All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 461 - Chapter 470

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第461話

この一文を送信するのに、悠人はありったけの勇気を振り絞らなければならなかった。彼にとって柏木志帆とは、常に雲の上の存在であり、清廉潔白な高嶺の花だ。他人の恋路を邪魔するような、卑しい「泥棒猫」の真似などするはずがない。だからこそ、詩織に真実を突きつけられた後、その衝撃的な情報を消化するのにかなりの時間を要したのだ。それでもなお、彼の心の天秤は志帆の方へと傾いていた。長い沈黙の後、ようやく志帆からの返信が届いた。【違うわ】短い否定に続いて、長いメッセージが送られてくる。【確かに、彼女と柊也くんの間には、はっきりしない曖昧な関係があった時期もあるわ。でもそれは、彼女が汚い手を使って柊也くんのベッドに潜り込んだからよ。この事実は、柊也くんのごく親しい人たちしか知らないトップシークレットなの】【悠人くんも知ってるでしょう? 柊也くんの正体は、あの賀来グループの御曹司よ。江崎詩織ごときの身分が、一生かかっても手の届かない天上人だわ。だから彼女は七年もの間、必死にしがみついていたの。その間、柊也くんが彼女を恋人として公表したことが一度でもあった?いいえ、ずっと彼女が一方的に付きまとっていただけよ】――なるほど、そういうことだったのか。悠人は送られてきた文面を何度も読み返し、詰めていた息を長く吐き出した。どうやら、自分はとんだ勘違いをしていたようだ。先輩を疑うなんて、なんて愚かなことをしたのだろう。……翌日。詩織は『中博』の買収案件に係る審査について協議するため、賢との面会を取り付けていた。彼女の要望は単刀直入だった。可能な限り手続きを簡素化し、最短期間で買収プロセスを完了させたい、というものだ。「分かった。担当には僕から急ぐよう伝えておくよ」賢は快く引き受けてくれた。一通りの打ち合わせを終えると、時刻はちょうど昼時に差し掛かっていた。詩織は自然な流れで、彼を食事に誘った。賢は頷くと、部下の森下に一言声をかけてから、詩織と共に執務室を後にした。省庁の建物を出ようとしたその時だ。これから会食に向かうという『リードテック』の社長、須藤宏明と鉢合わせた。彼もまた、公務でこの官庁街を訪れていたらしい。詩織の姿を認めると、須藤は人懐っこい笑みを浮かべて歩み寄ってきた。「おや、江崎社長。お久しぶりです。こちらへはお仕
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第462話

その一言で、場の空気が一瞬にして凍りついた。須藤もこの時になってようやく、先ほどの別れ際、詩織が浮かべていた淡泊な表情の意味を悟った。彼女は自分が蚊帳の外に置かれていることを察し、敢えて何も言わなかったのだ。その場にいた経営者たちの胸中も複雑だった。だが、彼らは志帆のご機嫌取りに回ることを選んだ。志帆が過去にいくつものプロジェクトで失態を演じ、悪評を買ったことは周知の事実だ。しかし、業界トップである柊也が彼女の失敗を全てカバーし、無限の資金力で支え続ける限り、周囲は彼女の無能さに目をつぶるしかない。かつて志帆のプロジェクトが炎上した際、巻き添えを嫌って二度も約束をすっぽかしたことのある町田部長でさえ、今日は神妙な顔をして席に着いているのが何よりの証拠だ。だからこそ、須藤は先ほど感嘆したのだ。柊也の志帆に対する態度は、常軌を逸しているほどに手厚い、と。確かに、ぐうの音も出ない。これほどの全幅の信頼と支援、ここにいる企業のトップたちでさえ、己のパートナーに与えることは難しいだろう。志帆は、過去に約束をすっぽかした町田を責めるどころか、鷹揚な態度で歓迎して見せた。彼女の狙いは明白だ。「賀来柊也がついている限り、私、柏木志帆は絶対に沈まない」――その事実を、周囲に知らしめるために他ならない。志帆はホステス役として堂々とグラスを掲げ、集まった財界人たちに乾杯を促した。この宴席には、江ノ本市のビジネス界を牛耳る重鎮たちがほぼ顔を揃えていた。当然ながら、その様子は瞬く間にSNSを通じて拡散された。ほどなくして、詩織の目にも、ある経営者が投稿した会食の写真が飛び込んできた。投稿文を見て、詩織は思わず吹き出しそうになった。彼らはこの集まりに、いかにもな俗称をつけて盛り上がっているらしい。名付けて『柊風満帆の会』。「順風満帆」という四字熟語をもじったものだ。「順」を柊也の「柊」に変え、もともとある「帆」を志帆の名前に見立てている。「柊也という強力な追い風を受けて、志帆という船が勢いよく進む」――そんな意味を込めたのだろう。いかにもおじさん世代の経営者が喜びそうな語呂合わせだが、この公私混同ぶりを見せつけられては、取り巻きたちも「座布団一枚!」などと囃し立てざるを得ないだろう。メッセージアプリを閉じようとした詩織
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第463話

その態度は、まるで二人の間には、過去など最初から存在しなかったかのようだった。ずっと会話を静観していた志帆は、柊也の発言を確認してから、おもむろにメッセージを送りつけた。【そういえば、最近みんなで集まってないよね。江ノ本に戻ったら飲みに行こうよ】太一が即座に食いつく。【おお、賛成!俺いつでもオッケーなんで調整するよ!】譲と京介は少し間を置いてから、付き合いもある手前、渋々と「了解」のスタンプを返した。その後、志帆は太一へ個人的なメッセージを送り、例の「高温超伝導プロジェクト」への出資を持ちかけた。これまでなら二つ返事で乗ってきたはずの太一だが、今回ばかりは歯切れが悪かった。【いやぁ、志帆ちゃんの頼みだし、俺もぜひ一枚噛みたいんだけどさ。知ってるだろ?俺、衆厳での発言権なんてないに等しいからさ。こればっかりはどうにもならなくて……】志帆の瞳に暗い色が走った。彼女は友人を装ってはいるが、その言葉には棘があった。【太一。忘れないでね。衆厳メディカルは「宇田川」が作った会社よ。「江崎」のものじゃないんだから】……中博の買収案件に進展が見られたため、詩織は早速、百合子へ報告の電話を入れた。だが、受話器の向こうから聞こえてきたのは、響太朗の声だった。「妻は今、入院しているんだ」響太朗の告げた事実に、詩織の心は重く沈んだ。「彼女の病状については、君もいくらか聞いているのかな?」響太朗が静かに問いかける。「ええ……乳がんだと伺っています」詩織の声は重苦しい。「それだけじゃないんだ。彼女は重度の心疾患を抱えていてね。手術に耐えられる体じゃない」詩織は頭の中が真っ白になった。そうだったのか。だから百合子は、「私には時間がない」と言っていたのだ。何か言葉をかけなければ。慰めでも、励ましでもいいから――けれど、言葉は喉の奥でつかえてしまい、どうしても音にならなかった。「中博の件は、あいつの最後の心残りなんだ。どうか頼むよ、江崎さん」響太朗の悲痛な願いに、詩織は声を詰まらせながら答えた。「……はい、必ず」詩織は電話を切った後も、しばらく放心状態だった。響太朗の悲痛な声が耳に残り、気持ちを切り替えることができなかったのだ。そんな重苦しい空気を破ったのは、親友のミキだった。彼女がこの家に帰ってくるのは
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第464話

ミキは慌てて両脚をぴたりと閉じた。「こ、これはぶつけたのよ!ほら、葉山寺の石段って急勾配でしょう?足を踏み外して派手に転びそうになった時に、岩角でガリっとやっちゃってさ!」確かに、その言い分には説得力があった。葉山にある古刹・鳳凰寺は歴史が古く、本堂へと続く九十九段の石段は四十五度近い急勾配で知られている。しかも石段は自然石を積み上げた素朴なもので、表面はゴツゴツと角張っている。祈願に訪れる者が膝や足を傷つけるのはよくあることだ。詩織はそれ以上疑うこともなく、黙々と反対側の膝の手当てを続けた。その様子を見て、ミキは内心で安堵のため息をついた。それと同時に、心の中でとある変態男を罵倒する。あの変態め!なんであんなとこばっか噛みつくのよ!どこでそんなスキル覚えてきたんだか!変なプレイばっかして……口がただれちゃえばいいのに!不意に、昨夜の情景が脳裏にフラッシュバックし、頬が熱くなった。あのケダモノ、ベッドの上では容赦がないのだ。特に浴室での一戦は強烈だった。……まあ、おばあちゃん特製のスープのせいかもしれないが。いずれにせよ、そのせいで彼女の足はいまだに小刻みに震えているのだった。「シャワー浴びる時は、膝にラップ巻きなさいよ。水に濡らさないようにね」詩織は手際よく処置を終えると、顔を上げた。すると、ミキの頬が妙に赤らんでいることに気づく。「……何ひとりで赤くなってるのよ?」「えっ?そ、それはアンタにときめいちゃったからに決まってるでしょ」ミキは咄嗟に軽口を叩いてごまかした。幸い、詩織は親友の適当な発言に慣れっこだったため、深読みすることなくスルーした。「はいはい。とにかく、傷口濡らさないようにね」「ねえ、今夜は一緒に寝る?」「丁重にお断りします」「ひどいっ!詩織ちゃんの冷血漢!」ミキが胸を押さえて傷ついたフリをするのを尻目に、詩織は無慈悲に寝室のドアを閉めた。その背中が見えなくなった途端、ミキは大きく安堵の息を吐き出した。あぶな……なんとか誤魔化せたわね。翌日は日曜日だったが、詩織は早朝から起き出した。今日は母・初恵の手術後半年検診の日であり、付き添うことになっていたのだ。昨夜はミキも「一緒に行く」と張り切っていたが、今朝になって部屋をノックしても返事がない。
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第465話

その名を聞いて、張り詰めていた気が抜けた。「ありがとうございます……」一瞬、脳裏に浮かんだのは別の「賀来」――柊也の鮮明な顔だった。反射的に彼を思い浮かべてしまった自分自身に、詩織は嫌悪感を抱いた。彼女はすぐさまその不快な思考を振り払い、足取り軽く母のもとへ戻った。海雲が病室を用意してくれたと知った初恵は、直接お礼を言うべきだと詩織を諭した。それが人としての礼儀だ、と。もっとも、彼女には礼儀以上に気にかかることがあったようだ。初恵は少し申し訳なさそうに尋ねた。「でも、詩織……柊也くんと別れたあとに、海雲さんと親しくし続けるのは少し気が引けない?周りから変に勘ぐられたりしないかしら」詩織はきっぱりと反論した。「変に勘ぐられるって、何を?私が未練がましく柊也に近づこうとしてるって?それとも立場をわきまえてないって?」彼女は鼻で笑った。「あの人が関わっている人間すべてと縁を切らなきゃいけないなんて、おかしな話よ。彼と海雲おじ様は別人でしょ?」「どうして私がそこまで気を使わなきゃいけないの?」詩織がそう言い切った瞬間、病室の外から拍手と共に声が響いた。「その通りだ。よく言った」母娘が同時に視線を向けると、車椅子に乗った海雲と、それを押す松本さんが入ってくるところだった。二人は温かい笑みを浮かべている。海雲は隠そうともしない賞賛の眼差しを詩織に向けた。「人は皆、それぞれ別の人生を歩む独立した人間だ。誰かの付属品じゃない」「あいつはあいつ。私は私だ」詩織は慌てて立ち上がり、頭を下げた。「おじ様。どうして病院へ?お加減が優れないのですか?」「いや、ただの定期検診だよ」海雲は穏やかに答えた。松本さんが補足する。「さっき検査結果を受け取りに下へ降りた時、詩織さんが受付に並んでるのを見かけてね。それで海雲様にお伝えしたのよ」それで海雲は、すぐさま初恵のために専属の特別病室を手配してくれたのだった。海雲は言った。「院長には話を通しておいたよ。ここなら看護体制も万全だ。君も安心して仕事に専念できるだろう」「ありがとうございます、おじ様」初恵もベッドの上から深々と頭を下げた。「お気遣いいただき、本当にありがとうございます。ご迷惑をおかけしてしまって……」詩織は海雲を病室まで送り届けた。道す
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第466話

志帆が横から口を挟む。「お母さん、柊也くんにそんな他人行儀なこと言わないでよ。水臭いじゃない」詩織はそちらに目を向けこそしなかったが、あの母娘が示し合わせて三文芝居を打っていることくらいお見通しだった。今のやり取りは、明らかに自分への当てつけだ。性格は遺伝するらしい――志帆が誰に似たのか、よく分かった。いちいちその挑発に乗るのも馬鹿らしい。詩織はあえて反応を示さず、そのまま初恵を連れて検査室へと向かった。ナースステーションでは、柊也が看護師に事情を尋ねていた。「病室はどうなっているんだ?」この病院には、賀来家専用の特別室が二部屋確保されている。これまで志帆が入院した際も、常にその部屋が手配されていた。だから今回、術後の経過観察に訪れた佳乃が当然のようにVIPルームへ通されるものと思っていたところに、まさかの満室回答だ。病院のオーナー筋にあたる柊也を前に、看護師は明らかに萎縮していた。「その……もう、先客がいらっしゃいまして」「柊也くんの許可もなく、誰がその部屋を使えるっていうの?」佳乃は眉をひそめ、疑いの目を向ける。「まさか病院側の誰かが、職権を乱用して勝手に身内を融通したんじゃないでしょうね?」看護師は顔面蒼白になって首を振った。「そのようなことは、決して……」「じゃあ、誰が入っているのか教えなさいよ」佳乃の執拗な追及に逃げ場を失い、看護師はおずおずと宿泊者リストを提示した。「……江崎初恵?誰よこれ」佳乃は不審そうに柊也を振り返った。「柊也くん、心当たりはある?」柊也は隠すことなく答えた。「ええ、知っています」志帆にもその名前に覚えがあった。以前『エイジア』で詩織の人事ファイルを調べたことがある。江崎初恵は、詩織の母親だ。名前を目にした瞬間、志帆の表情が固まり、瞳の奥に鋭い不快感が走った。「あなたが許可したの?」念のために志帆が問いただすと、柊也は即座に否定した。それを見て、志帆はようやく表情を和らげる。そして、勝ち誇ったように断定した。「だとしたら、あの女ね。江崎詩織が秘書時代のコネを悪用して、勝手に母親を紛れ込ませたのよ」なんと浅ましく、下品な手口なのだろう。「追い出してしまいなさい。誰かさんが勝手な真似をして、ルールを壊すなんて許されないわ」佳乃はこともなげに言い
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第467話

海雲が去った後、柊也はようやく佳乃を一般病棟へと案内した。海雲に面目を潰された母娘の表情は、どちらも冴えないままだった。一連の騒動を、詩織はまったく知らなかった。彼女がそれを知ったのは、午後になって目を覚ましたミキが病院へ駆けつけ、看護師たちの噂話を仕入れてきたからだ。「あんた、こんな面白い見世物を逃したの!?」ミキは残念がりながら太ももをバシバシと叩く。彼女の臨場感あふれる語りで事の顛末を聞いた詩織も、確かにそれは見ものだったと少し惜しい気持ちになった。話が一通り済むと、ミキはしみじみと付け加えた。「でもさ、あのクズ也にとってゲス帆のこと、マジで本気みたいね。もうゾッコンって感じ」「どうしてそう思うの?」詩織はスイカをつまみながら尋ねる。「だってネットでもよく言うじゃない? 男が本気で愛した時の行動は二つだけ」ミキは指を折りながら力説する。「一つ、金を出す。二つ、トラブルを解決する」「それ以外は全部、ただのパフォーマンス!」その見解には、詩織も大いに同意せざるを得なかった。ミキはスイカを一口かじり、口をもぐもぐさせながら呟く。「ねえ、あのクズはいったいいつ破産すんのかしらね?」……詩織たちの病室には穏やかな空気が流れていたが、佳乃の病室は対照的だった。柊也は佳乃の入院手続きを済ませると、すぐに会社へ戻ってしまった。志帆だけが残ったが、母と娘の気分は共に沈んでいた。特に、海雲の詩織に対する態度と、志帆に対するそれとの落差を思い出すたび、胸の中にどす黒い不快感が渦巻く。志帆は帰国してから数回ほど海雲に会っている。だが、彼は一度として志帆をまともに相手にせず、対外的に彼女の存在を認めたこともない。佳乃に至っては、さらに酷い扱いだ。以前から何度も海雲に会いたいと申し出ていたが、ことごとく門前払いを食らっていた。今回ようやく対面できたかと思えば、あの冷遇ぶりである。「あの賀来海雲って老人、本当に耄碌(もうろく)してるんじゃないの!」佳乃は思い出せば出すほど腹が立ってくるようで、荒々しい口調で吐き捨てた。「どっちが身内で、どっちが他人なのか、分別もつかないなんてね」「これでお母さんも分かったでしょ? 私がこれまで、あいつにどれだけ蔑ろにされてきたか」志帆の悔しさも、母親に負
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第468話

その考えは、志帆の頭の中にも以前からあった。特に、詩織が事業提携のために『エイジア・ハイテック』を訪れた際、柊也がひそかに彼女の動向を注視していることに気づいてからというもの、その思いは強くなるばかりだった。あろうことか柊也は、『ココロ』の上場支援すら視野に入れている様子だったのだ。今、母の言葉と自分の思惑が完全に一致した。志帆は佳乃に尋ねた。「お父さんは、いつ江ノ本市に戻るの?」「来週よ」「お父さん、市場監視局の村上さんと懇意だったわよね。彼に連絡をつけてくれるように頼んでもらえない?」志帆の意図を察し、佳乃も頷く。「任せておきなさい、ちゃんと手配しておくから。それより志帆、あなたにはもっと重要な仕事があるでしょう」佳乃は娘の目を真剣に見据えて諭した。「今、世間の話題はもっぱら『江崎詩織が、かつて賀来柊也が打ち立てた史上最速上場記録を塗り替えるかどうか』で持ちきりよ。もしあなたがここで、あの女より早くその記録を更新できたらどうなると思う? 世間の評価は一変するわ。もちろん、海雲の見方もね」「もし成し遂げれば、一発逆転。鮮やかな大勝利よ」週末の二日間、詩織は初恵の精密検査に付き添うため病院に詰めていた。検査項目は多岐にわたり、その中には麻酔下での胃カメラ・大腸カメラ検査も含まれている。本来なら事前予約が必須の検査だが、詩織は一ヶ月前からアシスタントの密に手配させていた。もっとも、VIP病棟の看護師によれば、たとえ予約がなくても特別室の患者であれば優先的に検査を受けられるとのことだった。特別室専用のルートがあり、あらゆる検査がスムーズに進むのだ。この特権待遇には詩織も心を動かされた。母の体調があまり芳しくないことを考えると、いっそ通年でVIPルームを契約しておこうかという考えすら頭をよぎる。内視鏡検査が終わり、初恵を車椅子に乗せて病室へ戻ろうとしたときだった。通路の前方で人だかりができ、進路を塞がれてしまった。専属の看護師が様子を見に行き、すぐに戻ってきて告げる。「患者様同士のトラブルのようです。順番抜かしをしたとかで揉めているみたいで……今、警備員が誘導に向かっていますので、少々お待ちいただけますか」検査自体はすべて終わっている。数分待つくらい、詩織にとっては造作もないことだった。病院側
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第469話

その一言は、的確に二人の急所を抉った。母と娘の表情が、同時に曇る。その時、病室のドアがノックされ、看護師が顔を出した。「内視鏡検査には行かれましたか?」「まだよ」と志帆が答える。「急いでください。医師がお待ちです。データがないと診察できませんので」看護師に急かされ、佳乃がすがるように尋ねた。「ねえ、鎮静剤を使って『無痛』でできないの?」彼女には、胃カメラと大腸カメラの不快な記憶があり、少なからずトラウマになっているのだ。看護師は困ったように眉を下げた。「鎮静下での検査は完全予約制となっております。ご予約いただいておりませんので、通常の方法で行うしか……」それを聞いて、和代が志帆の方を向いた。「アンタ、予約してなかったの?」志帆の表情が凍りついた。しばらくして、バツが悪そうに首を横に振る。そこまで気が回らなかったのだ。これまで佳乃が入院した時も、自分がした時も、すべて柊也が手配してくれていた。おまけにVIP病棟の特別待遇だったため、予約など意識せずとも全てがスムーズに進んでいたのだ。和代は眉をひそめた。「麻酔なしなんて地獄じゃない。ねえ、あの子……柊也くんに電話して、なんとかねじ込んでもらいなさいよ。彼、ここの出資者なんでしょ? 鶴の一声じゃない」佳乃もそれに乗っかる。「そうよ、柊也くんに電話してちょうだい。普通の管を入れるなんて、絶対に嫌よ」志帆は仕方なくスマートフォンを取り出し、柊也に発信した。しかし、コール音が虚しく響くだけで、誰も出ない。「……仕事中みたい」志帆は二人にそう告げた。その言葉を疑う者はいなかった。柊也が志帆からの電話を無視するはずがない、という共通認識が彼女たちにはあったからだ。忙しくてスマホを見ていないだけだろう、と。志帆自身もそう信じていた。「どうする? 折り返しを待つ?」和代がおずおずと尋ねる。「いいわ、もうそのまま受ける。いちいち彼を煩わせたくないもの」佳乃は大局を考え、痛みを甘受してでも「良き義母」を演じることを選んだ。「まだ二人は正式に結婚したわけじゃないし、志帆の仕事だって順調とは言えないわ。こんな些細なことで頼み事をして『面倒な家』だという印象を与えたくないの」それに、この病院にはあの海雲も入院している。万が一、自分たちがワガママを
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第470話

ミキは和代を上回る大音量で応戦した。「バレちゃったなら仕方ないわね。もう隠すのはやめ!ほら、さっさと『お義母様』って呼びなさいよ!」「ついでに土下座でもしたら?賀来家の敷居をまたぐには、新しい『お母様』の許可がいるんだから!」口喧嘩でミキに勝てる者などそうそういない。その言葉の破壊力は凄まじく、向こうの三人の顔色が一瞬で変わった。精神的ショックを受けたのか、佳乃がさらに激しく嘔吐き始める。志帆は慌てて母親の背中をさすった。唯一、和代だけが食い下がった。「よくもまあ、そんなふざけた口が利けること! 若い娘が恥ずかしくないの? お爺ちゃんみたいな人の後添えに入ろうだなんて!自分の父親より年上の男相手によくそんな……」ミキは怒るどころか、せせら笑ってみせた。「あら、良いこと言うわね。でもそれって、単に自分にチャンスがないからの負け惜しみでしょ?もしあんたにそのチャンスがあれば、喜んで自分の娘だってベッドに差し出すくせに!」どの口が清廉潔白を気取っているのか。「それにさ、そんな年上相手にどうやって手をつけるのか知りたきゃ、そこの柏木志帆さんに聞けばいいじゃない? 彼女なら、よーくご存知のはずよねえ?」ミキは意地悪く目を細め、志帆を見据えた。志帆は佳乃を支える手に、思わず力を込めた。まだ何か言い返そうとする和代を、佳乃が鋭い声で制した。「もういいわ!気分が悪いの、病室まで連れてってちょうだい」和代は不満げな顔をしたが、それ以上は何も言わずに従った。三人は逃げるようにその場を後にした。「雑魚が」ミキは勝ち誇ったように髪をかき上げる。その清々しいまでのドヤ顔に、詩織は苦笑するしかなかった。「スッキリした?」「した!」「なら良かった」ミキは小首を傾げて詩織を覗き込む。「あれ、怒られるかと思った」詩織は穏やかに微笑んだ。「どうして?他人の悪口を気にするくらいなら、最初から海雲おじ様と親しくなんてしてないわ」「その通り!他人のモノサシで測られる筋合いなんてないし、勝手にレッテル貼られても知ったこっちゃないわよ!」ミキのこのメンタル最強ぶりは、大学時代から誰にも真似できない領域にある。長く付き合っているうちに、詩織も多少はその図太さを身につけたのかもしれない。ひとしきり毒を吐いて満足したのか、
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