All Chapters of 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ: Chapter 591 - Chapter 600

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第591話

雲翔は呆れたように言った。「俺がいつあの女に笑いかけた?」さっき沙織の上司が沙織を連れて入ってきた瞬間、雲翔はすぐに沙織を外へ出させ、上司だけを残して商談を続けた。視線すら向けていないのに、どこで笑う余地があるんだ。「あなた……」そのとき若菜は、はっと気づいた。自分はあの女の言葉を本気にしてしまい、しかも雲翔の前で口にしてしまったのだ。「……あの女がそう言ったの」若菜は怒りを抑えながら言った。「違うの?」「もちろん違う」雲翔の表情がわずかに曇った。「君はあの女の言葉を信じて、俺を信じないのか?」若菜の胸がどきりとした。「違うわ、そんな意味じゃないの。ただ……腹が立ったの。あの女、会社にまで来てあなたを誘惑するなんて。しかも私に散々挑発してきたのよ」それを聞いて、雲翔も不快感を覚えた。「安心しろ。もう二度と、あの女を俺たちに近づけさせない」彼は若菜の背中を軽く撫で、優しくなだめる。「そんなに怒るな、いいか?」若菜は黙ったままだった。雲翔は少し真剣な口調で続ける。「若菜、これから何があっても、もう少し冷静にならないと。さっきみたいにすぐ感情的になるのは……ほら、周りも見ていただろ」「私があなたに恥をかかせたって言いたいの?」若菜は傷ついた目で彼を見た。「そういう意味じゃない」雲翔はさらに頭が痛くなった。若菜は深く息を吸い、無理やり気持ちを落ち着かせる。「分かったわ。私はあなたの彼女なんだから、ちゃんと振る舞わないとね。あなたに迷惑をかけないようにしないと」俯きながら言った。「これからは気をつける」「若菜!」雲翔は眉を寄せた。「俺が心配しているのは、自分の評判じゃない。君が周りに悪く思われて、傷つくことが嫌なんだ」若菜は少し驚いたように彼を見つめる。「本当に?」「もちろんだ」雲翔は彼女を抱き寄せ、小さくため息をついた。「最近はいろいろありすぎて、正直かなり疲れている。ここ数日で仕事を片付けて、それから一緒に旅行に行かないか?行きたい場所があるなら、どこへでも付き合う」「本当?」若菜の表情がぱっと明るくなる。すぐに嬉しそうに、旅行の計画について話し始めた。オフィスを出たあと、ふと我に返った。雲翔と一緒に旅行できることが、こんなにも嬉しいなんて。――自分が彼に近づいた本来の
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第592話

「何をするつもりなの?助けて!」沙織は恐怖に震える声で叫んだ。「騒がない方がいいよ。こんな場所でどれだけ叫んでも、誰も助けに来ないわ」冷たい声が響く。その声に、沙織はどこか聞き覚えがある気がした。男たちが左右に分かれ、道を開ける。そして――その先から歩いてくる若菜の姿が見えた。「あなた……!」沙織は怒りに満ちた目つきで若菜を睨む。「いったい何をするつもり?」周囲を見回すと、ここがどこなのかまったく分からない。人気のない荒れ地のようで、建物もなければ人影もない。若菜の言った通り、どれほど叫んでも助けは来ないだろう。「分からないの?」若菜は近づくと、容赦なく沙織を蹴りつけた。沙織は痛みに顔を歪めながらも、必死に媚びるような笑みを浮かべる。「賀島さん、どうしてこんなことを……知り合いなんですから、落ち着いて話し合いましょう……」「誰があんたと知り合いよ、この下品な女!」若菜はさらに何度も蹴りつけ、罵倒した。「私の名前、ちゃんと覚えてるじゃない。会社では知らないふりしてたくせに!私の彼氏を誘惑するなんて、どれだけ図々しいのよ。本当に身の程知らずね!」「許してください!本当に反省しています!」沙織は泣き叫んだ。若菜は蹴り疲れたのか、ようやく足を止め、大きく息をつく。沙織はよろめきながら少し前ににじり寄り、若菜の足にしがみついて必死に懇願した。「賀島さん、本当にもうしません!これからは二度と宋原社長に近づきません、どうか許してください……!」「ふん」若菜は冷たく笑った。「今さら謝っても遅いのよ」若菜は見下ろした。確かにこの女は美しい。今は狼狽していても、その整った顔立ちは隠しきれない。そのことが、かえって若菜の怒りをさらに掻き立てた。若菜はふと、歪んだ笑みを浮かべる。「本当に節操のない女ね。他人の彼氏まで誘惑するなんて、そんなに男に飢えてるの?」沙織は恐怖に顔を青ざめさせ、必死に首を横に振った。「大丈夫よ。そんなに男が欲しいなら、正直に言えばよかったじゃない。ほら、今日はこんなに用意してあげたんだからね。たっぷり楽しめるわよ」若菜の言葉に、男たちは下卑た笑みを浮かべた。「やめて!お願いです!」沙織は顔色を失い、若菜の足にしがみついて泣き叫ぶ。「賀島さん、どうか許してく
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第593話

それを言い終えると、沙織は荒い息をついた。「今、何て言ったの?」若菜は勢いよく身を乗り出し、沙織の髪をつかみ上げた。苦痛で顔を歪める沙織を無視し、怒声を浴びせる。「水戸社長?つまり水戸奈穂のこと?」「そ、そうです……」沙織は苦しげに答えた。「数日前、彼女が私を呼び出してお金を渡し、宋原社長を誘惑して賀島さんを彼のそばから追い出せって言われたんです。成功したらさらに報酬も出すと言われて……私、欲に目がくらんでしまって、つい引き受けてしまいました」若菜の顔色がみるみる青ざめた。「水戸奈穂……あの女、そんなことまで……!」「私にも責任はあります。でも黒幕はあの人なんです。復讐するなら水戸社長にしてください。もうあの人のために動くことは絶対しません、本当にしません!」若菜はようやく手を離し、もう一度強く蹴りつけた。「水戸奈穂は、どうしてそんなことをさせたのか言ってた?」沙織は怯えた表情で答えた。「詳しくは聞かされていません。でも、部下と話しているのを偶然耳にしたんです。賀島さんのことを見下していて、宋原社長には全然ふさわしくないって……賀島さんは品がないし、人前に出せるような女じゃないって言っていました。それで賀島さんを宋原社長のそばから追い出すって……」「水戸奈穂……あの女……!」若菜は怒りに震えながら叫んだ。自分が雲翔にふさわしくない?人前に出せない女?奈穂にそんなことを言う資格があるとでもいうのか。やはりあの女は、最初から自分に敵意を抱いていたのだ。前にバーで会ったときも、店のオーナーの味方をして、自分に対抗してきたではないか。「賀島さん、知っていることは全部話しました……どうか許してください、帰らせてください……」沙織は震えながら懇願する。「消えなさい」その一言に、沙織は慌てて立ち上がり、振り返ることもなく逃げ去った。若菜は車のボディに手をつき、荒い呼吸を繰り返す。胸の奥で燃え上がる怒りは、どうしても収まらない。奈穂に見下されるだけならまだしも、自分と雲翔を引き裂こうとしているとは。今回送り込んできた沙織は愚かだったから失敗した。だがもし次は、もっと美しく、もっと賢い女を送り込んできたら?別の方法で自分を彼のそばから追い払おうとしてきたら?そんなこと、絶対に許せない。若菜は
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第594話

まさか、レストランで雅之に再び会うとは思ってもみなかった。奈穂が気づくより先に、雅之のほうが彼女を見つけ、声をかけてきた。「水戸さん」振り向くと、雅之の姿があり、その隣には若い女性が一人、興味深そうに奈穂を見つめていた。「関山おじさん」奈穂の目にわずかな驚きが浮かぶ。「どうしてここに?」「京市で商談があってね。昨晩到着したばかりなんだ」雅之は穏やかな表情で答えた。「そうだ、こちらは娘の優奈だ。君たち、年齢も近いだろう」奈穂と優奈は軽く挨拶を交わした。「今日は友人と食事かい?」雅之が何気なく尋ねる。「会社の部署の会食なんです」奈穂は微笑んだ。「そうか、もうご実家の会社に入って働いているんだね」雅之の目に安堵の色が浮かぶ。「君のお母さんも、天国で今の君の姿を見て、きっと喜んでいるはずだ」「恐れ入ります」奈穂は礼儀正しく答えた。「同僚たちが待っているので、先に失礼しますね」「分かった」別れの挨拶をして、奈穂はその場を後にした。先日、雅之から母の中学時代の話をたくさん聞けたことは嬉しかった。だが同時に――雅之が父の「恋敵」だったかもしれないと思うと、どこか複雑な気持ちになる。あまり深く関わらないほうがいいかもしれない。「お父さん」優奈が雅之の腕を軽く引いた。「あの人って、水戸グループのお嬢さんでしょ?どうして知り合いなの?」「彼女のお母さんと、昔同級生だったんだ」優奈はわざとらしく「へぇ」と声を伸ばし、疑わしげな表情で父を見る。「なんだか怪しいなあ。彼女に会ってから、なんだか様子がおかしいよ。もしかして……彼女のお母さんと何かあったとか?」「余計なことを言うな」雅之の顔に、わずかな動揺がよぎる。「君はついてこなくていいと言ったのに、勝手について来て、その上そんなことまで言うとは」優奈は不満そうに口を尖らせた。「だって本当に変なんだもん」「まだ言うのか?水戸さんを見てみろ。同じくらいの年齢なのに、もう会社に入って家業を支えている。それに比べて君は、毎日遊んでばかりだ」優奈は慌てて耳を塞ぐ。「聞こえない聞こえない!あと数年は好きにさせてくれるって約束したでしょ!」「まったく……分かった分かった。早く個室に入るぞ、皆が待っている」「はーい」優奈は不満げに返事をした。だが心の中の
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第595話

「お母さん、それってどういう意味?」優奈の表情がみるみる変わった。「お父さんが一途で、まだ忘れられないって……どういうこと?私が知らないことがあるの?早く教えて!」裕美はしばらく沈黙したあと、ようやく口を開いた。「どうしてお母さんとお父さんが離婚したのか、知っている?」「性格が合わなかったからじゃないの?」優奈はすぐに答える。「だって、そう言ってたじゃない」「違うよ……それは、お母さんがあなたに嘘をついていたの」裕美は苦笑した。「本当の理由はね……お父さんの心の中に、ずっと別の女性がいたからなの。あるとき、偶然お父さんの書斎で、彼が長年大切に隠していた箱を見つけたの。その中にはね、その女性の写真がたくさん入っていたのよ。さらに、昔お父さんが彼女に宛てて書いた手紙もあった。それだけじゃない。卒業してからもずっと、その女性への想いを書き続けていた手紙が何枚もあったの……私と結婚したあとも、ずっと書いていたのよ」優奈は衝撃のあまり、言葉を失った。そんな話は、これまで一度も聞いたことがなかった。「お父さんと私は、お見合いで知り合ったの。彼に過去に好きな人がいたとしても、それ自体は理解できる。でも、結婚したあとも心の中に別の女性がいるなんて……どうしても受け入れられなかった。もし最初から私のことが好きじゃなかったのなら、もし他に想っている人がいたのなら……どうして私と結婚したの?」裕美の表情には、離婚から十年近く経った今でも消えない痛みと悔しさが浮かんでいる。「彼は説明してくれたわ。その女性はもう亡くなっていること、卒業してからは会っていないこと、私を裏切るようなことはしていないって。でもね……それでも耐えられなかったの。だから結局、離婚を選んだのよ。……優奈から完全な家庭環境を奪ってしまって、本当にごめんなさい」裕美の目が赤くなった。「違う!」優奈は慌てて言った。「お母さんは悪くない!悪いのはお父さんよ!」その瞬間、優奈の胸には父への怒りが湧き上がった。唇を強く噛みしめながら尋ねた。「じゃあ……お父さんがずっと忘れられなかった女性って、水戸家のお嬢さんのお母さんなの?」「ええ。問い詰めたとき、彼は言ったの。その女性の名前は水戸清乃。水戸グループの会長に嫁いだ女性だって。今日、お父さんが水戸家
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第596話

ついに優奈は、あの幸せだった家庭を完全に失い、片親家庭の子どもになってしまった。今になってようやく知ったのだ。かつて両親が離婚したのは、父の心の中に別の女性がいたからだったということを。あの頃見せていた両親の仲睦まじい姿も、すべては幻――父が作り上げた偽りにすぎなかったのだ。優奈は、悔しさをぶつけるように枕を何度も叩いた。腹が立って仕方がなかった。母のためにも、そして自分自身のためにも。ふと脳裏に浮かんだのは、今日、父が奈穂に向けていたあの穏やかで慈しみに満ちた表情だった。――ふふ、ずっとあの女を愛していたから、その娘にまであんなに優しいの?これが、好きな人に関わる人まで大事に思うものなの?もしあの女さえいなければ、両親は離婚せずに済んだ。自分が片親家庭の子どもになることもなかったはずだ。優奈の胸の奥に、ふいにあの女に対する強い憎しみが湧き上がった。理性では、こんなふうに考えるべきではないと分かっている。それでも、どうしても抑えきれなかった。だが、あの女はすでにこの世にいない。だから優奈は、そのすべての憎しみを、あの女の娘である奈穂へと向けた。最近ネットで目にした情報を思い出す。奈穂は婚約者と、とても仲が良いらしい。どうして?奈穂の母親のせいで、自分は片親家庭の子どもになったのに。それなのに、奈穂だけがこんなにも幸せに暮らしているなんて?しかも奈穂の婚約者は、正修。どこを取っても非の打ちどころがない、極めて優秀な男だ。優奈は、その夜ほとんど眠ることができなかった。やがて、ひとつの大胆すぎる考えが、静かに優奈の頭の中で形を成していった。……翌朝、朝食の席で雅之が言った。「明後日の飛行機はもう手配してある。明後日、清越市に戻るぞ」「お父さん、私はもう少し残るわ」優奈は落ち着いた様子で答えた。「どうしてだ?」雅之は不思議そうに彼女を見る。「京市って面白いところだと思って。もう少しここで遊んでいたいの」優奈は微笑んだ。「お父さん、京市に来るのは初めてなの。いろいろ見て回りたいのよ」ごく自然な理由に聞こえたため、雅之も疑わなかった。「そうか。じゃあ、もうしばらく遊んでくるといい。気をつけるんだぞ。お金は足りているか?」「大丈夫よ。毎年たくさんお小遣いをくれてるし、使いきれないく
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第597話

その冷淡でよそよそしい態度が、烈生の胸を容赦なく貫いた。理性では、これ以上執着すべきではないと分かっている。それでも体はまるで言うことを聞かず、彼は思わず奈穂の前に立ちふさがった。「秦社長、まだ何かご用ですか?」奈穂は顔を上げて彼を見た。わずかに眉をひそめ、その瞳にははっきりとした不快の色が浮かんでいる。烈生の声は、乾ききってかすれていた。「水戸さんに伝えたいことがあります」「秦社長、私たちの間に話すことなんて、特にないと思いますけど」奈穂は相変わらず冷ややかだった。「道を開けてください」そこまで言われても、烈生は一歩も動かなかった。ただ彼女を見つめ続け、その瞳にははっきりとした頑なさが宿っている。「水戸さんのことが好きです」ついに――奈穂の前で、その言葉を口にした。その瞬間、胸の中が少しだけ軽くなったような気がした。だがすぐに、それ以上に重い石が強くのしかかってくる。まさか烈生が、面と向かって告白してくるとは思ってもいなかった。奈穂の眉間のしわは、さらに深くなる。「私は秦社長が好きじゃありません。これまでも一度も好きになったことはありません」奈穂は即座に言い切った。「今、私が好きなのは九条正修だけです。彼は私の婚約者で、これからの人生を共に歩む人です」一瞬言葉を区切り、彼女はさらに続けた。「秦社長がどう思おうと、それは私には関係ありません。でも、どんな気持ちであっても、これ以上私と正修の関係を邪魔しないでください」その言葉を聞いた烈生は、ふっと笑った。だがその笑みには、痛みと苦さが滲んでいる。「水戸さん、本当に情け容赦がないですね」「言うべきことをはっきりさせておきたいだけです。あとになって、余計なもつれが生まれても困りますから」奈穂が立ち去ろうとするが、烈生はなおも行く手をふさぐ。「秦社長!」奈穂は明らかに苛立っていた。「節度を持ってください!」「もし一度チャンスをくれるなら、九条正修に劣らないことを証明できるはずです」烈生はなおも彼女を見つめ、その目は潤んでいた。奈穂は思わず呆れたように笑う。「優れているかどうかの問題だと思っているんですか?私は秦社長が好きじゃない。好きなのは正修です。秦社長がどれだけ完璧でも、好きになる人は変わりません。分かりますか?それに、私に
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第598話

「どうしてここに?」奈穂は尋ねた。「そろそろ商談も終わる頃だと思って、迎えに来たんだ」奈穂は、今日の午後ここで打ち合わせがあることを正修に伝えていた。奈穂が振り向いて彼を見ると、その目の奥にまだ消えない陰りが残っているのに気づく。そこで彼の腕を軽く引き、やわらかな声でなだめた。「もう、怒らないで。私もまさかここで秦社長に会うとは思ってなかったの」「分かってる。君に怒っているわけじゃない」正修の視線は、わずかに和らいだ。奈穂のことは、絶対的に信じている。だが烈生があそこまで執拗に食い下がってくることには、どうしても苛立ちを覚えた。怒りの矛先は烈生に向いているのであって、奈穂に向けられるはずがない。ふいに奈穂が足を止めた。理由は分からなかったが、正修も反射的に足を止める。彼女は彼に、少しかがむように目で合図した。正修は素直にそれに従う。そして次の瞬間――奈穂はつま先立ちになり、彼の唇にそっと口づけた。正修はわずかに目を見開く。「誰に対して怒ってるにしても、あなたが怒るのは好きじゃないの。怒ると体にもよくないでしょう?」彼女は微笑みながら彼を見つめた。「それに、私たち二人がこうしてちゃんと一緒にいられれば、それで十分だと思うの。こんなことで怒るなんて、もったいないよね?」真剣な表情で語る彼女を見つめ、正修の口元にわずかな笑みが浮かぶ。「そうだな。君の言う通りだ」彼は手を伸ばし、彼女をぎゅっと抱きしめた。「俺たちがうまくやっていれば、それでいい。こんなことで腹を立てる価値なんてない」奈穂はにこりと笑い、彼の背に腕を回して抱き返す。その光景を――二階の窓辺に立つ烈生が、すべて見ていた。認めたくはなかった。だが二人の間に満ちあふれる愛情は、はっきりと感じ取れてしまう。胸がひどく痛んだ。喉の奥に、血の味が広がるような感覚さえあった。初めて奈穂に出会ったのは、あるレストランだった。そのときの烈生は、彼女が水戸家の令嬢だとは知らなかった。ただ、明るく澄んだ瞳と整った歯並びが印象的で、とても美しい女性だと思った。美しいものに惹かれるのは人の常だ。当時の彼は、まだ二十歳を少し過ぎたばかりの若者で、つい何度も目で追ってしまった。しばらくして、店員が彼女にデザートを運んできた。だがどういうわけか手
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第599話

当時の烈生は、その女性をとても興味深いと思った。その後、再び奈穂を見かけたのは、非公開の招待制の宴だった。あの場で思いがけず彼女の姿を見つけ、彼は驚いた。そして近くにいた人が、彼女こそ水戸家の令嬢だと教えてくれた。――彼女が、あの控えめで神秘的だと噂されていた水戸家の令嬢だったのか。その宴のあいだ、彼の視線はどうしても彼女を追ってしまった。宴が終わったあとも、彼女のことを思い出すことが何度もあった。だが当時の彼は、まだ父の支配のもとにあり、反抗する意志も芽生えていなかった。恋愛も結婚も、すべて父が決めるものだ――無意識のうちに、そう思い込んでいた。だから、自分が奈穂に惹かれていることにすら気づいていなかった。その後は忙しい日々に追われ、奈穂と再会することもなく、彼女を思い出すこともなくなっていった。それからさらに数年が過ぎた。ある日、父が突然言い出した。水戸家と縁組を結びたい、と。その言葉を聞いた瞬間、烈生の脳裏に奈穂の姿がよみがえった。かつて心を揺らされた、あの女性。その瞬間、胸の奥から抑えきれない喜びが込み上げてきた。もし縁談の相手が奈穂なら――それは自分にとって、これ以上ないほど嬉しいことだった。だが残念ながら、水戸家が選んだのは秦家ではなく、九条家だった。そして奈穂は――正修を愛するようになっていた。再び彼女に会ったとき、彼女は礼儀正しく、しかしよそよそしく自分のことを「秦社長」と呼んだ。烈生は必死に自分の感情を抑え込もうとした。自分は彼女のことなど好きではない――そう思い込もうとした。そして誰にも、その想いを悟られまいとした。だが結局、抑えきれなかった。烈生は、はっと我に返る。階下にはもう、正修と奈穂の姿はなかった。二人は共に立ち去っていた。分かっている。奈穂は、自分の叶わぬ想いだった。心の奥底に深く刻み込まれ、もはや切り離すことなどできない存在だ。そのとき、突然スマートフォンの着信音が鳴り響いた。通話に出ると、聞こえてきたのは隆徳の声だった。「今どこにいるんだ。家に戻れ」隆徳の声は冷え切っていた。帰宅すれば、何を待ち受けているのか――烈生には分かっていた。それでも、烈生は家へ戻った。リビングに足を踏み入れた瞬間、怒りを帯びた隆徳の声
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第600話

隆徳はさらに容赦なく、烈生へ鞭を振り下ろした。「分かっているのか。お前が何度も水戸健司に接触していることは、水戸家に付け入る隙を与えることになるんだぞ!それに、すでに九条正修を完全に怒らせてしまった。あの男が本気で秦家を相手に動けば、どれほど余計な面倒を招くことになるか分かっているのか?」秦家と九条家は、長年にわたって水面下で競い合ってきたが、互いに拮抗した関係を保ってきた。だが今回ばかりは、正修が明らかに烈生の行動によって激怒している。本当に九条家と完全に対立することになったとしても、秦家が恐れるわけではない。だが、本来避けられるはずの面倒を、なぜわざわざ招かなければならないのか。たかが烈生のくだらない感情のためにか?「逸斗にできて、どうして俺には許されないんだ?」烈生は勢いよく顔を上げた。その目には、狂気にも似た執着が揺らめいている。隆徳は怒りのあまり言葉を失いかけた。「お前と逸斗が同じだとでも思っているのか?何度でも言う。お前は秦家の後継者なんだ!」しかも逸斗が奈穂に近づいたとしても、それはあくまで水面下のことだ。ところが烈生は違う。堂々と表に出してしまった。他のことはまだいい。だが秦家の後継者がここまで理性を失っていることだけは、隆徳には到底容認できなかった。「今すぐ榊原家に連絡する。すぐに榊原家の令嬢との結婚を決める!」怒りのあまり、隆徳は苛立たしげにスマートフォンを探し始める。「俺は榊原さんとは結婚しません」背中に走る焼けつくような痛みに耐えながら、烈生は低く言った。「お父さん、無駄なことはおやめください」「貴様……!」隆徳は再び鞭を振り上げ、何度も激しく打ち据えた。その光景に、周囲の使用人たちも息をのむ。「お父さん、何をしているの?」突然、音凛の声が響いた。いつの間に帰ってきたのか、彼女はちょうどリビングへ入ってきたところだった。「これはお前の口出しすることじゃない!」隆徳は厳しく言い放つ。「自分のやるべきことをしろ!」音凛は眉をひそめた。「口出しするつもりはないけど……お父さん、このままではお兄さんを殺すつもりなの?これまでお兄さんを育てるのに、どれだけ心血を注いできたか……言うまでもないでしょう?」彼女は肩をすくめた。「本当に殺す覚悟があるなら、私は
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