All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 611 - Chapter 620

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第611話

その声を聞いた瞬間、智也の表情が凍りついた。密が驚いて言葉を詰まらせる。「か、賀来社長……?」詩織が振り返ると、海外風のアーチの下に柊也が佇んでいた。頭上の街灯が彼の長身を照らし出し、伸びた影が詩織を覆い隠す。その暗い瞳は、自分とは無関係な他人の痴話喧嘩を、ただ冷ややかに見下ろしているようだった。彼女は反射的に眉をひそめる。その声は、夜の空気よりも冷たい。「あなたと話すことなんて、何ひとつないはずよ」智也は咄嗟に詩織の前へ立ちはだかり、柊也を牽制した。だが柊也は微動だにしない。その深淵のような瞳は、智也の存在など意に介さず、詩織の顔だけを射抜いている。まるで彼女の顔に穴が開くほど、視線は鋭い。「時間は取らせない」詩織はこれ以上関わり合いになるのを嫌い、拒絶の言葉を口にしかけた。それを遮るように、柊也が告げた。「父のことだ」その言葉に、詩織の動きが止まる。彼女は一呼吸置いてから、智也に向き直った。「先に乗ってて。五分だけ待ってくれる?」たった五分。それ以上、あの男に時間を割くつもりはなかった。智也は去り際に「何かあったら呼んでくれ」と言い残す。詩織が頷くのを確認して初めて、彼は渋々その背を向けた。智也が少し離れると、柊也が詩織の目の前へと歩み寄ってきた。その表情は凪いだ湖面のように静かで、かつての親密さを微塵も感じさせない。風上に立った彼は、無言のうちに彼女を凍てつく夜風から遮っていた。詩織は頬にかかる乱れ髪を指先で払い、隠しきれない苛立ちを滲ませて言った。「それで?おじ様がどうしたの」柊也はすぐには答えなかった。ただ、彼女の冷ややかで、何の感情も映さない瞳をじっと見つめている。あまりにも美しく、そしてあまりにも遠い、拒絶の瞳。詩織が踵を返そうとする直前、彼はようやく口を開いた。「ここ数日、父の体調が思わしくないんだ。もし可能なら、これから顔を見せてやってほしい」おじ様が病気に?それは初耳だった。このところ、AI『ココロ』や『光復』の上場準備で殺人的な忙しさだったため、海雲の見舞いにはとんとご無沙汰していたのだ。近況を知る由もなかった。「わかったわ」詩織は短く応じ、用件はそれだけだろうと再び立ち去ろうとする。しかし、背中越しに声がかかった。「それと、おめでとう」
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第612話

小春をようやく寝かしつけた詩織は、ふとスマホの画面に目を落とした。ミキからメッセージが届いている。【ねえ詩織、私また資産増えちゃった?】【へっへっへ、私もいよいよ小金持ちの仲間入りね!】【ていうかさ!ゲス帆の会社、上場審査落ちたってマジ!?】その後に続くのは、六十秒いっぱいに吹き込まれたボイスメッセージが三連発。再生する勇気はなかった。うっかり押せば、苦労して寝かしつけた小春が起きてしまう。それに聞かずとも、内容は想像がつく。ミキのふざけたアカウント名『六十秒の美少女戦士』は伊達じゃない。彼女のエネルギーは今日も健在だ。詩織は慣れた手つきで文字を打った。【あんた今、山奥で撮影中じゃなかったの?よくそんな暇あるわね】送信から二秒も経たないうちに、ミキからビデオ通話がかかってきた。マナーモードにしておいて正解だった。詩織はスマホを握りしめ、そっとバルコニーへ出て窓を閉めてから応答ボタンを押した。「詩織ィィィ!愛してるーっ!!」開口一番の絶叫に、詩織は思わず顔をしかめる。「ちょっと、まともに喋って」「これ以上ないくらい本心からの叫びよ!」画面の向こうで、ミキはこれでもかと愛想を振りまいている。「あんたは今や私の福の神!金のなる木!私、一生あんたについて行くからね!絶対離れないんだから!」詩織は呆れて額を押さえた。「で、早く教えてよ!あのゲス帆、審査落ちたって知った時どんな顔してた?泣き叫んで地面転がり回ったりした?」「そこまではしてないけど……まあ、似たようなものかもね」詩織は声を潜め、志帆が手を染めていた高レバレッジ取引について打ち明けた。ミキも腐っても元は経済学部の出身だ。その数字の意味するところはすぐに理解したらしい。「五十倍!?あいつ、腹の中まで真っ黒ね!上場した途端に株価吊り上げて、個人投資家から搾り取る気満々だったってわけ?」ミキの声に怒気が混じる。「審査落ちて正解よ! 通ってたら何人の人生が破滅してたか……考えただけでゾッとするわ」「ほんっと、根っからの悪党!あのクズ也とお似合いのカップルだこと!」ミキは勢いそのままに、流れ弾のごとく柊也まで罵倒の対象に加えて息巻いた。話が柊也に及ぶと、詩織は今夜起きた出来事を打ち明けた。彼の不可解な行動と、真意の読めない言葉
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第613話

「ちぇっ、つまんない男」ミキは露骨に舌打ちした。せっかく最高の女・詩織を手放したことを後悔して、地団駄踏んで狂い咲く柊也の無様な姿を拝めると思ったのに。蓋を開けてみれば、この始末だ。「血も涙もない冷血漢ね!あーあ、どっかいっちゃえ!」ミキは、これ以上不吉な男の話をして運気が下がるのを嫌ったのか、話題を譲へと移した。もちろん、これも密からのリーク情報だ。「先に言っとくけど、私、坂崎はナシだから!」ミキは開口一番、高らかに宣言した。「なんて言うのかな……そう、『晴れの日に友は来るが、雨の日に友は来ず』ってやつ?」「昔、あいつ散々あんたのこと小馬鹿にしてたじゃない。それがあんたが出世した途端に尻尾振ってすり寄ってくるとか、どういう神経?」「母親がいい人だからって騙されちゃダメよ! 向こうは今、あんたが『絶好調』だからチヤホヤしてるだけ。もし明日あんたがすべてを失ったら?手のひら返すに決まってるわ」「上流階級なんてそんなもんよ。何より利益が最優先。価値がなくなれば、見向きもしない」「ほんっと、腐ってる!」機関銃のようにまくし立てるミキに、詩織は思わず笑ってしまった。「ずいぶん詳しいのね、実体験でもあるの?」「……うっ。ドロドロ系のドラマ見すぎただけよ」一瞬言葉に詰まった後、ミキは開き直った。「まあ、そこまで深くは考えてないけど……私も譲には興味ないわ」「でしょうね。今のあんた、まるで出家でもしたみたいに色気がないから。誰かにときめいてる姿なんて、とても想像できないわよ」そこまで言って、ミキは思い出したように毒づき始めた。「それを思うと、あの京介よ!せっかくあんたの心をちょっぴり揺さぶれたのに、肝心なところで引っ込んじゃってさ!どこまで臆病なのかしらね?」意気地なし!せっかく私がこれまで応援してあげてたのに!ミキの悔しそうな声が聞こえてくるようだ。「……ま、縁がなかったってことよ」詩織はさらりと受け流した。恋愛は人生の必須科目ではない。良い風が吹けば乗ればいいし、吹かなければそれまでだ。「よし、こうなったらターゲット変更!頑張れ篠宮室長!今の推しはあなたよ!」「はいはい、話が飛躍しすぎ」妄想を暴走させ始めた友人を、詩織は冷静に制した。「もう遅いわ、明日も撮影でしょ?私もそろそろ
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第614話

その夜、詩織はまともな眠りにつくことができなかった。彼への想いを完全に断ち切ってからというもの、こんな風に柊也のせいで眠れぬ夜を過ごすのは初めてのことだった。空が白み始めた頃、詩織は迷わず海雲へ電話をかけた。海雲には早起きして鯉に餌をやる日課がある。その習慣を彼女はよく知っていたから、時間を狙ってかけたのだ。受話口から聞こえてきた海雲の声は、いつもより少し枯れていて、張りがないように感じられた。詩織はまず、体調を気遣った。「ああ、少し前にインフルエンザにかかってしまってね。もうあらかた良くなったよ。主治医にも診てもらってるし、心配はいらん」「本当ですか?他にお変わりはありませんか?」「うん、すべて順調だよ」その言葉に、詩織はひとまず胸を撫で下ろした。どうやら、考えすぎだったのかもしれない。電話を切ろうとしたその時、部屋のドアが開き、密が顔を出した。「詩織さん、埠頭へ向かう車は十時出発です。九時半にはロビーに降りる必要があるので、今から荷造りしちゃいますね。あっ、あとリゾート用のグッズは全部買っておきました!水着に日除けの帽子、サングラス、日焼け止め……私のスーツケースに入れてあるんで、船に乗ったらすぐお部屋に持っていきます!」詩織は頷いて了承した。受話器の向こうの海雲は、そのやり取りを耳にしていたようだ。「これから旅行かね?」「ええ、このところ皆よく頑張ってくれたから。ちょっとした社員旅行です」「それはいい。君自身も働き詰めだったから、ゆっくり羽を伸ばしてくるといいよ」海雲の声には、心からの賛同が滲んでいた。そして、父親らしい気遣いも忘れない。「楽しむのも大切だが、くれぐれも気をつけてな」「はい。G市に戻ったら、改めてお見舞いに伺いますね」「ああ、待っているよ」海雲の無事を確認できて、胸のつかえが取れた気分だった。埠頭へ向かうバスの中で、ガイドからアナウンスがあった。「クルーズ船が出航すると、皆様の携帯電話は圏外になります。船内Wi-Fiもございますが、少々お高くなっておりますので……この機会にデジタルデトックスを兼ねて、今のうちにご連絡を済ませておかれることをお勧めします」車内では、社員たちが一斉にスマホを取り出し、家族や恋人への連絡を始めた。詩織は既に母の初恵に伝えてあるため
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第615話

詩織は一度辞退したが、響太朗は譲らなかった。「感謝の気持ちだけじゃないんだ。小春のために、少しでも静かで落ち着ける環境を用意してやりたくてね。あまり刺激が強いと可哀想だから」そう言われては、断るわけにもいかない。案内された最上階のラグジュアリースイートは、息を呑むほど快適だった。窓の外に広がるパノラマビューはまさに絶景だ。どこまでも続く紺碧の海と、遮るものない水平線。その雄大な景色は、陸でのいざこざをちっぽけなものに変え、張り詰めていた心の糸を解きほぐしてくれる。この一年、休むことを知らぬ機械のように働き続けてきた彼女の身体に、ようやく本当の安らぎが訪れたようだった。最初の二日間、詩織は小春と共にほとんど部屋から出ることなく過ごした。お腹が空けばルームサービスを取り、眠くなれば微睡む。そんな怠惰で平和な時間のおかげか、小春の状態はすこぶる良かった。以前のように塞ぎ込むこともなく、小鳥のようにさえずりながら詩織に話しかけ、その頬には久しぶりに無邪気な笑みが戻っていた。三日目の夜は、会社のスタッフ全員での食事会だった。詩織は小春も連れて参加した。皆、無礼講で飲み食いし、宴は大いに盛り上がった。食後、詩織は腹ごなしに小春を連れてデッキへ出た。頬を撫でる海風が心地よい。「あ、イルカ!」小春が良い目をして叫んだ。船の先導をするかのように泳ぐイルカの群れを見つけ、嬉しそうに詩織の手を引く。デッキにいた他の乗客たちも、歓声を上げて一斉に手すりの方へ集まってきた。小春はするりと身を翻し、泥鰌のように人混みの中へと潜り込んでいく。詩織が不意に誰かとぶつかり、頭を下げている、ほんの数秒のことだった。ふと顔を上げた時には、すでに小春の姿は波のような人だかりに飲み込まれて消えていた。「小春ちゃん!?」詩織は慌てて周囲を見回した。通りかかったクルーに尋ねると、女の子なら右舷の方へ走っていったと教えてくれた。彼女は急いで右舷へ向かった。道ゆく人に聞き込みを続け、ようやく手すりの前に佇む小春の背中を見つけた。詩織は安堵の息を吐き、名前を呼びながら駆け寄った。だが、小春は振り返らない。アーチをくぐり抜け、その小さな肩に手を伸ばそうとした、その瞬間――小春が突然、火がついたように泣き出した。異変を感じる間もな
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第616話

「私を三歳児か何かだと思ってない?そんな見え透いた嘘、通じるわけないでしょ?」静姫の顔が、般若のように歪む。完全に妄執に取り憑かれている。何を言っても無駄だ。「……じゃあ、どうすれば信じてくれるの」「簡単よ」静姫は昏い笑みを浮かべた。「あんたが死ねば信じてあげる」「だって、死人に口なし。死体だけは嘘をつかないもの!」「狂ってる……!」詩織の背筋に冷たいものが走った。目の前の女の瞳には、狂気が渦巻いている。今の時間はメインホールで盛大なパーティーが開かれている最中で、客のほとんどはそちらに集まっているはずだ。おまけに、この客室の防音性能は完璧に近い。いくら大声で叫んだところで、誰の耳にも届かないだろう。だからこそ、静姫はこうも堂々と凶行に及べたのだ。それに、詩織はこの二日間部屋に籠りきりだった。数時間姿が見えなくなったところで、誰も不審には思わない。焦りが胸を焼く。そんな詩織の心中を見透かしたように、静姫は狂った笑い声を上げた。「無駄よ、諦めなさい!この船はね、我が香川家の持ち物なの。おまけに今は公海上――法も警察も届かない場所よ。私が何をしようと、誰も文句は言えない。誰もあんたを助けには来ないのよ」詩織は息を呑んだ。彼女がここまで大胆な行動に出られた理由が分かった。この豪華客船自体が、香川グループの傘下だったのだ。もし本当に彼女の言う通り、ここが公海上だとしたら……総毛立つような悪寒が全身を駆け巡る。相手が理屈の通じる人間なら、時間稼ぎもできただろう。だが、相手は正真正銘の狂人だ。静姫は、詩織に思考する猶予すら与えなかった。彼女が顎で合図すると、控えていた屈強な男たちが無言で動き出し、詩織の両脇を抱え上げた。そして、そのまま荒々しくバルコニーへと引きずり出した。死の淵に立たされ、詩織は本能のままに叫んだ。「助けて!」と。静姫は昏い笑みを浮かべながら、バルコニーへと追ってきた。海風に煽られ、赤いドレスの裾が狂ったように翻る。その姿は、この世のものとは思えぬほど異様だった。「可愛いわね」静姫は、詩織の必死さを嘲笑った。「これまで義兄様に媚びを売った女たちも、海に投げ込まれる前はあんたと同じように泣き叫んでいたわ。でも、どうなったと思う?……みんな、仲良く鮫の餌よ」どんな修羅場も冷静に
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第617話

次の瞬間、静姫の身体がボールのように宙を舞った。響太朗に蹴り飛ばされたのだ。慌てて部下が受け止めなければ、彼女自身も海へ放り出されていただろう。静姫がよろめきながら体勢を立て直すより早く、黒い影が疾風のごとくバルコニーを駆け抜けた。そいつは一切の躊躇もなく手すりを乗り越え、荒れ狂う暗黒の海へと身を躍らせた。詩織はカナヅチだった。これまで生きてきて、泳げないことが死活問題だなんて思ったこともない。けれど今この瞬間、彼女は痛感していた。泳ぐというスキルが、どれほど生命に直結するものだったかを。冬の海は、想像を絶するほど冷たかった。海面に叩きつけられ、もがく間もなく波に飲まれる。まるで無数の氷の針が全身を突き刺すようだ。冷気は薄いドレスを容易く貫通し、毛穴という毛穴から侵入して骨の髄まで凍てつかせる。悲鳴を上げる暇すらなかった。底知れぬ深淵が、貪欲な巨大生物のあぎとなって詩織を飲み込んだのだ。塩辛い水が容赦なく口や鼻へとなだれ込んでくる。強烈な潮の匂いと、喉を焼くような不快な刺激。窒息の恐怖が、影のように絡みつく。肺が見えない万力で押し潰されていくようだ。酸素が急速に失われ、脳内で赤いサイレンがけたたましく鳴り響く。詩織は必死に手足をばたつかせ、何かを掴もうともがいた。藁一本でもいい。何か縋れるものが欲しい。だが、指の間をすり抜けていくのは、冷たく、重く、どこまでも続く絶望的な海水だけ。身体は意思に反して、深く、暗い底へと沈んでいく。視界の彼方で、船上の灯りがゆらゆらと滲み、遠ざかっていくのが見えた。意識が闇に溶けようとした、その刹那。頭上の水面が、激しく泡立った。……猛烈な窒息感とともに、詩織は覚醒した。「はっ、ぐ、ぁ……っ!」求め続けた空気を肺が認識した瞬間、詩織は貪るように呼吸を繰り返した。ヒューヒューと喉が鳴り、肋骨が軋む。その痛々しい呼吸の音だけが、自分が地獄の淵から生還したことの証左だった。ふと、バルコニーの方角から怒声が聞こえた。響太朗が誰かと電話をしている。その背中に、いつもの穏やかな紳士の面影は微塵もない。あるのは、氷のような冷徹と、抑えきれない激情だけだ。「泣きつかれたところで無駄です。彼女は一線を越えた。人を傷つけた以上、相応の報いを受けてもらいま
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第618話

「高坂さんが、詩織さんを助けたんですか?」密は目を丸くして驚きの声を上げた。「それ、ものすごい借りになっちゃうんじゃ……」密は詩織のために温かいスープを器によそいながら、ふと思い直したように首を振った。「いえ、違いますね。そもそも詩織さんが誘拐されたのは、あの狂った義妹のせいなんだから。高坂さんが助けるのは当然の義務です!借りなんかじゃありません!」「そう単純に割り切れる話でもないけどね」詩織はそこまで深く考えていない様子で、苦笑混じりに答えた。「私のせいです。やっぱり、私がずっとそばについているべきでした」密の声が湿っぽくなる。どうやら、自責の念に駆られているようだ。「防ぎようがなかったのよ。あなたを責めたりしないわ」まさか静姫があそこまで常軌を逸した行動に出るとは、誰も予想できなかったのだ。そもそも静姫とは、過去に一度顔を合わせた程度の関係でしかなかった。一寸先は闇と言うが、いつどこから災厄が降りかかるかなんて、誰にも分かりはしない。それでもまだ沈み込んでいる密を見て、詩織は努めて明るく振る舞った。「せっかくの社員旅行なんだから。これ以上気に病まないで、もっと肩の力を抜いて楽しめばいいのよ」密はようやく少し顔を上げたが、その表情は真剣そのものだった。「……やっぱり、女性のSPを増員しましょう。男性だけじゃ、どうしてもカバーしきれない場面があります」クルーズともなればプールやスパを利用することもある。男性であるアシスタント兼SPの瀬川湊が踏み込めない場所で隙が生まれた、というのが密の分析だ。こればかりは詩織が何を言っても聞き入れそうにないので、好きにさせておくことにした。「そういえば、あの狂った女……かなり重傷らしいですよ。肋骨が四本も折れてるって」密も人づてに聞いただけのようだが、声を潜めて教えてくれた。「どうしてそんなことに?」詩織は不思議そうに眉をひそめた。海に突き落とされる直前まで、静姫は異様なほど元気だったはずだ。密も首をひねる。「さあ……誰かに蹴り飛ばされたらしいです」「高坂さんが?」詩織は驚きを隠せなかった。「意外ね。そんな乱暴なことをする人には見えないけれど」「ですよね。すごく穏やかで紳士的な方じゃないですか。それに相手は義理の妹ですし……いくらなん
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第619話

もし柊也が、エイジア・キャピタルの全資産を投じてこの穴埋めをするなら、間違いなく破産するだろう。五十一倍のレバレッジ。柏木志帆はどういう神経でそんな博打を打てたのか。だが、今のところ柊也側からの公式発表は一切ない。彼が最終的に志帆を救うのか、それとも切り捨てるのか。詩織を含め、誰にもその心中は読めなかった。一方、江ノ本市。志帆は自宅に篭もって五日目を迎えていた。一歩も外に出ることができない。分厚い遮光カーテンは閉ざされたままで、明かりをつけることさえ躊躇われた。彼女の世界は今、この薄暗い部屋と同じように、出口のない闇に包まれている。佳乃がスープを盆に載せて部屋に入ってきた。だが、志帆に食欲などあるはずもなく、匙を持とうともしない。佳乃はしばらくあれこれと勧めていたが、諦めたようにスープをサイドテーブルに置くと、問いかけた。「柊也くんからは、まだ連絡ないの?」毎日、判を押したように繰り返される質問。そして答えもまた、変わることはない。「あの子、一体何をやってるのよ」佳乃は苛立ちを隠せない様子だった。「こっちは今にも火が付きそうな騒ぎだって言うのに、彼は海外を飛び回ってばかりじゃない!」「資金を……かき集めてるって」志帆の声は乾いてひび割れていた。「穴が大きすぎるから」その言葉に、佳乃の険しい表情がいくぶん和らぐ。「まったく、遠回りなんだから。賀来グループの本社はここ江ノ本にあるのに、わざわざ海外で金策なんて」「柊也くんと賀来本家は、ビジネス上は完全に切り離されてるの。利益相反になるから、グループの資金を勝手に動かすことはできないわ」「そんな建前、今さらどうでもいいじゃない。賀来グループはいずれ彼のものになるんでしょ?先に使うか後に使うかの違いだけよ」佳乃には、そんな理屈など通用しなかった。「彼が独立する時、海雲おじさんと契約を交わしてるから」「だから何よ?」佳乃は目を細め、冷たく言い放った。「彼は海雲さんのたった一人の息子よ。グループの金は、彼以外に誰が使うって言うの?」志帆の頭の中はぐちゃぐちゃで、そんな議論をする気力も残っていなかった。娘の憔悴しきった様子を見て、佳乃もそれ以上の追求はやめた。「まあいいわ。とにかく少しでもお腹に入れなさい。大丈夫、まだ絶望するには早
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第620話

クルーズ最後の夜。詩織はスイートルームのバルコニーに設えられたジャグジーに身を沈め、潮風に当たっていた。海は珍しく凪いでいる。空には満月が掛かり、夜の帳は漆黒ではなく、柔らかな群青色を帯びていた。頭上に広がる満天の星空は、息を呑むほどに美しい。静寂と湯気が織りなす、完璧なひととき――のはずだった。階下のデッキから聞こえてきた男女の口論が、その静寂を破った。「やめて!お願いだから、そのお金まで賭けないで!」女性の悲痛な叫び声だ。「やるしかねえんだよ!手術費が足りなきゃ、園長先生は来週までもたねえんだぞ!」風に乗って届く断片的な会話から、事情はおおよそ察しがついた。恋人同士の痴話喧嘩ではないらしい。同じ児童養護施設で育った幼馴染みが、育ての親である園長の治療費に困窮しているようだ。追いつめられた男の方は、一か八か、船内のカジノで最後の賭けに出ようとしている。典型的な破滅のパターンだと思いながらも、詩織は黙って耳を傾けていた。やがて足音と共に二人の気配は遠ざかり、結末がどうなったのかを知る術はなくなった。湯船でさらにしばらく体をほぐしてから、詩織は寝室へと戻った。バスローブを羽織って髪を拭いていると、密がドアをノックして顔を出した。「詩織さん、少し船内を散策しませんか?せっかくの旅行なのに、ずっとお部屋に缶詰でしたから」今夜は珍しく予定が空いている。小春はカウンセリングルームで催眠療法を受けているため、今夜は来ないことになっている。詩織は頷き、着替えて密と共に下のフロアへ降りることにした。オープンデッキのパーティー会場に到着すると、ツアーの同行者たちが勢揃いしていた。妙だ。皆の表情がどこか浮き足立っていて、興奮を隠しきれていない。特に詩織に向けられる視線には、明らかな期待の色が滲んでいた。だが彼女が訝しげに見つめ返すと、誰もがさっと目を逸らす。「詩織さん、どうぞこちらへ。ここが一番の特等席ですから」スタッフのひとりが、慌てたように席を空けて勧めてきた。「特等席って、何の?」詩織が微笑んで尋ねると、「い、いえ、何でもないです……」と、言葉を濁されてしまう。高まる違和感を抱きつつ周囲を見渡すと、一人の姿が見えないことに気づいた。智也だ。彼がいない理由を尋ねようとした矢先、前
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