All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 601 - Chapter 610

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第601話

志帆の言葉は力強い。自信に満ちあふれている。けれど太一の心に巣食う不安は、どうしても拭い去れなかった。それは度重なる失敗が植え付けた、深いトラウマのようなものだ。かつてのAIプロジェクト『飛鳥』、港湾再開発事業、そして『ドリーム・クラウド』。志帆に乗っかるたびに、手痛いしっぺ返しを食らってきた。もう以前のような無邪気な自信など、どこにも残っていない。ゴホッ、ゴホッ……!病室から漏れる激しい咳き込みが、太一を現実へと引き戻した。結局、彼は一文字も打つことなくスマホをポケットにしまい、重い足取りで病室のドアを開けた。「親父、お湯持ってきたよ。少し飲んで」差し出したカップを、厳は頑として受け取ろうとしない。発作のような咳が収まると、彼はぜいぜいと肩で息をしながら息子を睨みつけた。「……どう、だ。あの女、金は……返すと、言ったか?」太一は目を伏せ、唇を噛む。その沈黙がすべてを物語っていた。「終わった……もう、おしまいだ!」厳は絶望に顔を歪め、痩せ衰えた拳でベッド柵をガンガンと叩く。「すべて……何もかも、終わりだあッ!」「親父、落ち着いてくれ!」叫び声はすぐに激しい咳に飲み込まれた。呼吸困難に陥り、厳の顔からみるみる血の気が引いていく。「親父ッ!?」慌てて太一はナースコールを連打した。……詩織がG市空港に降り立つと、到着ゲートにはすでに響太朗の手配した運転手が待機していた。「わざわざお迎えなんて結構です」事前にそう伝えておいたはずなのに、響太朗はやはり律儀だ。なんだか、かえって気を遣わせてしまったようで申し訳ない気持ちになる。詩織はアシスタントの湊と密を伴って、迎えの車に乗り込んだ。滑り出した黒塗りの重厚な車体が、偶然にも空港を出ようとしていた志帆たちの一行の前を、音もなく横切っていく。志帆は表情こそ崩さなかったが、その瞳の奥には冷ややかな光が宿っていた。一方、美穂は、詩織のために差し向けられたのがただの出迎えではなく、誰もが振り返るような高級車であることに気づき、嫉妬の色を隠そうともしなかった。「ねえ、なんなのよ。あの子、どうしてこのG市にまで有力なツテがあるわけ?」美穂の甲高い声が響く。志帆は伏し目がちに視線を逸らし、すぐには答えなかった。心中では、彼女もまた煮え繰り返るような苛立ちを
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第602話

響太朗は、あらかじめ運転手に言い含めていたらしい。空港で詩織を乗せた車は、ホテルではなく、小春が通う特別支援学校へと直行した。再会した小春の瞳には、何も映っていなかった。詩織の記憶では、最後に会った時、その瞳には確かに生気が宿り、豊かな光を取り戻しつつあった。だが、たった半月会わないうちに、彼女はまた心を閉ざしてしまっていた。まるで、義母である百合子が亡くなった直後の、あのうつろな人形のような状態に逆戻りしてしまったようだ。施設の職員によれば、ここ数日の状態は芳しくないという。誰かが話しかけても反応を示さず、一日中ぼんやりと虚空を見つめて過ごしている。症状が重い日には、トイレに行くことさえ忘れてしまうほどだという。二、三日前に響太朗からメッセージアプリで小春の不調を聞かされていたからこそ、詩織は予定を早めて、今日このG市へとやって来たのだ。詩織は一日かけて、じっくりと小春に付き添った。下校時刻になり、響太朗が迎えに現れる。「さあ、そろそろおうちに帰ろうか」詩織が優しく諭すと、それまで凪いだ水面のように静かだった小春の様子が、突然豹変した。何か恐ろしいものでも見たかのように表情を歪め、詩織の手をむんずと掴む。虚ろだった瞳は、いまや怯えの色で見開かれていた。「どうしたの?帰りたくないの?」小春は唇を結んだまま何も答えない。だが、詩織の腕を掴む力は強くなる一方だ。「小春、まずは手を放しなさい。そんなに強く掴んだら、江崎さんに怪我をさせてしまうよ」響太朗が歩み寄って諭すが、逆効果だった。少女はさらに強くしがみつき、細い指先が詩織の肌に食い込む。爪が肉を抉るような鋭い痛みが走ったが、詩織は顔色ひとつ変えなかった。身じろぎもせず、小春を抱き寄せて背中をさする。「大丈夫、大丈夫よ。怖くないからね。帰りたくないなら、無理に帰らなくていいの」詩織の懐の中で小鹿のように震えていた小春が、しばらくして、堰を切ったように「うわああん」と声を上げて泣き出した。結局、小春は詩織が滞在するホテルへ連れて行くことになった。響太朗がそのまま車を出して送ってくれた。「この三日間は、私のところで預かります。責任をもって面倒を見ますから」ホテルの部屋に着くと、詩織はそう申し出た。響太朗は申し訳なさそうに眉尻を下げる。「君にまで
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第603話

「ええ、まだよ」短く答えて、志帆は建物の方へ顎をしゃくった。「中で待ちましょう」「そんな、もう少しだけ待ってみない?私、絶対に来ると思うんだよね」美穂の根拠のない励ましに、志帆はもはや答える気力もなく黙り込んだ。その間にも、詩織の一行は談笑しながらエントランスへと吸い込まれていく。「あーあ、やっと視界から消えてくれた。これでせいせいするわ」美穂は強がってみせたが、内心では穏やかではなかった。賑やかなあちらの陣営に比べ、こちらは自分と志帆の二人きり。その対比が、秋風のように心に沁みて痛かったのだ。そのまま十分ほど経った頃だろうか。一台の車がロータリーに滑り込んでくるのが見えた。美穂の目が輝く。「ほら、やっぱり!きっと彼よ!」だが、期待に弾んだ笑顔は、降りてきた人物の顔を認めた瞬間に凍りついた。志帆の口元が、ぎゅっと一直線に引き結ばれる。車から降りてきたのは、京介だった。彼は真っ直ぐに入り口へと歩を進めていく。降りる際、明らかにこちらの存在に気づいていたはずだ。志帆とも、美穂とも一瞬目が合った。それでも彼は、まるで道端の石ころでも見るかのように完全に無視を決め込み、脇目もふらずに建物の中へと消えていった。そのあまりに冷淡な態度に、志帆の仮面のような笑みは音もなく崩れ去り、能面のような無表情だけが残された。さらに十分ほどが経過し、新たな車がロータリーに滑り込んできた。志帆が反射的に視線を走らせると、降りてきたのは母の佳乃と父の長昭だった。「お父さん、それにお母さんも。来てくれたのね」志帆は強ばった頬を緩め、努めて明るい声で二人を出迎える。「フライトが遅れちゃってね。ギリギリになってごめんなさい」「ううん、大丈夫。まだ時間はあるから」佳乃と言葉を交わしながらも、志帆の目は無意識のうちに車列の方角を彷徨っていた。そんな娘の様子を、佳乃は見逃さなかった。「……柊也くんは、まだなの?」「ええ」「こんなに大事な日なのに。顔も見せないなんて、どういうつもりかしら」佳乃が不満げに眉をひそめる。「仕方ないわ。彼も会社のトラブル対応に追われているもの。もし来られなかったとしても、それは彼のせいじゃないから」志帆は健気な声色で彼を庇った。当の娘がそう言うのであれば、佳乃としてもそれ以上口を挟むわけにはいか
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第604話

志帆もまた、美穂の突飛な発想に思わず吹き出しそうになった。いくらなんでも、それはあり得ない。取引所のロビーに入ると、ちょうど詩織が電話を受けているところだった。相手は主幹事証券の担当者だろうか。「……ええ、確定ですか?」詩織は短く確認すると、みるみる表情を輝かせた。「わかりました。長い間ご尽力いただき、本当にありがとうございました」その曇りのない笑顔を目にした瞬間、志帆の眉がぴくりと動いた。けれどすぐに余裕の笑みを作り、隣に立つ柊也の腕に手を絡ませる。「柊也くん、向こうに行きましょう。ここはなんだか騒がしくて」「ああ、そうしようか」十時五十八分。柊也のスマートフォンが鳴った。太一からだ。「パース・テックの方はどうだ?もう出たか?」「いや、まだ結果待ちだ」「頼むから上手くいってくれよ……オヤジのやつ、パソコンに張り付いて、もう何百回リロードしたかわかんねえんだ」太一の声は切実だった。彼にとって、もはや金儲けはどうでもよかった。ただ父の厳に「上場承認」という吉報を届け、その安心感で病状を好転させたい。その一心だけだった。十時五十九分。今度は志帆の元へ、主幹事証券から着信が入った。「お姉ちゃん、早く出て!絶対いい知らせだって!もう待ちきれないよ!」美穂が子供のように急かす。「もう、あなたって子は。少しは落ち着きなさいよ」志帆は余裕綽々でたしなめる。横にいた佳乃も、悠然と構えていた。「結果なんて最初から分かっているでしょうに」そう言いながら、佳乃はふと空席を見やり、不審げに顔をしかめた。「それにしてもお父さん、トイレが長すぎない?もう時間だっていうのに」志帆は優雅な仕草で通話ボタンを押し、耳に当てた。その声は、勝利を確信した喜びに弾んでいる。「お電話ありがとうございます、長谷川さん。いよいよ結果が出たんですね?」電話の向こうで、何か言葉が発せられた。その瞬間、志帆の顔に張り付いていた満面の笑みが、凍りついたように固まった。その時、取引所のホールに正時を告げる鐘の音が厳かに響き渡った。正面に掲げられた巨大な電光掲示板に、二つの上場承認公告が映し出される。一条目。【承認事項:株式会社ココロ・テクノロジーによる新規株式公開を承認する】その文字が表示された瞬間、詩織たちの陣営から爆発的な歓声
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第605話

失敗という現実が、まるで濡れて重くなった巨大な網のように全身に絡みつき、呼吸さえも奪っていく。目の前が真っ暗になる。一筋の光も見えない。万事休す。彼女の脳裏には、ただその一言だけが、壊れたレコードのように木霊していた。――私は、終わった。そこへ、トイレから戻った長昭が悠長に現れた。歓喜に沸く人混みをかき分け、志帆の元へと辿り着く。「やあ、戻ったよ。結果はどうだった?」完全に状況から取り残されたその問いかけに、佳乃が冷ややかな視線を浴びせる。「いっそ夜に来ればよかったじゃない。全部終わった後にね」妻の刺すような声音で、長昭は瞬時に事態を察した。「……そうか、ダメだったか。まあ気にするな。一度で成功する人間なんてそうそういないんだ。また次頑張ればいい」娘を慰めようとする長昭の横で、美穂が泣きそうな顔で声を上げた。「じゃあ、なんであの子はできるのよ!江崎詩織は一発で成功させただけじゃなくて、二社も同時に上場させたのよ!?」「あいつ、悪魔じゃないの!?」その言葉には、さすがの長昭も目を丸くした。彼は思わず振り返り、歓声の中心にいる人物を探した。視線の先で、詩織は喧騒から少し離れ、静かな場所へと移動していた。携帯電話を耳に当て、誰かに報告をしている。「……お母さん。私、やり遂げたわ」喧騒から離れた死角で、京介はその一部始終を見届けていた。『ココロ』の上場成功を見届け、ようやく肩の荷が下りたような安堵が胸に広がる。純粋に、彼女の快挙が誇らしかった。けれど今の自分は、光の中にいる彼女をただ暗がりから見つめることしかできない。その歓喜の輪に加わる資格など、もうないのだから。不意にスマートフォンの画面が明滅した。ディスプレイに表示された名前を目にした瞬間、京介は冷や水を浴びせられたように現実に引き戻された。彼は応答せず、そのまま踵を返そうとした。だが、その足が止まる。名残惜しむように、もう一度だけ詩織の方を振り返った。ちょうど二度目の歓声が沸き上がったところだ。京介は口元だけで寂しげに微笑むと、心の中で、本来ならば直接伝えるはずだった言葉を紡ぐ。――詩織、おめでとう。残念ながら今の自分には、彼女へ声をかける権利も、その隣に立つ立場も残されていない。ただこうして、遠くから祈ることだけが、
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第606話

当初の予定では、志帆たちはあと二日、G市に滞在するはずだった。『パース・テック』の上場が決まれば、翌日に諸々の事務手続きが必要になるからだ。だが、その目論見は脆くも崩れ去った。上場計画は完全なる失敗に終わったのだ。何より志帆のプライドをずたずたに切り裂いたのは、詩織が二社同時に上場を果たしたという事実だった。そのことを思い出すだけで、脳の血管が焼き切れそうになる。こんな屈辱的な結末など、到底受け入れられるわけがなかった。取引所からホテルへ戻る車内は、葬式のような重苦しい沈黙に包まれていた。誰も口を開こうとせず、皆一様に顔色が悪い。沈黙の中で、志帆のスマートフォンだけが狂ったように鳴り続けていた。出る勇気はなかった。画面を見なくとも、誰が何の用でかけてきたのかは痛いほどわかっている。志帆は苛立ちに任せて、電源を乱暴に切った。ホテルに着くと、柊也が「レストランを予約してあるから、六時に出発しよう」と告げた。志帆は生返事で頷き、逃げるように自分の部屋へ閉じこもった。ベッドに倒れ込み、恐る恐るスマートフォンの電源を入れると、怒涛のように着信通知とメッセージがなだれ込んできた。電話には出られなかったが、メッセージの文面が否応なしに目に飛び込んでくる。――金だ。すべての通知が、返済と賠償を迫る督促だった。十数件もの出資契約書にサインし、五十倍近いレバレッジをかけて、彼女は人生最大の賭けに出たのだ。勝てば莫大な富と名声が手に入るはずだった。だが、賭けは外れた。残されたのは、かつてエイジア・ハイテックが倒産した時とは比べ物にもならないほどの、天文学的な巨額の負債だけだった。届くメッセージはどれも容赦ないものばかりだった。金を返せという直接的な催促ならまだしも、中には見るに堪えない罵詈雑言まで混じっている。志帆は怒りで震え上がり、携帯を壁に叩きつけたい衝動に駆られた。なんとか踏みとどまり、機内モードに設定してベッドに放り投げる。これでようやく静寂が訪れるはずだった。だが、その静寂を破るように、またしても通知音が鳴った。Wi-Fiを切るのを忘れていたのだ。画面を覗くと、柊也や友人たち五人だけのグループチャットが活発に動いている。犯人は譲だ。メッセージの連投ぶりから、彼がどれほど興奮しているかが手に取
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第607話

「志帆、どうする?店を変えようか?」柊也が気遣わしげに尋ねる。「いいえ、結構よ。ここでいいわ」志帆は極力、平静を装って答えた。だが、テーブルの下で握りしめた拳は白く変色し、心の中は嵐のように乱れ狂っていた。店側の約束通り、追加の料理が運ばれてきたが、誰ひとりとして箸をつけようとはしなかった。お通夜のような重苦しい沈黙が、煌びやかなレストランの喧騒から浮いている。美穂は普段なら飛びつくような高級食材を口に運んだが、まるで砂を噛んでいるようで味などしなかった。耐えきれず、トイレに立つふりをして席を外そうとした、その時だった。入り口付近がにわかに華やいだ。大勢のグループが賑やかに入店してきたのだ。誰もが満面の笑みを浮かべ、喜びを全身から発散させている。先頭に立った密が、よく通る声で宣言した。「今夜は詩織さんのおごりよ!みんな、遠慮しないで好きなだけ注文してね!」ワッと歓声が上がり、拍手が巻き起こる。「やったー!江崎社長、万歳!」「詩織さん、最高!」密が両手を挙げて歓声を制した。「まだ早いわよ!なんと社長から、一週間のクルーズ旅行のプレゼントもありまーす!みんな、思う存分羽を伸ばしてね!」「うおーっ!マジかよ!」「社長、一生ついていきます!」天井を突き破らんばかりの拍手喝采。ここが格式あるレストランでなければ、詩織を神輿のように担ぎ上げて店内を練り歩いてもおかしくないほどの熱気だ。「はいはい、わかったから座って。こっちのエリアは全部貸切だから、好きな席を使っていいわよ」密の指示で、興奮冷めやらぬ一行がそれぞれの席に着きだした。その様子を盗み見ていた美穂の目が、憎々しげに細められた。彼らが案内されたのは、本来柊也が予約していた一番見晴らしの良い特等席だったからだ。「……信じられない」美穂はフォークを投げ出すように置いた。胸が悪くなるような怒りで、どんな高級料理も喉を通らない。「ちょっとトイレ行ってくる」たまらず席を立つ。志帆と佳乃もまた、隣接するエリアからのあまりの賑わいに、嫌でも神経が逆撫でされていた。志帆の瞳は氷のように冷え切り、心は深海へと沈んでいく。砂を噛むようなディナータイムだった。対照的に、詩織の周りは春のような華やぎに満ちていた。上場承認のニュースが流れて
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第608話

彼女の持論はこうだ。「いい女は市場に出回らない」。だからこそ、見つけたら即座に捕まえなければならないと、息子以上に焦っているのだ。千載一遇のチャンスを逃すまいと、必死の猛攻だった。先ほどの言葉ではまだ押しが足りないと踏んだのか、悦子は直球勝負に出た。「ねえ詩織ちゃん、あなたもそろそろ恋人が欲しくない?もしその気があるなら、うちの譲を候補に入れてやってくれないかしら?」「私ね、本当にあなたのことが大好きなの。こんなに素敵な娘さんがうちに来てくれたらって、夢に見るくらいよ。だから、どうか家族になることを考えてみてほしいの」詩織にとって、譲はあくまでビジネスパートナー以上の存在ではない。だからこそ、彼女は言葉を選びつつもきっぱりと断りを入れた。「申し訳ありません、悦子様。譲さんに対して、そういった感情を抱いたことは一度もなくて……」「あら、今すぐ答えを出さなくたっていいのよ!とりあえずキープ、そう、「予備軍」の一人に入れておいてくれれば十分だわ。女性に選択肢は多いほうがいいに決まってるもの。じっくり選り好みすればいいのよ」悦子の勢いは止まらない。「確かにあの子、昔はちょっとチャラチャラしてて、あなたにもいい印象を与えてなかったかもしれないわね。でもね、二股をかけたことは一度もないのよ。いつもちゃんと別れてから次に行ってるの、そこだけは潔白よ!」「それにね、もしあなたが頷いてくれるなら、あとは私に任せて!あの子には絶対に浮気なんてさせないわ。結婚したら、私の名義の全財産をあなたに譲渡してもいいくらいよ。そうすればあの子も頭が上がらないでしょう?」話がどんどん飛躍していくのに冷や汗をかき、詩織は慌ててブレーキをかけた。「あ、あの、申し訳ありません。実は今、社員との食事会の最中でして……また改めてご連絡させていただきます』「あら、ごめんなさいね!じゃあまた今度、ゆっくりね!」悦子は上機嫌で電話を切った。明確な拒絶でなければ、まだチャンスはあると前向きに解釈したのだろう。通話終了の画面を見つめながら、詩織は大きく息を吐き出した。あの底抜けの明るさと熱意には、いつもタジタジにさせられる。ようやく嵐が去ったかと思えば、今度は息子の方からメッセージが届いた。内容は『いつ江ノ本に戻る?今後の提携について詳しく話したい』と
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第609話

佳乃は忌々しげに表情を曇らせ、娘に問いかけた。「……ねえ、さっきから言ってる高坂様って、どこのどなたなの?」志帆は答える気力もなく、黙って視線を落としたままだ。代わりに柊也が静かに口を開いた。「G市でも屈指の名家、高坂財閥の当主、高坂響太朗氏です」その名を聞いた途端、佳乃は雷に打たれたような顔をした。まさか。よりにもよって、あの名門・高坂家だというの?江崎詩織の人脈は……一体どこまで広がっているというの?佳乃は、得体の知れない恐怖すら感じていた。美穂は上の空で考えていた。この高坂という男も、江崎詩織に惚れているのだろうか?でなければ、一個人のためにこれほど盛大な花火を上げる理由がない。周囲の憶測など露知らず、詩織は美しい花火を写真に収め、何気なくSNSに投稿した。すぐに「いいね」やコメントの通知が続々と届き始める。ほとんどが見知った友人や関係者からのものだったが、その中に一つだけ、見慣れないアカウントからの反応があった。ユーザー名は『chill』。コメント欄には一言だけ、『おめでとう』と素っ気なく記されていた。詩織は指を止めた。以前にもこのアカウントから「いいね」がついた覚えがある。プロフィール画面を開いてみたが、アイコンも投稿も真っ白で、何の手がかりもない。一体いつ連絡先を交換した相手だったか、記憶の糸を手繰っても何も引っかからない。不気味に思い、削除しようか迷っていたところで、密から声がかかった。「詩織さん、こっち来てー!みんなで写真撮りましょうよ!」詩織はスマートフォンをポケットにしまい、歓声の輪の中へと戻っていった。一方、スポットライトの当たらない影のテーブルでは、重苦しい空気が限界に達していた。「……もう疲れたわ」志帆が掠れた声で呟く。これ以上、詩織の栄光を見せつけられるのは拷問でしかなかった。息が詰まって死んでしまいそうだ。「そうね、ホテルに戻りましょう」佳乃もまた、一分一秒でも早くこの場を立ち去りたかった。「明日のフライトに備えないとね」「明後日の予定じゃなかったか?」柊也が確認すると、佳乃は吐き捨てるように言った。「変更したのよ。もう早めに切り上げましょう」その言葉の裏には、これ以上ここにいても惨めになるだけだ、という諦めが滲んでいた。「…
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第610話

佳乃が鬼のような形相で睨みつけると、美穂はハッとして自分の頬をペチペチと叩いた。「なんちゃって!冗談よ、冗談!あるわけないじゃない!」「そうよ、あの人が心変わりなんてするはずないわ。世界中の男が裏切っても、彼だけは絶対にお姉ちゃんを裏切らないもの!」「天変地異が起きたってあり得ないわよ!」「もういい加減にしなさい」佳乃に叱責され、美穂は慌てて口をつぐんだ。それでも気になったのか、沈み込んでいる志帆に恐る恐る尋ねる。「でもお姉ちゃん、本当は一緒にいてほしかったんでしょ?なんで言わなかったの?」志帆は伏し目がちに、自分に言い聞かせるように呟いた。「……柊也くんみたいなタイプには、束縛は逆効果なのよ。適度な距離感を持って、一人の時間を与えてあげるのが賢い女のやり方だわ」「なるほどねぇ、さすがだわ」美穂は深く納得した様子で頷いた。それも無理はない。幼い頃から、志帆が男たちを虜にしていく様を一番近くで見てきたのだから。かつて高校時代には、彼女に焦がれて命を絶とうとした男子生徒さえいたほどだ。美穂の母である和代も、常々「男操縦術は志帆に学べ」と言っていた。だが、その極意はいまだ美穂には掴みきれていない高尚なものに思えた。……宴がお開きになった頃には、日付も変わり、時計の針は十二時を回っていた。密は手際よくハイヤーを手配し、疲れ切ったスタッフたちを次々とホテルへ送り出していく。明日の夕刻には港へ移動し、そこから七日間のクルーズ旅行が始まる手筈になっているのだ。大勢が車に乗り込んだのを見届け、ふと振り返った密は、智也だけがまだ路上に残っていることに気づいた。「久坂さん、どうしたんです?まだ乗らないんですか?」もともと酒に強くない智也だが、今夜は祝いの席ということもあり、つい杯を重ねてしまったようだ。普段は冷静で理知的なその横顔が、今は上気してほんのりと朱に染まっている。密に急かされても、彼はその場を動こうとしなかった。その視線は、熱を帯びたまま一点――詩織の方に向けられている。その時、詩織はちょうど響太朗からの電話を切ったところだった。なんでも、小春が興奮して寝付かないらしく、困り果てた彼からのSOSだったのだ。詩織は仕方なく、小春を自分の宿泊するホテルへ連れてくるよう伝え、今夜は自分が寝か
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