All Chapters of 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ: Chapter 551 - Chapter 560

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第551話

「え?」正修はまだ少し寝ぼけた様子で、目の奥に、珍しく戸惑いの色が浮かんでいた。奈穂はそんな彼の様子に思わずくすっと笑う。「なんでもないよ」彼の頬にそっと触れながら、やわらかく言った。「もう少し寝てていいよ」昨日帰宅してからというもの、彼女はネクストスター芸能でルナと鉢合わせたことなどすっかり忘れていた。だから当然、そのことを正修に話してもいない。彼が知らない以上、急に人を使ってルナの件を処理させるはずもない。――じゃあ、誰?もしネクストスター社内の人間がやったのなら、事前に自分へ報告がないはずがない。そこでふと、奈穂は昨日ネクストスターで見かけたもう一人の人物を思い出した。政野。――となると、やったのは彼?正修は彼女の様子を一目見ただけで、何か考え込んでいると察した。もう眠気など吹き飛んでいる。「何か隠してること、あるんじゃないか?」「もう、ないってば」奈穂はにこにこと笑う。「昨日、会社でちょっと態度の悪いタレントと揉めただけ。それにスキャンダルも多い人だったから、会社に契約解除させたの。ほんと、たいしたことじゃないよ」正修は的確に要点を突いた。「どんな揉め事だ?そいつにいじめられたのか?」奈穂は呆れたように口元を引きつらせて笑い、彼の頬をつまむ。「ネクストスターで私がいじめられると思う?あそこ、私の会社なんだけど?」そう言われても、正修の眉間の皺は消えない。「本当に何でもないって」奈穂は続けた。「ただ……昨日、ネクストスターで九条政野にも会ったの」その一言で、正修の表情はさらに険しくなる。「でも、ほとんど話してないよ」彼女は無垢な目で彼を見つめる。「ほんと、挨拶しただけ」その様子に、正修は苦笑した。「分かってる」彼女を疑う気など、もとよりない。ただ――政野のことを思い出すと、過去に政野がしてきたこと、口にした言葉が脳裏をよぎる。どうしても気分がよくはならない。なにしろ、奈穂は自分の婚約者だ。そして政野は、ずっと彼女を狙っている。「えへへ、やっぱり無駄にヤキモチなんて焼かないよね。ほんと優しい」奈穂は彼の首に腕を回し、頬に「ちゅっ」と軽くキスをした。その瞬間、正修の目がすっと深くなる。彼の手はゆっくりと腰へ滑り、彼女の下腹部に触れた。掌の熱に、奈穂は思わ
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第552話

正修はすぐに電話を一本かけた。「月城ルナと、ネクストスター芸能の佐藤隆治という副社長を調べろ」冷たい声で命じる。「二人の素性、全部洗い出せ」相手は即座に応じた。「承知いたしました」しばらくして、奈穂が浴室から出てきた。シャワーを浴びたばかりで、バスローブに身を包み、髪はまだ濡れている。正修はスマホを置き、言った。「髪、乾かしてあげる」そう言って、掛け布団をめくる。引き締まった逞しい体が、そのまま彼女の目の前に現れた。広い肩に引き締まった腰、すらりと長い脚――どこを見ても非の打ち所がない。何度も見ているはずなのに、奈穂は思わず目を丸くし、視線は彼の腹筋のあたりを一瞬さまよってから、慌てて逸らした。「こ、こほん……それ、誘惑してるつもり?」正修は苦笑する。「ただ髪を乾かしてあげようと思っただけだ」少し間を置いてから、わざとらしく付け加えた。「まあ、誘惑してるって思うなら、それでもいいけど」彼は彼女の前まで歩み寄り、手を伸ばして腰を引き寄せる。「もう成功してる気がするな」「バカ言わないで!」奈穂は慌てて彼を押し返す。「変なこと言ってないで、早く乾かしてよ!」耳の後ろがほんのり赤くなっているのを、正修はしっかり見ていた。だがそれを指摘することはせず、ただ優しく微笑むと、彼女を座らせてドライヤーを手に取り、丁寧に髪を乾かしていく。髪を乾かし終え、ドライヤーを置いたそのとき――正修のスマホが震えた。彼はそれを手に取り、着信表示を見た瞬間、応答する。「……おじい様」その一言で、奈穂はいたずらしようとしていた動きをぴたりと止め、息を潜めて音を立てないようにした。電話の向こうで、岳男が何かを話している。正修は短く答えた。「分かりました」通話が終わると、奈穂はようやくほっと息をつく。「そんなに緊張してたのか?」正修は眉を少し上げた。「だって、おじいさんとの電話の邪魔したら大変じゃない?」彼女は頬をかきながら言う。「もし怒らせちゃったらどうしようって」正修は思わず笑った。「祖父が、そんな簡単に怒るわけないだろ」「うん、そうかもしれないけど……でもちょっと怖いの」正修は彼女のそばに座り、抱き上げて自分の膝の上に乗せた。「やっぱり、祖父が怖いんだな」「うん、ちょっとだけね」
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第553話

正修はそっと奈穂の額に口づけた。何かを考え込んでいる彼女の表情をじっと見つめた。「もし行きたくないなら、家には俺から話しておく。安心しろ、俺が参加したくないってことにしておく」彼女に、自分のために無理をさせたくはなかった。奈穂は一瞬きょとんとしたあと、首を横に振る。「行きたくないわけじゃないよ。さっきは、当日何を着ようかなって考えてただけ。今からドレスをオーダーした方がいいかなって。時間、間に合うよね?」「奈穂」正修は真剣な目で彼女を見る。「俺は本気で言ってるんだ」「私だって本気だよ」奈穂は彼の顔を両手で軽く頬を包みながら言った。「嫌だなんて思ってないし、我慢してるわけでもない。あなたは私の婚約者なんだから、あなたの家族は私の家族でもあるでしょ?家に帰って食事会に参加するのに、嫌がる理由なんてないよ」その瞳は真剣で、優しさに満ちていた。その言葉に、正修の心はわずかに揺れた。次の瞬間、彼はふいに顔を寄せ、彼女の唇に口づけた。奈穂も彼を抱きしめ、やわらかくそのキスに応える。……一方、政野は部屋の隅で目を覚ました。窓から差し込む光に一瞬目が慣れず、目を細める。しばらくしてようやく意識がはっきりしてきた。ふと視線を落とすと、腕の中には、あの絵をまだ抱えていた。昨夜、衝動のままにこの絵を床に叩きつけてしまったことを思い出し、胸が締めつけられるように痛んだ。額装し直そうと立ち上がりかけた、そのとき――父親の九条博(くじょう ひろし)から電話が入る。来月一日、九条家の本家で開かれる家族の食事会に出席しろという内容だった。「帰りたくない」政野は頭を押さえながら言う。「わがままを言うな」博の声は厳しい。「家族の食事会だぞ。しかもおじいちゃんが主導しているんだ。出ないつもりか?おじいちゃんを不機嫌にさせる気か?」政野は黙り込む。博はさらに続けた。「それに今回は、水戸家のお嬢さんを紹介するための場でもある。お前が来なければ、おじいちゃんだけじゃない、正修も不快に思うだろう」その言葉は、鋭く胸に突き刺さった。――奈穂を紹介するための食事会。つまりその場で、彼女は正式に正修の婚約者として、正修の未来の妻として、そして自分にとっては「義理の姉」として、皆に紹介されるのだ。政野は思わず苦笑を漏らした。
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第554話

できることなら、ここまで執着したくはなかったのに。だが――ここまで来てしまった以上、もう引き返せない。来月一日の家族の食事会には、自分は出席する。待っているのが骨の髄までえぐられるような痛みだと分かっていても。それでも――少なくとも、その場で彼女に会えるのだから。……夕方近くになると、奈穂のもとに電話が入った。相手は隆治の妻、佐藤雪子(さとう ゆきこ)。今夜会えないか、という用件だった。奈穂はそれを引き受ける。送られてきた住所は、ある高級クラブだった。最上階の個室に入ると、ソファの横の床に座り込んでいる雪子の姿が目に入った。すぐ隣にソファがあるのに、そこには座らず、わざわざ床に腰を下ろしている。手にはほとんど空になった酒瓶、足元にはいくつもの空き瓶が無造作に転がっていた。頬は赤く染まり、視線は焦点が合っていない。――明らかに、かなり酔っている。奈穂はわずかに眉をひそめ、歩み寄って雪子の手から瓶を取り上げる。「……あ、水戸さん!」雪子はにやりと笑った。「来てくれたんだね」「ほら、立って」奈穂は雪子を支えて立たせ、ソファに座らせる。「へへ、ごめんね。本当は水戸さんと話してから飲むつもりだったのに……気分が最悪で、つい飲みすぎちゃった」その酔った様子を見て、奈穂は小さくため息をついた。「悪いのは雪子さんじゃない。他人の過ちのせいで、自分を傷つける必要なんてないよ」雪子は力なく笑う。「分かってる……でもね……」次の瞬間、目が赤くなり、堪えきれずに泣き出した。「どうしても納得できないの……!二十歳のときから彼と付き合ってたのよ!あの頃彼はまだ何もない貧乏人で……家族はみんな反対した。でも私は全部押し切って結婚したの!どんな苦労だって耐えてきた。生活も、仕事も支えてきたのに……やっと生活も楽になってきたのに……どうして裏切るの?どうしてなのよ!」最後は、ほとんど絶叫に近かった。奈穂も思わず胸が締めつけられる。「水戸さん……私ね、本当は子どもが欲しかったの」雪子は涙をぬぐいながら言う。その言葉で、奈穂はふと気づく。――そういえば、二人は結婚して二十年、ずっと子どもがいなかった。「でも、ずっとできなくて……病院で調べたら、私じゃなくて彼の方に問題があったの」雪
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第555話

雪子は感謝のこもった目で奈穂を見た。だがすぐに、自分の頬をぱん、と叩き、無理やり気を引き締めた。「もうこんな状態じゃダメだわ」それは奈穂に向けた言葉でもあり、自分自身への言い聞かせでもあった。「私、あの裏切った男を許さない。絶対に」雪子はふらつきながら立ち上がり、ローテーブルへ向かう。奈穂も立ち上がり、よろけた雪子をすぐに支えた。「大丈夫?」「平気よ、心配しないで」雪子はテーブルの上にあった書類袋を手に取り、それを奈穂に差し出す。「水戸さん、これを」奈穂は受け取りながら、すでに何かを察していた。「これは……?」「――あのクズが会社の資金を横領した証拠よ」雪子は皮肉めいた笑みを浮かべる。「最初はやめろって止めたけど、彼は聞かなかった。そして私は……このことを隠す側に回ってしまった」うつむき、小さく呟く。「ごめんなさい、水戸さん」「いいの」奈穂は静かに言った。身内を切り捨てる決断は、誰にでもできることではない。少なくとも――雪子は今、目を覚ましたのだから。すでに会社側でも隆治の調査は始まっているが、相手はかなり慎重な男だ。時間はかかるはずだった。だが、この証拠があれば話は別だ。「ありがとう」奈穂は真っ直ぐに言う。雪子は首を振った。「お礼なんていらない。罪滅ぼしをしてるだけ。ずっと隠してきたんだから」「これから、どうするつもり?」「もう離婚を切り出したわ。最初は拒まれたけど、私が大騒ぎして……いろいろ壊して、さすがに嫌気がさしたみたいでね」雪子は冷たく笑う。「離婚したら、実家に戻るつもり」「そう」奈穂は手を差し出した。「これから穏やかに過ごせるといいね」雪子もその手を取り、そっと握る。目にはまだ涙が残っていたが、唇にはかすかな笑みが浮かんでいた。「うん、きっとそうなるよ」……雪子を一人にして大丈夫か心配になり、奈穂はしばらく付き添おうかと思った。だが雪子は手を振って言う。「水戸さん、心配しないで。あんな男のために馬鹿なことはしない」新しい酒瓶を開けながら、苦笑して続ける。「まだつらいけど……今夜は思いきり酔えば、明日の朝には少しは楽になってると思う」どうやら、一人で静かに酔いたいらしい。奈穂はそれ以上は何も言わず、部屋を出た。廊下でスタッフを呼び止め、いくらかチップ
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第556話

実のところ、奈穂は若菜がなぜここにいるのかなど、まったく気にしていなかった。だが若菜の方は、まるで後ろめたいことがあるかのように、自分から弁解し始め、しかもどこかしどろもどろだった。その様子が、奈穂には少し不思議に思えた。一方で、若菜自身も、話し終えてから後悔した。――どうして奈穂の前だと、こんなにも動揺してしまうの?これ以上何かを見透かされたくなくて、若菜は慌てて視線を落とす。「友達が待っているので……先に行きますね」そう言うと、奈穂の返事も待たずにエレベーターを出ていった。だが、若菜はわざと歩調を落とした。しばらくして振り返ると、奈穂の姿はすでになく、エレベーターの扉も閉まっていた。そこでようやく、ほっと息をついた。スマホを取り出し、送られてきた部屋番号を確認する。通りがかったスタッフを呼び止めた。「この部屋はどこですか?」「右に進んでいただいて、一番奥の個室でございます」スタッフは丁寧に答えた。その態度に、若菜は満足げな表情を浮かべる。――以前の自分では、このクラブの最上階になど足を踏み入れることすらできなかった。だが今は違う。自由に出入りできる立場になっている。一番奥の個室の前まで来ると、彼女はノックをした。扉を開けたのは、屈強な体格の男だった。その迫力に、若菜は思わず身をすくめた。「わ、私は……人に会いに来て……」しどろもどろに口を開く。男は彼女を上から下まで一瞥し、道を開けた。「どうぞ」若菜はおそるおそる中へ入る。ソファに座る女性の姿を見た瞬間、はっとした。「……秦さん、ですよね?」その女性は、烈生にどこか似ている。つまり――彼の妹、音凛に違いない。そして、音凛こそが今回、若菜を呼び出した張本人だった。音凛は柔らかな笑みを浮かべる。「ええ。どうぞ、座って」若菜が腰を下ろすと、音凛はさらに尋ねた。「何か飲む?」「何でもいいです」好きな人の妹と向き合っているせいか、若菜はどこか落ち着かない。「じゃあ、お酒にしましょうか」音凛は微笑み、傍らの大男に言う。「前にここに預けてあるボトル、一本持ってきて」「かしこまりました」男はすぐに応じ、部屋を出ていった。室内には、音凛と若菜の二人だけが残る。「秦さん、今日はどういったご用件で……
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第557話

もし相手が別の人だったら、若菜はきっと自慢げに語っていたはずだ。だが今、目の前にいるのは音凛――そして彼女は、烈生の妹。その瞬間、急に多くを語る気がなくなった。ただ気まずそうに笑いながら、「ええ……まあ、うまくいってます」とだけ答えた。音凛はグラスを軽く揺らしながら、ゆっくりと口を開いた。「普通に考えたら、賀島さんは宋原社長の恋人で、宋原社長は九条正修の長年の親友よね」薄暗い照明の下、その笑みはどこか不穏な色を帯びていた。「なら、水戸奈穂は九条正修の婚約者なんだから、賀島さんにもせめて礼儀くらい払うべきじゃない?」「え?」若菜は戸惑う。まさかここで奈穂の名前が出るとは思っていなかった。「でもこの前見た限りじゃ、あまり丁寧な態度とは言えなかったわね」若菜は眉をひそめる。「この前って……?」「マロウでのことよ。あの場に私もいたの」音凛は淡々と告げる。その夜のことを思い出し、若菜の顔が曇る。「あの日マロウで起きたことは、全部見ていたわよ。最後は誤解だったとはいえ、水戸奈穂の賀島さんへの態度……ちょっと行き過ぎじゃない?」音凛は小さく舌打ちしながら続ける。「正直、見下しているようにしか見えなかったわ」「どうしてあの人に見下されなきゃいけないの?」若菜の顔色が一気に悪くなる。「私は一応、雲翔の彼女なのよ」「そうよね」音凛はため息をつく。「でもね、世の中には家柄を盾にして、人を見下すタイプもいるの。水戸奈穂は水戸家唯一の令嬢。プライドが高いのも無理はないわ」若菜は怒りを抱えたまま、言葉を失う。――そうだ。相手は水戸家の令嬢。じゃあ、自分は?もし「あの人」に選ばれ、手を回してもらって雲翔に近づき、雲翔の恋人という立場を得ていなければ――おそらく、奈穂と顔を合わせる機会すらなかっただろう。そう思えば思うほど、胸の奥の不満は膨れ上がっていく。さっきエレベーターで見た、奈穂のあの微笑――あれは間違いなく、自分を見下した笑みだった。「まあ、そんなに怒らないで」音凛は作り笑いを浮かべる。「生まれは選べないけど、これから先のことは選べる。努力次第で、見下してきた相手を見返すことだってできるのよ」「私がですか?」若菜は自嘲気味に笑う。「水戸奈穂に、私が何できるっていうの?雲翔は絶対に私を助けてくれないし
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第558話

音凛は間髪入れずに言い重ねた。「水戸奈穂のこと、嫌いじゃないの?本当にやりすぎだと思わない?家柄を盾にして、賀島さんをまったく相手にしない。結局のところ、賀島さんを見下してるだけじゃなくて、賀島さんの彼氏――宋原社長のことだって軽く見てるのよ。それでも腹が立たないの?」若菜は一瞬黙り、やがて口を開いた。「……腹は立ちますし、正直嫌いです。でも……やってはいけないことはしたくないんです。彼氏に迷惑もかけたくないし」その言葉も半分は本音、半分は建前だった。雲翔に迷惑をかけたくないから、というだけではなかった。本当は――音凛と手を組むことを「あの人」に知られたら、機嫌を損ねるのではないかと恐れていたのだ。なにしろ、これは軽い問題ではない。相手は奈穂――決して軽々しく手を出していい相手じゃない。もし本当に音凛と組んで動けば、「余計なことをした」と叱責されるかもしれない。それに、雲翔の機嫌を損ねれば――また別れを切り出されるかもしれない。前回、バーで何の成果も得られなかったせいで、若菜は慎重になっていた。「もう一度よく考えたら?」音凛の目がわずかに陰る。「こんな機会、そうそうないわよ。私以外に、この件で賀島さんを助けられる人はいない」「分かっています」若菜は無理に笑みを浮かべた。「でも……申し訳ありません。今日お会いしたことは、誰にも話しませんので、ご安心ください」その言葉に、音凛の表情はさらに硬くなる。断られる可能性は想定していた。だが、ここまできっぱりと拒絶されるとは思っていなかった。――なんて臆病な女。どうやら、もう一押し必要らしい。「他にご用がなければ、失礼します」若菜はそう言って立ち上がる。だがその瞬間、先ほどの大男がすっと前に立ちはだかった。若菜はびくりと肩を震わせる。「秦さん……?」不安げに振り返る。音凛はすぐに大男を叱った。「何してるの?どきなさい」それから再び微笑みを作る。「賀島さん、大丈夫よ。今回の話がまとまらなくても、友達としては歓迎するわ。何かあったら、いつでも連絡して」若菜は慌ててうなずいた。「は、はい……ありがとうございます」大男が道を開けると、若菜は慌てて部屋を出ていった。――だが扉が閉まったその瞬間。音凛の表情は一変した。顔が青白
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第559話

「ただ気になっただけだ。こんな時間に、どうして宋原雲翔の彼女を呼び出したのかってな」「あんたに関係ないわ。愛人の子のくせに、私のことに口出しする資格があるとでも?」その一言で、逸斗の表情が一瞬で凍りついた。もし視線が刃になり得るなら、音凛はとっくに何度も切り刻まれていただろう。――だが、それでも。彼女の言葉は、事実だった。「どうしたの?怒った?」音凛は嘲るように笑う。「どれだけ腹を立てても、あんたは愛人の子。その事実は一生変わらないわ」「音凛!」空気が一気に張り詰める。音凛と逸斗は、互いに鋭く睨み合った。そこにあるのは、剥き出しの敵意。しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのは逸斗だった。「お前が何をしようと興味はない。ただ一つだけ言っておく」一語一語、噛みしめるように告げる。「奈穂に手を出すことは、俺が許さない」その言葉に、音凛は突然、堪えきれないように笑い出した。「……っ、ははは……!」笑えば笑うほど、逸斗の顔色は険しくなる。「音凛!」――彼女のこの姿を他人に見せてやりたいものだ。外では「名家の令嬢」などと持ち上げられているくせに。「ごめん、ほんとにおかしくて」彼女は涙がにじむほど笑いながら言った。「逸斗、何それ?水戸奈穂のナイト気取り?そんなに守ってあげてるけど、彼女は知ってるの?九条正修の腕の中から抜け出して、あんたのことを一度でも見てくれると思う?」逸斗の拳がぎゅっと握られ、わずかに震える。「笑えるわよね。向こうはあんたと話す気すらないかもしれないのに、勝手に『守ってる』つもりでいるなんて」「好きに言え」逸斗の声は低く、硬い。「それでも言う。奈穂に手を出すな」音凛は笑みを消し、じっと彼を見据える。その瞳には、あからさまな挑発が宿っていた。「もし、出したら?」その瞬間、逸斗の目に鋭い殺気が走る。今にも彼女を引き裂きそうなほどの凶暴な気配が漂っていた。「――やってみろ」だが音凛はまったく怯えない。手を伸ばし、大男に新しいグラスを持ってこさせた。「どうせ私たちは、もうとっくに引き返せない関係でしょ」酒を注がせながら、淡々と言った。「これ以上、あんたに嫌われたところで何も変わらないわ」逸斗はしばらく無言で彼女を睨みつけると、やがて背を向けて部屋を出ていっ
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第560話

【どういうこと?月城ルナとあの佐藤副社長、二人とも逮捕されたの?】【すごいな、掘れば掘るほど出てくるじゃん】【これはスカッとする!】【この二人、もう一生出てこなくていいよ】世間の反応は一気に過熱した。同時に、奈穂は約束通り、ルナのアシスタントのために弁護士を手配し、傷害事件で提訴させた。一つひとつの案件が積み重なり――ルナと隆治は、もはや逃げ場を失っていた。……そんな騒動が世間を賑わせる中、もう一人、ひっそりとトレンド入りした人物がいた。水紀。明日は、彼女の公演日だった。彼女はあえてオーロラ舞踊団に頼み、トレンド入りを仕込んでいた。叩かれることは分かっている。それでも構わない。――ここまで来たら、もう後戻りはできない。水紀の目的はただ一つ。奈穂に、明日自分が舞台に立つことを、もう一度はっきりと見せつけること。思い知らせるためだ。どれだけ奈穂が今、順風満帆でも――彼女はもう二度と踊れない「壊れた脚」の持ち主だということを。この一点において、奈穂は決して自分には勝てない。そう思うだけで、胸の奥がぞくりとするほど痛快だった。……ルナの件で盛り上がっていたネットユーザーたちは、そのまま水紀の話題にも流れ込んでいった。【月城ルナの件に夢中で、この人のこと忘れてたわ】【この人、まだ叩かれ足りないの?せっかく話題逸れたのに、自分から出てくるとか意味不明】【オーロラ舞踊団はもう伊集院水紀のことを宣伝するのをやめてくれない?見たくないんだけど。ソロステージとか誰も行かないから】【いっそ一緒に捕まればいいのに】【ちょっと待って、明日のチケットもう半分売れてるってマジ?誰が行くんだよ】【いやいや、売ってるんじゃなくて配ってるんだ。オーロラ舞踊団が体裁を保つために、無料チケットを大量にばら撒いてるらしいよ……無料だからって受け取る人もいるし、そもそもネット見てない人だって多いし、伊集院水紀のことも、彼女が何をしたかも知らない人もいるんだよ】【マジで笑えるんだけど。オーロラも、ついに無料チケット配らないといけないレベルまで落ちたんだな】【無理やり推すからこうなるんだよ】……その頃、水紀本人は舞台の上にいた。スマホを握りしめ、画面に並ぶコメントを見つめていた。
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