All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 231 - Chapter 240

373 Chapters

第231話

「延期だと言ってるんだ。つべこべ言わず手配しろ」「……かしこまりました」京介は、詩織よりも先にレストランへ到着していた。彼女が席に着いた時には、テーブルにはすでに料理が並んでいる。どれも薄味であっさりとした、胃に優しそうなメニューばかりだ。詩織は持参したワインボトルを取り出した。じっくりと商談をするつもりだったからだ。「今日は酒はやめよう。代わりにスープなんてどうだ」「わかったわ」京介に制され、彼女は素直に応じた。本音を言えば彼女だって飲みたくはない。ただ、ビジネスの場では酒の手土産が常識になっているせいで、それが染み付いてしまっているだけだ。詩織は水を飲む間も惜しんで、さっそく本題に入ろうとした。「まあ待て、まずはスープだ。ここの『水炊き』は絶品だぞ」京介はまるで店の回し者のように料理を勧め、彼女の取り皿に白濁したスープをよそう。鶏の旨味が凝縮されたスープは滋味深く、一口飲むだけで身体の芯まで温かさが染み渡る。勧められるがままに箸を進めているうちに、気づけばすっかり満腹になっていた。対照的に、京介自身の箸はほとんど動いていない。詩織が満足げに息をつくと、彼はようやく切り出した。「さて、今日は何の話だ?改まって俺を誘うなんて珍しい」詩織は単刀直入に窮状を伝えた。資金が足りない、と。ただし、具体的なプロジェクト名までは明かさなかった。まだ確度も低く、絵に描いた餅になりかねない段階だからだ。それでも京介は、彼女の目をまっすぐに見て頷いた。「わかった。出資しよう」ただし、と彼は続ける。彼が個人的に動かせる金額の上限は、100億円が限界のようだ。詩織はそれで十分だった。衆和銀行内部での彼の立場が、外野が思うほど盤石ではないことは知っている。反体制派の役員たちが常に彼の失脚を虎視眈々と狙っている状況で、これだけの額を用意してくれること自体が奇跡に近い。「ありがとう、先輩」「……」「どうかした?」「いや、久しぶりに『先輩』って呼ばれたなと思って」京介が少しだけ目を細める。「今はもうお互い経営者同士だもの。けじめはつけないと」詩織は公私の線引きを大切にしている。ビジネスパートナーに甘えて迷惑をかけることだけは避けたかった。二人が店を出た直後、入れ違うように一台の車が滑り込んでき
Read more

第232話

ただでさえ宇田川京介という強敵の存在に気を揉んでいるというのに、ここに来て篠宮賢までもが参戦してくるとなると、いよいよ頭が痛い事態だ。「久坂さん、ここちょっと問題が……見てもらえます?」智也は完全に上の空だった。スタッフに何度か名を呼ばれて、ようやくハッとして我に返る。作業を終えると、賢がわざわざ下まで見送りに来てくれた。智也が車を回しに行っている間、詩織は賢と少し立ち話をした。途中で賢の方に電話が入り、彼は執務室へ戻ってしまったため、詩織は一人エントランスに残された。ちょうど退勤ラッシュの時間帯だ。渋滞に巻き込まれているのだろう、智也の車はなかなか戻ってこない。詩織はしばらく手持ち無沙汰に時間を潰すことになった。その時だ。建物の中から志帆と美穂が出てきたのは。スマホに目を落としていた詩織は二人に気づかなかったが、美穂は目ざとく詩織を見つけた。続いて志帆の目にもその姿が映る。脳裏をよぎったのは、京介が詩織のために自分との予定を反故にしたあの一件だ。志帆の表情は急速に冷え込み、胸の底に形容しがたい不快な澱が溜まっていく。美穂も同じだった。譲との仲が進展しなかったのは、すべて詩織が裏で糸を引いていたせいだと信じ込んでいるのだ。いきり立って、今にも詩織に詰め寄ろうと足を踏み出す。だが、それを志帆が腕を引いて制した。「放っておきなさい」「でも……っ」「あの女がいい気になっていられるのも、今のうちだけよ」志帆の声は低く、落ち着き払っていた。以前は確かに遅れを取った。だが、あれは単に詩織の運が良かっただけに過ぎない。この『港湾再開発プロジェクト』さえ成功させれば、立場は逆転する。詩織は一生、地べたから自分を見上げることになるのだ。志帆になだめられ、美穂も少しずつ冷静さを取り戻す。「そうね。お姉ちゃんには最強の味方、柊也さんがついてるんだもん。バックについてる力が違うわ。最後に泣きを見るのはあっちよね!」美穂は勝ち誇ったようにツンと顎を上げた。柊也の名を聞き、志帆の機嫌も持ち直す。「ええ。だから今は、少しの間だけ我慢よ」去り際、美穂はすれ違いざまに、わざと詩織の方へ体を強くぶつけた。不意の衝撃で、詩織の手からスマホが滑り落ちそうになる。慌てて端末を掴み直すが、ぶつかって
Read more

第233話

ようやく智也の車が到着した。駐車場の出口が大混雑で、出るに出られなかったらしい。合流すると、智也は「何か食べて帰ろうか」と誘ってくれた。ちょうど夕食時だ。詩織のお腹も空いていた。「何がいい?」と聞かれ、詩織は少し考え込んでから、ある店の場所を告げた。そこは、なんてことのない古びたラーメン屋だ。かなり久しぶりの訪問になる。かつて『エイジア』がまだ駆け出しだった頃、柊也は向かいの雑居ビルの屋根裏部屋のようなオフィスを借りていた。当時、詩織は彼の秘書であり、たった一人の雑用係でもあったから、この界隈のことは庭のように熟知している。よくこの店へ、柊也の夜食を買いに走ったものだ。残業明けに二人並んでカウンターに座り、湯気の立つラーメンを啜ったことも一度や二度ではない。さっき智也に聞かれたとき、ふと記憶の底からこの場所が浮上し、無意識に足を向けてしまったのだ。通りは昔のままで、何一つ変わっていない。店の脇にある大きな桜の古木も、あの頃と同じように枝を広げ、街灯の光を浴びて静かに佇んでいる。詩織のプロフィール画像は、この桜の下で撮ったものだ。カメラに背を向け、桜の枝越しに滲むオレンジ色の街灯を見上げている写真。未来への希望に満ちていた後ろ姿。シャッターを切ったのは、柊也だった。あの日、彼は聞いた。「何を考えてるの?」と。詩織は答えなかった。彼は何度か聞き返してきたけれど、詩織は「いつか、ふさわしい時が来たら教える」とだけ言って微笑んだ。あれから随分と時が流れたけれど、あの瞬間の想いは、今でも胸の奥に焼き付いている。だが、もうそれを語る意味もなければ、相手もいない。あの想いは永遠に、この胸の内に埋もれたままになるのだろう。景色はあの日のままなのに。どこかよそよそしく、ひどく見知らぬ場所に感じられる。変わってしまったのは、世界の方ではないのかもしれない。店構えが古ぼけているせいか、客の入りはまばらだった。だからこそ、詩織の目は一瞬で捉えてしまったのだ。店内でラーメンを食べている、柊也と志帆の姿を。足が凍りついたように止まり、頭が真っ白になる。まさか柊也が、志帆を連れてここに来るなんて。詩織だけを見ていた智也は、店内の様子には気づいていない。彼女の突然の異変を案じて声
Read more

第234話

翌日。S市に到着した詩織は、さっそく桐島沙羅との面会を果たした。用件を聞いた沙羅の反応は、冷静そのものだった。「江崎さんの実力は誰よりも買ってるわ。『ココロ』に一番乗りで投資したのも、あなたを信頼していたからこそよ」しかし、と沙羅は続ける。「だけど今回の件は少し無茶ね。事業計画書もなしにこの規模の出資を頼まれても、今の段階ではどうにもできないわ」正論だった。手順を飛び越え、あまりにも先走りすぎていた自分を恥じるしかない。「……申し訳ありません。ご指摘の通り、少し気が急いていました。しっかりとした計画書を練り直して出直しますので、その時はまた、お時間をいただけますか」沙羅のオフィスを出ると、同行していた密が肩を落として嘆いた。「詩織さん、どうしましょう……やっぱりこのヤマ、私たちには荷が重すぎますかね?」あまりに巨額の資金不足。アイデアだけで乗り切れる壁ではない。詩織自身も道の険しさは理解していたが、努めて冷静に振る舞った。「ひとまず戻ろう」密がスマホで検索する。「あちゃー、最終便、もう間に合いません」「新幹線は?」「今日は金曜なんで、指定席は全滅です」「なら、明日の朝一にしよう」どうせ週末だ。今夜あわてて戻ったところで、できることなど限られている。それならいっそ、一晩ゆっくり休んで英気を養うほうが建設的だ。翌朝。朝食を済ませて荷物を取りにホテルへ戻ると、沙羅から着信があった。ホテルの前にいるという。なんでも空港方面に用事があるらしく、ついでに送ってくれるそうだ。ホテルには送迎サービスがあるのだが、わざわざ連絡をくれたということは、何か話があるのかもしれない。詩織はありがたく好意に甘えることにした。迎えに来た高級ミニバンの運転席にはドライバー、助手席には男性秘書の姿がある。後部座席に乗り込むと、沙羅の顔色がひどく優れないことに気づいた。「桐島さん、体調でも悪いんですか?」「生理なのよ。いつものことなんだけどね」声にもいつもの張りがない。すかさず前の席から秘書がタンブラーを差し出した。中身は温かいホットドリンクのようだ。それを数口飲んで少し落ち着くと、沙羅はふぅと息をついて微笑んだ。「生理が来るたびに、あなたと初めて会った時のことを思い出すわ。あの時は本当に助けられたもの」「そんな大袈裟
Read more

第235話

「ありがとうございます」褒められて悪い気はしない。「海雲様もそろそろだと思いますよ。ちょっと呼んできますね」リビングで待つこと五分ほど。海雲が杖をつきながら現れた。その傍らには、手に小さな箱を持った松本さんが控えている。詩織の前に立つと、海雲は無言で松本さんに目配せをした。カパッ、と箱が開かれる。そこには、息を呑むほど美しいサファイアのセットジュエリーが収められていた。宝石に詳しくない詩織でも、それが破格の価値を持つ逸品であることは一目で分かった。「海雲様からのプレゼントですって。詩織さんの今日のドレスにぴったりですよ。さ、着けて差し上げます」とんでもない、と詩織は首を横に振った。「いけません、そんな高価なもの!いただけません」「元々、君にやるつもりだったんだ」海雲が静かに口を開く。「亡き家内のコレクションでな。長年金庫の肥やしにしておくのも忍びない。誰かが身に着けてこそ、石も再び輝くというものだ」それでも詩織は躊躇した。「人様からむやみに高価な贈り物を受け取ってはいけない」――それは、母・初恵からの厳命でもあったからだ。頑なに拒む詩織を見て、海雲の表情が曇る。「受け取らんと言うなら、もう二度と顔を見せるな。今夜のパーティーもキャンセルだ」声は氷のように冷たい。「おじ様……」「おじ様とも呼ぶな」参った。完全にへそを曲げている。見かねた松本さんが、こっそりと詩織の袖を引いた。「ほら、素直に受け取っておきなさい」ここで揉めて時間を無駄にすれば、パーティーに遅刻してしまう。それはそれで申し訳ない。詩織は観念した。「……分かりました。お預かりします」「そうこなくっちゃ!ほら、じっとしててね」松本さんは嬉々として、ネックレスとイヤリングを詩織に着け始めた。海雲の表情も、ようやく和らいだようだ。カシミール産の深いブルーは、黒のドレスに見事に映え、詩織の肌の白さを際立たせた。「うん、最高!とってもお似合いよ」松本さんが手を叩いて喜ぶと、海雲も満足げに頷いた。「悪くない」「ご機嫌も直ったみたいですし、そろそろ行きましょうか?」「ああ、行くか」海雲の声は、いつになく弾んでいた。会場に着くと、すでに多くのゲストが集まっていた。海雲が姿を現すや否や、会場の空気が一変し、挨拶を求
Read more

第236話

普段はこうした色恋沙汰には我関せずの海雲が、珍しく口を挟んだ。「その子は、息子の彼女などではない」一瞬、場が凍りつく。「えっと……、あちらにいらっしゃいますよ。賀来社長のお連れ様は」相手は慌てて釈明し、別の方角を指差した。詩織が視線を追うと、そこには取り巻きに囲まれた志帆の姿があった。奇しくも志帆も、詩織と同じ黒のドレスを纏っている。だが二人の雰囲気は対照的だった。志帆は巻き髪を華やかに散らし、メイクも鮮やか。全身にフルセットのダイヤモンドジュエリーを輝かせ、シャンデリアの光を独占していた。一目で高級品と分かる代物だ。対する詩織は、額を全て出した潔いアップスタイル。フェイスラインに自信がなければ惨事になりかねない髪型だが、彼女の完璧な骨格にはこれ以上なく映える。その凛とした美貌に、カシミール産の極上サファイアが冷ややかな輝きを添え、会場の空気を一瞬にして支配していた。それまで、主役の座は志帆のものだった。『エイジア』総帥の恋人と知れ渡るや、誰もが彼女にお世辞を言い、媚びへつらった。その優越感は筆舌に尽くし難いものだったろう。この日のために『Belle Fleur』で最高級のドレスを選び、至高の宝石を身につけ、完璧に仕上げてきたのだから。けれど、その全てが粉々に砕かれた。志帆が全身に散りばめたダイヤの総額ですら、詩織の首元で輝くサファイア一粒の価値にも及ばない。プライドが邪魔をしなければ、今すぐこの忌々しい宝石をむしり取って投げ捨てたい気分だった。取り巻きたちの視線は、露骨に詩織へと吸い寄せられていく。「すごい美人ですね、あの方。どこのお嬢様だ?」「見ました?あのサファイア。あれほどのクラスは一粒でも家が建ちますよ。それをセットで……間違いなく美術館クラスの逸品だ。近くで拝んでこないと」「私も行きます!」潮が引くように人が去り、志帆の周りには閑古鳥が鳴く始末。彼女の表情は急速に冷え込んでいった。美穂が噛み付くように言う。「なんなのあいつ、どこにでも湧いて出て!お姉ちゃん、このパーティーは招待状がないと入れない超ハイレベルなやつだって言ってたじゃん。どうやって入り込んだのよ?」志帆の説明に嘘はない。柊也のコネがなければ、志帆自身もこの場にはいられなかったはずだ。
Read more

第237話

「分かりました。何かあれば呼んでください」帰国早々スタイリングに奔走し、海雲を迎えに行っていたため、夕食を摂る暇もなかった。空腹を感じていた詩織は、軽食を取り分け、人目の少ないスペースへ陣取った。さきほど海雲の傍らで挨拶を交わした際、一人の人物に目星をつけ、連絡先を交換しておいた。『徳建』の板木社長だ。もし港湾再開発の入札に成功すれば、いずれ『徳建』と組む可能性が高い。転ばぬ先の杖として、今のうちにパイプを作っておきたかったのだ。さすが一流のパーティーだけあって、フィンガーフードの味も格別だ。いくつか摘んで小腹を満たし、そろそろ海雲のもとへ戻ろうと腰を浮かせたとき、人の気配が近づいてきた。自分の名前が聞こえなければ、そのまま立ち去っていたことだろう。だが運悪く、陰口が耳に入ってしまった。志帆は新たな人脈を作ろうと意気込んでいたものの、どこへ行っても話題は詩織のことばかり。すっかり興ざめしてしまい、静かな場所へ逃げてきたのだ。隣には、慰め役の美穂がいる。「お姉ちゃん、気にすることないって。あんなふしだらな女にペース乱されるなんて馬鹿らしいよ。言った通り、江崎詩織がいい気になってられるのも今のうちなんだから!」美穂のマシンガントークは止まらない。「それにさ、お姉ちゃんには柊也さんがついてるじゃん!ドレスもジュエリーも選び放題だし、ブラックカードだって使い放題!あんな高額決済したの、生まれて初めてだよ。もう最高!」美穂の慰めが効いたのか、志帆の機嫌は少し持ち直したようだった。「今日買ったジュエリー、結構な点数になったし、気に入ったものがあれば幾つかあげるわよ」「えっ、マジで!?遠慮なくもらう!どうせまた柊也さんが買ってくれるもんね」美穂は有頂天ではしゃぎ回る。「だからお姉ちゃんも笑ってよ。今日はこんなに綺麗なんだから、迎えに来た柊也さん、絶対メロメロになるって!」柊也の話が出ると、志帆の表情はさらに明るくなり、口元に微かな笑みが浮かんだ。「……柊也くん、そろそろ到着する頃かしら」言い終わるか否か、タイミングよくスマホが鳴り響く。画面を覗き込んだ美穂が冷やかすように言った。「噂をすればなんとやら!さすが愛されてるねぇ、逐一報告してくるなんて。邪魔者は消えるから、ごゆっくり愛を語らってくださいな」
Read more

第238話

悠然と去っていく詩織の背中を睨みながら、美穂は悔し泣きした。「お姉ちゃん!あいつ、見てよあの態度!」「大丈夫、あとできっちり落とし前はつけるから」志帆も怒りで腸が煮えくり返っていたが、美穂よりは分別がある。ここが復讐の場ではないと分かっているからこそ、この屈辱を飲み込むしかなかった。従姉の確約を得て、美穂はようやく溜飲を下げたようだ。詩織が戻ると、海雲は彼女の表情に微かな笑みを見て取った。機嫌が良さそうな様子に、彼の顔も自然と綻ぶ。「酒は飲んでないだろうな?」「ええ、一滴も」かつては、こうした場での飲酒は避けられない業務だった。だが今日は海雲の同伴者だ。おいそれと酒を勧める命知らずはいない。それに帰りの運転も控えている。今夜は完全にシラフだった。宴もたけなわを過ぎ、会場からはちらほらとゲストが退出し始めている。海雲が主催者に別れの挨拶を告げようと立ち上がった、その時だ。柊也が現れた。フォーマルではなく、平服に近いスーツ姿だ。急遽駆けつけたのだろう。待ち人が来るなり、志帆の表情が一気に華やぐ。最強のバックの登場に、美穂までもが虎の威を借る狐のように勢いづき、甲斐甲斐しく二人の世話を焼き始めた。柊也の到着で、志帆には再び、いや先ほど以上の注目が集まる。人々はこぞって志帆に話しかけ、彼女を取り巻いた。完全復活した優越感に浸りながら、志帆は傲慢な視線を詩織へと投げる。だが詩織はこちらを見てもいない。面白くない志帆は、柊也に甘えるように囁いた。「柊也くん、おじ様もいらしてるわ。ご挨拶に行きましょう」今回は柊也も拒まなかった。志帆は得意満面で彼の腕を取る。「父さん」近づいた柊也は短く父を呼んだが、その視線は吸い寄せられるように詩織の上を彷徨い、しばらく離れなかった。その視線の意味を察知し、志帆の背筋が凍る。幸い、彼はすぐに目を逸らしてくれた。海雲は息子と目を合わせようともせず、ただ一言投げかける。「今夜は本邸に戻るのか」一瞬の間があり、柊也が答えた。「いえ。出張先から直行したので、着替えもしていませんし」やはり空港からここへ駆けつけたのか。宴席で肩身の狭い思いをしている恋人を守るために、わざわざ飛んできたというわけだ。帰らないという返答を聞いても海雲は表情を変えず、詩織を促して出
Read more

第239話

一生かかっても埋められない劣等感を抱いているくせに、涼しい顔を装っているだけなんじゃないの?もはや詩織など眼中にない。今、志帆が気にするのは海雲の反応だけだ。彼がこれまで自分を冷遇していたのは、きっと自分の経歴を知らなかったからに違いない。柊也の金目当てで群がる有象無象の女たちと一緒くたにしていたのだろう。けれど今、局長が全てを代弁してくれた。これだけの才女だと分かれば、さすがの海雲も態度を改めるはずだ。「港の再開発は、局長が担当でしたか」海雲の関心は、まるで志帆に向いていなかった。「ええ、ずっと私が管轄しております。『エイジア』さんが落札する公算が高いですし、柏木さんの提案もなかなかのものでしてね」局長が太鼓判を押しても、海雲の反応は冷ややかだ。「そうですか。では、私はこれで」褒めるどころか、視線すら合わせようとしない。背を向ける海雲に、志帆は焦って声を上げた。「おじ様……」この距離で聞こえないはずがない。それでも海雲は足を止めず、詩織に支えられながら遠ざかっていく。徹頭徹尾、無視を貫かれたのだ。志帆はすがるような目で柊也を見上げた。何か言ってほしかった。けれど彼もまた、無言で彼女を促し、駐車場へと歩き出すだけだった。駐車場に着くと、すでに詩織の車がエンジンをかけ、発車するところだった。美穂は空気を読んでタクシーで帰ったようだ。柊也の車と詩織の車は、ほぼ同時刻に会場を後にした。こんな時間まで一緒にいるってことは……詩織はバックミラー越しに後続車を見ながらぼんやりと思う。わざわざ迎えに来て、二人きりで帰るのだ。十中八九、同棲しているか、今夜はそのまま泊まるつもりなのだろう。詩織が海雲を本邸に送り届けた頃、松本さんはまだ起きていた。車の音を聞いて飛んできた彼女は、海雲一人と見るや、心配そうに尋ねた。「柊也様は?一緒じゃないんですか」「ああ」海雲は不機嫌そうに杖をつき、さっさと奥へ引っ込んでしまった。普段、柊也が本邸に顔を出すことは滅多にない。それなのに、なぜ二人は揃って彼の不在を気にかけるのか。疑問に思った詩織は、スマホのカレンダーを確認してハッとした。今日は、亡くなった柊也の母の誕生日だ。秘書時代は、こうした記念日を徹底的に管理していたものだ。だが退職時に全て
Read more

第240話

「松岡部長?」詩織は驚きのあまり、思わず声を上げた。潤もソファから立ち上がり、照れくさそうに頭をかく。「もう辞めましたよ。だからその肩書きで呼ぶのは勘弁してください」その言葉に、詩織はしばし言葉を失った。まさか彼が『エイジア』を辞めるなど、夢にも思わなかったからだ。松岡潤といえば『エイジア』きっての古参であり、功労者だ。その慧眼と実力は誰もが認めるところであり、だからこそ投資第二部のトップを任されていたはずなのに。二、三言と言葉を交わして分かったのだが、なんと彼は自分の売り込みに来たらしい。詩織は光栄に思いきや、同時に疑念も拭えなかった。「あなたの経歴と条件なら、もっと大手でも引く手あまたでしょう?何なら独立だってできる能力があるはず。どうしてまた、うちのような会社に?」「腹の虫が収まらなくてね」潤は包み隠さず、正直な胸の内をさらけ出した。「君も噂で聞いているだろう?社長が……賀来柊也が、港湾再開発プロジェクトの指揮権を柏木へ渡した件だ」「ええ、一応は」詩織は同情の色を滲ませて頷く。潤は悔しげに語気を強めた。「あの案件に俺がどれだけ心血を注いできたか、君なら分かるはずだ。それを社長は、これといった理由も告げずに俺から取り上げた。こんな仕打ち、到底納得できるわけがない。だから君のところへ来たんだ」彼は真っ直ぐに詩織を見据える。「君がこのプロジェクトの入札を狙っていると、知人から聞いてね。どうだ、俺を拾ってくれるか」詩織は、その知人とやらが誰なのかという野暮な詮索はしなかった。投資銀行業界に長く身を置く彼なら、独自の情報網やコネクションなどいくらでもある。内情を知っていても不思議ではない。何より、松岡潤という男は得難い即戦力だ。詩織に断る理由などどこにもなかった。彼女は席を立つと、彼に向かって手を差し出した。「拾うだなんてとんでもない。これは『共闘』よ。ようこそ、華栄キャピタルへ」潤の加入は、すなわち『華栄』が港湾プロジェクトへ正式に参戦するという、事実上の宣戦布告だった。その情報は、すぐさま志帆の耳にも入った。彼女はそれを聞くなり、鼻で笑って一蹴する。「フン、身の程知らずもいいところね」決して詩織の実力を認めていないわけではない。ただ、あまりに無謀だと言いたいのだ。AI事業の『ココロ』を少
Read more
PREV
1
...
2223242526
...
38
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status