All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 271 - Chapter 280

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第271話

「……事故った」志帆と太一は慌てて店を飛び出した。本来なら美穂も同行すべき場面だが、彼女の頭の中は今、詩織への復讐計画でいっぱいだ。会計を済ませてから追いかけるという適当な理由をでっち上げ、二人を先に行かせた。太一が車を回しに行っている間、志帆はエントランスで待っていた。そこで偶然、見覚えのある人物を目撃する。篠宮賢だ。彼にしては珍しく早足で、服装もどこかラフだった。いつもなら一分の隙もなく整えられている髪も、心なしか乱れているように見える。志帆は声をかけようとしたが、自分の状況を思い出して口をつぐんだ。賢は脇目も振らずに歩き去り、あっという間に視界から消えてしまった。ちょうど太一の車が到着し、志帆はすぐに乗り込むと、事故現場へと急行させた。二人が現場に到着した時には、柊也はすでに救急車に乗せられていた。愛車のシルバーのマイバッハは歩道の石像に激突し、横転して見るも無残な姿を晒している。フロント部分はひどくひしゃげていた。周囲では警察官が交通整理に追われ、騒然としている。志帆と太一は、救急車の後を追って病院へ向かった。病院で医師の説明を聞くと、怪我の状態は思ったよりも深刻だった。額の眉骨の上あたりをガラス片で深く切り裂いており、縫合が必要だという。その他にも全身に打撲や擦り傷を負っている。それでも命に別状はないと聞き、志帆は心の底から安堵のため息をついた。柊也の処置に付き添っていると、美穂から状況確認の電話が入った。志帆は手短に状況を伝えた。近くに人がいるため、あえて詩織の名前は出さず、暗黙の了解で会話を進める。美穂もその意図を察し、電話を切った直後にメッセージを送ってきた。【江崎詩織は、久坂智也に連れて行かれたわ】志帆はその文字を見て動きを止めた。【どうして久坂さんがそこに?】【こっちが聞きたいくらいよ!】美穂の文面からは苛立ちが滲み出ていた。完璧な計画だったはずなのに、土壇場で邪魔が入ってしまったのだ。わざわざ外部から男を調達してまで、詩織を「男遊びの激しい乱れた女」に仕立て上げようとしたのに。柊也や周囲の人間たちに幻滅させ、彼女を社会的に抹殺する絶好のチャンスだった。それなのに、突然現れた久坂智也のせいで、すべてが水の泡だ。これまでの苦労
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第272話

翌日の昼、ようやく詩織は目を覚ました。まだ意識が朦朧とする中、部屋の外から微かな物音が聞こえてくる。誰かがキッチンで作業しているようだ。様子を見ようとベッドから降り、立ち上がろうとしたその瞬間だった。太腿の付け根に鋭い痛みが走り、彼女はその場に崩れ落ちてしまった。腰も嘘のように重く、だるい……まるで全身をダンプカーにでも轢かれたかのように、体の節々が悲鳴を上げている。頭痛も酷く、眠気もまだ抜けきらない。しばらく呼吸を整え、ようやく幾分か意識がはっきりしてきたところで、彼女はふらつく腰を支えながら寝室を出た。キッチンでは小林密が誰かと通話しながら鍋を見張っていた。「あ、お味噌はどれくらい入れれば……大さじ一杯ですね、はあい」「うん、しじみの口はもう開いてます」「ここから弱火にするんですね。わかりました」背後の気配に気づいた密が振り返り、詩織の姿を認めると電話口に告げた。「あ、詩織さんが起きていらしたから一度切りますね。ありがとうございます」通話を終えた密は、明るい声で説明してくれた。「母に酔い覚ましスープの作り方を聞いてたんです。もうすぐできますから、少し待っててくださいね」詩織は全身の力が抜けたまま、近くのダイニングチェアに腰を下ろした。やがて密が湯気の立つ椀を運んでくる。「熱いので気をつけてください。それにしても、夕べはどれだけ飲まれたんですか?あんなに酔うなんて珍しい」密が驚くのも無理はない。彼女が詩織の秘書になって以来、詩織が泥酔した姿など見たことがなかったからだ。胃出血で倒れるほど飲まされた時でさえ、彼女の意識ははっきりしていた。詩織はこめかみを揉みほぐしながら、重い溜息をついた。「それがね……そんなに量は飲んでないはずなのに、記憶が飛んでるの」こんな失態は初めてだった。駆け出しの頃、接待で吐くほど飲まされたことはあったが、それでも記憶をなくしたことは一度もない。覚えているのは、個室を出て密に迎えを頼もうとしたところまで……その後の記憶が、ぷつりと途切れている。「だめだわ、頭が割れそう」思い出そうとすればするほど、頭痛が激しさを増してくる。「とにかく、まずはこのスープを飲んでください。少しは楽になるはずですから。熱いので冷ましながら飲んでくださいね」酔い覚
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第273話

相手はあのラウンジのキャストだろうか。確信は持てないが、体つきは引き締まっていたような気がする。それに、テクニックも相当なものだった。それは今日の全身の筋肉痛が雄弁に物語っている。もう少し手加減してくれてもよかったのに……身支度を終えた詩織は、沙羅に電話をかけた。コール音が長く続いた後、ようやく出たのは例の年下の彼だった。沙羅はまだ夢の中らしい。「夕べは張り切りすぎちゃって」と笑い混じりに言われた。どうやらあちらも、激しい一夜だったようだ。詩織は彼に、沙羅が起きたら連絡をくれるよう伝言を頼んだ。沙羅から折り返しの電話があったのは、それから二時間後のことだった。声はひどく枯れている。詩織は昨晩の状況について尋ねてみた。しかし沙羅は、「覚えてるわけないじゃない。こっちは自分のことで精一杯だったし、あなたがいつ帰ったのかすら記憶にないわよ」と言うばかりだ。これで詩織の謎は深まるばかりだった。もしかして、自分でキャストを呼んだのだろうか。「ねえ詩織さん、昨日の酒、なんか変じゃなかった?変な混ぜ物でもされてたんじゃないかしら。昔あったのよ、売上を稼ぎたい店側がこっそり客の酒に薬を入れて、強引に店で遊ばせようとする手口が」「しかもああいうのって証拠が残らないから、泣き寝入りするしかないのよね」詩織は絶句した。「……」どうやら二人して、まんまと店のカモにされたようだ。あんな店、二度と行くものか。ブラックリスト入り決定だ。詩織はネットで薬を取り寄せた。相手が避妊していたかどうかの記憶も曖昧で、確信が持てなかったからだ。医師からは妊娠しにくい体質だと言われているが、万が一ということもある。彼女は念のため、アフターピルを服用することにした。詩織が会社に顔を出したのは、午後になってからだった。オフィスに入るや否や、松岡潤が駆け寄ってきた。天宮グループの神宮寺社長とのアポイントメントが取れたという。再度のビジネスチャンスだ。天宮グループの主力事業は保険であり、詩織たちが開発したAI「ココロ」を活用すれば、顧客サービスの質を劇的に向上させられるはずだ。何より最近、官公庁のホットライン向けに同システムを導入したばかりで、その成功事例があれば説得力も十分にある。相手が神宮寺悠人であれ、ビジネス
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第274話

翌日、出社して間もなく、詩織のスマホに高遠誠から着信があった。時間はあるか、食事でもどうかという誘いだ。向こうの意図は察しがついたため、詩織はその誘いに乗ることにした。彼女は密に声をかけ、午後のスケジュールを少し後ろ倒しにするよう指示を出す。すると密は、心配そうに食い下がってきた。「お酒、入る席ですか?お酒が出るなら私もついていきます」「ただの食事よ。お酒飲むわけじゃないのに、ついてきてどうするの」「お酒の盾になります!これからの接待、全部お供させてください!片時も離れませんから!ゆうべみたいなこと、二度と起こさせません」必死な形相の密に、詩織は思わず吹き出してしまった。「ふふ、わかったわ。これからの飲み会は全部あなたが担当ね。でも、今日は本当にご飯だけだからお留守番してて」地下駐車場へ降りると、以前、役所の前ですれ違ったあの中年男性の姿があった。誰かを待っているようだ。長昭も詩織に気づき、一瞬驚いたような顔を見せた。だが、わずか一秒の躊躇の後、意を決したように彼女の方へと歩み寄ってくる。詩織は男にそれ以上の関心を示さず、視線を外すとまっすぐに自分の車へと向かった。長昭が口を開き、まさに声をかけようとした――その時だった。向こうから、三上陽介が志帆をエスコートして降りてきたのだ。志帆は迎えに来ていた長昭を見つけるなり、ぱっと顔を輝かせて声を上げた。「お父さん!いつ着いたの?もしかして随分待たせちゃった?」長昭は足を止めざるを得なかった。志帆の方を振り返ったその表情は、先ほどまでの緊張が嘘のように、慈愛に満ちた父親の顔そのものだ。「今来たところだよ。仕事は終わったかい?」「うん」志帆はそのまま、送ってくれた陽介を長昭に紹介し始めた。エンジンをかけようとしていた詩織の手が、志帆の「お父さん」という声を拾ってピタリと止まる。微かに眉間に皺が寄った。生理的に受け付けない人間というのは、遺伝子が危険信号を出して「選択」を助けてくれているという説がある。どうやら、その本能は正しかったようだ。詩織はアクセルを踏み込み、足早に駐車場を後にした。誠とはしばらく会っていなかったため、再会した時、詩織は危うく彼を見過ごすところだった。それほどまでに、彼の変貌ぶりは激しかったのだ。以前の面影がな
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第275話

「社長はまだ年休の消化中でしてね。本来ならその間の指揮は柏木ディレクターが執るはずだったんですが、ほら、本社の大将が事故ったでしょう。彼女、つきっきりで病院だから、結局こっちじゃ私がてんてこ舞いですよ」相変わらず口が軽い。聞いてもいない内情までペラペラと教えてくれる。だが、柊也の事故の件には興味もわかず、詩織は必要な資料だけ受け取ると早々にその場を後にした。智也のオフィスに到着し、仕事の打ち合わせを一通り終えたところで、詩織はずっと気にかかっていたあの夜のことを切り出した。密の話では、あの日、ラウンジまで迎えに来て家まで送ってくれたのは智也だという。それなら、彼が何か事情を知っているかもしれない。ところが、智也はきょとんとした顔で首を傾げた。「え?店のスタッフから電話があったんだよ。『江崎様から、迎えに来てほしいとの伝言です』って」そんなことがあっただろうか。完全に記憶が飛んでいて、まるで覚えがない。だが、今となっては真相などどうでもいいことのように思えた。一度きりの過ち、あるいは憂さ晴らしだったと割り切ろう。これからはもっと慎重に行動すればいいだけの話だ。……翌朝早く、詩織のもとに須藤宏明から「リードテック」創立記念パーティーの招待状が届いた。年に一度、リードテックが全提携先を招いて開催する盛大な宴だ。今年はAIプロジェクト『ココロ』と、詩織の投資会社「華栄」も招待枠に入っている。当然、大手パートナーである「エイジア」も招待客リストに名を連ねているはずだ。この業界にいる限り、顔を合わせずに済ますことは不可能ということだ。詩織は華栄の代表として恥じない装いをすべく、早めに『Belle Fleur』のアトリエへ向かい、ドレスを選ぶことにした。智也も誘って現地集合にしたのだが、二人はほぼ同時にアトリエの前に到着した。こういう場に慣れていない智也は、あからさまに緊張している。「大丈夫よ。私が似合うのを選んであげるから」優しく声をかける詩織には自信があった。そう、かつて柊也のために数え切れないほどの礼服を選んできた、あの経験があるのだから。柊也が店に足を踏み入れた時、詩織はちょうど智也の身なりを整えているところだった。「こっちの色のほうが、あなたには似合うと思うわ」詩織は赤味
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第276話

一瞬、幻聴かと思った。詩織は怪訝な顔で柊也を見つめる。けれど、彼は悪びれる様子もなく、聞き間違いようのない言葉を繰り返した。「詩織、俺のネクタイも選んでくれ」詩織の口元から、ふっと乾いた笑いが漏れる。「どうしたの?賀来社長ともあろう方が、愛しの恋人には見捨てられちゃったわけ?」柊也はその皮肉が耳に入っていないかのように、棚からダークブルーのネクタイを抜き取って見せた。「これはどうだ。前にお前が選んでくれたの、こういうのが多かったろ」詩織の視線が、彼の手にあるネクタイから、額に貼られたガーゼへと動く。二秒ほどの沈黙の後、彼女は冷ややかに言い放った。「どうやら事故の衝撃で頭がおかしくなったみたいね。手遅れになる前に、病院で頭の検査でも受けてきたら?」ちょうどそこで、着替えを終えた智也が出てきた。詩織はもう、柊也に一瞥もくれなかった。「そろそろご飯時だね。食べて帰ろうか」智也が時間を確認して提案する。「この間、食欲がないから鍋が食べたいって言ってただろ?」自分がそんなことを言った記憶はなかったが、智也は些細な呟きすら覚えていたらしい。しかし、詩織はその提案を却下した。「明和広場にある『水炊き』のお店に行きましょう。あなた、ここ数日胃の調子が悪いって言ってたじゃない。今日はお腹に優しいものにしたほうがいいわ」「私は、何でもいいよ」智也にとって、いつだって判断基準は詩織だ。彼女が白と言えば黒いものも白になるし、彼女の選ぶ店ならそこが一番の名店になる。店員が包んだ商品を持ってくると、智也は自然な動作で詩織の分まで受け取り、二人は肩を並べて店を出て行った。その仲睦まじい後ろ姿を見送りながら、店員がうっとりと呟く。「本当にお似合いのカップルですねえ……」柊也は手に持っていたダークブルーのネクタイを、乱暴に棚へ投げ返した。能面のように張り付いていた無表情に、ピキリと亀裂が入る。音に気づいた店員が、慌てて駆け寄ってきた。「賀来様、何かお探ししましょうか」柊也は投げ出したネクタイをじっと見つめたまま、長い沈黙のあと、不意に店員へ問いかけた。「……あいつと俺、何が違うんだ?」温かい鶏のスープが染み渡り、智也の胃痛はずいぶん和らいだようだった。「胃が治ったら、今度こそ君の行きたい鍋に行こう」「ええ
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第277話

もちろん、以前詩織が身につけていたカシミール産の極上サファイアには遠く及ばない。だが、志帆は踏んでいた。詩織があのネックレスを二度とつけてくることはないだろう、と。案の定、読みは当たった。今日の詩織ときたら、ドレスすら着ていない。地味で平凡そのものだ。あの日見せつけた天文学的価値のサファイアなんて、どうせ見栄を張るためにどこかからレンタルしてきた一点物に違いない。期限が切れれば元通り、馬脚を現すというわけだ。多少の小細工はできるのかもしれない。何と言っても長年、柊也のそばにいた女だ。彼の経営手腕の真似事くらいは覚えたのだろう。『ココロ』や港湾再開発のプロジェクトを形にしたことだけは認めてやる。けれど、それが何だと言うの?投資銀行の世界で物を言うのは、結局のところ人脈とリソースだ。リソースなら、自分には柊也という絶対的な後ろ盾があり、その力は無尽蔵だ。人脈に関しても、父・長昭の威光を使えば、どんな扉も開く。だからこそ自分は、あの「ユニコン・バンク」への入行だって成功させたのだから。国際的な投資銀行や金融業界が、政府高官の子女を喜んで雇うのは公然の秘密だ。彼らは親の太いパイプと、生まれ持ったバックグラウンドという最強の武器を持っているのだから。そう、所詮は格が違う。江崎詩織なんて、私のライバルにすらなり得ない雑魚よ。志帆は詩織から興味を失ったように視線を外し、意識の外へ追いやった。あんな女の動向など、気にかける価値もないといった風情だ。豪奢な装いに身を包んだ彼女のもとには、すぐに挨拶を求める客が集まってくる。もっとも、その大半は女性客だったが。それを好機と見たのか、柊也は適当な理由をつけてその場を離れた。もちろん外交などではない。詩織の姿がよく見える位置を確保するためだ。会場はごった返している。時折、視線を泳がせるふりをしていれば、誰かに怪しまれることもないだろう。詩織の背後には、まるで影のように智也が付き従っていた。人混みで誰かがぶつかりそうになれば、さりげなく体を張って防ぐ。彼女のグラスが空になれば、すかさず新しいものと取り替える。隙を見ては一口サイズの軽食を差し出し、彼女の胃袋を気遣う。その甲斐甲斐しい智也の姿と、彼に守られながら戦う詩織を、柊也はじっと見つめていた
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第278話

京介は、手に持ったグラスを軽く掲げてみせた。詩織もまた、手元のサンザシジュースを小さく揺らし、無言の礼を返す。「京介兄貴、誰に乾杯してんの?」太一が興味津々で首を伸ばした。今度はしっかりと詩織の姿を捉えたらしく、途端に表情が渋くなる。「げ、なんでアイツいんの」「『ココロ』はリードテックのパートナーだ。ここにいるのが筋ってもんだろ」譲があっさりと答える。『ココロ』の名が出ると、太一はバツが悪そうに口をつぐんだ。なにせ、彼はそのプロジェクトで一度手痛い失敗を犯している。彼の父親がいま病院送りになっているのも、その件と無関係ではないのだから。「挨拶してくる」京介は短く言い残すと、迷わず詩織の方へと歩き出した。「あ、俺も俺も」譲も小走りで後に続く。取り残された太一は、心細げに柊也を振り返った。「柊也は行かねーの?」「俺が行ってどうする」「だよね!じゃあ俺ら、志帆ちゃんとこ行こ。まだ挨拶してないし」「ああ」柊也は暗い瞳を伏せ、短く肯定した。詩織のもとへ辿り着いた京介は、開口一番、静かに告げた。「久しぶりだな」確かに、しばらく会っていなかった。「衆和銀行」と海外資本との交渉はいよいよ佳境に入っているはずだ。彼もおそらく、修羅場を潜り抜けてきたのだろう。とはいえ、それはあくまで他社の内部事情だ。深く立ち入るわけにもいかず、詩織は当たり障りのない言葉を選んだ。「順調?」「いや、難航してる」京介は隠すことなく、さらりと答えた。「まあ、何とか凌いでるよ」「それならよかった」実のところ、この程度のパーティーなら、今の多忙な京介が出席する必要などどこにもなかった。それでも彼がわざわざ足を運んだのは、ただ一目、彼女に会うためだ。そして今、こうして言葉を交わせただけで、彼にとっては強行スケジュールの価値があった。二人が言葉を交わして間もなく、悠人が会場に現れた。彼はまず志帆のもとへ挨拶に行くと、その足でこちらへ近づいてくる。詩織は軽く眉を上げた。何か言いに来たのかと思ったが、悠人は詩織など眼中にないといった態度で素通りし、隣にいた京介に話しかけた。「先輩、ご無沙汰してます」「おう。いつ帰国したんだ」「少し前です」京介は少し意外そうに首を傾げた。「予定より早く切り上げてきたのか
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第279話

柊也は折れた吸い殻を無造作に灰皿へ放ると、新しい一本を取り出して火をつけた。「えっ、まだ吸うの?お前、いつからそんなヘビースモーカーになったんだよ」太一が不思議そうに首をひねる。それも無理はない。以前の柊也は、煙草など口にしなかったのだから。ここ半年で、酒の量は一気に増え、喫煙の習慣までついた。明らかに様子がおかしい。長年想い続けていた「忘れられない人」とようやく結ばれたというのに、人生の春を謳歌しているようにはまるで見えないのは何故なのだろう。柊也は何も説明せず、ただ鬱屈したものを吐き出すように紫煙をくゆらせ続けた。そうでもしなければ解消できない何かが、胸の内で渦巻いているようだった。一方、その頃。志帆のもとへ戻った悠人は、唐突な質問を受けた。「悠人くん、江崎詩織って知ってる?」「誰?」「ほら、京介の隣にいる人」悠人はちらりと一瞥をくれただけで、すぐに興味なさげに視線を戻した。「いや、知らないな」「彼女、あなたの『天宮グループ』と提携したがってるらしいわよ」志帆はわざとらしい口調で話題を振った。悠人は少し考え込み、思い当たったように頷く。「ああ、『ココロ』の話か。確かにそんなアプローチは来てたな」その反応を見る限り、悠人は『ココロ』の代表が詩織だとは知らないようだ。志帆はここぞとばかりに、無念さと諦めを滲ませた溜息をついてみせる。「あれ、本当は私のプロジェクトだったの。彼女に横取りされちゃって……」「なんだって?」悠人の眉間に一瞬で深い皺が刻まれた。「『ココロ』は有望な案件だ。将来性もかなり高い」「だからこそ、悔しくてね」志帆の言葉に、悠人の中にあった詩織への嫌悪感が増幅していく。「提携しなくて正解だったよ。そんな卑しい人間、天宮のパートナーに相応しくない」「でも、私のためにビジネスチャンスを棒に振ることはないわよ。あなたも言った通り、あのプロジェクト自体は優秀なんだから。組めばあなたのグループ内での地位も盤石になるはず」志帆は一転して、姉のように慈愛に満ちた声色で彼を諭し始めた。「私なら大丈夫、負けは負けとして受け入れるわ。プロジェクトを奪われたこともね。要は、実力で見返してやればいいのよ。小手先の手段なんてこの業界じゃ通用しないってことを、次の仕事で証明してあげるだけ」元々
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第280話

屈辱に歪む志帆の表情は、見るに堪えないものだった。その時、横から悠人が割って入った。「志帆先輩は、極めて優秀な投資家でもあります。WTビジネススクールの金融学博士号もお持ちだ」あからさまな助け舟だ。響太朗は驚いたように眉を上げると、すぐさま非礼を詫び、改めて志帆に手を差し出した。「これは失敬。私の不見識でした。どうかお許しいただきたい」すかさず宏明もフォローを入れる。「いやあ、柏木さんがあまりにお綺麗なもので。美貌が才知を隠してしまったんでしょう」ようやく名誉を回復し、志帆は自信を取り戻したようだった。彼女は悠人に感謝の視線を送ると、気を取り直して響太朗の手を握り返した。「いいえ、お気になさらないでください」響太朗は先ほどの失礼を詫びるつもりか、志帆との会話をもう少し掘り下げた。「WTビジネススクールといえば、世界的な名門ですね。才色兼備とはまさにこのことだ。現在はどちらにお勤めで?」「『エイジア』です」「ほう、それは素晴らしい。名門企業ですね」響太朗は感心したように頷くと、柊也の人を見る目を賞賛した。このような優秀な人材を抱えているのなら、いずれ父親を超える偉業を成し遂げるだろう、と。完全にペースを取り戻した志帆は、ここぞとばかりに響太朗へ話を繋げ、自身の輝かしいキャリアを語り始めた。かつて「ユニコン・バンク」に在籍していたと知ると、響太朗はさらに眉を上げて驚いて見せた。だが、その表情は、彼女が当時の実績を得意げに披露し始めた途端、すっと温度を失った。「なるほど。『永成実業』の港湾売却案件……あれを主導されたのは柏木さんでしたか」響太朗の声に含まれた冷ややかさに気づかず、志帆は誇らしげに胸を張る。「ええ。取引総額は二百五十億ドルに達しました。私のキャリアの中でも最大のディールです」詩織は港湾再開発という巨額プロジェクトを成功させて鼻高々かもしれないが、自分はとっくにその倍近い規模の案件を捌いてきたのだ。あの子の到達点なんて、私にとってはスタートラインに過ぎない。ところが、響太朗はただ淡々と頷いただけで、すぐに興味を失ったように詩織の方へ向き直り、『ココロ』の話を始めてしまった。しかも、その表情はさきほどとは打って変わり、明らかに生き生きと楽しそうだ。志帆は、この露骨な態度の変化が理解で
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