All Chapters of 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ: Chapter 561 - Chapter 570

620 Chapters

第561話

だが――水紀の公演は、順調に終わることなどあり得ない。いや。そもそも、始まることすらないのだ。背後からふいに抱きしめられ、馴染みのある香りがふわりと広がる。奈穂の瞳にあった冷たい光は一瞬で消え、代わりに柔らかな色が宿った。彼女は振り向き、そのまま彼を抱き返す。シャワーを浴びたばかりの彼の体からは、いつものボディソープの香りがした。「何見てる?」正修が彼女を抱き寄せながら尋ねる。「水紀のこと」その名前を聞いた瞬間、正修の眉がぎゅっと寄る。目の奥には、はっきりとした不機嫌さが浮かんでいた。奈穂の意思を尊重していなければ、あの女をここまで好きにさせておくつもりはなかった。奈穂はくすっと笑い、指先で彼の眉間をなぞってほぐす。「もういいでしょ」柔らかく言う。「こんなに待ったんだもの。やっと仕返しできるのよ。喜んでくれてもいいんじゃない?」正修は彼女を強く抱きしめ、小さく息を吐いた。――喜べるはずがない。奈穂は本来、そんな苦しみを味わう必要などなかったのだから。「そういえば、月城ルナと佐藤隆治の件……あなたが調べさせたの?」「そうだ」自分の婚約者を守るのに、政野の手など借りる必要はない。しかもあいつのやり方は甘い。やるなら――致命的に。二度と立ち上がれないように、徹底的に叩き潰すべきだ。奈穂はくすりと笑う。「ほんとにもう……」「事実を暴いただけだ」正修は淡々と言った。「悪いのはあいつらだ」「分かってる」彼女は彼を見つめた。「ただね……そういうところ、ちょっと可愛いなって思って」正修の目がすっと細くなる。次の瞬間、腕に力がこもり、彼女の体をさらに引き寄せる。「『可愛い』って言うな」全身に鳥肌が立つような感覚だった。「どうして?」奈穂は首を傾げる。「好きだから可愛いって思うのに。好きになっちゃダメってこと?」「好きになるのは絶対だ」彼は有無を言わせない口調で言う。「でも『可愛い』は禁止だ」その真剣さに、奈穂は思わず笑ってしまう。「それは無理かな。好きになったら可愛く見えるものだし……それに――」彼女は彼の腕から少し抜け出し、スマホを取り出す。アルバムを開き、昔の正修の写真を表示した。「ほら、これ見て。子どもの頃のあなた、すっごく可愛い。見るたびに、
Read more

第562話

「やだ、やだ……放してってば!」だが、そのときの奈穂の「やだやだ」など、まったく効果はなかった。そのまま正修に――ベッドで、ソファで、さらにはバスルームでも、さんざん振り回されることになった。奈穂は、もはや泣きたい気分になっていた。――どうしてわざわざ自分から彼を挑発したのよ…………翌朝早く。水紀はすでに劇場の楽屋にあるメイクルームに座っていた。担当のメイクアップアーティストは、水紀に関する炎上トレンドをいくつも目にしており、内心の嫌悪とため息を必死に抑えながら、黙々とメイクを施していた。――オーロラ舞踊団はどうしてこんな人に舞台を用意するの?しかも、そのメイク担当が自分だなんて。顔を見るだけで吐き気がしそうになるのを、必死でこらえているというのに――当の本人は、さらに難癖をつけてくる。「その陰気な顔、誰に見せてるの?」水紀は苛立ちを隠さず怒鳴る。「やる気ないなら出て行きなさいよ。別の人に替えるから!」その一言で、メイク担当の堪忍袋の緒が切れた。手にしていたブラシをデスクに叩きつける。「こっちだって、あんたみたいなのにメイクしたくないわよ!顔見るだけで気分悪い!」そして小さく吐き捨てる。「……略奪女が」「何ですって?」水紀は怒りに震え、その場で立ち上がり、今にも平手打ちをしようとする。その瞬間――扉が開き、オーロラ舞踊団の団長・渡辺拓也(わたなべ たくや)が入ってくる。「何を騒いでる!」彼は苛立ちを隠さず一喝した。メイク担当が口を開く前に、水紀が先に言い放つ。「これがあなたたちの用意したメイク担当?プロ意識がなさすぎる。替えてちょうだい」「替えたいのはこっちよ!」メイク担当も負けじと言い返す。「いい加減にしろ!」拓也は頭を抱えそうになりながら、二人を制した。まずメイク担当に向き直る。「ここは職場だ。私情を持ち込むな。分かっているな?」メイク担当は納得がいかない様子だったが、拓也の厳しい表情を見て、それ以上は何も言えなくなった。続いて、彼は水紀に向き直る。「今回のソロ公演に、どれだけの人間が関わっていると思っている?あと数時間で本番だ。こんなことで台無しにするつもりか?」「私は……」水紀は言葉に詰まる。当然、この舞台を失いたくはなかった。彼女はよ
Read more

第563話

「はあ……まあ、大したことじゃないです。メイク担当とちょっとしたトラブルがあっただけです」拓也は苦笑しながら答えた。文隆は鼻で笑う。「もう少しの辛抱だ。今日で最後なんだ。あいつの公演が終われば、こっちとはもう関係ない。あとでメイク担当には給料を多めにやれ。こんな女の相手をさせられてるなんて、気の毒だからな」「分かりました」しばらくして、拓也は思い切って尋ねる。「本当に……今日が終われば手を引けるんですよね?ここ最近、この女のせいで評判はガタ落ちですし、古参メンバーも何人も辞めて……このままだと団がもたないです」文隆は低く言った。「安心しろ。秦さんが約束した。『今回の公演が終われば、もう関与しない』と」文隆自身も、ずっと耐えてきた。自分の手で築き上げた舞踊団が、ここまで壊されるとは思っていなかった。――もし今日の後も、この女を抱え続けろと言われるなら。たとえ逸斗と対立することになっても、追い出してやる。「それならよかった……本当に」拓也は大きく息を吐いた。メイクルームのドアは閉まっていなかった。拓也は中で化粧台の前に座っている水紀を見つめながら、小さく呟く。「今日……無事に終わるといいんですが、どうも嫌な予感がしていて……何か起きそうな気がしてならない」「何が起きようと、こっちの責任じゃない」文隆は冷たく言い放つ。「心配してるわけじゃありません。ただ……厄介ごとに巻き込まれたくないだけです」「ふん、そんなことは絶対ない」やるべきことは、もうすべてやった。この舞台がどうなるかは――すべて、水紀自身の運命だ。……やがて、水紀のソロ公演が始まろうとしていた。オーロラ舞踊団は集客のためにチケット価格を大幅に下げ、さらに無料配布まで行った。それでも――客席はまばらだった。しかも観客の多くは年配者で、ネットに疎く、彼女の騒動を知らずに無料チケットで来た人たちだ。「ひどいな……」スタッフの一人が思わず漏らす。「こんなに客の少ない公演、初めてじゃないか?」別のスタッフはカメラの調整をしながら苦笑した。「文句言うなよ。昨日の夜からずっと、劇場の外で抗議が起きてるんだぞ。『公演中止しろ』って。オーナーが警備員を増やしてなかったら、もうとっくに中に押し入られていたかもしれない」「全部、あの伊
Read more

第564話

「ええ、準備はできてるわ」水紀は、どこか不気味な笑みを浮かべた。「行きましょう」……ほどなくして、水紀は舞台に姿を現した。四方からカメラが向けられている。録画用のものと、ライブ配信用のもの。すでに配信は始まっており、視聴者が一気に流れ込んでいた。――だが、その目的は一つ。観るためではなく、叩くためだった。【マジで舞台に立たせたの?】【ネット民、今回ちょっと弱すぎない?】【まあ、バックに力ある人がいるからね】【客席ガラガラじゃん、さっさと降りろよ】【略奪女伊集院水紀はいつ謝罪するんだ?】そんな中――客席の一人が突然立ち上がった。空のボトルを舞台へ投げつけて、叫んだ。「伊集院水紀、降りろ!略奪女!いじめ加害者!お前に舞台に立つ資格なんかない!」さらに舞台へ突進しようとした。だがすぐに警備員が駆け寄り、取り押さえ、そのまま外へ引きずっていった。それでも男は叫び続ける。「伊集院水紀!恥知らず!報いを受けろ!」この一連の騒動は、すべてリアルタイムで配信されていた。コメント欄は爆発的に流れる。【これは勇者すぎるw】【最初から分かってたら、俺も無料チケット取って中に入って、直接あいつに文句言ってやればよかったのにさ】【今から行ける?】【無理、もう入口閉まってる】【伊集院水紀の顔見てwww】……その頃、舞台上の水紀は――顔が青白くなっていた。開演は目前だった。すでに舞台に立っているというのに、まさかこんな騒ぎが起きるとは思いもしなかった。気分が悪くなるのも無理はなかった。――オーロラ舞踊団は何をしているの?入場チェックすらまともにできないの?観客たちの視線も変わっていた。先ほどの男の言葉を、誰もがはっきり聞いていたから。――略奪女?いじめ?数人が席を立ち、そのまま退出した。ただでさえ少なかった観客は、さらに減った。配信のコメント欄は完全に見世物扱いで、【www】がひっきりなしに流れていた。水紀は深く息を吸い、無理やり気持ちを立て直した。――とにかく、この舞台をやり切らなければ。彼女は司会者に目配せする。司会者は内心嫌悪を覚えながらも前に出た。マイクを手に取り、無理に笑顔を作る。「本日はお越しいただき、ありがとうございます。本
Read more

第565話

水紀は、ほとんど狂いそうになっていた。やっとこの日を迎えたのに。ようやく舞台に立てたのに――いったい、これは何の騒ぎなのか。スタッフを呼ぼうとしたその瞬間――劇場の大扉から、数人が入ってくるのが見えた。しかも――全員、警察官の制服を着ている。その瞬間、彼女の瞳が大きく見開かれた。――どうして?なぜ警察がここに?客席はざわめきに包まれた。状況が理解できず、観客たちは互いに顔を見合わせた。配信のコメント欄も一気に騒然となった。【何が起きてるの?】【逮捕しに来たの?最高じゃん!】【なんで?略奪女だから?】【いや、それは道徳の問題でしょ。しかも伊集院北斗と水戸奈穂って正式に結婚してたわけじゃないし、それで逮捕はないよ】コメントは好き勝手に飛び交っていた。気づけば、配信に流れ込む視聴者の数はさらに増え続けていた。……その頃、舞台上の水紀は――全身が震えていた。逃げたい。今すぐこの場から消えたい。だが、足は床に縫い付けられたように動かない。ただ、近づいてくる警察官たちを見つめるしかなかった。やがて彼らは彼女の前で立ち止まる。「伊集院水紀さんですね?」その一言で、彼女の震えはさらに激しくなる。「わ、私は……」言葉にならなかった。そこへ、拓也が慌てて駆け寄る。「何かあったんですか?」先頭の警官は手帳を提示し、はっきりと言った。「我々は、伊集院水紀さんが二年以上前の交通事故に関与している証拠を掴んでおります。事情聴取のため、ご同行いただきます」その瞬間――激しい絶望が、まるで海のように水紀を呑み込んだ。頭の中がぐわんぐわんと鳴り響いた。――やっぱり、来た。ついに、この日が来てしまった。ほんのさっきまで、まだどこかで期待していた。警察が来たのは、あの時の交通事故の件ではないかもしれないと。だが現実は容赦なく叩きつけられる。――どうして?あのときは、すべて完璧だったはずなのに。北斗が手配してくれていた。何もかも、隠しきれていたはずだった。それなのに――なぜ二年以上も経った今になって、暴かれるのか……「この人です!」拓也は即座に彼女を指差した。「伊集院さん、こちらへ。同行をお願いします」次の瞬間――水紀の両手首には、その
Read more

第566話

【うわ、マジでスカッとする!この配信、アーカイブ残る?これから気分悪いときはこれを見てスッキリするよ!】【交通事故って何?誰か知ってる?】【警察が直接来て連行してるってことはさ、つまり伊集院水紀が過去に交通事故を仕組んで、人に危害を加えたってこと?】【やば……この女、そんな残虐な行為までしてたのか?】【ほんと、バチ当たるの怖くないのかよ】【ははは、今まさにバチ当たってるじゃん?前に配信中に連れて行かれたの、あの浮気相手の伊集院北斗だったよな】【この二人、ある意味お似合いじゃね?】【で、その事故って結局どういうこと?伊集院水紀にやられた相手って誰?誰か知らない?気になりすぎて死にそう!】【みんな注目、俺コネあるから。教えてやるよ。聞いた話だけど、水戸奈穂って、二年以上前に交通事故に遭って、当時は両脚がほぼ不自由になる寸前だったらしい!その後、なんとか片脚だけは治ったんだって。みんな昔の彼女のダンス動画見たことあるだろ?なんで動画が全部何年も前のものばっかりなのか、なんでこの二年間一度も踊ってないのか――全部その事故のせいなんだよ!】【マジで!?ってことは伊集院水紀、水戸奈穂の恋愛に割り込んだだけじゃなくて、わざと事故まで起こして水戸奈穂を陥れたってこと!?】【こんなに性格歪んだ人間いる?さっさと地獄に落ちろよ!】【人の人生ぶっ壊してさ、もう踊れなくしたくせに、今さらソロダンス公演とかよくやれるよな!マジで腹立つ!】【落ち着けって。もう逮捕されてるし。これは因果応報ってことさ。悪人にいい結末なんてないんだよ】……奈穂も、配信画面の中で、水紀が逮捕される一部始終を見ていた。見終えても、奈穂の表情はほとんど変わらなかった。不思議と、心もほとんど揺れなかった。――もともと、起こるべくして起こったことだからだろう。そのとき、奈穂は劇場の前に停められた車の中に座っていた。隣には、正修がいた。ふいに、彼女の手は温かく大きな手に包み込まれた。奈穂が振り向くと、正修の心配そうな視線とぶつかった。彼女はふっと微笑んだ。「大丈夫、私は平気」少し間を置いてから、続ける。「それにね、さっきのコメントで、すごくいいこと言ってる人がいたのよ。これは因果応報。悪人にいい結末はない、って」奈穂は顔を上げた。
Read more

第567話

だが、奈穂が事故に遭う直前、その青果卸売市場の経営者が突然、文彦に声をかけ、ある荷物の運搬を依頼した。そして文彦もそれを引き受けた。あの交通事故は、まさに文彦がその荷物を運んでいる最中に起きたのだ。事故から間もなくして、その経営者も突然と姿を消した。だが、居場所を突き止められてからは――ほどなくして、当時のすべてを洗いざらい語った。ある人物に接触され、金を渡されて、文彦の運送を手配するよう指示されたこと。そして事故後には、さらに多額の金を渡され、海市を離れて別の土地へ行き、二度と戻ってくるなと言われたこと。事故前に金を渡したのは、水紀。事故後に金を渡して逃がしたのは、当然ながら北斗だった。二人とも直接姿を見せてはいなかったが、警察は各種の技術と情報網を駆使し、当時の送金口座がこの二人に紐づいていることをすでに特定していた。さらに、水紀の前歴。水紀はかつて海市で奈穂に対する傷害事件の罪で留置所に入っていた。そして最後に――一年あまり前、文彦が獄中で死亡した件について。当時、状況証拠の多くは自殺を示していた。だが警察は一貫してそれに疑念を抱き、捜査を打ち切ることはなかった。そしてついに、真相に辿り着いた。――水紀が人を使ってやらせたのだ。いつか文彦が自分を告発するのではないかという後顧の憂いを断つために。もっとも、当時、美礼は子どもを連れて逃亡しており、その所在は把握されていなかった。もし居場所が知られていれば、美礼たち母子もまた命を落としていた可能性が高い。これらの証拠は、水紀があの交通事故に深く関与していたことを十分に裏付けていた。……最初、水紀は魂が抜けたように、ひたすら沈黙を守っていた。だが、警察が取り調べの手法を少し用いただけで、彼女の心の防壁はあっけなく崩壊した。「私がやった。それで何が悪いの!あの女がずっと私の邪魔をしてたんだから……!北斗の『本命の彼女』もあいつ、世間に認められたダンスクイーンもあいつ――どうしてよ!?だから私は、あいつを死なせたかったの!あははは……!残念だったわね、死ななかったけど。でも別にいいのよ、今じゃもう半分廃人みたいなものなんだから。二度と踊れない!たとえ私が逮捕されたからって、何が変わるの?水戸奈穂が一生『脚の不自由な女』なん
Read more

第568話

二人の女性ボディガードは力が強く、いくら水紀がもがいても、起き上がることもできなかった。奈穂は水紀を見下ろし、口元にわずかな嘲笑を浮かべる。「ええ、そうよ。あなたを笑いに来たのよ」冷たい声で言い放つ。「今の自分の姿、ちゃんと見てみなさいよ。滑稽そのものじゃない」「水戸奈穂――ッ!」水紀は声が枯れるほど叫んだ。「全部あんたのせいよ、このいやらしい女!」奈穂はその罵倒をまったく意に介さず、むしろ小さく笑った。「私のせい?水紀、あなたをここまで追い込んだのは、あなた自身よ」奈穂は数歩前に進む。その冷ややかな視線は刃のように鋭く、水紀の神経を容赦なく切り裂いた。「当時、私に言い寄ってきたのは北斗のほうよ。あなたと彼の関係なんて、私は何も知らなかった。付き合い始めてからも、あなたは私の前では『お義姉さん』なんて呼びながら、裏では彼とこそこそ関係を続けていた。それのどこが、私のせいなの?」水紀は再び涙をこぼし、奈穂を睨みつけながら、全身を激しく震わせる。「それだけじゃないわ」奈穂は一語一語、はっきりと言い切った。「あなたは浮気相手に堕ちただけじゃなく、交通事故まで仕組んで、私を殺そうとした。私は奇跡的に生き延びたけど、両脚は使い物にならなくなった。それなのにあなたは、私が踊れないことを何度も何度も突いてきた。ねえ、水紀。普通に恋愛しただけで、何が悪いの?私があなたより上手く踊れることの何が罪なの?それで今になって、『私があなたを害した』って言うの?」やがて、奈穂はふっと笑った。「……まあいいわ。あなたみたいな人間に、まともな価値観も道徳も期待してない。自分が間違ってるなんて、一生思えないでしょうね」今の水紀の涙も、ただ負け犬の悔しさにすぎない。水紀は、本当はさらに奈穂を罵りたかった。だが――奈穂の冷たく嘲るような視線を前にして、喉が詰まり、言葉が一つも出てこなかった。今さら奈穂を罵ったところで、何になるっていうの?自分はもう負けたのだ。それも、完全に。残りの人生は、塀の中で過ごすしかない。水戸家が、自分に再び外へ出る機会など与えるはずがない。北斗は行方知れずで、彼自身さえ守れない。逸斗も、もう自分を助けることはないだろう。――ならば、いっそ……水紀の視線が、奈穂の右脚へと
Read more

第569話

しばらくして、二人のボディガードもその場を離れ、そこには水紀一人だけが残された。彼女は呆然と壁にもたれかかり、涙さえ流れるのを忘れていた。――さっき奈穂が言ったこと。あれはつまり、彼女の脚は、まだ治る可能性があるってことなのか?そんなはずがない。あり得るわけがない。……だとしたら、これまで自分がしてきたことは何だったのか?そして、今のこの境遇は――何なのか?自分はこれから先の人生を、塀の中で過ごす。それなのに奈穂は、水戸家の令嬢で、正修のような婚約者がいて、幸せに満ちた一生を送る。「はは……ははは……」水紀は突然笑い出した。だがその笑いには、狂気と崩壊が滲んでいる。笑いながら、いつの間にか涙が溢れ、頬を伝い落ちていた。……とある小国の辺境の町。北斗は寝室の窓辺に車椅子で座り、スマートフォンの画面を見つめていた。そこに映っているのは、国内のニュース。――水紀の件だ。二年以上前の交通事故の真相が暴かれ、水紀が逮捕された、という内容。ならば、自分が当時やったことも、いずれ必ず暴かれるだろう。「……ふっ」北斗は低く笑い、スマホを無造作に脇へ放り投げた。どうせ、今の自分はこの有様だ。罪が一つ増えたところで、何が変わる?「北斗」高代はドアの前に立ち、ノックしながら声をかけた。「昨夜から何も食べてないでしょう?少しでいいから食べなさい。このままじゃ体がもたないわ」北斗は答えない。自分の膝下にある車椅子へと視線を落とす。自分はもう両脚の自由を失い、役立たずの人間になってしまったのだと思うと、何も喉を通らなかった。椅子の背にもたれ、目を閉じる。そのまま、二筋の涙が静かに流れ落ちた。「……奈穂。当時、君もこんなにも苦しんでいたのか……俺が悪かった」だが次の瞬間、彼は突然目を見開いた。瞳の奥に、激しい憎悪が燃え上がる。「……それでも!だからって、他の男と付き合うなんて許せるか!俺がどれだけ君を愛してたか、分からないのか!確かに俺は君を裏切った……でも、それはほんの一時の過ちだっただろ!それすら許せないのか!?」言葉を重ねるほどに、胸の中の憎しみは膨れ上がっていく。自分の両脚が、おそらく正修によって奪われたのだと考えると。そして今、奈穂がその正修の腕の
Read more

第570話

かつて可愛がっていた養女は、今や高代にとって完全な仇となっていた。「……ふん」北斗は、もはや水紀の名前すら口にしたくないとばかりに、冷笑を漏らす。「今のあの様子じゃ、後ろ盾にももう見捨てられたでしょうね。あとは刑務所で一生過ごすだけよ!」高代は憎々しげに言った。「そういえば、あの子が当時身ごもっていた子どもだけど――」北斗ははっと顔を上げた。「……それを今さら言って、どうする?」「別に。ただ思っただけよ。あの子、他にも後ろ盾がいたんでしょう?だったら、お腹の子が本当にあなたの子かどうかなんて、分からないじゃない?」高代は鬱憤を晴らすつもりで口にしただけだった。だが――その一言は、北斗にとって雷に打たれたような衝撃だった。顔色が一瞬で青ざめる。――そうだ。あの女は、嘘をつくのが得意だった。思い返せば、妊娠してからの水紀はどこか落ち着かず、何かを隠しているようだった。まさか――あの子は、本当に自分の子ではなかったのか?いや、それどころか。たとえ自分の子だったとしても、あの時点で既に他の男と関係を持っていた可能性は十分ある。――裏切られた。あの卑しい女に。北斗はもともと水紀を激しく憎んでいた。だが、男としての自尊心が、さらに彼を深く抉った。「北斗?どうしたの?」ひとしきり不満をこぼしたあと、高代は彼の顔色が明らかにおかしいことに気づき、慌てて近づいた。「脚……また痛むの?」「いや」北斗は彼女の手を払いのけた。「もういい。何も言うな。出ていけ」「……分かったわ。じゃあ、先に出るわね。ちゃんと食べなさいよ」高代はため息をつき、部屋を後にした。――だがドアが閉まった瞬間。北斗はテーブルの上の皿を、すべて床へ叩き落とした。食事など、できるはずがない。最も愛していた女を失い、その上で、水紀に裏切られていたかもしれないなど――車椅子の肘掛けを強く握りしめ、体が激しく震える。「……奈穂、奈穂……どこにいるんだ……会いたいよ……」彼は目を閉じた。無理やり眠りに落ちようとする。夢の中なら、きっとまた奈穂に会える。まだ二人が一緒にいた頃に戻れる。あの頃の奈穂は、自分に微笑み、その瞳には、自分しか映っていなかった。――どれほど、幸福だったことか。……ついに水紀の罪
Read more
PREV
1
...
5556575859
...
62
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status