素羽は冗談を続ける。「正直言うと、惜しいかも。こんなお金持ちの世界、なかなか見られませんから」雅史は一瞬、顔を真っ赤にして怒る。素羽は慌ててお茶を差し出し、ぺこりと頭を下げて謝った。「離婚のことは心配しないでください。自分でちゃんと片付けますから」本当は素羽も離婚したいと思っていたが、今は自分の意志だけで決められることではなかった。その時、清人がタイミングよく口を挟んだ。「須藤家みたいな家は、普通の家と違います。離婚だって簡単にはいきません。先生、素羽に任せてあげてください」雅史はふんと鼻を鳴らし、それ以上は何も言わなかった。素羽は彼に感謝の眼差しを送る。離婚の話を除けば、その日の食事は思いのほか楽しかった。雅史との間の壁も少しずつ崩れ、新たなスタートを切った気がした。雅史は相変わらず素羽を学生扱いし、課題をたくさん出してきたが、口では文句を言いつつ本心は嬉しそうだった。その機嫌の良さは、家に帰るまで続いた。司野は素羽よりも遅く帰宅した。酒の匂いを漂わせ、今日はいつもよりかなり飲んできたのか、完全に酔っ払っていた。普段なら、素羽はすぐに世話を焼きに行っただろう。しかし、今夜は何もせず、まったく動こうとしなかった。死んだふりでもしてやろうかと思ったが、梅田が「奥様らしくしてください」と目で訴えてきて、泣く泣く従うことにした。揉め事は避けたい。……寝室。司野はベッドに倒れ込んでいる。素羽は洗面器でお湯を用意し、彼の手と顔を拭いてあげた。ちょうど拭き終わった頃、司野がゆっくりと目を開けた。その瞳は深く黒く、今夜は一層輝いて見えた。素羽はずっと彼の目が綺麗だと思っていた。特に笑うと、まるで夜空に星が瞬くようで、人を惹きつけてやまない。司野はじっと彼女を見つめ、手を伸ばし、湿った熱い手のひら
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第50話

翌朝。司野が目を覚ますと、自分が床で寝ていることに気がついた。 ぼんやりとした頭で起き上がり、痛む後頭部を押さえながら、どうしてこんなところで寝ていたのか思い出せない。服にはまだ酒の匂いが染み付いている。司野は眉をひそめた。ひとまずシャワーを浴びて着替え、階下に降りる。森田はまだ美宜の世話をしていて、家の中は梅田が切り盛りしていた。「素羽はいつ出かけた?」司野が尋ねると、梅田は不思議そうに首をかしげて逆に問い返した。「奥様、上にいらっしゃらないんですか?」どうやら、素羽が昨夜のうちに家を出たことを梅田は知らないらしい。司野は少し眉をひそめた。昨夜の記憶は曖昧だが、素羽が自分の世話をしてくれたことだけはぼんやりと覚えている。でも、それ以上のことは思い出せなかった。硬い床で一晩過ごしたせいで全身がだるく、気分も最悪だ。素羽のことを探す気にもなれず、朝食も食べずにそのまま会社へ向かった。司野が知る由もないが、素羽は昨夜、家を出て楓華を訪ねていた。自分と司野のことを一番よく理解しているのは楓華だけ。唯一、素直に打ち明けられる相手でもある。素羽は楓華に相談したかった。どうすればうまく離婚できるのか、何か良い方法はないかと。素羽に一晩つき合ったせいで、翌朝の楓華は少し寝不足気味だった。事務所。楓華がコーヒーを淹れたばかりで、まだ一口も飲んでいないうちに、鬱陶しい奴が給湯室に入ってきた。「聞いたぞ、お前、素羽の離婚の手伝いをするんだって?」そう言いながら現れたのは、見た目はまともなのに中身は最低な佐伯亘(さえき わたる)だった。楓華は彼を横目で睨む。「あんたに関係ある?」亘は金縁眼鏡を押し上げて言う。「同僚として忠告するけど、その件にはあまり首を突っ込まないほうがいい」「何、司野の手先にでもなったつもり?」楓華が皮肉を言うと、亘は口元を歪めて笑った。「お前をこの業界から消すのに、誰も手を汚す必要はないさ」楓華は無言で睨み返す。亘は肩をすくめて続けた。「他人の夫婦のことに、部外者が口を挟むもんじゃないよ。長年弁護士やってるくせに、どうしてそんなに感情的なんだ?離婚して素羽に何の得がある?司野の奥さんでいることで十分得をしてるだろうに。女なんて、愛か金か、どちらか一つ選べばい
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