偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ のすべてのチャプター: チャプター 231 - チャプター 240

256 チャプター

第231話

【久しぶりだね。みんな元気にしてる?】【紗里?どうしたの、急にグループ作って?】紗里はすぐに北斗の話題には触れず、こう返した。【ここ数年、みんな忙しかったでしょ。なんだか久しぶりに話したくなって。とりあえずグループ作ってみたの。そうそう、私、もうすぐ帰国する予定だから、時間が合えば集まろうよ】【いいね、私は大丈夫】【最近、みんな何してるの?】しばらく他愛もない会話が続いたあと、紗里は何気ないふりをして切り出した。【ねえ、今でも奈穂と連絡取ってる人いる?】【いや、ないけど。伊集院グループに入ったって聞いたよ】【そりゃそうでしょ、北斗が彼氏なんだから】【奈穂って運いいよね。お金持ちの御曹司を捕まえて】その言葉を見た瞬間、紗里の表情が一気に冷えた。指が勢いよくスマホを叩く。【何が『運がいい』よ。奈穂と付き合えたこと自体、北斗がとんでもなく運が良かっただけでしょ?それなのに、あのクズ、全然彼女のことを大事にしなかったんだから!】【大事にしなかったって、どういう意味?何か知ってるの?】【もう別れてるの!しかも北斗の浮気が原因!】その一言で、グループは一気に騒然となった。【え、本当?あり得なくない?二人ってずっと仲良かったじゃん。それに、最初は北斗のほうから猛アプローチしてたよね?あれ、相当派手だったし!】【奈穂あんなに綺麗なのに、浮気?】【綺麗かどうかは関係ないでしょ。男なんて……はぁ】【全然そんな人に見えなかった。人は見かけによらないって本当だね。私なんて、てっきり彼がまともな男だと思ってたのに。最悪】【紗里、どうしてそんなこと知ってるの?】【それは詮索しないで】紗里はそう書き込んだ。【とにかく、誰かが北斗を褒めてるのを見るだけでムカつくの。あとね、『奈穂は金持ちと付き合えて運がいい』とか言うのもやめて。彼女の実家だって十分裕福だし。奈穂は北斗に一途だったのに、あいつは平気で裏切ったのよ。気持ち悪すぎる!】【分かる……浮気する男って本当に無理】野次馬根性であれ、正義感であれ、この話を聞いたグループの面々は、次々と北斗への非難を口にした。そして噂は、一から十、十から百へと瞬く間に広がり、特に彼らと同じ学年の大学同級生の間では、ほとんどの人がこの件を知ることになった。ほどなくして、その話は北斗の
続きを読む

第232話

北斗の母校の学部長からまで、一本の電話がかかってきた。「その……北斗、いや、伊集院社長」学部長の声はひどく気まずそうだ。「今年の新入生入学式の進行に、少し変更がありましてね。ですので、伊集院社長のスピーチは……今回は、不要ということになりました」少し前、学部長は自ら電話をかけてきて、今年の入学式では優秀な卒業生代表として、北斗に壇上での講演をお願いしたいと言ってきた。北斗も、それを了承していた。それが今になって、突然「不要」だと言った。――ふん。進行変更だなんて、建前に決まっている。学校の上層部も、自分の不倫の噂を耳にして、影響が悪いと判断しただけだ。だからといって、北斗が厚かましく「それでも話させろ」と食い下がるはずもない。彼は感情を抑え、淡々と答えた。「……そうですか、分かりました」そう言って、電話を切った。深く息を吸い込み、心の中で自分に言い聞かせた。ああいう連中のことなんて、気にする必要はない。自分は堂々たる伊集院グループの社長だ。腹が立って、彼らと同じ土俵の上に立つ必要などない。それに今は、こんな些細なことで時間を割いている場合ではない。伊集院グループを立て直し、正修を叩き潰す――それが最優先だ。奈穂が再び自分のもとへ戻ってくれば、不倫の件は誤解だったと説明する機会はいくらでもある。そのときは、奈穂もきっと、自分のために弁解してくれるはずだ。北斗は気持ちを整え、病院へ向かった。逸斗とはずっと連絡が取れなかったが、今朝ようやく逸斗の部下を通じて、逸斗が負傷して入院していることを知った。協力関係にある相手として、顔を出さないわけにはいかない。だが、病室に足を踏み入れた瞬間、北斗は違和感を覚えた。逸斗の態度が、あまりにも冷淡なのだ。もっとも、逸斗は気分の浮き沈みが激しい男だ。機嫌が悪いこと自体は、珍しくもない。北斗は深く考えず、手にしていた見舞いの品を置き、気遣うように声をかけた。「秦さん、具合はいかがですか。少しは良くなりましたか?」「どう思う?」逸斗は冷笑した。「お前も、同じくらいの怪我をしてみるか?」「……」――何だ、喧嘩腰だな。理由もなく噛みついてくる。まあ、怪我のせいで気分が荒れているのだろう。そう自分に言い聞かせ、無理に笑顔を作って、さらに何か言おうとしたそのときだった。
続きを読む

第233話

北斗には分からない。――逸斗は、一体何に怒っているというのか。「理由?……いいだろう、教えてやる。今の俺はな、お前という人間が『ダメ』だと思ってる。ゴミ同然だってことだ。分かったか?」逸斗は露骨に苛立った様子で吐き捨てた。「分かったなら、さっさと出ていけ!」言い終わるや否や、二人のボディガードが即座に動き、北斗の身体を外へと押し出した。北斗はよろめきながら病室を追い出され、廊下に放り出された。顔色は、血の気が引いたように真っ白だ。逸斗が突然、まるで別人のように態度を変え、烈生に至っては最初から自分を眼中に置いていない。となると……秦家というこの道は、もう完全に閉ざされたということなのか。では、正修に対抗するための同盟者を、いったいどこで探せばいい?奈穂を取り戻すには、どうすればいいのか。魂を抜かれたような足取りで病院を出た北斗は、車に乗り込んだ直後、今度は会社幹部からの電話を受けた。「社長、大変です!」電話越しの声は、明らかに切羽詰まっていた。「平山区のあのプロジェクトが、急きょ中止命令を受けました!」「……何だって?どういうことだ!」北斗の顔色が、一気に変わった。伊集院グループが極めて重視している案件だ。工事を始めて、まだ二日しか経っていない。それが、なぜ突然――?「先ほど当局から通達がありまして、環境基準法に重大な違反行為があり、なおかつ深刻な安全リスクがあるとして、再調査のため少なくとも半月の工事停止を命じられました!」これほどの大型案件だ。一日止まるだけで、数百万単位の損失が出る。止まる期間が長引けば、その分、損失は雪だるま式に膨らむ。しかも、半月後に本当に再開できる保証など、どこにもない。再び問題が持ち上がる可能性だって、十分にある。――いつ再開できるか、誰にも分からない。北斗の視界が、ぐらりと暗転した。電話の向こうでは、幹部が必死に「どう対応すべきか」を問いかけている。だが北斗は、焦りで喉が詰まり、言葉がほとんど出てこない。ここ最近、伊集院グループは水戸グループと九条グループから立て続けに圧力を受け、どれだけの優良なパートナーと案件を失ったか、数え切れない。それでも、これまで何とか持ちこたえてこられたのは、伊集院グループの基盤がまだ深かったからだ。だが――この重要プロジェクトまで止め
続きを読む

第234話

夜の帳はすでに下りていた。明るい月光は、今の北斗の目にはやけに惨白に映る。そのタイミングで、よりにもよって水紀から電話がかかってきた。胸の奥に、言葉にできない嫌悪感が一気にこみ上げ、彼はそのまま着信を切った。――もし、あのとき。水紀が海外へ行って結婚したあと、きっぱり自分と縁を切ってくれていたら。あるいは、そもそも彼女が帰国などしなければ。そうすれば今も、自分と奈穂は、きっと何事もなく一緒にいられたはずなのに。激しい痛みが、全身を貫いた。その瞬間だった。北斗の視界に、別荘の門から出てくる二つの人影が映る。正修と、奈穂。二人は指を絡め合い、楽しそうに言葉を交わしながら、どうやら散歩に出かけるところらしい。正修は自然な仕草で手を伸ばし、奈穂のこめかみにかかった髪をそっと耳に掛けてやる。その瞳には、隠しようもないほどの優しさが宿っている。何かを囁いたのだろう、奈穂は思わず声を立てて笑った。北斗には分かってしまった。あれは、心からの笑顔だ。正修と一緒にいると、彼女は……こんなにも幸せそうなのか?かつて、自分と一緒にいた頃は……ふと、北斗の脳裏に、大学時代のある夜の記憶が蘇った。あのとき。北斗は奈穂と、夜にキャンパス内の並木道を散歩しようと約束していた。ところが、出かけようとした直前、水紀から突然電話がかかってきた。しかも水紀は、「今、お兄さんの寮の下にいる」と言ったのだ。慌てて階下に駆け下り、水紀を人目のない場所へ引っ張った。眉をひそめ、言った。「どうして急に来たんだ?」「お兄さん、会いたくなっちゃって」水紀はそう言って、北斗の腰に腕を回し、甘えるように身体を寄せてきた。彼は慌てて水紀を引き離し、周囲を見回した。「やめろ。ここは俺の大学だ。誰かに見られたらまずい」「誰もいないじゃない。それとも……奈穂に見られるのが怖いの?」水紀は不満そうに唇を尖らせた。「ねえ、お兄さん。本当に、あの子のこと好きなの?」彼は答えなかった。ただ一言、こう言っただけだ。「このあと用事がある。早く自分の大学に戻れ」水紀は別の大学に通っていたが、距離はかなり近かった。「もう夜なのに、何の用事?……分かった。奈穂とデートでしょ?」「……君……」「私、今日まだ何も食べてないの!嫌だ、先に一緒にご飯行こうよ、お兄さ
続きを読む

第235話

あの頃の奈穂は、赤いバラを見て、心から嬉しそうに笑っていた。今の彼女だって、きっと――数日前、彼女は自分のバラを拒んだ。だが、それはあの日は部下に届けさせたんだから。今回は違う。今回は――自分の手で渡す。そうすれば、奈穂にとっての意味も、きっと変わるはずだ。顔を上げると、正修と奈穂は、すでに右側の道をしばらく歩いていた。二人の視線の先にあるのは、お互いだけ。こちらの存在など、気づく様子もない。北斗は歯を食いしばり、赤いバラの花束を抱えたまま、大股で追いかけた。距離がどんどん縮まる。今まさに、「奈穂」と声をかけようとした、その瞬間――どこからともなく現れた数人のボディガードが、一斉に北斗に襲いかかり、地面へと押さえつけた。「離せ!奈穂――!」北斗は必死にもがきながら、奈穂の背中に向かって叫んだ。その拍子に、腕に抱えていた赤いバラが、地面に転がり落ちた。奈穂は反射的に振り返る。地面に押さえつけられた北斗を目にした瞬間、眉がきゅっと寄り、瞳に露骨な嫌悪が走った。――また、こいつ。足元に散らばった赤いバラを見て、彼女は鼻で笑った。……可笑しい。北斗は、まだバラに縋っているつもりなのだろうか。正修は表情を冷たくし、ボディガードに北斗を連れ去るよう指示しようとした。だが、その直前――「……もう、放してあげて」奈穂の声が、静かに響いた。正修は少し意外そうに彼女を見たが、何も言わなかった。奈穂がそう言う以上、きっと理由がある。自分は、分別のない男ではない。奈穂が他の男と親しげにしていれば、嫉妬くらいはする。だが――北斗?それは、もう論外だ。奈穂は北斗の方へ歩み寄る。それでも正修の手は離さない。指と指をしっかり絡めたまま、正修を伴って、目の前まで進んだ。ボディガードはすでに手を離していた。北斗は無様に地面から立ち上がり、落ちた赤いバラの花束を拾い上げた。目の前の二人が繋いだ手を、必死に見ないようにしながら、目を血走らせ、奈穂を見つめた。「奈穂……」北斗の声は、ひどくかすれている。「……俺に、君へ赤いバラを渡す機会をくれて、ありがとう」北斗は花束を差し出し、その表情は、ほとんど祈るようだ。「君は、前から赤いバラが一番好きだった。だから、俺はいつも赤いバラを贈ってきたん
続きを読む

第236話

そう言い終えると、奈穂は正修のほうを振り返った。正修を見る彼女の眼差しは、驚くほど柔らかく、優しさに満ちている。だが、再び北斗へ視線を向けた瞬間、その瞳は一転して氷のように冷え切った。北斗が口を開くより先に、彼女はもう一度、はっきりと言い放った。「もう分かっているとは思うけど、念のため、はっきり言っておくわ。今、私の隣に立っているのは、私の婚約者であり、私が心から愛している人よ。これ以上、私の前に現れて、そんな滑稽な姿を晒さないで。私も、私の婚約者も、あなたの顔なんて見たくないの」そう言ってから、奈穂は正修の腕を軽く揺らし、去る合図を送った。二人が背を向ける直前、正修の視線が、北斗の上を静かに、しかし鋭くなぞった。その目には、冷淡さだけでなく、露骨な蔑みと憎悪が宿っている。「伊集院。どうやら今の君は、まだ十分に追い詰められていないらしいな」その一言で、北斗の頭皮がぞわりと痺れた。「奈穂!もう一度だけ、チャンスをくれ!」北斗は声を振り絞って叫び、追いすがろうとした。だが、ボディガードたちが再び一斉に前へ出て、北斗の行く手を完全に塞いだ。ほとんど崩壊寸前の北斗を見下ろし、一人のボディガードが、情け容赦のない声で言い放った。「奈穂様は、もう十分すぎるほど話しました。これ以上、『チャンス』が欲しいとか、くだらないことを言わず、さっさと消えてください」その瞬間、北斗は奈穂の背中に向かって、叫ぶように言った。「奈穂!君は、正修が善人だとでも思ってるのか?そいつが裏で何をしてきたか、知ってるのか?伊集院グループを狙い撃ちにして、どれだけ俺に損失を出させたか!そいつはずっと、俺を陥れてきたんだ!」その言葉に、奈穂の足が止まる。そして、彼女はゆっくりと振り返った。口元には、薄い笑み。「……そうなの?」その一瞬、北斗の目に、微かな光が宿った。さっきの言葉が、ようやく彼女の心に届いたのだと――そう思ったのだ。だが次の瞬間、彼女が続けて口にしたのは、容赦のない一言だ。「自業自得でしょ」そう言い捨てると、奈穂は正修の手をしっかりと握り、何事もなかったかのように、ゆったりと歩き去っていく。北斗の生気を失った顔など、振り返ることもなく。北斗は、力が抜けたように、その場に崩れ落ちた。数人のボディガードが、冷ややかな視線
続きを読む

第237話

「なに?じゃあ私はどうすればいいの?一人で海市に帰れっていうの?まだこんなに体が弱ってるのに、迎えに来てくれるのが当然でしょう……」水紀は止まることなく文句を並べ立て、その声が北斗の神経を逆なでした。もともと胸中に鬱積した感情を抱えていた彼は、ついに我慢できなくなった。「……うるさい」「え……?」水紀は、北斗がこんな口の利き方をするとは思ってもみなかった。「お兄さん、今の……私に言ったの?」「そうだ、君に言ったんだ」北斗は一切容赦しなかった。「水紀、本当にうるさい。俺がここまで追い込まれたのは、全部君のせいだ」「何を言ってるの、正気じゃない!」水紀は金切り声を上げた。「どうして私のせいだなんて言えるの?欲張って両方手放せなかったのは、あんた自身でしょ!今さら全部私に責任を押しつけるなんて。私、流産したばかりなのよ!子どもを失った私に、今そんな仕打ちをするの?」北斗の全身は激しく震えている。彼は目を閉じ、これ以上言い争う気力を失っていた。「……もう海市には戻るな」「どうして!私は――」「京市で体を休めている間は、こちらで世話をする人を手配する。体調が回復したら、別の都市へ行こうが、海外へ行こうが好きにすればいい。ただし、海市だけは戻るな。金が必要なら言え、俺が用意する」奈穂がもう自分のもとへ戻る気がないことは分かっている。だからせめて水紀を手元に置いておけば、孤独なときに傍に誰かはいる――そう考えていた。だが、水紀を見るたびに、思い出してしまう。思い出すたび、後悔せずにはいられない出来事の数々を。「北斗、よくも私を捨てるなんて!忘れたの?私たち、結婚したのよ……」「ああ、言われるまで忘れてた」北斗は自嘲気味に口角を上げた。「本当に、君と結婚届なんて出すべきじゃなかった……海市に戻って会社の件を片づけたら、時間を見つけて離婚届を出しに行く」そう言い終えると、電話の向こうで水紀がどれほど叫び、泣きわめこうとも構わず、彼は通話を切った。再びかかってきた電話にも出ず、そのまま電源を落とした。運転手は彼の機嫌の悪さを察し、口をつぐんでいたが、しばらくしてから恐る恐る尋ねた。「社長、どちらへ向かいましょうか?」北斗は眉間を揉み、「……バーを探してくれ」と短く答えた。運転手はすぐに車を走らせ、彼を一
続きを読む

第238話

北斗は女を突き放したが、彼女は笑いながら、なおも身体を寄せてくる。「私もついさっき失恋したの。今日ここで出会ったのも、何かの縁じゃない?だったら……傷ついた二つの心、少し慰め合ってみない?」北斗は軽く笑った。「どうやって慰めるつもりだ?」「分かってるでしょ?」女は彼の耳元に唇を寄せ、甘い吐息を吹きかけた。「男女の間なんて、だいたい決まってるじゃない」「……やめてくれ」北斗は再び彼女を押しのけようとしたが、女はしつこく身体を密着させて離れない。彼は女を横目で値踏みした。整った顔立ちに、目を引くスタイル。アルコールが回ったせいか、彼はふと、そういう気持ちになった。それを察した女は、くすっと笑った。「ほら、あなたもその気なんでしょう?行きましょ、イケメンさん。すぐ近くに、なかなかいいラブホテルがあるの……」北斗は口元をわずかに吊り上げ、女の細い腰に腕を回し、連れ立ってバーの外へ向かった。しかし、出口に差しかかろうとしたところで、突然二人の男が行く手を遮った。「待て」邪魔をされ、北斗は苛立ちを露わにする。「どけ!」「聞こえないの?どきなさいって言ってるでしょ。あんたたち、誰よ。なんで道を塞ぐの?」女も強い口調で言い返した。男の一人が冷笑する。「俺たちが誰かは知らなくていい。ただし、お前のことは知ってるし、病気のこともな」「病気」という言葉を聞いた瞬間、北斗はぎょっとして、反射的に女を突き放した。「な……何の病気だ?」女の顔色は一気に悪くなり、二人の男を睨みつけた。「何をでたらめなこと言ってるの?あなたたちのことなんか、知らないわ!」再び北斗の手を取ろうとするが、北斗は慌てて二歩下がった。恐怖で、酔いが少し醒めていた。「近寄るな!」女は「つまらない奴」と小声で吐き捨てると、怒った様子で踵を返して去っていった。残ったもう一人の男が、北斗に声をかけた。「伊集院社長、上でお会いしたい方がいらっしゃいます」「俺を知っているのか?」北斗は目を細め、二人を見据えた。「誰が俺に会いたい?」「行けば分かります」北斗は冷ややかに笑った。「ずいぶんともったいぶるな。いいだろう、案内しろ」三階はすべてVIP用の個室。北斗は二人に連れられ、そのうちの一室へ入った。中には女が一人だけ。ソファに腰掛け、手には精巧な短
続きを読む

第239話

「秦さん、ありがとうございます」北斗は心から感謝の意を示した。「お気になさらず。ほんの手助けをしたまでです」音凛はそう言ってから続けた。「それにしても伊集院社長、どうしてお一人でお酒に逃げていらしたんです?フォーラムで何かうまくいかないことでも?それとも……」北斗の口元に、苦笑が浮かんだ。「いえ、仕事ではありません。少しばかり、私事でして」音凛は手にしていた短刀へ視線を落とし、どこか意味深な笑みを浮かべた。「そう言われると、思い出しました。水戸家のお嬢様――奈穂さん。以前、伊集院社長と五年間お付き合いされていたとか」奈穂の名前を聞いた瞬間、北斗の胸に、細かく鋭い痛みが一気に広がった。しかし、つい先ほど助けてもらったばかりだ。音凛に無礼な態度を取るわけにもいかず、無理に笑みを作った。「秦さん、その話題はあまり……それで、俺を呼ばれたのは、他にご用件が?」「伊集院社長。何かあるたびに、そうやって逃げるのが男のやり方ですか?」「逃げなかったとして、どうすればいいんですか?」北斗は眉間を押さえた。「やれることはやりました。取り戻そうとした。でも彼女はもう、別の男と付き合っています。彼女は……俺を選ばなかった」「なら、奪い返せばいいじゃないですか」その言葉に、北斗は顔を上げ、音凛を見つめた。何かを察したようだ。「秦さん、どうしてそこまで、俺と奈穂のことに興味を?」「まだ『奈穂』と呼んでいる」音凛は、彼の一途さに感心したような表情を浮かべた。「それは心の中に、まだ彼女がいる証拠です。だったら、どうして簡単に諦められるんですか?」そのとき、ウェイターがお茶を運んできて、北斗の前に置いた。「酒の酔いを覚ますお茶です。飲めば少し楽になりますよ」音凛の気遣いは行き届いていた。「お気遣い、ありがとうございます」北斗は笑って答え、茶を手に取ると、一気に半分以上を飲み干した。「水戸さんとは五年もの付き合いがあるのに、九条正修が伊集院社長に敵うわけがないでしょう?」音凛の口から「九条正修」という名が出た瞬間、北斗は即座に問い返した。「秦さんと九条正修の関係は……愛情ですか、それとも憎しみですか?」先ほどの騒動で酔いはほとんど醒め、今の彼は冷静だ。音凛が自分を呼び、わざわざ奈穂の話を持ち出した――その理由は、正修にあるのではない
続きを読む

第240話

女が去ったあと、ウェイターとボディガードも相次いで外へ出ていき、個室には音凛ひとりだけが残った。彼女は再び、テーブルの上に置かれていた短刀を手に取る。先ほど北斗に投げかけられた問いを思い出し、口元に氷のように冷たい笑みを浮かべた。――正修を手に入れる?かつての自分は、確かに正修と付き合いたいと願っていた。けれど今は、もう違う。刃先が指先をかすめ、皮膚を裂く。血の粒がにじみ出たが、音凛は痛みを感じていないかのようだ。それどころか、どこか歪んだ愉悦すら滲んだ笑みを浮かべる。いつか必ず、正修にも血を流させてやる。惨めな姿にしてやる。九条家が崩れ落ちるのを、彼自身の目で見せてやる。できることなら、路頭に迷い、自分の前に跪き、命乞いをするところまで。――そうだ、奈穂も。正修ひとりだけが血を流しても、何も面白くない。彼が愛する女も、一緒に地獄へ落ちるべきだ。……一方、奈穂と正修の散歩は、北斗の一件に影響されることはなかった。少し歩いたところで、奈穂が小さく甘えた声を出した。「……疲れた」正修は苦笑し、彼女の前に回り込んで腰を落とした。「ほら、乗って」奈穂は嬉しそうに笑い、彼の背中へと跳びついた。正修は大きな手でしっかりと彼女を支え、そのまま帰路につく。「私、重くない?」奈穂が彼の耳元で囁いた。「重くない」正修は即答した。「君は細すぎるのよ」「胃の調子が良くなったら、いっぱい美味しいもの食べに行こうね」「うん」食べ物の話になると、奈穂は急に元気になった。「私、ずっと辛いもの食べてないの。お医者さんも栄養士さんも、今は一切ダメだって言うし……麻婆豆腐が食べたくて仕方ないの。そういえば大学の頃、学校の近くに麻婆豆腐がすごく美味しい料理屋さんがあったんだよ。あの味、すごく懐かしい。体が良くなったら、一緒に行こう?」「いいよ」正修は優しく応じた。「一緒に行こう」「麻婆豆腐、好き?」奈穂が聞いた。「麻婆豆腐は普通かな」正修は正直に言ってから、続けた。「でも、君は好きだ」 思いがけない告白に、奈穂は一瞬言葉を失い、耳元がじんわりと熱くなった。思わず彼に噛みつきたくなる。「な、何で……いきなりそんなこと言うの」「本当のことだから」正修は無垢な表情をしている。「で、でも……そんな急に言われ
続きを読む
前へ
1
...
212223242526
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status