All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 281 - Chapter 290

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第281話

詩織を見送った後、宏明が響太朗に尋ねた。「高坂さん、ずいぶんと江崎さんをお気に入りのようで」「ああ。知性と慧眼を兼ね備えている。得難い才能だよ。ところで、彼女の前職は?」「『エイジア』ですよ。もっとも、賀来社長の秘書止まりでしたけどね。飼い殺しもいいとこです」響太朗は一瞬、きょとんとした。「あれほどの人材を、賀来社長はみすみす手放したのか?」「彼も、彼女にそこまでの才覚があるとは思ってなかったんじゃないですか」宏明の推測に、響太朗は首を振った。「いや、私の知る賀来柊也なら、部下の才覚を見抜けないはずがない。そんな節穴なら、『エイジア』は今の地位にいないさ」宏明は少し考えた後、小耳に挟んだゴシップを打ち明けることにした。「噂じゃ、二人は昔できてたらしいです。でも江崎さんにはバックがない。結局、賀来社長が選んだのは柏木志帆だったってわけです。彼女、あのお役所の実力者・柏木長昭の娘ですからね。父親は去年、さらに上のポストに昇進してますし」それで合点がいった。生まれが出世を左右する。男というのは往々にして、感情より損得勘定を優先するものだ。……帰りの車中、ハンドルを握る智也はずっと胸につかえていた疑問を口にした。「さっきのパーティーでのことなんだけど……リードテックの高坂社長、最初は柏木さんの経歴を聞いて感心してただろ?なのに、なんで途中から急に素っ気なくなったんだ?」智也には、何が響太朗の機嫌を損ねたのかさっぱり見当がつかなかったのだ。詩織は助手席でシートに身を預けながら、穏やかに種明かしをした。「高坂さんは、お父様もお祖父様も、代々とても愛国心の強い実業家なの。柏木さんが自慢げに話していた『永成実業』の港湾売却案件……あれが、まさに高坂さんの逆鱗に触れたのよ。たぶん、賀来社長の手前、その場で追い出すのだけは堪えてあげたんでしょうけど」「逆鱗?」「そう。永成実業が海外に売り飛ばした港は、私たちの国にとって極めて重要な拠点だったの。それを知っている高坂さんからすれば、腸が煮えくり返る思いだったはずよ。だからあんなに顔色が変わったの」詩織が響太朗のバックグラウンドを知っていたのは、以前、柊也から話を聞いていたからだ。数年前、柊也が演算チップへの投資で行き詰まり、万策尽きた末に本港市へ飛び、高坂一族
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第282話

ハンドルを握る鈴木の手のひらに、じっとりと脂汗が滲む。柊也が重ねて命令を下そうとした、その時だった。前方の車のドアが開き、智也が降りてきた。彼はそのまま車から少し離れ、夜風に当たるように一人佇んだ。その瞬間、柊也の全身から立ち昇っていたどす黒い殺気が、霧散するように引いていった。彼は背もたれに体を預け、まるで何事もなかったかのように呟く。「……いや、いい」もし智也が車を降りるのがあと数秒遅れていたら、間違いなくあの車をスクラップにしていただろう。……翌朝、詩織がオフィスに足を踏み入れるやいなや、密が目を輝かせて駆け寄ってきた。「詩織さん!今朝のネットニュース見ました?」「そんな暇あるわけないでしょ」詩織は持っていたファイルで、密の頭をコツンと軽く叩く。「最近、私に対して随分と生意気になったわね。社長の目の前で堂々と油を売るなんて。仕事中にゴシップ?」密は叩かれた頭をさすりながらも、興奮を抑えきれない様子だ。「だって、ネタが激ヤバなんですよ!ご自分の目で確かめてくださいよ。これを見たら、詩織さんだって仕事どころじゃなくなりますって」あまりに密が大袈裟に言うものだから、詩織もつられてスマホの画面を覗き込んだ。そして数秒後――「……確かに、これは凄まじいわね」いや、その表現では生温い。詩織はすぐに言葉を訂正した。「訂正するわ。凄まじいなんてレベルじゃない」それは常識が音を立てて崩れ去るような、破壊的なスクープだった。渦中の人物は、詩織もよく知るあの柏木志帆の従妹、森田美穂だったのだ。彼女の元恋人である相馬純平が、交際中に撮影したプライベート動画をネット上に晒したのである。それだけなら、昨今よくあるリベンジポルノで済んだかもしれない。だが、問題はその中身だった。なんとその恥ずべき動画は、美穂自身が懇願して撮影させたものだという。映し出されている二人の行為は、あまりにもアブノーマルだった。鞭に蝋燭、手錠……さらには、美穂がカメラに向かって犬の真似をし、「私は純平様の奴隷です、卑しい雌犬です、ご主人様かわいがってください」などと卑猥な言葉を連呼している。その過激さは、見る者が生理的な嫌悪感で言葉を失うほどだった。純平の主張によれば、この暴露は美穂への復讐だという。交際期間中、彼は美穂に数
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第283話

「……ごめんなさい、私が悪かったわ」美穂は後悔の涙に暮れていたが、今さら悔やんだところで後の祭りだ。志帆が冷徹な声で問いかける。「そもそも、どうしてあの男は急に動画なんか晒したの?最近、何か揉め事でもあった?」「揉めるも何も……別れてからは一度も会ってないわ。何度も連絡は来たけど、しつこくされるのが嫌で無視してたし」美穂は大粒の涙をポロポロとこぼしながら訴えた。「それに、あの動画はちゃんと削除させたはずなのよ。どうやって復元したのか全然わからない……」「あんた、誰か恨みを買うようなことでもしたんじゃないの?」佳乃が疑わしげに目を細めたが、美穂は首を横に振った。「まさか。エイジアに入ってからは仕事一筋だったし、人間関係だってこれ以上ないくらいクリーンだったもの」しかし、原因探しをしたところで起きてしまった事実は覆らない。志帆はここへ来る途中ですでに結論を出していた。「海外に行きなさい」その言葉に、美穂が弾かれたように顔を上げる。「嫌よ!海外なんて行きたくない!言葉も通じない、知り合いもいないような場所で暮らすなんて無理よ!」「あんたに拒否権なんてないのよ」佳乃がぴしゃりと言い放った。「世間のほとぼりが冷めるまで、国内の土は踏ませないからね」もはや決定事項だと悟り、美穂は糸が切れた人形のようにベッドへ崩れ落ちた。目から光が消え、絶望に染まっていく。「……どれくらい?」「最低でも三年ね」佳乃の口調は事務的だったが、それでも甘い見積もりだった。あの動画の内容があまりに下劣すぎるため、世間の記憶から消し去るのは容易ではないだろう。三年という宣告に、美穂の心は完全に折れたようだった。そんな従妹を見下ろしながら、志帆がアメとムチを使い分けるように言葉をかけた。「状況が落ち着いたら、私がなんとか呼び戻してあげるわ。そんなに長いこと待たせたりしない。もうすぐ私と柊也くんの婚約も正式に決まるんだから」その言葉は、暗闇に垂らされた唯一の蜘蛛の糸だった。美穂は縋りつくように志帆の手を取り、嗚咽混じりに懇願する。「お姉ちゃん、約束よ……絶対に、絶対に早く迎えに来てね」「ええ、約束するわ。すぐよ」志帆は確信に満ちた声で頷いてみせた。その表情には、揺るぎない自信が張り付いていた。……四月一日。詩織は会議に出席するため、エ
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第284話

詩織と密はロビーで智也を待ち、合流してから三人でゲートへ向かった。ちょうど出社ラッシュの時間帯だ。エレベーターホールは黒山の人だかりで、乗るまでに相当待たされるのは目に見えている。もっとも、会議の時間にはまだ余裕があった。三人も大人しく列の最後尾に並ぶことにした。五分ほど経った頃だろうか。背後の人波がモーゼの海割れのように左右へ分かれ、ざわつき始めた。前に並んでいた女性社員が、慌てて詩織の腕を引いて脇へ寄せる。「ちょっと、退いて!通路空けて!『奥様』のお通りよ」まるで王族のパレードだ。智也はいぶかしげに眉をひそめた。ここはエイジア・ハイテックの本社ビルであり、ここにいるのは彼らの社員たちだ。その彼らが『奥様』と呼ぶ人物といえば……答えが脳裏に浮かぶより早く、その姿が視界に入ってきた。柏木志帆だ。秘書とアシスタントを従え、社員たちが恭しく開けた花道を、我が物顔で歩いてくる。彼女は迷わず社長専用エレベーターの前まで進み、指紋認証パネルに指をかざした。解錠音が響くと、彼女はようやく一般エレベーターの列に並ぶ詩織たちへと視線を向け、優越感に浸った笑みを浮かべた。「良ければお二人とも、こちらへどうぞ。専用エレベーターでお送りしますわ」招いているというよりは、特権を見せつけているだけの響きだった。智也がやんわり断ろうとするのを制し、詩織はあっさりと応じた。「それは助かります。お言葉に甘えますね」使えるものは使う主義だ。詩織は微塵も気後れすることなく、堂々とエレベーターへと乗り込んだ。慌てて智也も後に続く。一方、密は露骨に嫌そうな顔をして、「車に忘れ物しちゃったんで取りに戻ります。後で上がりまーす」と言い残し、さっさと踵を返してしまった。扉が閉まり、密室の静寂が降りる。詩織はすぐにスマホを取り出し、業務連絡のチェックに没頭し始めた。そんな彼女に対し、志帆は髪をふわりとかき上げ、あくまで何気ない世間話といった風情で口を開く。「この時間はどうしても混みますからね。一般のエレベーターだと相当待たされるでしょう?ですから私、こちらに来る時はいつも専用機を使わせてもらってるの」その声に含まれた自慢気なニュアンスは、鈍感な智也でさえ痛いほど感じ取れるものだった。だが詩織だけは違った。スマホの画面から目を離さず
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第285話

だが譲はのらりくらりと理由をつけては逃げ回り、美穂には指一本触れようとしなかったのだ。それなのに、詩織とはあんなに楽しそうに……柊也と自分が入ってきても気づかないなんて、どれだけ夢中になっているのよ。もしかして、譲は江崎詩織に気があるの?まさか。そんなわけない。確かに詩織は美人だし仕事もできるけれど、天下のサカザキの御曹司を本気にさせるほどの女じゃないわ。考えすぎね。そういえば、太一が言っていたじゃない。「譲には想い人がいる」って。詩織とは単なるビジネス上の付き合いで、それ以上の感情なんてあるはずがない。詩織ごときに、譲のようなハイスペックな男を落とす魅力なんてありはしないのだから。定刻の十時。会議は志帆の進行でスタートした。詩織は違和感を抱いた。真田源治の姿が見当たらないのだ。本来であれば、ハイテックの総責任者である源治が取り仕切るべき重要な会議のはずだ。しかし、会議室の空気は驚くほど平然としており、参加者たちは志帆がハイテックを牛耳る現状を当然のこととして受け入れているようだった。最近は自社の用件にかまけていて、ハイテックの内情には疎くなっていた。確かに智也から、「賀来柊也がハイテックの采配を柏木志帆に任せたらしい」とは聞いていた。だが詩織は、単なる口約束か、あるいは彼女のご機嫌取りのパフォーマンス程度に考えていたのだ。実権まで渡すはずがないと。何せハイテックは、エイジア・グループの心臓部だ。それをここまで好きにさせているとは……これではハイテックを志帆にプレゼントしたも同然じゃない。今後の取引に影響が出なければいいけれど。詩織は一抹の不安を覚えずにはいられなかった。昼休みのランチタイム。密が得意げに仕入れてきたネタは、午前中に詩織が抱いた疑問に見事な答えをくれた。「聞いてくださいよ。真田源治さん、完全に柏木志帆に干されちゃったみたいです。頭にきて長期休暇を取ったきり、もう一ヶ月以上も戻ってきてないんですって」密はフォークを突き立てながら声を潜める。「それだけじゃないんです。柏木のやつ、自分の息のかかった連中をどんどん送り込んでるらしくて。エイジア・ハイテックもそろそろ『カシワギ・ハイテック』に社名変更したほうがいいんじゃないかって噂ですよ」「ほんと、完全に社長夫人気
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第286話

「おや、江崎さんもいらしてたんですね。いやあ、来てよかった」響太朗は、自分に椅子を引いてくれている志帆を完全に無視し、親しげに詩織のもとへと歩み寄っていった。衆人環視の中で完全にスルーされた志帆の顔が、屈辱で歪む。だが、その窮地を救ったのは柊也だった。凍りついた空気を和らげるように、志帆が引いたままになっていた椅子にすっと腰を下ろし、優しく声をかける。「俺がここに座りたがってたの、よく分かったな」そのフォローに、周りの人間もすぐに調子を合わせた。「いやあ、まさに以心伝心ですな」「勘弁してくださいよ、今日は食事会じゃなくて、お二人の熱々ぶりを見せつけられる会ってことですか?」柊也の粋な計らいに救われ、志帆の機嫌も持ち直したようだ。彼女はここぞとばかりに、周囲に招待状を配り始めた。詩織の推測は的中していた。彼女のバッグは招待状で溢れかえっており、会う人すべてに配り歩くつもりなのだ。一方、詩織はそんな騒ぎには目もくれず、響太朗との会話に没頭していた。響太朗は帰宅後、詩織たちが開発したAI『ココロ』をじっくりと試用したのだという。彼は熱っぽく語った。「あれは真のイノベーションだ。AIコストの低下は不可逆なトレンドであり、君たちの技術がその普及を一気に加速させるだろう」と。さらに、「ココロの躍進は、我が国の企業が持つ技術革新力の証明だ。これは間違いなく全産業の再定義を促し、国内のビジネスモデルそのものを塗り替えることになる」と惜しみない賛辞を送った。話題は『ココロ』だけにとどまらず、多岐に及んだ。響太朗は、国際港湾投資が国内経済に与える影響についても詩織に意見を求めた。詩織は臆することなく、独自の視点から分析し、大胆な仮説を披露した。響太朗は終始、真剣な眼差しで彼女の言葉に耳を傾けていたが、話が進むにつれて驚きの色は濃くなり、今日ここに来たことが正解だったという確信を深めているようだった。二人の世界があまりに濃密すぎて、志帆は招待状を渡すタイミングを完全に見失っていた。その場にいた誰もが察した。高坂響太朗は、江崎詩織という人間に心底惚れ込んでいるのだと。彼は詩織を本拠地である本港市へ招待し、高坂グループの施設を案内したいとまで申し出た。それは単なる社交辞令ではなく、彼女の実力を認めた者だけへの最大級の栄誉だった。
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第287話

賢の声は、チェロの音色のように低く、心地よく響く。「たまになら大丈夫ですよ」何より手軽なのが一番だ。「デリバリー頼もうか?美味しいスープの店を知ってるんだ」少し考えた後、賢が提案してきた。確かに温かいスープは魅力的だ。眼下のカップ麺とは雲泥の差だろう。だが、その提案を受け入れることが何を意味するか、詩織は分かっていた。一瞬の沈黙の後、彼女は静かに断った。賢は驚かなかった。だが、諦めたわけでもない。まだ自分の努力が足りないだけだ。彼女の心を動かすには、もっと踏み込む必要がある。受話器の向こうで、彼は静かに闘志を燃やしていた。まだまだ、これからだ。……悠人は、賢との待ち合わせ場所である高級レストランに少し早めに到着した。だが驚いたことに、賢はすでに席に着いており、しかもやけに正装で決めている。ダークカラーのシャツの襟元には落ち着いた柄のネクタイを締め、ジャケットの袖口には同系色の彫金カフスボタンが光っている。豊かな黒髪は綺麗にサイドへ撫で付けられ、額にかかる前髪がシャープな印象を与えていた。悠人は席に着くなり、揶揄うように尋ねた。「随分と気合が入ってるじゃないですか。今日はビジネスの話じゃなくて、お見合いの間違いなんじゃ?」賢は苦笑しながら、小さくため息をついた。「実を言うと、僕としてはお見合いであってほしいんだけどね」「へえ、あの篠宮賢を袖にするなんて、とんでもなくお高い女ですね」悠人が興味津々といった様子で身を乗り出す。「いや、そういうわけじゃないんだ。今は恋愛モードじゃないってだけで」「なんだ、ただの駆け引き上手な悪女か。じらして男をその気にさせるタイプでしょ」悠人は鼻で笑ったが、賢は真面目な顔でそれを否定した。「誤解だよ。彼女は本当に素晴らしい女性だ。それに、今日は純粋にビジネスの話でもある」賢はさらに言葉を継いだ。「実はお前、彼女とは一度会ってるはずだぞ。ほら、以前の起業家サミットの時、僕が席を隣同士に手配しただろう?」お茶を口に運ぼうとしていた悠人の手が止まる。眉間にしわが寄り、不機嫌な色が浮かんだ。「ちょっと待ってくださいよ……まさか、相手ってのは江崎詩織のことですか?」「ああ、その通りだ」悠人の表情から温度が消えた。「悪いっすけど、賢さん。その話、なかったことにし
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第288話

食後、賢は詩織を自宅マンションまで送ってくれた。礼儀として「上がっていきませんか」と言うべき場面かもしれない。だが、変な期待を持たせるのは不誠実だと思い直し、詩織はゲートの前で別れを告げるにとどめた。賢はその辺りの機微をわきまえた紳士で、決して強引な真似はしない。詩織にとって、その距離感は心地よかった。賢の車が見えなくなるまで見送り、さて部屋に戻ろうと踵を返したその時――背後から氷のような声が突き刺さった。「なかなか手練手管に長けてるな。あの篠宮賢まで骨抜きにするとは」また出た。亡霊か何かなの?詩織はひとつ大きく深呼吸をしてから、ゆっくりと振り返った。だが視線は柊也を素通りし、そのままマンションのエントランスへと向かう足を進める。彼など存在しないかのような完全無視だ。しかし柊也は悪霊の如くしつこかった。大股で距離を詰め、詩織の二の腕を乱暴に掴む。次の瞬間――パァン!乾いた破裂音が夜の住宅街に響いた。詩織の手のひらが、柊也の頬を鋭く捉えたのだ。あまりの勢いに、柊也の顔が横へ弾かれる。彼は舌先で頬の内側をなぞりながら、ぞっとするような冷笑を浮かべた。「図星を突かれて逆ギレか?」「おじさまに代わって、礼儀作法を教えてあげただけよ。離しなさい、さもないともう一発お見舞いするわよ!」だが柊也の手は緩むどころか、さらに食い込む。詩織が再び手を振り上げた瞬間、その手首は空中で捕らえられた。柊也は射殺すような目で彼女を睨み下ろし、低い声で吐き捨てる。「前は宇田川京介、今度は篠宮賢か。一体何人の男をストックすれば気が済むんだ?」以前の詩織なら、この問いかけに対して必死に弁解していただろう。誰とも関係なんてない、自分は潔白だと、涙ながらに訴えていたかもしれない。だが今の彼女は、釈明する気力すら湧かなかった。弁解?ふざけるな。誰が貴様なんかに。「私が百人の男を囲おうと、『元』恋人のあなたには関係ないでしょ。自分の立場をわきまえたらどう?」激しい口調で言い返すが、柊也は動じない。「わきまえるつもりがないと言ったら?」「だったら死ねばいいわ!」詩織は力任せに彼の手を振りほどき、背を向けた。その背中に向かって、柊也はようやく本来の用件を告げる。「待て。松本さんがお前に薬を届けてくれって言って
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第289話

苦しみ抜いてようやくここまで歩いてきた。誰かが現れたからといって、自分の色を失いたくはない。私の人生を邪魔する人間は、誰であろうと切り捨てる。もし以前のように、近所迷惑を顧みずにドアを叩き続けるつもりなら――絶対に開けない。即座に警察に通報してやる。詩織はスマホの画面に緊急通報番号を入力し、発信ボタンに指をかけた。あと一回でもノックされたら、躊躇なく通報するつもりだった。だが、意外なことにドアの外はすぐに静寂を取り戻した。ノックは最初の一度きり。それ以上は続かなかった。詩織は慎重にドアスコープを覗き込んだ。誰もいない。廊下は無人だった。数秒の逡巡の後、彼女は恐る恐るドアを開けた。足元には紙袋が置かれている。中には松本さんが煎じてくれた煎じ薬のパウチが入っていた。柊也の姿はどこにもなかった。すでに立ち去った後だった。……水曜日。詩織は「華栄キャピタル」に高遠誠を呼び出していた。彼が作成した企画書に目を通し、強い関心を抱いたからだ。誠は希望を胸に華栄のオフィスビルを訪れた。だが、エレベーターホールで待っていた彼の前に現れたのは、志帆を出迎えるために降りてきた陽介だった。「おや、これは誠じゃないか」陽介は最近羽振りがいいらしく、その顔は脂ぎったようなツヤで輝き、全身から自身をみなぎらせている。誠と比べれば、住む世界が違うことは誰の目にも明らかだった。一方は栄華を極め、もう一方は見る影もなく落ちぶれている。誠のやつれた姿を見て、陽介の優越感はさらに膨れ上がった。「どうした、外じゃ食っていけないか?俺は最初から忠告してやっただろう。ビジネスはビジネス、理想は理想だ。理想じゃ腹は膨れないってな」陽介は鼻で笑い、さらに畳みかける。「お前は昔から本当に頭が固いんだよ。俺の親心も分からずに、あんな喧嘩をおっ始めやがって」誠が前の会社を去る直前、二人はオフィスで怒鳴り合いの大喧嘩をしたことがある。社員全員に筒抜けになるほどの騒ぎで、陽介は酷く面子を潰されたのだ。陽介にしてみれば、一番多く出資しているのは自分なのだから、会社のすべてを取り仕切るのは当然の権利だった。誠など所詮、自分の下で働く駒に過ぎない。飼い主に噛みつくなど言語道断だし、そもそもそんな資格すらないはずなのだ。陽介はこれ見よがしに高
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第290話

詩織はきょとんと周囲を見回した。ほかに誰もいない。間違いなく自分に向けられた言葉だ。彼女はおもむろにスマホを取り出すと、保存してあったある動画を再生し、音量を最大にして突きつけた。『アタマ大丈夫?アタマ大丈夫?ねえ、アタマ大丈夫?』コミカルな音声がロビーに響き渡る。悠人は顔色を変え、詩織への軽蔑をいっそう深めたような目で睨みつけた。詩織は彼が何を思おうが知ったことではないといった風情で、涼しい顔で支払いを済ませ、店を後にした。その一部始終を、少し離れた席から譲が目撃していた。親に強いられた見合いの真っ最中だったが、悠人が詩織に絡んでいるのを見て、咄嗟に助けに入ろうと腰を浮かせた。だが、その必要はなかったようだ。彼女の反撃は……いささかシュールというか、斜め上を行くものだったが、効果はてきめんだった。実に面白い。この場を離れられないのが悔やまれるほどだ。できることなら駆け寄って、「ナイスファイト」と声をかけてやりたいくらいだった。見合い相手の女性は、譲がずっと含み笑いをしているのを見て、これは脈ありかもしれないと期待した。ところが、彼は突然食事を切り上げ、にこやかに、しかしきっぱりと別れを切り出したのだ。女性は納得がいかず、思わず尋ねた。「理由を……教えていただけますか?」容姿にも家柄にも自信があっただけに、何が不満なのか分からなかった。譲は少し考え込んだ。その瞬間、彼の脳裏にはある一人の女性の顔が鮮明に浮かんでいた。彼はにっこりと笑い、はっきりと告げた。「俺、面白い人が好きなんで」部屋に戻ってきた悠人の顔色は、どこか優れなかった。個室の中には、志帆と陽介が談笑している姿があった。彼が戻ったことに気づき、志帆が気遣わしげに声をかける。「ずいぶん長かったけど、どうかしたの?」「……ちょっと野暮用で」悠人は多くを語らなかった。志帆もそれ以上追及せず、陽介との話し合いの成果について報告を始めた。陽介は胸を叩いて請け合った。「誠のことは心配無用です。たとえ向こうが華栄に泣きついたところで、大したことはできませんよ。もともとあいつには、同級生のよしみで多少の顔を立てて、株を少し持たせてやってただけなんです。それを何を勘違いしたのか自分が『アーク』のトップだと思い込んじまって、まったく世話の焼ける
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