All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 1141 - Chapter 1150

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第1141話

初恵は息を呑み、柊也を見つめたまま言葉を失った。今のは釈明というよりも、彼の魂の底からの告白だった。彼はどこまでも誠実だった。深く、深く考え抜いた末に、それでも自分の手札をすべて晒すことを選んだ、そういう覚悟が見えた。「彼女を大切にします」「彼女を必ず幸せにします」――初恵は最初、彼からそんな中身のない、ありふれた約束の言葉が返ってくるものとばかり思っていた。「入場券……」初恵は心の中で、その三文字を静かに反芻した。彼女はふと気づいた。これまで自分は、この件をあまりに打算的で、損得勘定の枠組みだけで捉えすぎていたのではないかと。この世界には、本物の『真心』というものが確かに存在する。少なくとも今この瞬間、彼女はそれを目の当たりにした。しばらくの沈黙の後、初恵は深く、重いため息をついた。それはずっと彼女の胸につかえていたしこりが、ようやく吐き出されたような響きだった。彼女は茶碗を手に取り、心を落ち着かせるように一口、お茶を喉に流し込んだ。「……これからは、あの子の手料理はあまり食べないようにしなさい。体に悪いから」その瞬間、張り詰めていた柊也の背中が、ゆっくりと、本当にゆっくりと、安堵にほどけていった。......詩織には、二人が何を話したのかは分からなかった。けれど、初恵の態度が明らかに軟化したことだけは肌で感じ取っていた。一体どうやって、柊也はあの厳しい母の首を縦に振らせたのだろう?彼女はどうしても気になって、彼をマンションの下まで見送る道すがら、その疑問を口にしてみた。柊也はふと足を止め、ゆっくりと彼女の方へ顔を向けた。街灯の届かない仄暗い影の中に立つ彼の姿は、どこか神秘的で、夜の闇に沈むその瞳だけがひどく深みを帯びていた。「秘密だ」彼は詩織の目を真っ直ぐに見つめ、一縷の迷いもない、それでいて底なしに甘い声で告げた。「君はただ、俺を選ぶだけでいい。それ以外の障害はすべて、俺が片付ける」詩織の心臓が、トクンと大きく跳ねた。街灯のぼんやりとした光の輪が、二人の間に曖昧な境界線を描き出していた。半分は冷たい夜の闇、もう半分は温かな光。彼を見上げながら、詩織はふと思った。――この人は、私が思っていたよりもずっと、ずっと頼りになる男なのだと。彼女は小さく息を
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第1142話

彼を見つめ返した瞬間、詩織の瞳から何の予兆もなく、一粒の涙が零れ落ちた。彼女は決して涙もろい性格ではない。けれど今この瞬間だけは、心の奥の最も柔らかい部分を強く打たれたように、どうしようもないほどの愛おしさと切なさが込み上げてきたのだ。彼の瞳の中に映る自分。そして、揺るぎない確信と愛情に満ちた彼の表情。それらを見た瞬間、過去のわだかまりも、誤解も、悲しみも、すべてが幻だったかのように綺麗に消え去っていった。彼女は小さく深呼吸をして、涙声になるのを必死に堪えながら口を開いた。「……柊也」少しだけ掠れた声で、彼の名前を呼ぶ。「あなたって人……本当に、反則だわ」柊也はそっと顔を近づけ、彼女の目尻に光る涙の痕に、慰めるように唇を落とした。「プレッシャーに感じる必要はない。ただのバレンタインのプレゼントだと思ってくれればいい」「俺は、君に選択を強要するつもりは一切ない。ただ、君にこれを贈りたかっただけだ」柊也はそのまま彼女を抱き寄せ、強い力で腕の中に閉じ込めた。彼の顎が詩織の頭頂部に触れる。彼女の背中が、まだ少しだけ緊張で強張っているのが彼には分かった。だから彼は、彼女の腰に添えた掌に極力力を入れず、まるで壊れやすい硝子細工でも扱うかのように、夜の闇に溶け込むような掠れた声で囁いた。「君が俺への信頼を失い、愛情というものに安心できなくなってしまったのは、すべて俺が壊したせいだ。だから、君を急かしたりは絶対にしない。俺を試したっていい。生殺しにして、ずっとこのまま引き延ばしたっていい。それが何年かかろうと構わない」彼は彼女の髪に愛おしそうに顎をすり寄せ、優しく、何度も何度も確かめるように触れた。――まるで、腕の中にいる彼女の存在が夢ではないと、自分自身に言い聞かせるように。「俺の誓いは、永遠に有効だから」詩織の目頭はすでに熱くなっていたが、彼の胸の奥から響くその低い声を聞いた瞬間、かろうじて保っていた心の防壁が、音を立てて完全に崩れ去った。彼女はそっと顔を仰ぎ、彼の唇に、羽のように軽くて柔らかなキスを落とした。普段の柊也なら、絶対にここぞとばかりに深く貪り食ってくるはずだ。しかし、この時ばかりは珍しく、それ以上の追撃はしてこなかった。ただ、彼女の細い腰を抱き寄せる腕の力が、さらにギュッと
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第1143話

彼女の心の奥底に、五年間ずっとぽっかりと空いていたあの空洞が、今、痛みを伴うほどの凄まじいスピードで満たされていくのを感じていた。焦燥と、もう何も失いたくないという痛切な想いが入り混じり、彼女はすべてを投げ出すように、自ら彼に身をすり寄せた。車窓の外では、初春の夜風がまだ冬の寒さを引きずって吹き荒れている。しかし、車内という密閉された狭い空間には、二人の熱く交わる吐息だけが充満していた。それはまるで、暗闇の中を長すぎる時間、別々に彷徨い続けてきた二つの水流が、ようやく同じ湖へと流れ込み、一つに溶け合っていくかのようだった。彼の口づけには、言葉にできない複雑で重い感情が渦巻いており、次第に激しく、凶暴さを増していった。詩織が息も絶え絶えになるまで唇を奪い尽くすと、彼はようやくその唇を解放した。だが今度は、熟れた果実のように真っ赤に染まった彼女の耳たぶへ、そして、細く白く透き通るような肩のラインへと、熱いキスの雨を降らせていく。詩織はそれに呼応するように顔を仰け反らせ、指先を彼のコートの襟元へと滑り込ませた。彼の首筋の温かい肌に触れる。夜の闇が視界を奪う分、触覚や聴覚が異常なまでに研ぎ澄まされていく。彼女の全身の血液が沸き立つように巡り、目尻は熱を帯びて艶やかに赤く染まっていた。無意識のうちに、彼女の手が彼のシャツの胸元を強く掴む。上質な生地が、彼女の掌の中でくしゃくしゃに皺を寄せていた。彼の胸の奥で、重く、激しく打ち鳴らされる心臓の鼓動がダイレクトに伝わってくる。そのリズムは、次第に彼女自身の心音と完全に重なり合っていった。「……柊也……」彼女が首を横に傾けた瞬間、その唇が彼のシャープな顎のラインに擦れた。甘く、抑えきれない嬌声が、彼女の喉の奥から漏れ出る。柊也は彼女の耳の裏側に熱いキスを落としながら、彼女が最も情熱に溺れているその瞬間に、低く、甘く、悪魔のように囁いた。「……欲しい?」彼女は荒い息を繰り返すばかりで、声にならない。長いまつ毛も、華奢な身体も、熱に浮かされたようにただ小刻みに震えていた。柊也は、ゆっくりとその長身をかがめた。幸いなことに、太一から借りたこの大型SUVは、後部座席を倒せば十分すぎるほどの広い空間があった。彼は片膝をつき、彼女の前に跪いた。車内は
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第1144話

午前三時。室内はひっそりと静まり返っていた。詩織は母たちを起こさないよう、足音を忍ばせてそっと玄関のドアを閉めた。しかし、自室のドアノブに手をかけた瞬間、バルコニーにぽつんと座る孤独なシルエットが目に入った。ミキだ。こんな時間まで起きているなんて、どうしたのだろう。詩織はつま先の向きを変え、彼女のほうへと歩み寄った。ミキはバルコニーで一人、酒を飲んでいた。傍らの小さなテーブルには、すでに空になったビールの缶が二つ転がっている。「眠れないの?」詩織は声をかけ、彼女の隣に腰を下ろした。ミキは首を傾けて詩織を見つめる。その頬は、アルコールのせいでほんのりと朱に染まっていた。「……やっと帰ってくる気になったわけ?今夜はもう、帰ってこないかと思ってたのに」直前までの車内での甘く濃厚な時間を思い出し、詩織は思わず視線を泳がせた。誤魔化すように、テーブルにあった新しい缶ビールをプシュッと開け、ミキの持っている缶にコツンとぶつける。「……明日の手続きのこと考えてたら、眠れなくなっちゃったんでしょ?」「話をそらさないでよ」今日のミキは、そう簡単には引き下がってくれそうにない。「まずは私の質問に答えなさい。あんたたち、もしかして……」「してないわよ!」詩織は食い気味に否定した。すると、ミキのほうが焦ったように身を乗り出してくる。「嘘!?もしかしてあの男、本当に『役立たず』になっちゃったの!?腎臓が一つなくても、あっちの機能には影響ないって聞いてたのに!」「違うの、それは――」詩織が慌てて理由を説明しようとしたが、せっかちなミキは彼女の言葉を待たずにまくしたてた。「男の精力なんて二十代前半がピークで、あとはもう下り坂って言うじゃない。柊也のヤツ、もう三十五歳でしょ? 気持ちばかりで、肝心の下半身がついてこないんじゃないの!?」「ねえ詩織、やっぱりあんな男、とっとと捨てちゃいなよ!」「…………」ついさっきまで二人の交際に大賛成していたのに、今度は捨てろと言い出す始末。女心というものは、本当に変わりやすい。「私はね、あんたの『夜の幸せ』を真剣に心配してるのよ」ミキは缶の残りをグイッと飲み干し、また新しい一本に手を伸ばそうとした。詩織は慌ててその手をピシャリと叩いて制
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第1145話

まさにミキのストライクゾーンど真ん中だった。彼女は迷わず「いいね」のハートマークをタップした。そのままコメントを残そうとしたその時、ふいにダイレクトメッセージが届いた。【どうしてまだ起きてるの?】ミキはすかさず返信する。【独り身のベッドは冷たくて、寂しくて眠れないのよね】相手【……】ミキは眉をひそめた。自分の誘惑テクニックが錆びついているのだろうかと、首を傾げる。すぐに相手から次のメッセージが届いた。【早く寝ろ!】ミキは唇を尖らせた。なんだかやけに強引で、上から目線な口調だ。一気に興ざめしてしまい、返信するのも面倒になってスマホを放り投げた。意識が別のところに向いたのが良かったのか、今度はそれほど時間もかからず、いつの間にか眠りに落ちていた。翌朝、目が覚めた時にはすでに十時を回っていた。スマホを手に取りロックを解除すると、画面は昨夜のメッセージ画面のままになっていた。彼女が返信をスルーした後、相手からの追撃も来ていない。どうせ暇つぶしに、手当たり次第にDMを送って女を漁る「釣り」だったんでしょうね。ミキは戻るボタンを押し、彼のプロフィールページを開いてみた。すると、昨夜更新されたばかりのあの腹筋画像が、すでに削除されているではないか。やっぱり釣り目的のクズ男ね!洗面を済ませてリビングへ出ると、詩織はすでに起きており、ソファでノートパソコンを開いて仕事の処理をしていた。初恵は着替えを済ませ、外出する準備を整えている。ミキは彼女に尋ねた。「初恵さん、これからお出かけ?」初恵は頷いた。「ええ、ちょっと、かかりつけのクリニックへ行ってこようと思って」「えっ、どこか具合でも悪いの?」ミキは心配そうに声をかけた。初恵は軽く手を振る。「ううん、違うの。ちょっと風間先生に聞いておきたいことがあってね」それならいいが、とミキは深く追及することはせず、そのままキッチンへと向かった。初恵は、家政婦の佐知子さんと連れ立ってマンションのエントランスを出たところで、ようやくホッと胸をなで下ろした。「佐知子さん、家に帰っても、絶対にあの二人の前で口を滑らせないでね!」初恵が念を押すと、佐知子さんは頼もしく頷いた。「ご安心ください、私の口の堅さはお墨付きですか
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第1146話

抱きすくめてくる彼の体は、触れる肌から火照りが伝わってくるほど、尋常ではない熱を持っていた。けれど、詩織がその熱の正体を深く感じ取る間もなく、柊也はふいに腕の力を緩め、彼女の肩を軽く押して体を離した。「……今日は冷える。風邪を引く前に、早く上に戻りなさい」それほど寒いとは感じなかった。それに、詩織はもう少しだけ、彼と一緒にいたかった。いつもなら、彼をマンションの下まで見送ると、そのまま車のそばでしばらく甘くイチャイチャとじゃれ合うのがお決まりのパターンだ。しかし今日の彼は珍しく、彼女に甘えてこようとしなかった。どうしたのだろうかと不思議に思っていると、柊也が口を開いた。「……今日は、このまま一度家に戻らなきゃいけないんだ」なんだ、野暮用があるのね。それなら仕方がない。詩織はそれ以上引き留めず、ヒラヒラと手を振って彼を見送った。マンションに入り、エレベーターのボタンを押す。箱が静かに上昇していく間、詩織はふと、心に小さな違和感を覚えた。……今日、何かが足りないような?何が足りないのだろう。顔を上げ、鏡面仕上げになったエレベーターの壁に映る自分と目が合った瞬間、ハッとして気づいた。今日、一回もキスされてない!いつもなら、彼は息をするように詩織にキスをねだってくる。軽いリップ音を響かせるものから、息もできないほど深いものまで、あの手この手で甘く唇を奪いにくるのが常だった。それなのに、今日の彼は恐ろしいほどお行儀が良く、指一本触れずに帰っていったのだ。いくら用事があるとはいえ、あまりにも不自然すぎる。首を傾げながら玄関のドアを開けると、リビングにいたミキが目を丸くして驚いた。「えっ、もう帰ってきたの!?」詩織の頭に【?】が浮かぶ。「だってあんたたち、いつも下で見送るって言ってから、二時間くらいは平気で戻ってこないじゃない」「……っ」詩織は図星を突かれて、言葉に詰まった。それから数日間。初恵は毎日欠かさず、柊也のために特製のスープを煮込み続けていた。それも、誰の手も借りず完全に自分一人で、だ。佐知子さんが「初恵様が早起きされては体に障りますから、私にやらせてください」と申し出ても、初恵は首を縦に振らなかった。初恵がここまでこのスープに執念を燃やしてい
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第1147話

彼は空になったグラスをテーブルに置き、すっと立ち上がった。羽織るために持ち上げたジャケットが、空中で鋭い弧を描く。「帰る。もう遅い」太一は目を丸くした。「えっ、もう帰るのかよ!?まだ二杯しか飲んでないのに!」返ってきたのは、容赦なくピシャリと閉められたドアの音だけだった。廊下の突き当たり。京介はタバコに火をつけた。暗がりの中で、チリチリと燃える真っ赤な火種だけが明滅している。彼がスマホを取り出すと、光る画面がその冷酷なまでに美しい横顔を青白く照らし出した。画面には、詩織のSNSのアイコンが表示されている。親指の先が、そのアイコンの上を迷うようにさまよい、長い時間が過ぎていった。しかし最終的に――彼は画面を消し、同時にタバコの火を冷たく揉み消した。それから数日後。恩師である高村教授の門下生たちが集まる、定期的な食事会の日を迎えた。詩織は事前に柊也には伝えていた。最初は一緒に行かないかと誘うつもりだったが、二人の関係はまだ公にしていない。突然連れて行けば、周囲に根掘り葉掘り聞かれて面倒なことになると気づき、結局声はかけなかったのだ。柊也の方からも特に触れてはこなかった。だが、帰り際、マンションの下まで見送った時のこと。ふと思い出したように、ごくさりげなく尋ねてきた。「その食事会って、京介も来るのか?」「……」その名前が出た瞬間、詩織は目の前の男が何を気にしているのか察した。人差し指で、硬い胸板をツンと突く。「またそんな無意味なヤキモチ焼いてるの?」柊也は胸に当てられた指先をすっと掴むと、そのまま自身の唇へと引き寄せ、優しく口づけを落とした。「知ってるだろ。俺、あいつが絡むと途端に余裕なくなるって」詩織は呆れたようにため息をつく。一体いつになったら、この男は京介に対する警戒心を解くのだろうか。だが、そんな柊也の胸の内に渦巻いているのは、『一生、警戒を解く気なんてない』という暗く重い執着だった。「はいはい、もう遅いから早く帰って」握られている指先を引き抜こうとする。指先に触れる吐息が、やけに熱い。言葉にできないような、くすぐったい感覚が肌を這う。まるで羽の先で心臓を撫でられているかのように、胸の奥がざわざわと波立つのを感じた。ここ数日、柊也は人
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第1148話

少しだけ上を向いた柊也は、得体の知れない強烈な渇きを飲み下すように、何度も喉仏を上下させている。呼吸はひどく乱れていた。冷たい空気の中に吐き出される荒い白い息が、限界まで強張った顎のラインを曖昧にぼやかしていく。突然突き放されたような形になった詩織は、潤んだ目尻を赤く染めたまま呆然としていた。激しく吸われた唇は、まだジンジンと痺れている。大丈夫?と声をかけようと口を開きかけた。「喋るな」酷く掠れた低い声が、それを遮る。きつく目を閉じてから、再び開かれたその瞳は、底なしの闇のように深く濁っていた。「……少し、落ち着かせてくれ」そう言って、そっと手が伸びてくる。熱を持った頬を、指の背で愛おしげに撫でた。その動作はとろけるほど優しいのに、指先は恐ろしいほどの熱を帯びたままだった。触れた瞬間にバチッと電流が走ったかのように、二人同時に肩を震わせる。柊也は小さく息で笑った。まだ息は整っておらず、微かな危険を孕んだ声色が夜の空気に溶ける。「早く部屋に戻らないと、今夜はもう帰さないぞ」そして最後には、お手上げだというように苦笑いを浮かべた。「やっと初恵さんから少し信用してもらえるようになったんだ。これ以上、俺の理性を試さないでくれ」「……」なるほど。ここ最近、妙にお行儀が良かったのは、母からの印象を悪くしないためだったのか。「それから、初恵さんに、あの怪しげな滋養強壮スープを作るのをやめるよう言ってくれ。これ以上あんなもん飲まされたら、俺、確実にルール違反するから」彼が言う『ルール違反』とは、詩織が定めた絶対のルールのことだ。――彼女が心から頷くまで、最後の一線は越えない。詩織は目を丸くした。お母さんが毎日せっせと作っていたあの特製スープって……まさか、精力増強のためだったの!?どうりで最近、柊也の顔色がどこかおかしかったはずだ。いつも別れ際に不自然なほど距離を取っていたのも、理性が吹き飛びそうになるのを必死に抑え込んでいたからだったなんて。一体どれほどの我慢を重ねていたのかと思うと、途端に柊也への同情心が湧いてくる。「……お母さんには、私からちゃんと言っておくから」少し躊躇ってから、詩織はおそるおそる尋ねた。「じゃあ、最近はどうやって……その、耐えてたの?」
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第1149話

京介は慣れた手つきで茶器を温めながらも、意識は自然と隣に座る詩織の方へと向いていた。彼女に、どうしても伝えたいことがある。ただ、まだその切り出し方が見つからないだけだ。焦ってはいけない。その時が来るのを、静かに待つんだ――数杯のお茶を味わい終えた頃、高村教授が最近手に入れたという高価な錦鯉の話を始めた。なんでも、品評会で優勝するような血統を持つオークション級の逸品で、一尾六千万円は下らないという。三番弟子の澪士からの贈り物らしい。高村教授はすっかりこの錦鯉に惚れ込んでおり、早くから庭に大金を注ぎ込んで立派な専用池まで造らせていた。「せっかくだ、自慢の鯉を皆で見に行こうじゃないか」と、教授が弟子たちを促す。詩織が立ち上がろうとした時だった。「詩織、少し話があるんだ」京介が彼女を呼び止めた。詩織は、仕事の用件だろうと思った。この五年間、二人が直接顔を合わせた回数は数えるほどしかない。ここ数ヶ月でようやく何度か会う機会があった程度だ。そのうち二度ほど、京介が明らかに自分への好意を匂わせてきたことがあったが、詩織はどちらも容赦なく話を逸らし、その芽を摘み取っている。だから、彼もすっかり冷静になり、もう変な期待は抱いていないはずだと思っていた。しかし、他の弟子たちが部屋を出て行った途端、京介の目つきが変わった。喉仏が上下に動く。彼の胸の奥で、長年抑え込んできた想いがついに限界を迎え、溢れ出そうとしていた。――詩織、もう一度俺にチャンスをくれないか。――君がどんな選択をしようと、俺はずっと待ち続ける。――たとえ君が柊也を選んだとしても、振り返れば、俺の隣はいつでも空けてあるから。「……詩織」口から紡がれた声はいつもより低く掠れ、微かな緊張を孕んでいた。京介が半歩前に踏み出す。「もう一度――」という言葉が、舌先まで出かかったその瞬間。外から、高村教授の快活で鋭い大声が轟いた。「賀来の小僧! 呼ばれてもいないのに、よくも図々しく来られたな。入り口の警備は何をやっとるんだ!」柊也?どうして彼がここに?詩織の意識は一瞬にして外へと飛んでしまった。京介の次の言葉を待つことすらなく、足早に部屋を飛び出していく。玄関先には、入ってきたばかりの柊也が立っていた。
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第1150話

柊也は隙を見て詩織の元へ向かおうとしたものの、高村教授に「ほれ、自慢の錦鯉を拝んでいけ」と捕まってしまった。それでもなお、ワインレッドの派手なスーツをまとった男の視線は、まるで獲物を追尾するレーダーのように詩織を離さない。そのあまりに直球な熱視線に耐えきれず、そもそも錦鯉などにも興味がなかった詩織は、くるりと回って屋内に戻ることにした。彼女の背中を追うように、京介も歩き出す。だが、大広間の扉に足を踏み入れようとした、まさにその時――ザッバーン!!背後から、何かが水面に激しく落ちる大きな水音が響き渡った。続いて、高村教授たちの驚愕の叫び声が上がる。「おいっ!賀来の小僧!?なんで池に落ちたんだ!!」詩織はピタリと足を止めた。心臓がドクンと跳ね、血の気が引いていく。すぐさまきびすを返し、池へ向かって全力で駆け出した。高村教授の自慢の庭池は、かなり広く、水深もある。しかもただの池ではない。趣向を凝らした本格的な造りになっていて、底や縁には鋭く尖った庭石や岩が複雑に配置されているのだ。もしそんな場所に頭や体を打ちつけでもしたら――気が気ではないまま池の縁へと飛び込んだが、水面が激しく波打つばかりで、柊也の姿はまだ浮かび上がってこない。――嘘、彼は泳げるはずじゃなかったの!?「柊也っ!?」たまらず、切迫した声でその名を叫んだ。だが、返事はない。ただバシャバシャと、水面を激しく叩く音が返ってくるだけだった。詩織は焦りのあまり後先などすっかり吹っ飛び、そのまま池へと飛び込んでしまった。暦の上では春を迎えたとはいえ、まだ2月の風は冷たく、池の水は氷のように冷え切っていた。水に飛び込んだ瞬間、その冷酷な温度に体が悲鳴を上げ、ふくらはぎが激しくつってしまった。足首を誰かに力任せに捻り上げられたような鋭い痛みが走り、脚から一気に力が抜け落ちる。体が言うことを聞かず、そのままズブズブと暗い水の底へと引きずり込まれていく。しまった……!パニックになりかけた、まさにその時。ぐんと、腰を強く引き寄せられた。背後から伸びてきた逞しい腕が詩織を抱きとめ、同時に温かい体温が背中にピタリと張り付いてくる。水の中に沈んでいたはずの柊也だった。彼はもう片方の腕を詩織の腹部に回し、彼女の体を丸ごと自分
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