All Chapters of 暴走する愛情、彼は必死に離婚を引き止める: Chapter 371 - Chapter 380

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第371話

真琴に婚約者がいると聞き、信行は勢いよく顔を上げた。その両眼は彼女を真っ直ぐに射抜き、微かな酔いなど一瞬で吹き飛んだかのように、ただじっと彼女を見つめた。突き刺さるような視線を向けられても、真琴は微塵も怯むことなく、堂々と正面から見返した。婚約の件は、嘘であって嘘ではない。それは本来、本物の茉琴の婚約だった。だが彼女は家が決めた縁談を嫌がり、恋人と駆け落ちをした末に交通事故に遭った。二人とも、帰らぬ人となった。だからこそ、茉琴になり代わった真琴が、その婚約も丸ごと引き受けることになった。もちろん、これはあくまで対外的な建前に過ぎない。光雅の計らいで茉琴として西脇家に入った際、光雅はすでにこの縁談を破談にしていた。ただ、両社のビジネスに波風を立てないよう、婚約解消の事実を公にしていないだけだ。瞬き一つせず見つめてくる信行に対し、真琴は落ち着き払って口を開いた。「片桐社長、酔って人違いをなさっているようですね。私はあなたがおっしゃる真琴ではありませんし、今の生活に十分満足しています。ご心配には及びません。ただ、亡くなった方への想いを私に押し付けるのは、今後はご遠慮ください。大変失礼ですから」きっぱりとした拒絶の言葉に、信行はハッと我に返った。その目元は、まだ赤みを帯びている。真琴の視線から逃れるように立ち上がると、そのまま窓際へと歩み寄り、両手をポケットに突っ込んだまま黙り込んだ。寂しげなその背中を見つめながら、真琴は淡々と問いかけた。「携帯を返していただけますか。もう帰ってもよろしいでしょうか」その問いに信行はゆっくりと振り返り、彼女に近づくと、スーツの内ポケットから携帯電話を取り出して差し出した。「下まで送ろう」と、穏やかな声で言った。自分の携帯を受け取りながら、真琴は淡々と返す。「結構です」はっきりと断ったにもかかわらず、信行は頑なに彼女を送り届けると言って譲らず、共に階下へと向かおうとした。玄関へと向かう彼女の背中を追いながら、先ほどの忠告を思い出した信行は、その瞳を暗く沈ませた。彼女は「真琴ではない」と言い、今の生活に十分満足していると言った。もし本当に彼女が「真琴」なら、頑なに名乗ろうとしないのは、自分が彼女を深く傷つけたからに他ならない。もう二度と、関わりたくないの
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第372話

光雅が浜野市での悪名については、真琴も多少耳にしていたが、実際に目の当たりにしたことはなかった。まさかこの東都市で、いきなり信行に拳を振るうとは。真琴もただ呆気にとられていた。一発殴っただけでは気は収まらず、光雅はさらに信行の腹部へと蹴りを放った。しかし今度は信行も身構えており、殴られた頬を拭いながら、飛んできた蹴りを足で弾き返した。そこから、二人の激しい乱闘が始まった。真琴はホテルに戻るはずだった。自ら信行と茶室に行くはずがない。つまり、信行が無理やり連れ込んだに決まっている。そう考えた途端、かつて真琴が受けた心の傷が脳裏をよぎり、光雅はまともに考えるより先に手を出していた。取っ組み合いになった二人を見て、真琴や和夫、それに拓真たちもようやく我に返り、慌てて止めに入った。何しろ、光雅がいきなり手を出すなど誰も予想していなかった。「お兄ちゃん、もうやめて!ホテルに戻ろう」「お兄ちゃん!」「信行、話があるなら後にしてくれ、とりあえず手を止めろ」「お兄ちゃん、何やってるのよ!せっかく真琴が帰ってきたのに、どういうつもり!?」紗友里も止めに入った。周囲の必死の制止により、ようやく光雅と信行は引き剥がされた。互いに顔に傷を作り、息を切らしている。真琴は光雅の腕に掴まり、彼の顔の傷をそっと拭うと、そのまま彼の手を引いて足早にホテルを後にした。その場に残された拓真たちは、西脇兄妹が去っていく後ろ姿を見送りながら、呆れたようにフッと笑いを漏らした。「あの西脇光雅って男、噂通り一筋縄ではいかないようだな。この東都市でいきなり手を出すなんて、いい度胸してるぜ」傍らで、和夫はしきりに場を取り成そうと謝罪の言葉を口にしていた。「片桐社長、この度は誠に申し訳ありませんでした。彼は昔からああいう気性でして……おそらく、妹さんに何かあったと勘違いして手を出してしまったのでしょう。どうか大目に見てやってはいただけないでしょうか」さらに付け加えた。「彼は、妹さんの話になると、つい周りが見えなくなってしまうんですよ」和夫の謝罪に、拓真が横から穏やかに言葉を添えた。「どうかお気になさらないでください。たいした怪我ではありませんし、男が外で血の気多くなるのは、よくある話ですから」その言葉に何度か頭を下げた
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第373話

光雅が口を開く前に、真琴は言葉を続けた。「これからは彼を避けるようにするわ。ここの仕事が終わったら、すぐに浜野に戻るから」その答えを聞き、光雅はそっと手を伸ばして彼女の頬に触れた。視線が絡み合う。真琴はゆっくりとその手を外し、それ以上は何も言わなかった。やがて車は二人の滞在するホテルに到着した。真琴はフロントで救急箱を借りると、そのまま光雅のエグゼクティブルームへとついて行った。しばらくして、和夫も血相を変えて飛び込んできた。部屋に入るなり眉をひそめ、光雅に非難がましく小言を言い始めた。「ここは東都市だぞ。我々はビジネスの協力関係を築きに来たんだ。いきなり手を出してどうするんだ!今後の影響を少しは考えてくれよ、もし……」そこまで言ったところで、光雅が冷ややかに一瞥した。和夫はすぐに口をつぐんだ。そして気まずそうに真琴の方へ向き直ると、誤魔化すように声をかけた。「茉琴さん、光雅さんの怪我の手当てを頼むよ。邪魔して悪かったな」そして帰り際、念を押すように付け加えた。「だが、あんな騒ぎはもう二度と起こさないでくれよ」返事を待つこともなく、和夫はそそくさと部屋を出て行った。今の光雅は気が立っている。返答を求める勇気など彼にはなかったのだ。バタン、とドアが閉まる音が響いた。救急箱を手にした真琴は、思わず小さくため息をついた。まったく、困った人だ。椅子を引き、光雅の正面に座った。救急箱を開けながら尋ねた。「顔以外に痛いところは?」光雅は表情一つ変えずに答えた。「どこも何ともない」その言葉を聞きつつ、真琴は手当ての準備を進めた。「これからは、もうあんな無茶はしないで。ここは相手のテリトリーなんだから。痛い目にでも遭ったらどうするのよ?」そう言って彼をじっと見つめ、丁寧に薬を塗り始めた。共に過ごした二年間。血の繋がりこそないが、彼女にとっても光雅は家族であり、友人になっていた。至近距離で手当てをする真琴を見ると、その透き通るような白い肌と澄んだ瞳を見つめながら、光雅は不意に口を開いた。「なぜ恋愛をしない?誰かと付き合ってみようとは思わないのか?」思いがけない問いに、薬を塗る真琴の手がピタリと止まった。片手に消毒液、もう片手に綿棒を持ったまま、彼女は黙り込んだ。目を伏せ
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第374話

光雅の力があればそれも可能だろう。だが、真琴にとってはやはり気まずいことに変わりはなかった。視線を逸らし、彼女は話をそらそうとする。「怪我してるんだから、まずは手当てを……」真琴が言い終わらないうちに、光雅は彼女の手首を掴み、再び自分の方を向かせた。息を詰め、真琴は身動き一つできずに彼を見つめ返した。視線が絡み合い、真琴が緊張で喉を鳴らし、何か言葉を探そうとした瞬間、光雅が身を少し乗り出し、彼女の唇を奪おうとした。とっさに顔を背け、真琴はそのキスを避けた。彼女が顔を背けたため、光雅の唇は狙いを外し、その頬に落ちた。肌に触れた唇の熱に、真琴の体はビクッとこわばった。ゴクリと息を飲み込み、それでも光雅を突き飛ばしはしなかった。ただ、消毒液と綿棒を強く握りしめたまま、静かに口を開いた。「私、何年も信行のことが好きだった。彼と一緒にいた時は、私なりに一生懸命だったの。でも結局あんな終わり方をして……この東都市から離れたい、逃げ出したいって思うくらい、追い詰められていたのよ」小さく息を吐き、真琴は続けた。「だから、私、今は誰かを好きになる余裕なんてないの。でも……時間をかけて、少しずつ心に折り合いをつけていくつもりよ」その言葉に、光雅の眼差しは和らいだ。そして同時に、あの時信行をもっと容赦なく殴ってやればよかったと、激しく後悔した。顔を離し、彼は真琴の頬をそっと撫で、うなじのあたりを優しく押さえながら穏やかに言った。「お前はまだ若い。人生を悲観するには早すぎる。片桐は世の中に星の数ほどいる男の一人に過ぎないんだ。世の男すべてがあいつと同じだなんて、思わないことだ」真琴は頷いた。「分かってる。ちゃんと心に区切りをつけるから」彼女が少し落ち着きを取り戻したのを見て、光雅は彼女の手から消毒液と綿棒をそっと抜き取った。「自分の部屋に戻って休め。こんな傷、どうってことない」促されるまま椅子から立ち上がり、真琴は穏やかな声で返した。「光雅さんも早く休んでね」そう言って隣の自室へ戻っていく彼女を、光雅は立ち上がって見送った。部屋を出ていくその後ろ姿を見つめながら、先ほどの彼女の本音を噛み締め、光雅は小さく息を吐いた。まだ彼女の心が閉ざされているのなら、待てばいい。将来、彼女が選ぶ相手が誰
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第375話

祐斗の報告を聞き、信行の瞳は一瞬にして暗く沈んだ。しばらく経ってから、ただ一言「分かった」と淡々と返し、冷ややかに通話を切った。無造作にスマホをテーブルに放り出し、背を向けて窓際へと歩み寄った。胸の奥がひどく重苦しい。あれは茉琴であって、真琴ではない。そう何度自分に言い聞かせても、息が詰まりそうだった。傍らの棚からタバコとライターを手に取り、タバコに火をつけた。紫煙がゆっくりと立ち昇るが、信行の眉間の皺は寄ったままだった。「信行、少し話をしない?」「信行、今日は帰ってくる?」「信行、今日は少し具合が悪いの。帰ってきてくれないかな」「……どうしても、行くの?」彼女を幾度も誤解したこと、あの日、彼女の引き留める声に耳を貸さず、芦原ヒルズの家を出てそのまま帰らなかった夜のことを思い出す。あれが最後の別れだったと思い出し、信行の表情は暗く沈んだ。彼は知らなかった。真琴がずっと自分を愛してくれていたことなど、微塵も気づいていなかった。タバコを灰皿に押し付けて火を消し、自分の手の甲の傷を見つめながら、信行は再び過去を思い返した。かつて自分が怪我をするたび、真琴はいつもひどく心配し、細やかに手当てをしてくれた。だが結婚後、彼はその献身すら、何か下心があると思い込んでいた。両手をポケットに突っ込み、庭の外を見つめながら、小さく息を吐き出して呟いた。「真琴……俺は、どうすればいい?」その夜、信行はまたしても眠れぬ夜を過ごした。そしてその夜は、ひどく長く感じられた。……翌日の午前。真琴が研究所からホテルに戻ると、突然、由美が彼女の前に立ちはだかり、行く手を塞いだ。「西脇博士、少しお話ししましょう」バッグを肩にかけたまま、真琴は由美を頭からつま先まで値踏みするように眺めたが、口は開かなかった。すると、由美は続けて自己紹介をした。「峰亜工業の内海由美と申します。昨夜、レストランでお見かけしましたわ」「峰亜工業?」真琴は一度その名を繰り返し、淡々と言った。「私は東央システムズで技術のみを担当しており、提携の担当ではありません。内海さんが提携をお望みでしたら、兄か他の責任者にアポを取ってください」涼しい顔で言い切る真琴を、由美はまじまじと見つめた。その顔から何か隠し事
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第376話

由美の遠回しな物言いに、真琴は写真を無造作にテーブルへ投げ返し、退屈そうに言い放った。「つまり、内海さんは片桐社長のことがお好きで、私に警告しに来たわけですね。片桐社長が私に近づくのは、単なる身代わりとして見ているからだと」そのストレートな指摘に、由美は背筋をピンと伸ばした。「博士は東都市にいらしたばかりでご存じないことが多いでしょうから。私はただ、親切心でお教えしただけですわ」その「親切心」という言葉を聞き、真琴はゆっくりと立ち上がった。表情には一切の感情が乗っていなかった。「生憎ですが、内海さん。あなた方の内輪揉めに巻き込まれる趣味はありません。二度と近づかないでください」立ち去り際、由美の横を通り過ぎる瞬間、真琴は視線を落として彼女を見下ろし、その肩を軽くポンと叩いて薄く笑った。「奥様が亡くなってからもう二年でしょう?内海さんも、もう少し頑張らないとね」そう言い残し、ヒールの音を響かせてその場を去っていった。もし由美にもう少し手腕があって、とっくに信行を落としていれば。こんな面倒なことに巻き込まれることも、昨夜のような殴り合いが起きることもなかったはずだ。遠ざかる真琴の背中を睨みつけながら、由美の顔色はみるみる変わっていった。似ているようで、まるで違うように思えた。かつての真琴は、ここまで鋭く攻撃的な女ではなかった。姿が見えなくなるまで見送っても、由美の眉間の皺は深まるばかりだった。あの「西脇茉琴」という女、一筋縄ではいかない相手だ。ただ、彼女自身は信行に気がないようだし、婚約者もいると聞く。おまけに昨夜は兄の光雅が信行と激しい殴り合いの騒ぎを起こしたそうだ。そうなれば、二人が結ばれる可能性は極めて低いはずだ。……一方、エレベーターホールに向かった真琴は、ボタンを押しながら先ほどの由美の挑発を思い返していた。口元に嘲りの笑みが浮かんだ。二年以上経っても、相変わらず成長のない女だ。ただ、これからは誰と一緒になろうとも、信行とだけはもう二度と何の可能性もない。もう、昔の真琴ではないのだから。永遠に。エレベーターの扉が開き、真琴は何事もなかったかのように自室へ戻り、再び仕事に没頭した。……信行と光雅が死闘のような殴り合いを演じたにもかかわらず、その二日後、両陣
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第377話

「そうでなければ、本日この契約書にサインなどしておりません」「西脇社長のおっしゃる通りです」光雅の理路整然とした言葉に、周囲もそれ以上何も言えなかった。プロジェクトに参加するかどうかの決定権は、あくまで茉琴本人にあるからだ。契約締結後、市の幹部が懇親会の席を用意していると告げたが、光雅は他の仕事があるからときっぱりと断った。信行が真琴へ接触を図り始めている以上、これ以上彼に隙を与えるつもりは毛頭なかった。退出時の挨拶の際、信行は浜野市側の関係者と一通り握手を交わした後、最後にはやはり真琴の前に来て挨拶をした。差し出された手を淡々と見つめ、真琴は挨拶代わりに軽く握り返した。手が触れた瞬間、信行は視線を落として彼女を見つめる。「一昨晩は、西脇博士に怖い思いをさせてしまいましたね」手を離し、真琴は淡々と返した。「ええ、大変驚きました。二度とあのようなことが起きないよう願います」真琴のよそよそしい態度に、信行の瞳の光が暗く沈んだ。ふと、真琴の視線が彼の白髪に止まったが、すぐに淡々と視線を外した。その白髪に込められた深い情を見ても、彼女の心はもはや微塵も動かなかった。長年信行を見てきた真琴には分かっていた。その白髪が自分への愛から生じたものではなく、自分の死に彼自身が深く関わっているという事実から生じたものだ。正体を暴き、自分が生きていると知ることで、単に彼自身が安心したいだけなのだ。そんなことをする必要はない。かつて信行に命を救われた恩は、あの命を投げ出したことですでに返したと思っているのだから。挨拶が済むと、真琴は光雅の傍らを歩き、関係者と共に会議室を後にした。一行が賑やかに会議室の入り口まで来た時、廊下の奥から貴博がやって来た。大股で歩き、後ろに七、八人の幹部を従え、人だかりの中心を勢いよく進みながら、傍らの人間と矢継ぎ早に言葉を交わしている。窓から吹き込む風に髪とスーツを揺らしながらも、彼は完全に仕事の会話に没頭していた。二年ぶりに見る彼は、以前よりもさらに落ち着きを増し、その佇まいはより洗練された魅力を放っていた。隣の幹部との会話を終え、ふと前方に視線を向けた瞬間、光雅の隣に立つ真琴の姿を捉え、貴博は驚いたように無意識に足取りを緩めた。数日前から上層部の会議に出席して
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第378話

「そしてこちらが東央システムズの西脇光雅社長、その隣にいらっしゃるのが妹君の西脇茉琴博士です」同僚の紹介でようやく我に返った貴博は、一人一人と丁寧に握手を交わした。光雅たちへの挨拶を終えると、彼は真琴の前に進み出て手を差し出し、穏やかな声で挨拶をした。「西脇博士、東都市での提携、心より歓迎いたします」彼が建前を抜きにして、相手の専門性にこれほどの敬意を払うのは極めて珍しい。前回そうしたのは、真琴に対してだった。差し出された手を軽く握り返し、真琴は応じた。「五十嵐事務局長」その「五十嵐事務局長」という呼びかけに、貴博は彼女の手を軽く握ったまま、なかなか離そうとしなかった。真琴の姿を前にした彼の衝撃は、信行たちのそれに勝るとも劣らなかった。しばらく呆然と見つめられていた真琴が、もう一度「事務局長」と静かに呼びかけた。貴博はハッとして手を離し、呟くように言った。「博士は……私の古い知人にとてもよく似ていらっしゃいます」真琴は微笑んだ。「今回の東都市訪問で、すでに多くの方からそう言われましたわ」その言葉を聞き、貴博はアテンド担当の局長に視線を向けて尋ねた。「吉岡(よしおか)さん、昼の会食の手配は済んでいるか?浜野市からのお客様に粗相のないように」局長は慌てて笑顔を作った。「事務局長、西脇社長たちは午後から別件がおありとのことでして。会食は後日改めてセッティングする予定です」「そうか。くれぐれも抜かりのないようにな」「もちろんでございます。現在、私の最優先事項として動いておりますから」こうして廊下でいくつか言葉を交わした後、一行はそれぞれ解散となった。……ホテルへ戻る車中、光雅は隣に座る真琴を横目で見ながら、ふと貴博のことを思い返していた。貴博は彼女に対し、ひときわ高く評価しており、好意すら抱いているようだった。もちろん、それはかつての「真琴」に向けられた感情だろうが。予感は的中した。ホテルに戻って間もなく、貴博の秘書から真琴宛てに電話が入った。専門的な意見を聞きたいので、少し面会できないかという打診だった。もしこれが信行からの誘いなら、真琴は一秒も迷うことなく断っていただろう。だが……貴博は事情が違う。彼とは何の遺恨もないし、以前東都市にいた頃も、彼は何かと紳士的
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第379話

何度か口を開きかけたものの、その度に言葉を飲み込み、何をどう切り出せばいいのか迷っているようだった。コップを手に、真琴は一口啜り、ただ沈黙をもって彼の出方を待った。しばらく彼女を見つめた後、貴博は込み上げる疑問を全て飲み込み、ただ穏やかな眼差しを向けながら、優しく包み込むような声で尋ねた。「元気に……していましたか?」その問いに、コップを持つ真琴の右手にグッと力が入り、手の甲の血管が微かに浮き出た。貴博の瞳を真っ直ぐに見返し、しばらくの沈黙の後、静かに答えた。「ええ、元気にしています」その一言で、貴博には全てが理解できた。多くを語る必要などなかった。食い入るように彼女を見つめる貴博の目元が、じんわりと赤く染まった。この歳になるまで、政界の清濁を併せ呑んできた彼が、これほどまでに感情を露わにするのは初めてのことだった。微動だにせず彼女を見つめ続けた後、貴博は明るい声を出した。「西脇博士、決裁書を二つ処理したら、東都市をご案内しましょう。現在のここの研究環境をぜひ見ていただきたい」真琴が正体を隠したがっているのなら、彼もそれに合わせて一切触れず、「西脇博士」と呼び続けるつもりだった。ただ、その「西脇」と呼ぶ声の響きには、どうしても隠しきれない深い想いが滲んでしまっていた。彼の親切に対し、真琴は微笑んで応じた。「お気遣いありがとうございます。お仕事を進めてください」「では、少しお待ちを」そう言ってデスクに戻った貴博は、内線で午前中に保留していた書類を持ってこさせた。書類に目を通し、署名を終えると、身支度を整えて彼女を外へ連れ出した。運転手は呼ばず、彼自身がハンドルを握った。真琴は彼の助手席に収まった。ハンドルを操る貴博は、今日はまるでガイドのようだった。もちろん、その立ち振る舞いはただのガイドとは比べ物にならないほど洗練されている。東都市のこの二年間での変化、特に工業技術の発展について詳しく語って聞かせた。その解説を聞きながら、真琴は胸の奥が熱くなるのを感じていた。これほど地位のある人物が、自分のためだけに専属ガイドを買って出てくれている。……同時刻、興衆実業。信行が拓真のオフィスから戻るなり、祐斗がドアをノックして報告に入ってきた。「社長、西脇博士が今日の
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第380話

そう考えるだけで、信行は息が詰まるような苦痛を感じた。真琴が姿を消してからの二年間、彼は一日たりとも後悔しない日はなかった。もしあの日、彼女を誤解していなければ。もし彼女の気持ちにもっと早く気づいていれば。自分の気持ちにもっと早く素直になっていれば。どれほど良かっただろうか。真っ白な天井を見つめたまま、信行はゆっくりと目を閉じた。どれほど考え込んだのか、どれほどの時間が過ぎたのか。不意に椅子から立ち上がった信行は、スマホと車のキーをひっつかみ、オフィスを飛び出した。……一方その頃、貴博は真琴を連れていくつかの研究所を外から見学し、東都市のこの二年間の変貌ぶりを案内した後、かつて彼女と行ったあのレストランへ向かっていた。彼が初めて真琴を外での食事に誘った場所だ。用意された個室も、二年前と全く同じ部屋。支配人も当時のままだった。二年間足を踏み入れなかった貴博の来店に、支配人は驚きと喜びを隠せない様子で迎え入れた。「事務局長、本日はよくお越しくださいました。当店をご利用いただくのは二年ぶりですね」貴博は微笑を浮かべながら数品注文すると、メニューを真琴に手渡した。「西脇博士、お好きなものを頼んでください」遠慮なくメニューを受け取った真琴は、手際よく二品を追加した。その横顔を見つめる貴博の視線は、どこまでも優しかった。真琴に打ち明けていないのは、あの火災の日以来、このレストランに一度も足を向けていないことや、彼女が贈ってくれたロボットを毎日起動し、話しかけていたということだ。そのロボットを見つめるたび、「もし彼女が生きていてくれたら」と何度も願っていた。まさか二年後、本当にこうして目の前に現れてくれるとは。熱を帯びた視線に気づき、真琴は穏やかに微笑み返した。すると、貴博も笑みを深め、口を開いた。「この二年間で、東都市もずいぶん様変わりした。特に工業技術分野の成長には、目を見張るものがあるよ」その言葉に真琴が応じた。「ええ、アークライトの発展ぶりを見れば一目瞭然ですね」彼女が話している間、貴博は瞬きすら惜しむように彼女を見つめ続けていた。そのあまりに真っ直ぐな視線に、真琴は思わずふっと笑ってしまった。彼女が笑うと、貴博もつられて笑い、問いかけた。「このまま東都市に残るつも
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