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第61話:雄の初陣

Author: fuu
last update Last Updated: 2025-11-03 23:00:42

大聖堂の石床は冷えていた。磨かれた黒曜の光沢が天井の聖紋を映し、香炉の白煙が細い糸のように昇る。ルシアンは半歩前に出て、胸を張った。公では皇子が前に。彼らが定めた二重統治の原則通りに、王子は肩甲に軽く掌を置いて支えるだけだった。

「条約婚の成立を、ここに宣する」

朗々と響く助祭の声。巻物が開かれ、国印に並んで二人の私印が押されている。その末尾に、もう一つの巻物が添えられた。羊皮紙に魔紋が絡み合い、淡い金が脈打っていた。

「合意契約、付則」

息を呑む気配が広がる。ルシアンは顎を上げ、王子の指先に視線で合図した。ここからは彼の言葉だが、身体の同意は二人で見せる。

王子が低く読み上げる。短く、明確に。可。不可。合図。アフターケア。

「可は、拘束の所作、跪礼の訓練、指示への即応。不可は、呼吸を奪う行為、永続する痕を残す力、第三者の介入」

読み上げに合わせて、ルシアンは手首にかかった絹紐を見せる。魔紋が甘く光り、結び目はすぐに解ける構造だった。可の所作は象徴で足りる。不必要な興奮を煽る必要はない。合図は指先で語る。指三度の軽い叩きは緩めての意味。薬指の根を軽く押すのは中止。セーフワードは「青磁」。声に出した瞬間、全てを止める。

「アフターケアは、温水と茶、掌での背撫で、呼吸の確認。翌朝の言語による振り返り」

王子が最後を読み、巻物を伏せた。ルシアンは手首の絹紐を自ら解き、王子の指に結び直した。視線が交わる。言葉よりも早い確認。彼は頷いた。

「週一回、スイッチ・デーを設ける。本日はこれに当たる」

助祭が咳払いし、巻物に目を落とした。「主一回」と読みかけて慌てて戻る。小さな笑いが広がり、緊張がほどけた。王子が肩に置いた掌に微かに力を込め、ルシアンの背に熱を渡した。彼の声が自然に大きくなる。

条約婚の印章が押されると、今度は別の足音が大理石に鳴った。地下街の顔役が膝を折り、納骨堂の管理人が杖をついて進む。大聖堂の司典が緋の衣を揺らす。三つ巴の権力が、祝祭の裏でぶつかる時刻だ。

「皇子殿下、地下街の商いに課された臨時税、婚礼を機に解除いただきたい。行列の道が地下まで塞がれましてな」

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