Semua Bab 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Bab 1161 - Bab 1170

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第1161話

序の瞳の奥が一瞬だけ暗く沈んだが、詩織はそれ以上彼に構うことなく「失礼」とだけ言い残し、他の来客の元へと歩み去った。序の執拗な視線が、いつまでも彼女の後ろ姿に絡みついていたことには、あえて気づかないふりをした。……序を撒いた後、詩織は無意識に再び柊也の姿を探したが、どこにも見当たらなかった。……嫌な予感がする。詩織は近くにいた人たちに「少し失礼しますわ」と断りを入れ、グラスをテーブルに置くと、そっと人混みを抜け出した。ふかふかの絨毯が敷かれた階段を上がり、三階のVIP用休憩室エリアへと向かう。誰もいない静かな廊下を進み、三つ目のドアの前を通りかかった瞬間――グンッ!突然、強い力で手首を掴まれ、部屋の中へと乱暴に引きずり込まれた。バタンッとドアが閉まり、鍵が掛けられる。電気は点いていない。「……んっ!」抗議の声を上げる間もなく、熱い唇で強引に口を塞がれた。しかし、詩織は抵抗しなかった。鼻腔をくすぐる、冷たくて微かに甘い極上のウッディノート。柊也の香りだったからだ。静まり返った暗い部屋の中に、絡み合う荒い吐息と、甘く生めかしい水音だけが密やかに響く。柊也のキスは、いつものような余裕が完全に消え失せていた。重く、深く、まるで彼女を骨の髄まで食い尽くそうとするかのような凶暴さ。唇を擦り合わせ、舌を深くねじ込み、行き場のない苛立ちをぶつけるように貪ってくる。……この男、また盛大に嫉妬してるわね。詩織は頭の片隅で冷静に状況を把握した。自分が独占するために仕組んだ『特別なペアルック』に、あの小宮山序とかいう男が偶然割り込んできたのだ。独占欲の塊である彼が平静でいられるはずがない。「ん、ちょっと……っ。柊也、待って」詩織は息を継ぐ隙を突いて彼の唇を軽く噛み、小さな声で宥めた。「口紅が、取れちゃう……っ」バッグの中に化粧直しのリップを入れておいて本当に良かったと思いながら。柊也は舌打ちをすると、標的を変えて彼女の白いうなじに顔を埋め、ドレスの細い肩紐越しに首筋を軽く噛んだ。「ああっ、ダメ! 跡を残しちゃ……っ」「じゃあ、お前が俺に噛みつけ」低くしゃがれた声には、濃密な欲情が滲んでいる。「ダメだってば……外に人がいるのよ?」「人がいる方が、スリルがあって興奮するだろ」
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第1162話

向井は女癖こそ最悪だが、ビジネスにおける「人を見る目」だけは確かな男だ。その彼がここまで頭を下げる相手なのだから、ただ者ではないのだろう。向井が周囲に得意げに説明する。「実はこちらの新堂社長は、『栞キャピタル』の強力なバックアップを受けているんですよ。栞キャピタルがどれほどの規模か……皆さんも、言わなくてもわかりますよね?」その言葉を聞いた途端、重役たちの目の色が変わった。彼らは次々と霜花を取り囲み、あからさまに態度を変えておだて始めた。ふふっ……これよ、この優越感!周囲からチヤホヤされる心地よさに酔いしれながら、霜花の視線は自然と会場の反対側――詩織の姿へと向いた。現在、江ノ本市における詩織のビジネスでの地位は揺るぎないものだ。だから当然、彼女の周りには、霜花を囲む人数の比ではないほどの重役たちが群がり、ひときわ華やかな中心を作り上げていた。今はまだ、私よりあっちの方が人が多いけど……霜花は、嫉妬でギリッと奥歯を噛み締めた。でも、見ていなさい。いつか必ずあんたを超えて、その高慢な顔を泥水の中に踏みつけてやるんだから!それからほどなくして、京介も会場に姿を現した。彼の姿を視界に捉えた瞬間、霜花は無意識のうちに背筋を強張らせていた。周囲の重役たちに振りまいていた愛想のいい笑みが、不自然に口元で凍りつき、ゆっくりと温度を失っていく。だが、エントランスを抜けた京介は、彼女に一瞥すらくれなかった。この広い会場で、誰よりも一番近い場所に立っていたというのに。京介は霜花を空気のように素通りし、その熱を帯びた視線を真っ直ぐに詩織へと向けた。ただ、今の詩織の隣には柊也が影のようにぴったりと寄り添っている。そのせいで、さすがの京介も軽々しく声をかけに行くことはできないようだった。それでも、彼の視線は獲物を狙うかのように詩織を執拗に追いかけ、二度と逸らされることはなかった。ズキリと、胸の奥を刺すような嫉妬と惨めさが猛烈に込み上げ、霜花の目頭が熱く焼ける。やがて彼女もまた詩織へと視線を移すと、ほんのわずかに唇の端を歪めて笑った。しかし、その笑みはあくまで口元に張りついただけで、冷え切った瞳の奥には微塵も届いていない。一方、詩織と柊也が揃ってレセプションに登場したことは、瞬く間に周囲の好奇の
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第1163話

「……ああ」彼の強い意志を感じ取るようなその声色に、詩織はそれ以上強引に連れ出すことができなかった。仕方なく、彼を休憩室のベッドまで直接送り届けることで妥協した。しかし、会場に戻ってからも、詩織の気は気でなかった。本来なら十数分かけて語るはずだったスピーチを、彼女は強引に五分にまで短縮し、必要最低限の挨拶だけを済ませた。そして、周囲の称賛や拍手を背に、足早に会場を抜け出して休憩室へと走った。その一連の慌ただしい動きを、離れた場所から霜花が冷ややかな目で見つめていた。彼女は優雅にワインを一口含み、グラスの縁越しに歪んだ笑みを浮かべる。冷え切っていた彼女の瞳に、ようやく「計画通り」という計算高い愉悦の色が戻っていた。......――VIP休憩室。息を切らして部屋に飛び込んだ詩織だったが、ベッドの上に柊也の姿はなかった。心臓が再び跳ね上がる。「柊也?柊也!」張り詰めた声で呼ぶと、奥のバスルームから、酷く掠れた重い声が返ってきた。「……ここだ」詩織は慌ててドアを押し開けた。「ヒッ……!」思わず息を呑む。柊也は服を着たまま、バスタブに張られた水の中に身を沈めていた。先ほどよりもさらに赤みを増した顔で、荒く、熱を帯びた息を絶え間なく吐き出している。普段の理知的な瞳はすっかりトロンと濁り、危険なほどの色香を放っていた。詩織が水面にそっと指先を触れると、それは氷のように冷たかった。「だめよ、こんなの!早く出て、やっぱり病院へ……!」たまらず彼を抱き起こそうと手を伸ばした瞬間。柊也は顔を背け、大きく喉仏を上下させた。紙ヤスリで擦れたようにザラついた、低く危険な声が響く。「……先に出てろ」「でも、こんなに冷たい水に入ってたら凍えちゃうわ……!」「出ていけと言ってるだろ!」それは、狂気を孕んだ猛獣が鎖を引きちぎる寸前のような、ギリギリの自制心から絞り出された叫びだった。ピタリと動きを止めた詩織に対し、柊也は息も絶え絶えに、しかし一つ一つの言葉を噛み締めるように告げた。「お前がこれ以上ここにいたら……俺は、一線を越えてしまう」言葉の端々が、抑えきれない熱情で小刻みに震えている。「わかってるだろ……俺が、お前に対して何の抵抗力も持っていないことくらい」水に濡れた
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第1164話

洗面台に置かれていたガラスのコップを、彼が力任せに床へ払い落としたのだ。粉々に飛び散る鋭利な破片。詩織が息を呑む間もなく、柊也はその中で一番大きなガラス片を無造作に掴み取った。そして一切の躊躇いもなく、その鋭利な断面を自らの左掌へ深く突き立て、思い切り引き裂いた。グチャリという肉を裂く嫌な音と共に、指の隙間から鮮血がドクドクと溢れ出す。「ぐっ……!」低い苦悶の声を漏らし、柊也の巨体が大きく跳ねた。全身を内側から焼き尽くそうとしていた狂暴な熱情が、掌を貫く強烈な激痛によって、一時的ではあるが強引に鎮圧されたのだ。床に手をつく彼の腕には、悍ましいほど青筋が浮き出ている。掌の生命線をなぞるように、赤い血がとめどなく流れ落ちていく。ポタッ、ポタッ……と。床に散らばるガラスの破片を、鮮血が赤く染め上げていった。この異常なまでの自傷行為による痛みで辛うじて理性を繋ぎ止めながら、彼は低く、かすれた声で言った。「……太一を呼んだ。もうすぐ来るはずだ。お前は……先に出てろ」床の白いタイルに滴り落ちていく赤黒い血が、詩織の視界を真っ赤に染め上げていくようだった。怒りと、胸が張り裂けそうなほどの痛ましさが同時に込み上げてくる。それなのに、柊也は自らの傷の痛みなど微塵も感じていないかのように、荒い息を吐きながら、執念深く先ほどの言葉を繰り返した。「……約束、しただろ。お前の同意がない限り、絶対に一線は越えないって」どうしようもなく頑固で、狂おしいほどの執着だった。詩織は怒りで全身をわなわなと震わせると、ガバッと顔を上げ、彼の薄い唇にガブリと噛みついた。傷つけるほど強くはないが、明確な苛立ちを込めた容赦のない噛みつきだった。その瞬間、柊也の体がビクンと再び硬直する。ガラスの破片で掌を引き裂くことで辛うじて保っていた僅かな理性が、たった一度の噛みつきで呆気なく崩れ落ちそうになっていた。「っ……、お前……」乱れた息のまま呻く彼に対し、詩織は唇を重ねたまま、熱い吐息を交わすような至近距離で一言一句を叩きつけた。「今すぐ私を抱かないなら……もう二度と口を利いてあげない」ピタリと、柊也の呼吸が止まった。彼の瞳の奥で、暴れ狂う欲望と最後の理性が激しくせめぎ合っている。喉仏を上下させながら、それでも彼は信じ
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第1165話

ちょうどその時だ。血相を変えて廊下を走ってきた太一と鉢合わせた。太一は、まさかここに京介がいるとは思わず、目を丸くした。「あれ?兄貴、なんでこんな所にいるんだ?」「……通りかかっただけだ」京介の声は、氷のように冷え切っていた。太一もそれ以上深く追及する余裕はなかった。何より今は、親友である柊也の安否のほうが気がかりだったのだ。二十分前、柊也から「酒に細工された。急いで病院へ連れて行ってくれ」と切羽詰まった電話を受け、太一は慌ててこの会場まで駆けつけてきたのである。だが、太一がドアノブに手をかけた瞬間、背後から京介の低い声が飛んだ。「……今は、入らないほうがいい」「へ?」太一の動きがピタリと止まる。怪訝に思って京介の顔を振り返り、そのひどく沈痛な表情を見た瞬間――太一の頭の中で点と点が繋がり、すべてを察した。あー……なるほど。そういうことかよ。中に誰と誰がいるのか。そして今、中で何が起きているのか。「兄貴、大丈夫か……?」と慰めの言葉をかけようとしたが、京介はすでに黒いオーラを漂わせながら、無言でその場を歩み去っていた。太一は固く閉ざされたドアと、遠ざかる従兄の哀愁漂う背中を交互に見比べ、そっと心の中で三分間の黙祷を捧げた。……京介がホテルのエントランスを抜けると、外の車寄せには霜花が待ち構えていた。彼女は真っ直ぐに京介を見つめ、その瞳の奥には隠しきれない優越感と、計画が成功したことへの嘲笑が渦巻いている。京介は立ち止まり、スゥッと目を細めた。もともと温度の低い彼の瞳が、今はまるで底なしの氷の淵のように、漆黒の冷気を放っている。彼は一言も発することなく、ただ静かに彼女を見下ろしていた。ギリッと、顎のラインが硬く引き締まる。霜花はそのひどく傷ついたであろう元夫の姿を存分に鑑賞してから、ゆっくりと余裕たっぷりに唇を開いた。「どう?これで、あの女のことはようやく諦めがついたかしら?」京介は彼女を睨み据えた。その眼差しは、夜の闇をすべて注ぎ込んだかのように重く、底知れない怒りと殺意を孕んでいた。「……霜花。俺は以前、警告したはずだ。二度と彼女に手を出すなと」そのあまりにも冷酷で鋭い威圧感に、霜花は思わず息を呑んだ。背筋にゾクッと冷たいものが走る。目の前にいるこの
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第1166話

ソファのクッションが、彼の重みで深く沈み込む。肌に焼きつくようなキスの熱が、じわじわと毛穴の奥まで浸透してくる。詩織はクッションの端をギュッと握りしめ、荒い呼吸と共に胸を大きく上下させた。「ちょっと……何してるのよ……ッ」崩れ落ちそうな理性の端っこにすがりつき、彼女は首を振って彼の手首を掴み、震える声で制止しようとした。だが、彼はキスを止めることなく、どこか甘ったるく、粘りつくような声で囁いた。彼の瞳からは、普段の冷静さなどとうの昔に消え去り、底知れぬ欲情だけがギラギラと渦巻いている。「……また、薬の効力が戻ってきたらしい」「嘘ばっかり!」詩織は即座に言い返した。「さっきの苦しそうな状態と、全然顔つきが違うじゃない!」柊也は低く喉の奥で笑うと、詩織の膝の裏側にスッと高い鼻先を擦り寄せた。「ひゃっ……!」敏感な場所を撫でられ、詩織の体がビクッと跳ねる。彼から逃れようとバタバタと暴れる彼女の手首を、柊也はいとも容易く捕らえた。そのまま指の間に己の指を滑り込ませてしっかりと恋人繋ぎにすると、ソファの背もたれに強引に縫い留める。覆い被さるように顔を寄せた彼の吐息は、火傷しそうなほど熱かった。「……俺が薬のせいだと言ったら、薬のせいなんだよ」ずるい、と反論する暇すら与えられなかった。有無を言わさぬ口調で告げると、柊也はそのまま彼女の上に重なり、引き寄せるように彼女の膝裏を掴んで一気に最奥まで押し入った。「あっ……!」身を屈め、深く甘いキスで彼女の悲鳴を塞ぐと、柊也は掠れた切羽詰まった声で耳元に囁いた。「……少しは理解してくれ。俺は五年間も我慢し続けてきたんだ。こいつもずっと……お前を恋しがってた」狭いアパートのソファなど、この強欲な男の欲求を満たす上では何の障害にもならないらしかった。彼の広く逞しい肩と背中がすっぽりと彼女を包み込み、長い脚が彼女の逃げ場を完全に塞ぐ。狭い空間に閉じ込められながらも、彼が刻む容赦のない激しい律動は一瞬たりとも狂うことはなかった。彼の大きな掌が、詩織の滑らかな腰の曲線に沿って這い上がる。薄いブラウス越しでもはっきりとわかるほど、彼の体温は異常なまでに高かった。「んっ……ぁ……」あまりの激しさに詩織が無意識に体を丸めようとすると、膝裏を掴んでいた
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第1167話

布団の中での彼の手つきは、昨夜に負けず劣らず極めて侵略的だった。彼自身の硬い膝が、詩織の閉じた両脚をいとも容易くこじ開ける。そして、再び熱い唇が塞いできた。今度のキスには、朝のまどろみ特有のゆったりとした甘さと、執拗なまでの独占欲が入り混じっていた。唇の端から首筋にかけて、ねっとりと湿った熱い痕跡をいくつも刻みつけていく。ただでさえ疲労困憊の体は、彼に愛撫されるがまま、骨抜きにされたようにトロトロに甘く溶かされていく。「いい子だ……」耳元で囁く声の甘さと吐息の熱さに、詩織はゾクゾクと首をすくめた。「……これで、最後にするから」快楽の波に呑み込まれ、意識が真っ白に飛んでいく中。詩織は朦朧とした頭で、半ば恨めしそうに思った。男の言う『これで最後』なんて言葉……絶対に、信じちゃダメなんだからっ……!......一方その頃。華栄キャピタルのオフィス。ミキは、朝一番で詩織のオフィスを訪れていた。手には、保温ジャーに入った温かいスープが握られている。これは詩織の母・初恵から頼まれたものだ。初恵は、詩織が昨夜遅くまで接待で飲んでいてマンションに帰ってこなかったのだと思い込み、娘の二日酔いの胃を労わるために、早起きして特製の薬膳スープを仕込んでいたのである。しかし、ミキが社長室でいくら待てど暮らせど、肝心の詩織は一向に出社してくる気配がない。たまらず、詩織のアシスタントである密に声をかけた。だが、密も困り果てたように首を傾げるばかりだ。「詩織さんが遅刻するなんて、これが初めてですよ……!」密も心底不思議そうに目を丸くしている。仕事第一、いや『仕事こそが命』のあの鬼上司が、まさかの無断欠勤。会社のシステムがダウンするよりあり得ないレベルの超異常事態である。おまけに、スマホに何度電話をかけても全く繋がらないのだ。結局、一時間待っても詩織が現れることはなく、ミキは呆れ顔で温かいスープを持ち帰る羽目になったのだった。詩織が実家へと帰宅したのは、日がすっかり暮れた夕方のことだった。家に着くと、母の初恵は夕食を済ませて近所の散歩に出かけており、リビングにはミキ一人だけが残っていた。ミキは愛ネコのカイを膝に乗せ、ソファに寝そべってテレビのバラエティ番組を眺めている。リビングに入ってきた
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第1168話

ミキとの会話を終えて自室に戻った詩織は、彼が別れ際に持たせてくれた紙袋を開け、その中身を見て初めてそれが「アフターピル」と「塗り薬」であることに気がついた。中に入っていた彼からのメッセージカードには、深い自責の念が綴られていた。昨夜はあまりにも突発的で、しかも薬のせいで完全に理性が飛んでいたため、避妊の準備など一切できていなかった。だから、彼女の体に負担をかけてしまうことを詫びる言葉と共に、「今後は絶対に俺が責任を持って気をつけるから」と書かれてあった。詩織はそのピルの箱を指先で弄りながら、少しだけぼんやりと虚空を見つめた。……本当は、こんな薬を飲む必要なんてないのに。かつて、彼女は担当医から残酷な宣告を受けている。彼女が自然妊娠する確率は極めて低く、おそらく二度と子どもを授かることはできないだろう、と。だから、アフターピルなど全くの無意味なのだ。彼との関係が、この先どこまで続くのか。どんな結末を迎えるのか。詩織はあえてその先の未来を想像しないようにしていたし、考えようとも思わなかった。彼女が見つめているのは、常に「今」だけだ。今、彼と一緒にいる時間が最高に幸せで、満たされているなら、それでいい。たとえ未来のいつか、二人が別々の道を歩む日が来たとしても、彼女はそれを受け入れる覚悟ができている。この世界で、自分自身を一番に愛すること以上に大切なことなどないのだから。だから詩織は、わずかな感傷を振り払うようにピルの箱をゴミ箱へ放り捨てると、代わりにもう一つの「塗り薬」のチューブを手に取った。その見覚えのあるパッケージを見た途端、彼女の頬はボンッ!と音を立てそうなほど真っ赤に染まった。昨夜から今日のお昼にかけて、結局二人は五回も戦を交えた。そして当然ながら、彼から直接この薬を「五回」も塗り込まれたのだ。ただ薬を塗られていただけのはずなのに、彼のあの執拗でエロティックな指先のせいで、体感的には十回は抱かれたような濃厚な疲労感と羞恥心が全身に刻み込まれている。「……っ、もう二度と見たくない!」恥ずかしさのあまり、詩織はそのチューブをデスクの引き出しの一番奥へと乱暴に押し込んだ。だが、そんな彼女のスマホに、まるでタイミングを見計らったかのようにメッセージが届く。【薬、ちゃんと塗っておけよ
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第1169話

北里市は冷たい雨が降っており、肌を刺すような底冷えがした。ミキは厚手のロングコートに身を包み、大きな伊達メガネとマスクで顔の半分以上を隠していた。これなら、彼女の熱狂的な追っかけファンがすれ違っても、絶対に「人気女優の近藤ミキ」だとは気づかないはずだ。霊園に到着すると、彼女は傘をさし、荷物を片手に提げて、長い石段を一段ずつ上り始めた。サワが眠る墓にあと少しで辿り着くというその時。上から、二つの人影が並んで下りてくるのが見えた。雨除けのために傘を深く傾け、うつむき加減で歩いていたミキだったが、不意に耳に飛び込んできたその声に、ピクリと足を止めた。「……足を捻挫したんじゃなかったのか。こんな足場の悪いところまで、何をしに来たんだ」その低く冷たい声の主は、間違いなく白彦だった。そして、彼にぴったりと寄り添っている女は――当然、璃々子だ。璃々子の声は、相変わらず計算高くて甘ったるい、聞いてるだけで胃酸がこみ上げてくるような「あざとい女」特有の猫撫で声だった。「だって……今日は特別な日でしょう?白彦兄さん、きっと一人で辛い思いをしてるんじゃないかって心配で……側にいてあげたかったの」白彦の声は相変わらず温度が低かったが、先ほどよりは明らかに棘が抜けて、わずかに柔らかくなっていた。「最近は立て込んでいるんだ。何か必要なものがあれば、直接秘書の美奈子に伝えてくれ」「うん、わかったわ」璃々子は従順で健気な女を演じるように、小さく頷いた。その直後だった。わざとなのか、それとも本当に足を滑らせたのか。璃々子が「きゃっ!」と短い悲鳴を上げ、その華奢な身体をごく自然に白彦の胸元へと倒れ込ませたのだ。当然のごとく、白彦はとっさに腕を伸ばし、彼女の身体をしっかりと抱き留めた。璃々子は怯えた小動物のように彼の腕にしがみつき、ホッと息を吐き出す。「ああ、よかったぁ……白彦兄さんが受け止めてくれなかったら、また派手に転んじゃうところだったわ」そう言ってから、彼女はさらに涙声を作って見せた。「……でも、今のでまた足が痛くなっちゃったみたい。ごめんなさい、この残りの階段、もう一人じゃ降りられないかも……」言い終わるや否や、彼女は極めて無垢で可哀想な被害者を装った上目遣いで、白彦の顔をじっと見つめた。白彦は彼女と視
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第1170話

だが。彼の手前を通り過ぎて、声をかけた人物の元へと駆け寄っていったのは、彼とは全く見ず知らずの、赤の他人の女だった。白彦の瞳に一瞬だけ灯った光が、スゥッと音を立てて消え去った。……人違い、か。受付を済ませた白彦は、璃々子が待っているはずの二階の診察室へと向かうため、エレベーターを降りた。その瞬間だった。白彦の心臓が、今度こそ大きく跳ね上がった。足が勝手に動き出していた。周囲の目など気にする余裕もなく、彼は無意識のうちにその背中を追って駆け出していた。「……ミキ!」声に出してその名を呼んだのと同時に、伸ばした手が彼女の腕を強く掴んでいた。しかし。驚いて振り返ったその顔は、またしても全く見ず知らずの他人のものだった。「……あの、何か?」見知らぬ女性は、突然腕を掴まれたことに眉をひそめ、不審げに白彦を睨みつけている。白彦はハッと我に返り、火にでも触れたかのように慌てて手を離した。「……っ、申し訳ありません。人違いでした」深く頭を下げる白彦を気味悪そうに一瞥すると、その女性は何も言わずに立ち去っていった。白彦は廊下の真ん中に立ち尽くし、深く、深く息を吐き出した。全身からどっと疲労感が押し寄せてくる。……俺は、一体どうしてしまったんだ。少しでも似た後ろ姿を見れば、彼女だと思い込む。どこかでその名前が呼ばれれば、彼女だと錯覚する。幻覚と幻聴に苛まれるほど、俺の頭は完全にどうかしてしまったらしい。……一方その頃。二階の診察室の奥にある処置室では、璃々子とその母である蓉子が声を潜めて密談を交わしていた。「……で?今回は上手くいきそうなの?」誰かに聞かれるのを警戒しているのか、蓉子はひどく声を落として尋ねた。璃々子自身も確証は持てず、少し口ごもりながら答える。「……わからないわ。でも、やれるだけのことはやってる」「もっと気合いを入れなさいよ!」蓉子は苛立たしげに娘を急かした。「あいつがミキの小娘と完全に縁を切るための手続きが、もうすぐ終わるんでしょう!?それが完了して正式に他人になる今が、最大のチャンスじゃないの!白彦くんほどの超優良物件、砂浜から砂金を探すより難しいんだからね!」そこまで言うと、蓉子の顔はドス黒い嫉妬で醜く歪んだ。「……それにしても、ミ
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