All Chapters of 流産の日、夫は愛人の元へ: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話

芳枝はあわてて言った。「そんなに大変なの?素羽、こっちはもう平気だから、司野くんの点滴につきそってあげて」「でも、先におばあちゃんを病室まで……」だが、芳枝は首を振って、「いいのよ、すぐそこだもの。一人で戻れるから、素羽は旦那さんのそばにいてあげなさい」と、ぐいっと背中を押してきた。「……」点滴室。看護師が注意を促す。「この点滴は眠くなりやすいですから、ご家族の方はよく様子を見ていてください。何かあればすぐ呼んでくださいね」看護師は女二人に男一人を見て、どうにも違和感を覚えるらしい。「家族」の美宜がすぐに返事をする。「はい、分かりました」看護師だけじゃない。素羽もどこか落ち着かない。昨夜のあの光景が、まだ脳裏に焼き付いていて、今も胸の奥がざわつく。素羽は口を開いた。「ここはもう人がいるから、私は先に行くね」このまま二人の仲睦まじい様子なんて、見ていられない。そのとき、司野の視線がふいに彼女のうなじの赤い痕をとらえた。目を細めて聞く。「昨夜、どこに行ってた?」その声に、素羽の足が止まる。司野の顔は探るような色を浮かべている。どうやら昨晩のことは、まったく覚えていないらしい。素羽は平然を装う。「楓華のところに行ってたの」だが、司野はしつこく食い下がる。「自分が既婚者だってこと、忘れてないよな?夜中に帰らないって、須藤家の評判を考えたことある?」その言葉に、素羽は思わず笑ってしまう。自分のことは棚に上げて、何たるダブルスタンダード!美宜が取りなすように言う。「司野さん、そんな言い方しなくても……素羽さんにも事情があったんじゃない?夜に出なきゃいけない用事だったのかも」司野の顔がさらに暗くなる。「そんなに人に言えないことなのか?わざわざ夜中に会いに行くなんて」素羽の顔が引きつる。彼の言いたいことなんて、痛いほどわかる。目の前に美宜がいるっていうのに、これ見よがしに含みを持たせる――自分への配慮なんて、これっぽっちもない。素羽は堪えきれずに、「司野、私はあなたが考えてるような人間じゃない!」と声を荒げた。本当に、よこしまなのはそっちのほうだから!司野は冷たく応じる。「そうだといい」そう言って視線を外し、目を閉じて休息をとるふりをする。素羽の胸には、飲み込めない怒りがくすぶり続けてい
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第52話

素羽は一日中、雅史のもとで過ごし、夜になると清人が車で送ってくれた。清人に別れを告げて、素羽は家へと戻る。なんとなく、家の中の使用人たちの様子がいつもと違う気がした。みんな、彼女と目が合うとすぐに視線を逸らすのだ。「何かおかしいな」と思いながらも、その理由はすぐにわかった。台所から美宜の声が聞こえてきた。「森山、ご飯の準備できた?司野さん、あまり食欲ないって言ってたから、もっと食べやすいものを作って」その指示の仕方は、まるでこの家の女主人のようだった。「素羽さん、お帰りなさい」美宜は素羽を見ても、女主人としての雰囲気を全く崩さない。「司野さん、まだ体調が良くないから、今夜は主寝室で邪魔しないであげてくださいね」その言葉に、最初に反応したのは梅田だった。これは素羽も予想していなかったことだ。「奥様がどこで寝るか、あなたが決める話じゃありません。それに、旦那様が具合悪いなら、奥様が看病するのが一番です」「でも、素羽さんが看病したって、結局病気になっちゃったじゃない?私はただ司野さんの言いつけを守ってるだけだから」美宜は無邪気な顔をして言い訳した。素羽は静かに答えた。「分かったわ」相手がそこまで冷たいのなら、こちらから無理して関わる必要もない。素羽のあまりの素直さに、梅田は「もっとしっかりしてほしい」と言いたげな顔をした。素羽はそのまま客室で休むことにした。家の防音は本来かなり良いはずなのに、主寝室からときおり美宜の気遣う声が漏れ聞こえてくる。作業中の手が止まり、頭の中がごちゃごちゃになる。素羽が司野と結婚したその日から、隣の主寝室は二人の新婚部屋となり、そこにはたくさんの思い出が詰まっていた。今や、その部屋も、司野自身も、もう自分のものではなくなっていくのだ。パソコンを閉じて、仕事を続ける気力もなく、そのまま眠りについた。翌朝。素羽が階下に降りると、司野と美宜はすでに朝食を取っていた。いつも自分が座っていた席には美宜が座り、司野の世話まで焼いている。司野もそれが当たり前のような顔をしている。素羽は苦笑した。自分を笑うのか、司野を笑うのか、分からない。美宜はにこやかに声をかけてきた。「昨日は早くお休みだったんですね。私より遅く寝たのに、起きるのは私より遅いなんて、素
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第53話

37度。それは人の体にとって一番心地よい温度。でも、感情にとっては決して最適な温度じゃない。波風の立たない結婚生活なんて、まるで死んだ水溜まりと同じ。そこには、ただ静かに危機が潜んでいるだけ。……七恵は、毎月お寺に二日ほど泊まりに行くことが決まりごとだった。経を読み、仏に祈りを捧げるためだ。素羽が縁起直しの嫁として迎えられ、無事に役目を果たしてからというもの、七恵はこの「福の子」をすっかり気に入り、たびたび寺参りの付き添い候補にしてくださるようになった。今日は素羽だけじゃなく、琴子も一緒だ。お寺に着くなり、素羽は琴子に言われて仏前で跪き、子宝を願うことになった。毎回のことだし、今回も例外じゃない。一日限りの修行僧のつもりで、言われるままに、淡々と儀式をこなした。礼拝が済むと、七恵はさらに仏に祈りを捧げるとのことで、素羽たちは休憩時間となった。その隙に、素羽は携帯を開き、仕事のことで清人からメッセージが届いているのを確認し、少しだけやり取りする。やり取りが終わると、何気なくSNSを開いてみた。最初の三投稿はすべて美宜によるもので、どれも9枚の写真が並ぶ映え投稿だ。写真には見覚えのある人も、見知らぬ人も混じっていたが、知った顔の者たちはほぼ例外なく司野に関係する者たちばかり。そして、どの写真も主役は美宜と司野。海辺、砂浜、のんびりした時間――いかにも新婚旅行らしい光景。素羽はスマホを握る手にぎゅっと力が入った。自分と司野には、ハネムーンどころか、まともな結婚式すらなかったのだから。「仕事、辞めたんだって?」いつの間にか、琴子が近くに来ていた。素羽は正直に答える。「はい」琴子は、特に咎める様子もない。「仕事がないなら、今は家のことに専念しなさい。早く赤ちゃんを授かるのが一番よ」素羽は逆らわず、ただ静かに頷いた。すると琴子は、どこか諦めたように、低い声で続ける。「男の人のそばに、ちょっとくらい女がいたって、それはその人に魅力がある証拠よ。ちゃんと家に帰ってくる限り、何の問題もない。素羽、妻の立場をわきまえて、堂々としていなさい」こういう考えを持っているのは、素羽にとっては驚きでもなんでもなかった。息子は自分の血。嫁は外から来た他人。どちらに肩入れするかなんて、言わずもがなだ。
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第54話

美宜は、そのまま素羽の家に居着いてしまった。いや、正確には景苑別荘は素羽の家ではない。これは須藤家の持ち物で、素羽もただの居候に過ぎないのだ。主寝室を出てからというもの、素羽はもう二度とそこに戻ることはなかった。その夜、素羽はベッドに入り、ようやく眠ろうとしたところで、司野がドアを開けて入ってきた。「何してるの?」と素羽はベッドに座ったまま問いかける。司野はあっさりと、「寝る」とだけ言った。「ここ、私の部屋なんだけど?」「ここは俺の家だ」と司野は平然と言い放つ。当然のように。ここは彼の家であり、どこで寝ようと彼の自由だというわけだ。その言葉に、素羽は布団を握る手に力が入り、屈辱感が胸に広がった。こんなふうにまでして、自分を辱める必要があるの?素羽は布団をめくってベッドを降りようとしたが、司野が彼女の行く手を遮る。「どこ行く?」「あなたの家から出ていくわ」行くあてもないわけじゃない。だが、司野は素羽の肩を抱き寄せ、そのままベッドに押し倒した。「そろそろ排卵日だろ」そう言い終えるや否や、司野は彼女の上に覆いかぶさる。素羽はもう、かつてのような高揚感などとうに失っていた。彼を押し退けながら、「子ども、産まないよ」ときっぱり告げる。司野は彼女の手首を掴み、頭上で押さえつける。「これは、お前が嫌だと言って済む話じゃない」素羽は拒絶をあらわにする。「美宜なら喜んで産むと思うけど?彼女に産ませたらどう?」いつの間にか、パジャマは脱がされていた。「おばあさんが、お前にひ孫を望んでいる」その言葉に、素羽の心は一気に冷え切った。彼は、美宜に産ませないとは否定しなかった。司野はそのまま素羽の中に入った。素羽の体は石のように固くなり、まるでこれが唯一の抵抗手段かのように、身動き一つしなかった。ベッドの上での相性は悪くないはずだった。普段は大人しい素羽も、夜になれば情熱的で、互いに満足できる相手だった。だが今日は、素羽はまるで木偶の坊のように動かず、乾いた空気が二人の間を冷たく埋める。司野は苛立ち、眉をひそめた。欲望を満たせぬまま、司野は早々に事を終わらせ、枕を引き寄せて素羽の腰の下に敷いた。そんな「気遣い」が、素羽には一層の屈辱だった。司野が部屋を出るや否や、素羽
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第55話

素羽は口元を引きつらせ、なんとか笑顔を作る。「大丈夫よ」清人が言う。「何かあったなら相談してよ。もしかしたら力になれるかもしれないし」素羽は唇をぎゅっと結び、意を決して尋ねた。「知り合いの弁護士、いる?」清人は首をかしげる。「弁護士?なんで?」素羽は真っ直ぐに答えた。「離婚したいの」他人に頼っても、結局自分の人生は進まない。美玲や美宜に期待しても、離婚話は一歩も進まなかった。できれば穏便に別れたい。でも、司野が承諾しないなら、裁判にだって持ち込む覚悟はある。須藤家は世間体を気にする家だ。泥沼にはしたくないはず。そうなれば、話し合いの余地もあるだろう。清人の瞳がきらりと光った。「本気で離婚、考えてるの?」素羽は静かにうなずく。「北町の弁護士は、みんな司野に話が通ってて、誰も引き受けてくれないんだ。今は頼れる人がいない。ただの愚痴だから。気にしなくていいよ……」素羽が言いかけた時、清人はすぐに返した。「手を貸すよ」「でも、須藤家相手じゃ、いろいろ面倒に巻き込まれるかもしれない」清人はにやりと笑う。「困難だからこそ、挑戦する価値があるんだ」うまくいくかは分からなくても、素羽は清人の言葉がありがたかった。噂をすればってやつか。昼過ぎ、美玲から電話がかかってきた。美玲は当然のように命令する。「あんたの作る桜花饅頭が食べたいの。今から来て作ってくれる?」素羽は冷たく答える。「用事があるから、無理」美玲はわがままに言い張る。「そんなの知らない!今すぐ食べたいの!作ってくれないなら、お母さんに言いつけてあんたを呼び戻してもらうから!」その脅しに素羽はうんざりしつつも、結局は折れてしまった。なぜなら、琴子のほうがもっと厄介だからだ。車を走らせて須藤家の屋敷に着くと、思いがけない人物がいた。美宜。素羽は足を止める。まさか、もうこんなに家族のように入り込んでいるなんて。美玲が叫ぶ。「何ぼーっとしてるの?早く台所で桜花饅頭を作ってよ!」美宜は袖を引き、遠慮がちに言う。「そんな、いいのかな……」美玲は気にも留めず、「全然平気だよ。これは彼女の役目だし。美宜さんも、これからは遠慮なく彼女を使ってね」と軽く笑う。美宜の目には軽い嘲笑が浮かぶが、表面上は礼儀正しく言う。「素羽さん、わざわ
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第56話

帰り道、素羽は一言も発さなかったが、車内は決して静かではなかった。美宜がぺちゃくちゃと喋り続けている。司野のスマホが鳴った。電話の相手は利津で、「美宜ちゃんを連れて一緒に飲みに来ようぜ」と誘ってきた。素羽は表情を変えず、何も気にしていないふうだったが、電話を切った後、初めて口を開いた。「道端で降ろして。先に帰るわ」美宜がすかさず口を挟む。「素羽さんも一緒に行着ましょうよ。みんな司野さんの友達だし、顔見知りでしょ?」美宜が善意で誘っているとは、素羽は思わなかった。素羽はもう一度断った。「いえ、他に用事があるの」「こんな時間に何の用事ですか?一緒に行きましょうよ。みんなで騒げば楽しいですし。司野さんもそう思うでしょ?」司野は何も返さなかったが、車はそのまま進み続けた。無言のまま、彼の意思ははっきりしていた。窓の外、木々の影が後ろに流れていくのを見ながら、素羽は考えていた。彼らが目的地に着いたら、自分はタクシーで帰ろう、と。バーに到着し、車を降りるや否や、素羽はその場を離れようとした。しかし美宜が腕を掴んで離さない。「行きましょう、せっかくだから」そのまま引っ張られて、素羽は個室へと入ることになった。中には確かに司野の仲間が集まっていた。美宜が先に顔を見せると、皆が一斉に声を上げた。「奥さん!」素羽は足を止めた。まるで何百もの平手打ちを一度に食らったような気分だった。五年も結婚していて、一度もこんな風に認められたことはなかった。それなのに、美宜は簡単に「奥さん」と呼ばれている。美宜は慌てて弁明した。「素羽さん、誤解しないで。みんな、素羽さんのことを呼んでますよ」自分は誠実だが、バカではない。ようやく皆も素羽の存在に気付き、表情が一気に変わった。後から入ってきた司野が声をかける。「そこに突っ立ってどうした?」美宜がまたしても腕を絡めてきた。「素羽さんこそが司野さんの奥さんなんだから、変なこと考えないでくださいね」素羽には理解できなかった。司野を独占したいはずなのに、なぜ自分をわざわざ巻き込むのか。今なら分かる。これはただ、自分の優越感を見せつけたいだけなのだ。本妻と側室が同時に現れて、この連中は誰を持ち上げればいいのか分からず戸惑っている。だが、戸惑いも一瞬のこと。すぐに美宜が注目の
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第57話

「谷川さん、さっき素羽さんと何話してたのですか?」美宜が突然ぐっと距離を詰めてきて、利津は思わず後ずさった。「……」美宜はぱちぱちと瞬きをし、少し拗ねたように言う。「谷川さん、どうしたんですか?私ってそんなに怖いですか?」利津は鼻をさすり、咳払いしながら苦笑い。「いや、別に美宜ちゃんのせいじゃないよ」クソッ、全部あの素羽のせいだ。あの女、わけのわからないことを言いやがって!友達の嫁には手を出すなって言うだろ。自分はそこまでクズじゃない。「みんなに呼ばれてるから、ちょっと行ってくる」急に避けるような態度を取られて、美宜は納得がいかない。さらに、素羽に対しても警戒心が高まる。あの女、いったい谷川さんに何を言ったの?まさか自分の悪口でも?素羽自身は、さっきのちょっとした「爆発」が、こんな連鎖反応を生むとは思ってもいなかった。かつては、司野の生活に溶け込めるこうした集まりに誘われれば、喜んで参加していた。受け入れてもらえた気がしたからだ。しかし、そんな機会は滅多になかった。今の素羽は、もうどうでもよかった。トイレを済ませると、そのまま会場の外へ向かった。この手のラウンジで一番多いのは、酒に呑まれた連中だ。素羽はまったく油断していた。突然、個室から飛び出してきた男にぶつかり、体勢を崩した。まだ体が安定しないうちに、男が怒鳴る声が響く。「どこ見て歩いてんだ、このバカ女!俺様にぶつかるとは!」男は明らかに酒が回って、舌も回らなくなっている。やっと体勢を立て直し、顔を見た瞬間、素羽の体が凍りついた。頭の中が真っ白になる。深い場所に葬ったはずの、あのいじめの記憶が、堰を切ったように押し寄せてくる。耐えがたい屈辱と苦しみが、全身の神経を刺激した。「おい、聞いてんのか?答えろや!」男が一歩寄ってきて、素羽の肩を乱暴に掴んだ。恐怖で本能的に身をすくめ、体が小刻みに震える。人の顔は変わるけど、自分をいじめてきた奴らは、例え骨になろうと忘れられない。石田洋介(いしだ ようすけ)。三年間、素羽を地獄に突き落とした主犯。洋介は近づいた素羽の顔を見て、急にいやらしい笑みを浮かべた。「へぇ、なかなか可愛いじゃん。さあ、こっちで一緒に飲もうぜ!」そう言って、肩に腕を回し、個室へ引っ張ろ
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第58話

肩に走る激痛よりも、心に蘇る記憶の方が、遥かに強烈だった。「この野郎、調子に乗りやがって」洋介は素羽の髪をつかみ、平手で頬を打った。耳鳴りと痛みが同時に襲う。彼の仲間たちは面白がって囃し立てる。この光景、小さな路地裏での出来事と重なり合う。痛みが、素羽をあの息苦しく暗い日々に引き戻す。洋介の顔が、またしても醜悪に歪む。まるで岸に打ち上げられた魚のように、素羽は全身が痺れ、息も絶え絶えだった。またしても振り下ろされる掌。素羽は反射的に頭を抱えることしかできなかった。しかし、予想していた痛みは来なかった。代わりに、洋介の怒鳴り声が響く。「誰だ、てめぇ!」次の瞬間、黒い影が弾け飛び、洋介が吹き飛ばされた。震える手で顔を上げると、そこに立っていたのは司野だった。同じ場面、同じ人――一瞬、過去と今が重なり、あの光の中から現れた少年の姿がフラッシュバックする。思わず素羽の瞳が潤む。その時、美宜の甲高い声が現実に引き戻した。「きゃっ、素羽さん、どうしたのですか?何もしてないのに、なんでこんな酷い目に遭ってるのですか? 一体何しましたか?」ぼろぼろの素羽――乱れた髪に、汚れた服、そして顔の片側は大きく腫れていた。洋介の仲間の一人が司野に気付き、慌てて洋介を押さえつける。彼もすぐに空気を読んで、美宜の言葉に便乗し、自分の身を守ろうとする。「この女が俺に色目使ってきたんだよ。てっきりこの店の女かと思って」素羽は司野を見つめ、震える声で言った。「違う……私は何もしてない……」人生は輪のようだ、とその時、素羽は思う。また一周して、同じ場所に戻ってきた気がした。あの時も、司野が自分を助けてくれた。洋介は同じように、素羽を貶める嘘を口にし、汚い写真まで持ち出して、彼女を辱めた。出会ったばかりだったのに、司野は素羽の言葉を信じてくれた。彼は彼女を救い、忌まわしい写真も処分してくれた。美宜が声を上げる。「素羽さん、この人の言ってること、本当なんですか?」美宜の心の内は、素羽には手に取るように分かる。自分のことよりも、司野がどちらを信じるか、それだけが知りたいのだ。しかし今の司野は、眉をひそめただけで、美宜が望むような言葉は出てこなかった。「なんでこっちに来てたんだ?」その一言で、素羽の中の何かが
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第59話

今回は司野が美宜を景苑別荘には連れて帰らず、彼女自身の家まで送り届けた。景苑別荘。素羽は車を降りると、まっすぐ客間に入り、そのままバスルームへ直行した。服をすべて脱ぎ捨て、シャワーの前に立つ。温かい水が体を打つ中、素羽は執拗に肌をこすり続けた。まるで何か汚れを落とそうとするかのように。ほどなくして、白い肌には赤い擦り痕がいくつも浮かび上がる。あの屈辱の日々の記憶が、映画のように鮮やかにフラッシュバックする。現実と過去が交錯し、素羽の体は無意識に震えだす。再び闇に引きずり込まれていく。バスルームにこもること二時間、ようやく出てきたときには、全身が熱い湯で真っ赤になっていた。特に顔の平手打ちの跡は、ますます痛々しい。部屋に戻ると、無表情で立つ司野の姿が目に入る。素羽は思わず驚いた。「バスルームで一晩過ごすつもりか?」司野の声は冷たかった。素羽はぼんやりとしたまま、かすれ声で尋ねる。「何の用?」「来い」司野の手には薬のチューブが握られていた。素羽は一瞬戸惑いながらも、手を差し出す。「自分でやる」だが司野は彼女の手首をしっかりと掴み、ベッドに押し倒した。「他の男のコートはすんなり着るのに、俺の前だと嫌がるのか?」司野は顎をきゅっと掴み、無理やり視線を合わせさせる。「忘れるなよ。お前は既婚者だ」素羽の胸が痛んだ。「忘れてるのはそっちよ」冷たい薬が顔に塗られ、火照った頬の痛みが少し和らぐ。司野が口を開く。「離婚するつもりはない」「今は、でしょ?」素羽は静かに答える。彼らはとっくに話し合っていたのだ。自分が子どもを産んだら、その後で美宜に自分の席を譲る、と。司野の手に力がこもる。「有瀬とかいう男と一緒になりたいのか?」痛みに息を呑み、素羽は顔を背けた。「心が汚れてると、何を見ても汚く見える。それ、あなたの言葉よ」「口だけは達者だな」司野は鼻で笑う。素羽は薬を取り返し、その不安定な優しさにもう耐えられなかった。「もう休みたい」司野はじっと彼女を見下ろし、しばらく黙ったまま視線を彷徨わせた。「今度、病院で検査を受けよう」その言葉に、素羽の心臓が跳ねる。「何の検査?」「なぜ子どもができないのか、だ」夫婦の営みは普通にある。避妊もしていない。普通なら、とっくに妊娠していてもおかしくない
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第60話

習慣というものは、本当に恐ろしい。馴染んだ空気の中にいると、素羽は簡単に己を見失い、堕ちてしまう。それは彼女自身の本能であり、簡単に抑えられるものではなかった。司野の腕の中に身を預け、素羽はそっと瞳を閉じる。ほんの一瞬だけ現実から逃避させて、と心の中で願う。司野が傍にいてくれるだけで、不思議と恐怖も薄れていく気がした。だが、その穏やかな時間はほんの束の間。突如として耳障りなスマホの着信音が静寂を引き裂いた。素羽は反射的に司野の服を掴む。彼に電話に出て欲しくなかった。司野はその手元を一瞥し、最初は素羽の望みを叶えてやろうとした。しかし、執拗に鳴り続ける着信音を無視することは、結局できなかった。「ちょっと電話に出てくる。すぐ戻るから」やっぱり、自分の勘は外れない。電話の相手は美宜だった。通話が繋がった瞬間、司野の表情が一変する。自分の妻がまだ傍にいることすら、すっかり忘れてしまったかのようだった。急ぎ足で出ていこうとする司野に、素羽は初めて自分の弱さをさらけ出した。「司野、行かないで!」心からの願いを込めて、彼に残ってほしいと訴えた。「美宜の心臓の具合が悪いんだ」「必要なのは医者、あなたじゃない」司野は振り返り、険しい顔で言う。「お前、いつからそんな冷たい人間になったんだ?それは人の命だぞ!」その言葉に、素羽の心はひどく苦くなった。自分の不器用さが、司野の目には「冷たい」と映るのか。思わず問いただしたくなる。自分こそが、あなたの正真正銘の妻だということを、まだ覚えているのか?深夜、他の女のために、妻を家にひとり残して出ていく。それが本当に正しいことなのか。だが、司野は彼女に問いかける隙すら与えず、家を出て行ってしまった。ほんのひとときの温もりも、素羽が味わう間もなく儚く消えた。手元に残ったのは、何も掴めなかった空虚な手だけ。結局、彼を引き止めることはできなかった。……美宜の心臓の病がどれほど重いのか、素羽には知る由もない。だが、あの夜を境に、司野は家に帰ってこなくなった。素羽の日々は淡々と続いていく。「大丈夫か?」と声をかけてくれるのは、清人だけだった。「うん、大丈夫」「頼まれてた弁護士、もう見つけてある。いつ会える?都合のいい日を教えてくれれば、段取りするよ
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