偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ のすべてのチャプター: チャプター 221 - チャプター 230

256 チャプター

第221話

奈穂は特に不思議には思わなかった。誰にでも、他人には話したくない事情の一つや二つはあるものだ。「それに、その町は本当に小さくて、住んでいる人も多くないの。あそこの人たちは私たちの地元料理が口に合わないみたいで、彼女のレストランはほとんど客がないのよ。でも本人は全然気にしてなくて、娘さんを連れてそのまま住み続けてるの。どうして娘さんを連れて大きな都市に引っ越さないのか聞いたら、静かな暮らしに慣れたからって。ただ……収入源はどこにあるんだろうって。見た感じ、別にお金に困っている様子でもないのよね」紗里がそこまで話すと、奈穂も思わずその女性に興味を抱いた。「名前は?」「彼女は……」紗里が言い終える前に、突然ドアをノックする音が響いた。「たぶん、来たんだと思う。私、開けてくるね」紗里は立ち上がり、玄関へ向かった。奈穂も立ち上がり、挨拶をしようと後に続く。ドアが開くと、外に立っていたのは母娘だった。「来たのね」紗里はにこやかに小さな女の子の頭を撫でた。女の子は甘えるように紗里を見上げて「おばさん!」と呼んだ。「はいはい、いい子ね」「本当に帰国するの?」女性は残念そうな表情で言った。「来月、うちに招待しようと思ってたのに。まだ紗里さんが食べたことのない得意料理もいくつもあるのよ」「仕方ないわ。やっぱり家が恋しくて」紗里は苦笑した。「ここは、やっぱり私には合わないみたい」そう言ってから、紗里は道を空けた。「さあ、入って座って。ここに友達もいるの。紹介するね。こちらが私の親友、水戸奈穂さん。奈穂、こちらが真野美礼(まの みれい)さんで、娘さんのルルちゃん」「はじめまして」美礼は微笑みながら奈穂に挨拶した。けれど、奈穂はなぜか何の反応も示さなかった。実際、先ほど美礼の顔を見た瞬間から、奈穂はその場に固まっていた。そして紗里の口から「真野美礼」という名前が出た途端、奈穂の心は大きく揺さぶられた。真野美礼――その名を聞いた瞬間、すべてを悟った。彼女だ。あの運転手の妻。二年前、奈穂が遭ったあの交通事故。その加害者である運転手の妻、真野美礼。以前、運転手が獄中で自殺したと知った後、奈穂はすぐに彼の家族を調べさせていた。事故に関する何かを、家族も知っている可能性があったからだ。一つの手がかりも、見逃すわ
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第222話

「別に大したことじゃないの。ただ、夫と折り合いが悪くて、離婚するつもりなだけ」紗里は、さらりとそう言って話を流した。あの夜の出来事は、今でも彼女の心に深い傷として残っている。もう二度と口にしたくない。そう聞いて、美礼はそれ以上踏み込まなかった。離婚に至るほどなのだから、きっと相当深刻なことがあったのだろう。紗里が語らない以上、執拗に尋ねるのは失礼だ。「おばさん、本当に国に帰っちゃうの?」ルルは目を大きく見開いて尋ねた。「いいなあ。ルルも帰りたい!ここ、全然よくない。好きじゃないの。おうちに帰りたい、パパに会いたい」言い終えるや否や、美礼は慌てて娘の口を塞ぎ、きつく叱った。「ルルちゃん、余計なこと言わないの!」ルルは悔しそうに唇を噛み、涙をいっぱいに溜めた。「まあまあ、まだ小さいんだもの。お父さんに会いたくなるのも当然よ……」紗里が慌てて場を取り繕った。美礼は気まずそうに笑ったが、その表情はどこか複雑だった。その一部始終を、奈穂は静かに見つめていた。美礼を見据えながら、奈穂は指先に力を込める。――やはり、この人は何かを知っている。少なくとも、あの時の交通事故については確実に把握しているはずだ。でなければ、娘を連れて海外に身を隠すような真似はしないし、娘が父親の話題を出しただけで、あそこまで過敏な反応を見せるはずがない。紗里が言っていた。美礼の店はほとんど客が入らないのに、生活に困っている様子はない、と。――あの時、水紀が運転手を買収するために使った金額は、相当なものだったはずだ。北斗が後始末をするにも、金は必要だった。つまり、美礼が今使っている金は、自分が味わったあの大きな苦しみと引き換えに得たものなのだ。すべての事実がつながった。「海外で同郷の人に出会えるなんて、なかなかないわよ。しかも、あんなに辺鄙な場所に住んでいるならなおさら」紗里は名残惜しそうに言った。「町の人たちはみんな親切だったけど……やっぱり、お互いよく知らないもんね」「そういえば、どうしてルルちゃんを連れて帰国しないの?」紗里は勧めるように言った。「ずっとここにいる理由は?あそこ、子どもも少ないし、ルルちゃん、友達もいないでしょ。帰国した方がよくない?」美礼の瞳に、はっきりと憧れの色が浮かんだが、それでも彼女は静かに首
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第223話

水戸家のボディガード宛てのものもあれば、正修宛てのものもあった。そして今、その全員からすでに返信が届いていた。素早くメッセージに目を通したあと、奈穂は顔を上げ、美礼を見つめた。「食事の前に、ひとつだけ真野さんにお聞きしたいことがあります」美礼は少し意外そうだったが、すぐに微笑んでうなずいた。「どうぞ」「ご主人は真野文彦(まの ふみひこ)さん、ですよね?」真野文彦。それは、あの時の事故を起こした運転手の名前だ。その名前を耳にした瞬間、美礼の笑顔は凍りついた。顔色は一気に失われ、瞳には恐怖が浮かんだ。「な……あなた、誰なの?どうして……」奈穂は答えなかった。ただ、黙って美礼を見つめる。次の瞬間、美礼は娘を抱き上げ、ドアへ向かって駆け出した。「ちょ、ちょっと、どうしたの……?」紗里は茫然としたまま立ち上がったが、その時には美礼はすでに部屋のドアに到達していた。極度の恐怖の中で、美礼は片腕で娘を抱え、もう一方の手でドアを開けた。だがドアを開けた瞬間、美礼はその場に立ち尽くした。廊下には、すでに数人のボディガードが立ちはだかり、無表情で美礼を見下ろしていたのだ。美礼は娘を強く抱きしめ、振り返って奈穂を見た。涙が今にもこぼれ落ちそうだ。「あなた……いったい、何者なの?」「分かっているでしょう?」奈穂の目元は次第に赤くなり、彼女はそっと自分の右脚を叩いた。「真野さん。この脚は、ご主人に轢かれて、二度と踊れなくなったんですよ」――しかも、あの事故で、自分は死にかけた。医者は言った。助かったのは奇跡だと。両脚とも失う寸前だった。左脚を残すためにどれほどの苦労をしたか分からない。さらに想像を絶する痛みに耐え、長いリハビリを続けて、ようやく右脚も普通に歩けるようになった。だが――踊ることだけは、もう二度とできない。自分は、あれほどダンスを愛していたのに。奈穂の言葉を聞いた瞬間、美礼は悲鳴を上げ、涙を大粒でこぼした。「あなた……あなただったの……」「ちょ、ちょっと、何の話なの?」紗里は衝撃を受けた様子で、美礼と奈穂を交互に見た。「奈穂、交通事故に遭ったことがあるの?脚って……」「紗里、少しの間、別の場所に行ってもらえる?」奈穂は言った。「真野さんと、話したいことがあるの」紗里はまだ状況を完全に理解で
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第224話

美礼は苦しげに目を閉じた。――そうだ。ルルに、父親がギャンブル狂で、しかも他人から金を受け取って、わざと人を轢いたなどという事実を、知らせるわけにはいかない。再び目を開けたとき、美礼はついにルルを紗里に差し出した。「お願い……この子を、ちゃんと守ってあげて」「安心して」紗里ははっきりと言った。「私の命にかけて誓う。ルルちゃんは絶対に傷つかない」そう言い切れたのは、奈穂を信じているからだ。奈穂が「この子に危害を加えない」と言った以上、それは間違いなく真実だ。「……ありがとう」紗里はルルを抱き上げ、部屋を出て行った。何も分からないルルは怯えきっていて、紗里は抱きしめながら何度も声をかけ、これからおいしいものを食べに行こうと宥めた。「じゃあ……ママは?どうして一緒に来ないの?」ルルはしゃくり上げながら尋ねた。「お母さんはね、あのおばさんとお話があるの。あとで迎えに来るから、いい子にしていようね」二人が去ったあと、正修が部屋に入ってきて、奈穂の隣に腰を下ろした。美礼という女が突発的に取り乱し、奈穂に危害を加える可能性を完全には否定できない。だからこそ、彼は奈穂のそばにいなければ安心できない。それに、当時の事故の話題に触れれば、奈穂の感情が不安定になるかもしれない。彼は、それを奈穂一人で背負わせたくなかった。美礼は正修が誰なのかを尋ねることもなく、奈穂の前に座った。両手は激しく震えている。「あなたが……あの時の被害者だったのね。まさか……生きているうちに、こうしてあなたに会うことになるなんて……」美礼は嗚咽をこらえながら言った。「本当に……私たちは、あなたに取り返しのつかないことをした……」「じゃあ」奈穂は美礼をじっと見据えた。「当時の事故の真相を、真野さんは知っている。そうでしょう?」ほんの少し前まで、奈穂は感情を失いかけていた。二年前のあの交通事故――自分の脚を奪った出来事は、今もなお心に深く突き刺さった、消えることのない痛みだからだ。だが、すぐに冷静さを取り戻した。真の黒幕は、水紀。そして、代償を払うべきなのも水紀、さらに水紀を庇った北斗にほかならない。美礼に向かって感情を爆発させても、何の意味もない。今すべきことは、美礼から確かな手がかりを引き出すことだけだ。「……私は……
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第225話

美礼はローテーブルの上に置かれたティッシュボックスから何枚か取り出し、涙を拭った。感情を必死に落ち着かせようとしている様子だ。奈穂は急かすこともなく、辛抱強く待っていた。しばらくして、美礼はようやく冷静さを取り戻した。「私の夫、文彦は……三年前からギャンブルに溺れるようになりました。たった一年も経たないうちに、家財一切を失い、多額の借金まで背負ったんです。その頃の私は、毎日が不安で、死にたいと思ったことも何度もありました。借金取りはひっきりなしに家に押しかけてきて……ルルを連れ去られそうになったことさえあったんです……」「要点だけ話せ」正修が冷ややかに遮った。彼には、美礼たちの「苦労話」に耳を傾ける気などない。美礼はびくりと肩をすくめ、それでも言葉を続けた。「それからある日、文彦が突然私の前に現れて、通帳を一冊押し付けてきました。誰かに『ある仕事』を頼まれた、その前金だって……うまくいけば、さらに大金が手に入る。そうなれば借金も返せるし、どこかへ行ってやり直せる、って……」その通帳には、二千万が入っていた。美礼は愕然として、何をするつもりなのか何度も問い詰めた。でも文彦は決して話そうとせず、ただ「自分が間違っていた」「必ず償う」「お前とルルを幸せにする、いい暮らしをさせてやる」と、そればかり繰り返していた。美礼には分かっていた。これほどの金を手にできるような「仕事」が、まともなはずがない。止めるべきだと思った。けれど、現実には明日の食事にも困り、毎日借金取りに追われていた。あの連中は、逃げても必ず見つけ出してくる。どこまで行っても逃げ場などない。――ほんの一瞬の迷いだった。美礼は、ついに止めることができなかった。数日後、文彦は再び美礼の前に現れた。顔は真っ青で、全身を震わせながら言った。「……人を轢いた。たぶん、もうすぐ警察が来る。心配するな、外から見れば事故にしか見えない。刑務所に何年か入れば、また出てこられる。明日、誰かがお前の口座に金を振り込む。分けて振り込むけど、全部で四千万くらいになるはずだ。これで借金を全部返して、債権者たちを追い払え!それからルルを連れて、どこか別の場所に身を隠せ。俺が出てきたら、必ず迎えに行くから……!」その瞬間、美礼はようやく理解した。文彦が金を受け取ってやろうとしていたこと―
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第226話

その人物は美礼にこう告げた。さらに一億円を渡す。その代わり、この件については完全に口を閉ざすこと。ルルを連れて海外へ行き、二度と戻ってくるな、と。さらに――文彦が出所した後には、三人で海外で新しい人生をやり直せる、とも言った。一億円という金額は、美礼の心を大きく揺さぶった。それに彼女自身、いつか誰かが訪ねてきて、あの交通事故の真相を問いただされるのではないかと、ずっと恐れていた。結局、彼女はその一億円を受け取り、ルルを連れて海外へ出た。当初は、今彼女がいる国ではなかった。だが、どこへ行っても、常に誰かに監視されているような気がしてならず、心が落ち着かなかった。だから、ある雨の夜。彼女はこっそりルルを連れて逃げ出し、密航船に乗って今いるこの場所へ辿り着いた。さらに、人里離れた小さな町を見つけ、そこで身を潜めることにした。実のところ、その町に落ち着いた後、彼女は大金を払って闇市で偽の身分を用意していた。普段、人に尋ねられても名乗るのはすべて偽名だった。けれど――紗里という同郷の人間に出会ってしまったことで、美礼はつい気が緩んだ。嬉しさのあまり、思わず自分の本名を口にしてしまったのだ。言った直後に後悔した。だが、紗里は特に反応を示さず、以前と変わらず楽しそうに話し続けてくれた。それを見て、美礼は少し安心し、「大丈夫、そんな偶然あるはずない」と心の中で思った。しかし、思いもよらず、「偶然」は本当に起こった。今日、紗里に会いに来たこの日に、自分はあの交通事故の被害者に出くわしてしまったのだ。彼らの家族にとって、最も申し訳ない相手――「……私が知っていることは、すべて話しました」美礼の声は、今も震えている。美礼は奈穂の顔を見ることができない。「水戸さん……本当に、ごめんなさい……この言葉が何の意味も持たないことは分かっています。でも……本当に、心から申し訳ないと思っています」この二年間、美礼は一晩として安らかに眠れたことがなかった。毎晩、良心に責め立てられ、寝返りを打ち続けていた。一円使うたびに考えてしまう。このお金は、一体どうやって手に入れたものなのか――と。国内へ戻り、名乗り出て、事故の真相を語ろうと考えたこともあった。だが、その思いは、いつもすぐに押し殺された。もし真実を話したら、文彦はどうなる?
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第227話

今になって思えば……自分はあの男の右耳の後ろに傷があるかどうかまでは確認できなかったが、美礼のもとを訪ねてきた人物と、あのとき病室の外にいた坊主頭の男は、同一人物である可能性が高い。「その一億も、君の口座に振り込まれたのか?」正修が尋ねた。「いいえ。あの坊主頭の男が用意した、新しい口座でした。偽名で開設したものかどうかは分かりませんが、口座番号と暗証番号はすべて私に教えてくれました。一度に大金を引き出すな、とも言われて……この国に来てから、少しずつこちらの通貨に換えていきました。その口座は、もう一年ほど使っていません」美礼は包み隠さず答えた。「その口座の情報、まだ覚えているか?」少し考えてから、美礼は頷いた。「……大半は覚えています」一億ほどの大金。しかもそれは、他人の血と引き換えに手に入れた金だ。だからこそ、その口座に関する情報は、美礼の記憶の中に深く刻み込まれている。長く使っていなくても、思い出すことができた。「書け」部屋には紙とペンが用意されていた。美礼は素直に応じ、覚えている限りの口座情報をすべて書き出し、正修に差し出した。正修はそれを受け取り、ざっと目を通すと、紙をしまった。奈穂は終始、黙ったまま。何かを考え込んでいるように見える。美礼は落ち着かず、俯いたまま、恐る恐る口を開いた。「わ、私……知っていることは、全部お話ししました。他に、私にできることは……ありますか?」「法廷で証言してもらうわ」奈穂は簡潔に言った。美礼の顔から血の気が引いた。「しょ、証言……私が、ですか?でも……」「あなたは真野文彦の妻だ。当時、彼が金を受け取って、故意に車で私を轢いたと話していたことも知っている。その証言には、十分な説得力がある」それが事実であることは、美礼自身も分かっていた。だが、心は激しく揺れている。もし自分が証言台に立てば――それは、自分の口で、文彦が「故意に人を轢いた」と告発することになるのではないか。……文彦は、自分の夫なのだ。それでも同時に、美礼ははっきりと理解している。これは、自分にとって最良の償いの機会であるということを。二年前、自分には真実を語る勇気がなかった。奈穂の苦しみと傷の上に成り立った金で借金を返し、その後も長く、不自由のない生活を送ってきた。――自分にも、罪がある。
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第228話

胸が張り裂けそうに痛んでいる。それでも――文彦が自らギャンブルに溺れ、莫大な借金を背負い、挙げ句の果てには金のために車で人を轢いたのだ。たとえ無期懲役を言い渡されたとしても、それは確かに自業自得だった。感情と理性が、美礼の頭の中で激しくせめぎ合っている。「どうやら、まだ知らないようだね」奈穂の声が静かに響いた。「真野文彦はもう、亡くなった」美礼の脳裏で、「ガン」と音が鳴ったかのように、思考が真っ白になった。勢いよく顔を上げ、信じられないという表情で奈穂を見つめる。「……死んだ?あの人が?どうやって?いつ?」「一年以上前。刑務所の中で、自殺」「そんなはずない!」美礼は叫ぶように立ち上がった。正修は眉をひそめ、とっさに手を伸ばし、奈穂をかばった。だが、美礼に攻撃の意思はなかった。美礼はただ、文彦の死という事実を受け入れられず、感情を爆発させているだけだ。「彼が自殺なんて、ありえない!出所したら、必ず私とルルのところへ来るって言ってた!ちゃんと償うって……やり直すって……そんな人が、どうして自殺なんて!」奈穂の胸にも、疑念が芽生えていた。最初に文彦が獄中で自殺したと聞いたとき、奈穂は深く考えなかった。だが今、美礼の話をすべて聞いた後では――どうしても腑に落ちない。文彦は、明らかに妻子を案じていた。出所後、必ず会いに行くとも言っていた。そんな男が、本当に自ら命を絶つだろうか。ひとつの言葉が、奈穂の脳裏に浮かんだ。――口封じ。「……本当に、死んだんですか……」美礼は力なく呟いた。「ルルに、なんて言えばいいの……お父さんはもう帰ってこない、お父さんは……死んだんだって……」奈穂と正修は視線を交わした。正修はスマートフォンを取り出し、電話をかけた。ほどなくして、正修の腹心である二郎がタブレット端末を手に部屋へ入ってきた。「九条社長、水戸社長。こちらが真野文彦の刑務所での記録です」二郎は画面を二人に向けた。「入所後の態度が良好だったため、刑務所長は減刑の上申も二度行ったが、いずれも却下されました。それでも、真野文彦本人は終始、前向きに減刑を目指していました。ほかの受刑者との関係も穏やかで、いじめや暴力沙汰は一切なし。記録上も、常に『情緒安定』とされています」――どう見ても、自殺する人物像ではない
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第229話

実のところ、奈穂の心の奥には、美礼に対するわだかまりも多少は残っていた。けれど奈穂は、誰を最も憎むべきなのかを、はっきりと分かっている。そして――本当に刑務所に入るべきなのは、誰なのかも。美礼がどんな理由で法廷に立つ決意をしたのかは、もはや重要ではない。美礼が証言するというのなら、それ自体が、一つの贖罪になる。美礼は黒幕が誰なのかまでは知らない。だが、文彦が金を受け取り、故意に車で人を轢いたという事実を証明できる。それが重要だ。正修は奈穂と並んで部屋を出ようとしたが、その直前、ふと足を止めた。振り返り、美礼を冷ややかに見据える。「覚えておけ。約束した以上、後戻りはできない」まだ深い悲しみに沈んでいた美礼は、その一言に心臓が跳ね上がり、慌てて何度も頷いた。「わ、分かっています……絶対に、後悔なんてしません」美礼には、守るべき娘がいる。何があっても、そのことを最優先に考えなければならない。正修はそれ以上何も言わず、歩き出した。部屋を出たあと、奈穂が口を開いた。「真野美礼を見つけたことは、絶対に秘密にしないと」「すべて手配する。君は何も心配しなくていい」正修は奈穂を見つめ、その瞳には隠しきれない心配が滲んでいる。「奈穂……大丈夫か?」奈穂は答えなかった。しばらくして、彼の肩にもたれかかる。そして、音も立てずに、涙がこぼれ落ちた。重要な証人を見つけられたことは、確かに嬉しい。だが同時に、あの時の交通事故の痛みが、鮮明によみがえってしまった。そして、自分はもう二度と踊れないという現実も。今の奈穂には、感情を吐き出す時間が必要だ。正修は手を伸ばし、彼女の背中を静かに撫で続けた。肩が涙で濡れるのも構わず、ただ彼女を受け止める。彼は分かっている。今の奈穂には、泣くことが必要なのだと。周囲の人間たちも察し、誰一人として彼らを見ようとはしなかった。でも奈穂は、長く泣き続けたわけではない。ほんの数分後、彼女は再び顔を上げた。気の利いたボディガードが、さっとティッシュを差し出した。正修はそれを受け取り、彼女の涙をそっと拭った。「大丈夫だ、奈穂」彼は低い声で言った。「俺は、ずっと君のそばにいる」白々しい廊下の照明が、奈穂の赤くなった目元を照らしている。彼女は深く息を吸い込み、喉に残った嗚咽
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第230話

奈穂がロリポップを受け取るのを見て、ルルの顔に、無邪気な笑みが浮かんだ。何かまだ話したそうにしていたが、奈穂の隣に立つ正修の存在に気づくと、少し怯んだようだ。正修は特に何かをしたわけでもなく、視線を向けたわけでもない。それでも、ルルには分かる。このおじさんは――なんだか、怖い。結局、ルルは奈穂にそれ以上話しかけることなく、くるりと向きを変えて部屋の中へ入っていった。紗里はルルについて行かず、その場に残り、奈穂を見つめたまま、何か言いたげに口を閉ざしている。ちょうどそのとき、正修のスマートフォンが鳴った。彼は一度は通話を切ろうとしたが、奈穂がそれを制し、もう大丈夫だと目で合図して、先に電話に出るよう促した。正修はそれでようやく少し脇に下がり、電話を受けた。紗里は奈穂の前に歩み寄り、その視線には、慎重さと、隠しきれない心配が入り混じっている。「奈穂……私、知らなかった……」奈穂が、あの交通事故に遭っていたこと。そして――片脚を、もう以前のようには使えなくなったこと。歩き方だけ見れば、一見すると大きな異変はない。だが、紗里は覚えている。奈穂は、踊るのが大好きだった。しかも、とびきり上手だった。大学一年の頃、学生会主催のパーティーがあり、どこかで奈穂のダンス動画を見たらしい先輩が、わざわざ寮まで訪ねてきて、奈穂に出演を頼み込んだ。あれほど熱心にお願いされて、最終的に奈穂は引き受けた。そして――あの一曲で、どれほどの人を魅了したことか。客席にいた紗里は、興奮して必死に声援を送っていた。……それなのに、今は。脚を痛めたということは――もう、踊れないということなのだろうか。そう思った瞬間、紗里の目に、じわりと涙が滲んだ。「ちょっと、何してるの」奈穂は苦笑した。「私、もう泣いてないのに。どうして紗里が泣くの?」「だって……つらいじゃない」紗里は目元を拭いながら言った。「普通に暮らしてたのに、どうして交通事故なんて……これ、美礼さんの旦那と関係あるの?彼が、奈穂を轢いたの?」「……うん」「事故?それとも……わざと?」怒りを隠さない声音だ。奈穂は、すべてを語ることはしなかった。ただ、静かに言った。「この件は、今は誰にも話さないで。真野美礼を見つけたことも含めて、一人にも」「分かってる」紗里は
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