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domの王子はsubの皇子を雄にしたい のすべてのチャプター: チャプター 61 - チャプター 70

99 チャプター

第61話:雄の初陣

大聖堂の石床は冷えていた。磨かれた黒曜の光沢が天井の聖紋を映し、香炉の白煙が細い糸のように昇る。ルシアンは半歩前に出て、胸を張った。公では皇子が前に。彼らが定めた二重統治の原則通りに、王子は肩甲に軽く掌を置いて支えるだけだった。「条約婚の成立を、ここに宣する」朗々と響く助祭の声。巻物が開かれ、国印に並んで二人の私印が押されている。その末尾に、もう一つの巻物が添えられた。羊皮紙に魔紋が絡み合い、淡い金が脈打っていた。「合意契約、付則」息を呑む気配が広がる。ルシアンは顎を上げ、王子の指先に視線で合図した。ここからは彼の言葉だが、身体の同意は二人で見せる。王子が低く読み上げる。短く、明確に。可。不可。合図。アフターケア。「可は、拘束の所作、跪礼の訓練、指示への即応。不可は、呼吸を奪う行為、永続する痕を残す力、第三者の介入」読み上げに合わせて、ルシアンは手首にかかった絹紐を見せる。魔紋が甘く光り、結び目はすぐに解ける構造だった。可の所作は象徴で足りる。不必要な興奮を煽る必要はない。合図は指先で語る。指三度の軽い叩きは緩めての意味。薬指の根を軽く押すのは中止。セーフワードは「青磁」。声に出した瞬間、全てを止める。「アフターケアは、温水と茶、掌での背撫で、呼吸の確認。翌朝の言語による振り返り」王子が最後を読み、巻物を伏せた。ルシアンは手首の絹紐を自ら解き、王子の指に結び直した。視線が交わる。言葉よりも早い確認。彼は頷いた。「週一回、スイッチ・デーを設ける。本日はこれに当たる」助祭が咳払いし、巻物に目を落とした。「主一回」と読みかけて慌てて戻る。小さな笑いが広がり、緊張がほどけた。王子が肩に置いた掌に微かに力を込め、ルシアンの背に熱を渡した。彼の声が自然に大きくなる。条約婚の印章が押されると、今度は別の足音が大理石に鳴った。地下街の顔役が膝を折り、納骨堂の管理人が杖をついて進む。大聖堂の司典が緋の衣を揺らす。三つ巴の権力が、祝祭の裏でぶつかる時刻だ。「皇子殿下、地下街の商いに課された臨時税、婚礼を機に解除いただきたい。行列の道が地下まで塞がれましてな」「
last update最終更新日 : 2025-11-03
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第62話:境界線の描き直し

鐘の音が石畳を震わせ、香の匂いが大聖堂の高い天井から降りてきた。皇子は肩で呼吸を整え、祭壇に向かう階段の一段目に足先を揃えた。彼の後ろで王子が指先をそっと腰に添え、「前へ」とだけ言った。声は短く、支えは確かだった。参列者の囁きは波のようだ。帝都から来た重臣、地下街の長、納骨堂の守り人、大司教。誰もが視線を交差させ、彼らの歩幅を測る。皇子は一歩進み、二歩目で迷いが胸に上がったが、腰の支えが同じリズムで「大丈夫」を刻んだ。誓約の巻物には魔紋が薄く光っている。条約婚の文言は事務的で、美しいほど冷たい。愛は後でよい、先に契約、と二人は決めていた。祭司が問う。「公に、二国の結び目をここに置くか」皇子は息を吸い、喉の震えを受け止め、言った。「置く」王子も短く。「結ぶ」二人は指へ輪を嵌めた。黄金の内側に刻まれた二重螺旋の魔紋が熱を持つ。互いの掌にそれをしばらく載せて、熱が重なるところまで待つ。見ている者たちには、政治の儀礼でしかない。だが皇子には、その熱が背骨を支えてくれることが分かった。儀礼は公開で、契約は非公開で進む。大聖堂の裏手、小部屋。蝋と紙の匂い。王子が羊皮紙二枚を机に並べた。合意契約書。可、不可、合図、アフターケアの欄が細かく仕切られている。皇子は眉を上げる。「こんなに」「短い方が嘘になる」王子は笑わなかったが、羽ペンを持つ手を少し緩めて見せた。「赤線は君が引く。僕は沿う」皇子は可の欄に書いた。手を添える、声で導く、公での先陣。不可の欄に書いた。外での身体的拘束、嘲笑に類する言葉、相手の発言を奪うこと。合図は三段階。手首を一度握るで減速。二度で一時停止。三度で中断。セーフワードは「梢」。理由は、森で会った日の風の音に似ているからだ。「運用の確認」王子が言った。「今、僕が少し早口で君を押す。君はどこかで『梢』を言う。僕は止め、温度を落とし、整理し、君の言葉を待つ」「ここで?」「ここで。今やって、外で使える」練習はすぐ始まった。王子は提案を畳み掛けるふりをして、皇子の視線が泳いだ瞬間を見逃さないようにした。
last update最終更新日 : 2025-11-04
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第63話:訓練と演説

夜、皇都の離宮。火は落とし、月光と香の紫煙だけが室内の輪郭を柔らげていた。皇子は膝で座り、背筋を伸ばす。喉奥で鼓動が暴れる。王子は正面の椅子に腰をかけ、指先だけでテーブルを叩いた。音は三拍、短く間を置く。「契約を確認する」「……はい」羊皮紙には魔墨の青がまだ暖かく、二人の紋章が絡むように浮いている。条約婚の条項と、私室の合意契約は並べて記された。政治と身体の約束を同じ紙に載せるのは滑稽か——皇子は一瞬そう思ってから、苦笑を喉の奥に押し戻した。滑稽なくらいでいい。忘れようがない。王子が読み上げる。「可は、手の誘導、視線の指示、衣越しの触れ。不可は、痛みと拘束、露出。合図は、指を二度で緩め、三度で停止。言葉のセーフワードは『柘榴』。アフターケアは、水、体温、言葉。週一回のスイッチ・デーは、水砂の日」「あの……『水砂の日』、商人が市場をひっくり返すから、昼は無理です」「夜にする。政務の当番制と勘違いされても構わない」「勘違いされます?」「どうせ明日、誰かは勘違いする」王子は笑って、椅子から降りた。指が皇子の顎へ伸びる。触れる前に止めて、問うてくる。「いいね」「……はい」「じゃ、目を上げて。声は低く」皇子は言われた通り、顎を上げる。目線の高さが変わると、同じ部屋が違って見える。王子の視線が届いて、揺れない柱みたいに胸の中心に刺さる。王子が軽く肩に触れた。「間合いの練習。下がって」皇子は一歩下がる。王子は一歩進む。ふたりの呼吸が噛み合うよう、踏み数を揃える。近すぎると飲み込まれる。遠すぎると届かない。政治も同じだ。皇子は前に出る時は、前に出る。下がる時は、示して下がる。「もう一度」「はい」流れが掴めてきたところで、王子の指が耳にかすか触れ、皇子は反射的に肩をすくめた。熱が跳ね、胸の鼓動が跳ね返る。王子の指が止まる。「どう」「&hell
last update最終更新日 : 2025-11-05
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第64話:嫡流の影

鐘の音がまだ冷たい朝の空気を振るわせていた。磨いた銀の匂いと、祭服に染みた香の残り香。皇子は息を一つ吐き、胸の内側に溜まった熱を数える。緊張は悪ではない、と王子に教わった。熱は火になる。火は言葉を照らす。「襟、少し詰めるね」王子の指が喉元の組紐を整えた。力は柔らかい。そこに合図が紛れている。三拍の指先は「任せる」。二拍は「待て」。一拍は「前へ」。皇子は顎を軽く引き、目を閉じた。「契約、復唱する」「うん」二人で書いた合意契約は、条約婚の本契約に添付される別紙として、きちんと封蝋された。可と不可、合図とアフターケア。練り上げた言葉たち。可——儀礼用の拘束まで。跪礼は私室のみ。命令語は事前に共有。政治の場での遮りは禁止。不可——痕が残る圧迫。武器を用いた躾。第三者の立会い。合図——セーフワードは「青磁」。声が出ない時は手首を二度叩く。アフターケア——水、毛布、甘味。脈が落ち着くまで手を握る。抱擁は相手の合図で解く。週一回のスイッチ・デー——第七日の夜。役割を交換。公では変えない。皇子は目を開け、王子を見た。王子の視線は温かく、しかし甘さに甘え切る隙を与えない精度を持っていた。「怖い?」「熱い。少し震える。……でも、前に出る」「いい子」小さな褒美のキスが髪に落ちた。体の中心がすとんと定まる。皇子は笑った。自分でも驚くほど、軽い笑い。大聖堂の扉が開く。光が床のモザイクの金を拾い、絵物語の聖人たちを泳がせた。祭壇の前、摂政が先に立っていた。黒衣に銀の留め具。僭称の準備が整っている顔だ、と皇子は思った。「本日は条約婚の成立と、両国の共治の宣布と相成る」大司教の声は響いた。その瞬間、摂政が一歩出る。「まずは継承について確認を。帝位は亡帝の密勅により、嫡流の影に——」ざわめき。影。宮廷の噂は聞いている。亡帝の「影の子」を看板に
last update最終更新日 : 2025-11-06
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第65話:騎士長の誓い

鐘が三度鳴った。大聖堂の扉が開き、白い光が石床を流れた。香の匂いは薄荷と乳香、冷たい大理石に人々の息が曇りを描く。皇子は前に立った。背筋は細いのに、声はまっすぐだった。「条約婚を結ぶ。帝国と王国の和平、共同統治、軍の相互運用。公の席では、私が前に出る」王子は半歩うしろ。肩越しに視線を添えて、言葉の途切れを支えた。指先がひそかに裾をつまむ。合図だ。大丈夫、と。司祭が巻物を掲げる。公開条文の最後に、小さな一節が加えられていた。 「交換統務日、週一回。両当事者は役割を交替し、相互理解を深めること」壇下がざわつく。勘のいい書記が眉を上げたが、王子が笑って小さく首を振る。それ以上の解釈は、ここでは誰の役目でもない。次に、封蝋付きの薄い羊皮紙が置かれた。私室機密条。合意契約の付属書。皇子は手袋を外し、静かに指でなぞった。可と不可、合図とアフターケア。文字は冷たいのに、意味はやわらかかった。「可は、抱擁、口づけ、束縛は儀礼の範囲で。不可は、跡が残る衝撃、呼吸を奪う行為、非公開の記録」 王子が短く読み上げた。声は低い。笑いを含むが、ふざけない。 「合図は赤縄。扉の閂にひと結びは不可の知らせ、結び目を二つで交渉中。三つは中止。セーフワードは薄荷。言葉に迷う夜でも呼べる味だ」 皇子は頷いた。喉が一度動いた。 「運用は、私からも言う。口に出す。止める時は止める。終わったら、温かい飲み物を一緒に。記録は鍵をかけて二人で見る」「承諾」 ペン先が鳴った。二つの署名。封蝋の紋章が重なった。式は滑らかに進んだ。最後に王子が皇子の手をとり、民衆の前に掲げた。拍手が波になって押し寄せた。皇子の目が少し潤む。その涙を見せること自体が、彼の政治だった。弱さの形を、自分の背負うものとして見せる。終わると、裏回廊は騒がしかった。大聖堂側の参事が納骨堂の通路に旗を立てると言い、地下街の顔役が夜の市までの警備を泣きつき、納骨堂の司守が先祖の眠りを盾に日取りの変更を求めてきた。そこで膝をついたの
last update最終更新日 : 2025-11-07
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第66話:赤縄の合図短縮

森を抜けた風が冷たくて、香の煙が甘かった。大聖堂の鐘が三度鳴り、石畳は朝露で薄く濡れていた。王子は半歩引き、皇子を前に出した。条約婚の公開儀礼は、聖紋の床と、群青の天蓋と、群衆のざわめきの上に立って始まった。赤い縄は、二人の手首をゆるく繋いだ。儀礼用は細く柔らかい絹。けれど若い従者が運んできた包みには、妙に太い麻縄が混じっていた。「それは拘束犯の引き縄だ。儀礼に出すな」王子が小声で止めた。「失礼を。色だけ見て……」従者は青ざめ、慌てて入れ替えた。周囲の緊張が少しほどけ、えくぼ混じりの笑いが起きる。皇子の肩がほんのわずかに落ち、そのまま前へ出た。堂奥の司祭長が問う。「公の契約を明らかに」王子が巻物を開いた。魔紋が淡く浮き、文言が痛いほど鮮明だった。「可は、手を添える拘束の象徴、片膝の誓い。不可は、痕を残す結び、蔑む語。合図は一段。右手首の一撫でで停止。口の合言葉は『灯』。アフターケアは温湯、蜂蜜の乳、抱擁、背を撫でること。週に一度、主客相替わる日を設ける」司祭長が頷き、聖油を滴らせる。群衆の中で誰かが囁いた。「週一で逆転、だってさ」。笑いが再び波紋のように広がり、重い儀礼に熱の加減がついた。皇子は前を向いた。低くはっきりと告げる。「公では、私が前に」王子が続ける。「私室では、私が支える」二人の声はぴたりと揃い、赤縄が指先で鳴った。魔紋が二人の間で重なり、聖堂の床に淡い輪が走った。契約は結ばれ、条約婚は成立した。鐘の余韻が消える前、地下街の長が階下から現れた。階段には別の影。納骨堂の守り手が黒布をまとって立つ。「地底の商路は我らのもの」「祖の眠る道を踏むな」双方の声が重なり、場はざわめきに揺れた。大聖堂、地下街、納骨堂。三つ巴が火花を散らす気配。皇子は一度、王子の手首を見た。赤縄が軽く震え、王子の親指が皇子の脈に触れた。それは新しい合図の予行演習。二段階の余白を捨てた、一段の決断。皇子が前に出た。「静まれ。二つ告げる」声はよく通った。訓練
last update最終更新日 : 2025-11-08
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第67話:誘惑の使節

鐘は高く澄み、松脂と蜜蝋の匂いが満ちていた。大聖堂の聖床に二人が並ぶ。公では皇子が前に出る。王子は半歩後ろで、掌を添える。肩越しに交わる視線が、いつもの合図になっていた。「条約婚の成立を、神前と民の前に」堂守が宣言した。群衆がひそめる。王子は皇子の背中越しに息を吸い、段取りを頭で反芻した。今日は式と契約の公開。政治の一段、と同時に二人の生活の規矩を、笑いも交えて晒す日だ。「合意契約の読み上げを」皇子の声はよく通った。かつて頼りなげだった柔らかさの奥に、訓練で鍛えた芯が宿る。彼は巻物を開き、項目をひとつずつ確かめるように読んだ。「可。公の場での手の接触、伴歩、腕の組み。私室での抱擁、口づけ、指示と従属。不可。公の場での口づけ以上の触れ合い、侮蔑や人格の否定、傷を残す行為。合図。前に出たい時は右手を二度、支えが要る時は左手を三度」王子は小さくうなずいた。二度、三度。指先の癖は体に入っている。「セーフワードは『灯』。言われた側は即座に停止し、状況を確認する。アフターケア。私室に戻り、湯と甘味を用意し、言葉で気持ちと体の具合を確かめる。週一回、黄昏の鐘の後にスイッチ・デーを設ける。公務の一部は入れ替えて対応する」ざわめきに、堂守が咳払いで区切りを入れた。王子は肩を揺らして笑いをこらえる。群衆の中に身じろぎ、微笑み、頷き。下町から上層までが混ざる稀有な日だった。「最後に、『公では皇子が前に、私室では王子が支える』。二重統治の原則をここに」皇子が告げると、王子は巻物の端を持ち上げて印を押した。朱が紙に走り、契約は拍手に包まれた。堂守が指輪を差し出す。だが、そこで小さな事件が起きる。「あ、サイズが逆です」女官が青ざめ、場に笑いが走る。王子は肩をすくめ、指輪を皇子の薬指から自分のにすべらせ、もう一つを皇子につけ直した。ぴったりだ。皇子は頬を赤くして笑った。これも、一緒に生きる練習だ。儀礼の後、会場は地下街の広場に移った。石は汗を吸い、香辛料と酒と人の気配が渦を巻く。その足元ずっと下には、納骨堂がひんやりと横たわり、世代の
last update最終更新日 : 2025-11-09
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第68話:交互統帥

丘の街の鐘が鳴り、白い大聖堂が陽に灼けていた。皇子は喉の奥で息を整え、王子の手を握った。冷たい指輪が互いの掌で触れ合い、薄い魔紋が肌に点り、香の匂いに混じって鉄の匂いが微かにした。「契約を読み上げる」祭司が巻物を広げた。文は短く区切られていた。皇子は文字を追い、王子の親指が人差し指の付け根を一度だけ押すのを感じた。合図だ。落ち着け、の意。「公では皇子が先に立つ。私室では王子が支え導く」 「週一回のスイッチ・デーを設ける。公務と私的訓練の統べを交互に担う」 「可、不可、合図、アフターケアを明文化する」祭司の声が澄んでいた。皇子の視界に、地下街の総代が石柱の陰からこちらを見ている気配。納骨堂の管理者が黒衣の裾を整えた音。将軍たちは鎧を鳴らし、顔色は固い。王子が一歩、半身を重ねるように近づき、小さく呟いた。「息、短く」皇子は頷き、巻物の「不可」を見た。「不可。公衆の場での屈辱。軍議での命令の横取り。陛下の遺骨に触れること」遺骨、と口にした瞬間、納骨堂の管理者の顎が僅かに上がった。ここで彼らの権威を立てる必要がある。皇子は次の行に目を落とした。「可。訓練のための命令。私室での拘束の模擬。戦略上の役割交換」王子の指先が手首の内側をなぞった。痕がつかない程度の圧。そこだけ布が擦れて温かい。最後に合図が来る。「合図は三つ。指輪を三拍ひねる、掌を二度合わせる、視線を落として『今』と言う」祭司は最後に一語を掲げた。「セーフワードは『鳴砂』」大聖堂にざわめきが走り、石壁がそれを吸った。皇子は顎を上げ、王子の掌を握り返した。二人は同時に「承認」と答えた。魔紋が明るくなり、観衆の呼気が静かに揃う。これで条約婚は成立した。王国と帝国の境に立つ彼らの契約は、儀礼の言葉で公にされた。儀礼の後の軍議は、同じ大聖堂の奥、冷えた石床の上で開かれた。祭壇の横の扉の先には納骨堂。階段を降りれば地下街に通じる回廊。互いの権威が隣
last update最終更新日 : 2025-11-10
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第69話:胸骨星の温度

大聖堂の床に描かれた魔紋が、薄い青で脈打っていた。冷ややかな石と香の煙。皇子は胸元に手を当て、胸骨の奥で小さく灯る星が、今日はどうしても温まらないことに気づいた。眠れていない。儀礼の稽古、調整会議、文言の確認。休むべき夜を二つ潰した。自覚はあったが、式は待ってくれない。「歩幅、二。声は落として」王子が短く囁いた。銀の肩飾りの重みを片指で確かめ、皇子は頷く。公では自分が前に立つ。私室では彼が支える。その約束でここまで来た。今日の儀礼は条約婚の成立、公衆の前での宣誓だ。愛より先に契約、契約より先に信頼の種。ふたりはそうやって歩み寄ってきた。広場からの光が大扉から流れ込む。司教が巻物を掲げ、群衆が静まる。王子がわずかに笑った。少し曲がった王冠、緊張の証。皇子は歩み出た。前へ、前へ——「殿下、今日、スイッチの日でして」近侍が慌てて耳打ちし、王子が目を瞬いた。やらかした。週に一度のスイッチ・デー、私室の主従を入れ替えて互いの視座を保つ日。まさかの重なり。皇子の足が半歩すくみ、後ろに下がりかける。壇上の侍従長が咳払いで合図。王子が肩で笑い、ほんの指先で背を押し戻した。「公はいつも通りだ。夜に返す。ね?」短い。けれど甘い。皇子はこくりと頷いた。群衆にはただの寄り添いに見えたはずだ。小さな段取りミスは、愛のフォローで片づいた。誓いの文言は端的だった。条約の第一条、互いの領域の不可侵。第二条、争論は地上の聖堂ではなく共同評議に付す。第三条、地下街の通行と納骨堂の管理権限は共同監督下に置く。第四条、公では皇子が前に立ち、私室では王子が支える。第五条、週一度のスイッチ・デー。第六条、合意契約に基づく私的な合図とアフターケアの遵守。読み上げられるたび、魔紋が淡く光った。合意契約の本文は民の前に晒されるものではない。だがふたりは司教に提出した副本に、可と不可、合図、アフターケアを明瞭に記していた。可は言葉の拘束、短い跪礼、軽い布の結び。不可は痕を残すこと、公の場での命令、触れることより先に許可を問わないこと。合図は手の甲を二度叩けば「緩めて」、三度で「止める」。そしてセーフワードは「北星」。言えば即時終了、即座の抱擁、蜂蜜水、軟膏。夜具を温め、眠りが来るまで手を離さな
last update最終更新日 : 2025-11-11
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第70話:雄の宣言

大聖堂の床は冷たく、光は高窓から蜂蜜色に降っていた。香が乾いた木と柑橘の匂いで混じる。ざわめきは薄い嘲笑を含んで、帝国の皇子が「聞き分けのいい従順な花嫁」だという古い噂を反芻していた。ルシアンは笑わなかった。王国の王子と手をつなぎ、手のひらの温度と脈を数える。三度タップされた。合図。息は?と視線が問う。彼は顎を引いて、一、二、三、と胸を満たす。大聖堂の中庭に住む鳩が、一瞬だけ黙った。巻物が解かれ、条約婚の条文が風を受けて鳴った。白い手袋の司式官が読み上げる。両国の通商路、大河の水利、そして「二重統治」の規定。公では皇子が前に立つ。私室では王子が支え、週に一度のスイッチ・デーを設ける。役割の反転は誰の強制でもない。二人の合意がなければ運用しない。セーフワードは「雨垂れ」。黄は減速、赤は即時停止。可は手を取る、抱擁、誓環の着脱。不可は公開の命令遊戯、露出、屈辱の呼称。アフターケアは甘味、水、温かい湯、肩の圧迫、言葉の確認。王子が小さく笑った。言いづらいことほど明文化する。これが二人のやり方だった。司式官が促す。「皇子、宣誓を」ルシアンは一歩前に出た。その一歩で、嘲笑がぴり、と揺れた。彼は衣の襟に触れ、喉を見せる。支配の反対側、最も脆い場所を自分で差し出す。それが彼の「雄」の定義だ。「私は“雄”を選ぶ。従うことの快も知っている。けれど、私は今、守る責を取るほうを選ぶ。王子を、条約を、地下も地上も、骨の名も」地下の石段、暗さを吸う地下街の顔役たちが柱の陰で腕を組んでいた。大聖堂の首座司祭は唇を細くし、納骨堂の骨守は杖で床を軽く叩いた。三つの権力が互いに睨み、互いに疑う場だ。「大聖堂よ。祈りの税は据え置く。ただし監査は光の下で行う。帳簿を隠すな。地下街よ。三年の関税を減免する。代わりに水路の保全を担え。私が設計に立ち会う。納骨堂よ。名を消すな。無名をなくす費用は帝国が出す。王国と折半だ」笑いの一部が鼻を鳴らした。口で言うのは誰でもできると。ルシアンは右の掌を出す。契誓紋が彼の皮膚下で目を覚ました。青銀の線が手の甲から肘へ、鎖骨に触れて胸骨の上で渦になり、王子の左手の同じ紋と呼応する。香の煙が流れを変え、光
last update最終更新日 : 2025-11-12
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