All Chapters of domの王子はsubの皇子を雄にしたい: Chapter 81 - Chapter 90

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第82話:沈黙の聖職者

大聖堂の鐘が三度鳴った。石床に残る冷気が靴底から上がってくる。皇子は肩でひと息吐き、祭壇の陰に伸びる階段を見た。下が納骨堂。沈黙の誓いで口を封じられた司祭が待っている。「準備はいいか」王子が低く問う。手に持つ麻縄と漆の筆は、儀礼用だ。衛兵がちらりと見て赤くなる。「い、今は儀式です。夜は夜で……別日程で」「仕事だ。落ち着け」王子は笑って、麻縄を皇子の手首に軽く巻いた。束縛ではない。誓紋のための仮留めだ。二人は条約婚を公にしたばかりだった。大聖堂の祝祷に立ち、国々の使節に誓いを示す。花弁が降り、祝香の煙が立つ中で、彼らは同時に宮廷契約にも署名した。可・不可、合図、アフターケア。書面は二通。ひとつは法庫へ、もうひとつは寝室の箱へ。セーフワードは「藍」。手の合図は三度の握り。週に一度のスイッチ・デーは第七日の日没後。公では皇子が前に立ち、私室では王子が支える。順序と役割。愛より先に交わしたのはそれらだった。「藍が出たら、即時中止。誰であれだ」王子は確認した。「わかってる」皇子は返し、握りを三度練習した。手の温度で気持ちが整う。彼は深く頷く。雄になる訓練は、声の出し方から始まる。恐れの輪郭に名前を与える。政治でも同じだ。階段を下りる。湿った空気。骨壺の陶土が擦れ合う、かすかな軋み。納骨堂の中央、青い蝋の灯りの前に司祭がいた。喉に銀の輪。沈黙紋だ。摂政が教会法を曲げて許した特別戒。発話を封じ、違反時は舌に痛みを走らせる。地下街から呼んだ公証官が待っていた。煤のついた書板と印蝋、古い秤。ほこりにくしゃみして、鼻についた墨を拭き忘れる。護衛が忍び笑い。王子が目だけで制した。「司祭」皇子が前に出る。灯りが頬の骨を照らす。よい声だ。王子は背後で片手を肩に置いた。支えはそこにある、という重みだけを渡す。「あなたの沈黙を尊ぶ。発話せず、音で証す方法を用意した」王子が漆の筆を司祭の手に渡す。掌に淡く輪を描く。藍を帯びた灰の線。「転音紋」と呼ばれる古い魔紋。指先で触れた振動を、鈴の音へ変換する。音価は古法。公証官は紙面に記すための譜表を
last updateLast Updated : 2025-11-23
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第83話:鎖の外し方

森を背にして、二人は石畳の都に入った。薄い雨。鐘の音。王子は肩布の端で皇子の手を覆った。冷えた指だった。離さない、とだけ伝える握り方にした。公では離す。いまは私室の外だ。役割を忘れない。「鎖の外し方を確認しよう」王子が低く言った。皇子は頷いた。頷き方が小さい。縮こまる癖はまだ抜けない。だから今日、鎖を外す。権力にかけられた鎖だ。身体の方は、同時進行でやさしく。大聖堂の広場は蜂蜜と湿った灰の匂いが混じる。人のざわめきに鳥の声がほどける。高窓から射す光は白金で、儀礼の机上の魔紋を浮かせていた。「条約婚の成立と公開儀礼はここで。聖油の封印、解いてしまえば摂政の“第一の鍵”は外れる」「……本当に、外れる?」皇子の問いはか細いが、よく通った。王子は横顔を見た。視線が揺れる。逃げそうになるのを、手の甲に親指で円を描くように戻した。合図だ。ここで息を整える。「合意の確認をする。政治の、そして私たちの」二人は祭壇脇の小部屋に入った。木の匂い。雨を払う静けさ。公的な契約書と、もう一枚、二人だけの契約書が並ぶ。王子は羊皮紙を折り目にそって広げ、声に出して読んだ。短く、区切って。「可。手首の固定。ただし外部では不可。不可。跪礼の強制は儀礼時のみ。合図。手を二度握る、または口頭で“薄荷”。アフターケア。温かい飲み物、肌の摩擦を避け、呼吸を合わせる。週一回のスイッチ・デー。火曜」「……火曜?」皇子が瞬いた。王子は肩をすくめた。「市場が静かで、私の会議も少ない」「政治的すぎる」「政治と身体は繋がっている」皇子は笑った。声が震えなくなっていた。王子は続ける。「公では君が前に立つ。私室では私が支える。その二重統治を、ここに明文化する」二人は印璽を押した。魔紋が薄く浮いて、指輪の内側に同じ文言が流れ込む。皮膚が温かくなる。王子は視線だけで問う。「いける?」「いける」小部屋を出る
last updateLast Updated : 2025-11-24
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第84話:摂政の最後の矢

香の煙が白い帯になって天井の聖画を撫でていた。大聖堂は満杯で、石床は人々の体温を吸って温んでいる。鐘が一つ、二つ。皇子はまっすぐ正面を見ていた。王子は半歩うしろ、袖口に指を添えている。二人の距離は掌ひとつ。公では皇子が前に、私室では王子が支える──二重統治の誓約は、先週の条約婚の公開儀礼で人々の前に明文化されたばかりだった。摂政が現れた。年を経た声が響く。「先帝の血、ここに蘇る。我が保護下に育った継承者を迎えよ」引き出されたのは「若い男」。纏衣は王家の色に似せてある。ざわめき。地下街で流れていた噂の正体が、いま眼前に置かれた。皇子は一歩、祭壇へ出た。喉の渇きを押し込み、頬の熱を風に冷やす。王子の指が背で合図した。三度、軽く叩く。落ち着け、呼吸を合わせろ、の合図。二人の契約書の条項が脳裏に滲む。可:手首の軽い拘束、命令口調、視線の指示。不可:痛みを伴う行為、公衆の前での過度な接触、睡眠を削る強制。合図:指の三度タップ、視線を右に流す。セーフワード:早春。アフターケア:温かい茶、膝枕、肌を重ねず寄り添って呼吸合わせ。週一のスイッチ・デー:水の曜日。司祭が巻物を読み上げていた。「共治の契約、確認されたり」と。先週、二国の旗が交差し光の輪が上がった儀礼。大聖堂の壁にもその残光がまだ幽かに残っている。そこに重ねるように、きょうは血統鑑定の儀が置かれた。「公開を望む」皇子が言った。声は震えなかった。客席から息を呑む音。摂政が眉を寄せる。「儀は本来、奥にて慎み──」「民も証人だ」皇子は遮った。「納骨堂から、先帝の指環骨を。王紋盤をここへ」数刻前、王子は地下街に降りていた。露の匂いと金属の油の混じる暗い通りで、薬師の女が淡い瓶を差し出す。蛍石粉と灰の識別粉。王子は硬貨ではなく命の保証書を置いた。「指示通りに混ぜれば、偽の灰は光らない」「混ぜるのは聖職者殿の手でなければ効かないわよ」「それがいい」と王子は笑って、その笑みに女は肩をすくめた。「惚れるなよ」「もう惚れている相手がいる」納骨堂では、ひんやりした石気が袖に触れた。老司式者が木箱を抱きしめていた。「御身位
last updateLast Updated : 2025-11-25
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第85話:民会の声

大聖堂の奥、聖香の煙が薄く流れる控え間で、王子は皇子の襟元を整えていた。銀糸の縁取りが喉の鼓動に合わせて微かに揺れた。皇子は息を数えて整える。四つ吸って、六つ吐く。森で教わったやり方だ。彼の手はまだ細いが、震えは先週に比べてずっと少なかった。「怖いか」と王子が囁いた。「少し。でも、前に立つのは私だ。公では」「私室では私が支える。約束通りだ」短い肯定が、指先の温度で二度重ねられる。王子は小さな革の冊子を差し出した。彼らの合意契約だ。表紙に刻まれた魔紋は淡く青い。詩でも祈りでもない。条項だけが整然と並ぶ。可:接触は合図の後/沈黙のときの肩への触れ/呼吸の同調不可:公衆前での拘束/侮蔑語/傷を残す行為合図:右の掌を二度叩く——準備できた、左の肩に軽く触れる——休憩が必要セーフワード:「星砂」週一のスイッチ・デー。四日目は主導権を皇子に渡す。練習も、決定も。合意の撤回はいつでも。撤回後の責めはなし。アフターケアは温かい飲み物、甘味、足湯、そして言語化。「今日、四日目だったな」と王子が苦笑した。「後で、だ。公開儀礼の途中でスイッチはしない」「賢明だ」そこへ扉の向こうから若い従者の声が割り込む。「お二人、時刻です——それと、本日はスイッチ・デー……」王子が咳払いで遮り、皇子が袖で笑いを拭った。肩の力がいくらか抜けた。よし、と王子は自分に向けて頷き、扉を押し開けた。大聖堂の天蓋には星図の魔紋が光っていた。祭司の詠唱に合わせ、二人の掌の上で金と青の輪が浮かび、絡み合う。これは条約婚の魔法文書でもある。婚と条約、両方を担保するために、魔紋は二重の鍵で記された。王子が短く宣言する。「公では皇子が前に立つ。私室では私が支える。互いの領域に踏み込むときは、合図を必ず。合わぬときは『星砂』で停止する」皇子も続いた。「アフターケアを怠らない。政務の後は人に戻る時間を必ず置く。愛より先に契約を、契約より先に信頼の種を置く」
last updateLast Updated : 2025-11-26
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第86話:星が冷めるまで

大聖堂の白い床が冷えていた。皇子は靴底越しに温度を測り、肩で呼吸を整えた。公では彼が前に立つ。私室では王子が支える。その約束を、今日は国の前で形にする。鐘が二度鳴った。王子が半歩だけ後ろに下がる。視線で「行け」と押す。皇子は頷いた。森で出会った夜から繰り返した訓練を、胸骨の奥まで思い出す。背筋、首筋、視線。獣に向ける目を、人々に向ける。雄になるとは、吠えることではなく、黙って立つことだと王子は教えた。巻物が二本、台上に置かれた。一つは条約婚の本文。互いの領地と港、地下街の関税と通行権、納骨堂の護持と礼拝の順序まで網羅する。もう一つは、二人だけの合意契約。可と不可、合図、アフターケア。司宰官が読み上げる。「可、手首の把持。不可、呼吸を妨げる拘束。合図、掌の二度で黄、三度で赤。セーフワード、雪。アフターケア、温茶、糖液、軟膏、言葉の確認。週一のスイッチ・デーを設け、役割の交代と内省を実施」ざわめきが走り、すぐに静まった。大聖堂の光は高い窓から斜めに落ち、金糸の刺繍を温めた。皇子はペン先を蝋で温め、条約婚に名を記し、指輪の魔紋を押した。次いで合意契約に、星をかたどった印章を重ねた。王子も同じ順に署名した。公の前で愛より先に契約、契約より先に信頼の種を置く。二人の決めた順番だった。聖歌の波が降りると、地下街の代表が進み出た。黒い布に香草の匂いが混じる。「行列はうちの路地を通っていただきたい。商いが立つ」納骨堂の管理者は首を振る。「骨への敬意が先だ。鐘は南から鳴らすべきだ」司祭は喉を鳴らした。「大聖堂から始め、聖油をもって終えるのが古い定めだ」三者の視線が交錯し、空気が乾いた。皇子の舌に金属の味が広がる。王子が肩越しに、短く息を合わせる音を送った。二人で決めた合図の一つだ。皇子は一歩、前へ。「行列は三つに割る」と皇子は言った。「祈りは大聖堂で始め、骨の前で誓いを置き、地下街で救貧箱にコインを落とす。その足跡にしか税をかけない。鐘は三度鳴る。北、南、そして下」下、という言葉に地下街の代表が口角を上げた。納骨堂の管理者は骨の前で誓いが置かれることに頷いた。司祭は古い定めの最初が守られることで視線を柔らかくした。王子が
last updateLast Updated : 2025-11-27
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第87話:評議の一票

大聖堂の白い床は、朝の冷気を含んで硬かった。香の甘い匂いが鼻に入り、胸の鼓動を一拍ずらす。皇子は掌の汗を、繋いだ手の内側で王子に隠した。指先を二度、軽く叩く。合図の確認。王子が親指で甲を撫で返し、短く囁いた。「見せて。公では、君が前」「うん」鐘が低く鳴り、聖職者たちの詠唱の隙間を、評議員たちの視線が行き交った。条約文と婚姻契約が、透明な印泥の上に置かれる。魔紋術者が祭壇の側柱に立ち、薄水色の線を空へ引いた。線は二人の手首へ降り、皮膚の上に細い環を刻んだ。冷たく、そして少し痺れる。「条約婚の条項、朗読」大司教の低声が大聖堂に響く。二国の関所開放、税率帯、共治委員会の設置。乾いた法律の言葉が続き、そして、皇子が一歩前に出た。「私的合意契約、朗読」ざわめきが小さく起こる。皇子は喉の奥の緊張を丸呑みにし、紙を上げた。声は自分の耳に硬く聴こえたが、言葉はほどけた。「可は、拘束、命令、服従の訓練。不可は、出血、痕を残す行為、公衆の前での強制。合図は二回のタップ。セーフワードは『雪解け』。使用時は即時停止、状況説明、温かい飲み物と抱擁を含むアフターケアを行う」最前列の宰相が盛大に咳払いし、手帳を落とした。床に乾いた音。後方の若い従者が慌てて拾う。王子が肩を震わせる。笑っている。皇子は続けた。「週一回のスイッチ・デーを設ける。政務と重なる場合は翌日に順延。公務では皇子が前、私室では王子が支える二重統治を原則とする」礼拝席から小さな歓声。宮廷の女官たちだ。王子が一歩下がって、皇子を前に押し出す。その掌の圧に、背骨の奥が落ち着いた。そこへ、大司教が文言を差し挟んだ。「追加条項。二人は大聖堂への年次忠誓と、納骨堂護持税の拡張を誓約すること」空気が、ほんのわずか、冷える。皇子は指を握り、解き、そして口を開いた。「雪解け」息が吸い込まれる音が、何重にも重なった。王子が即座に肩を抱き、耳もとに低く問う。「何が違う」「納骨堂の税は、地下街を締め上げる。死者と生者の取引に、教会が片足入れてる」
last updateLast Updated : 2025-11-28
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第88話:沈む王冠

鐘の音が石畳の空気を震わせて、彼の肺の奥にまで入ってきた。大聖堂の扉は開き、朝の光が冷たい香の煙に斜めの筋を引いている。皇子は指先の汗を拭った。掌の内側に王子の脈がいた。二人の手は、儀礼が始まる前から約束を結んでいる。愛より先に契約——それが合意だ、と昨夜ふたりで言葉にしておいた。「もう一度、確認するよ」王子は低く言った。大理石の柱陰、誰にも見えない距離で。 「可は、手首までの拘束。不可は跡の残る噛みつきと、立ったままの持久戦」 「合図は?」皇子は自分で続けた。「肩を二度、指で叩く。言葉は——藍」 「うん。藍で全部止める。止めた後は水、蜂蜜湯、膝枕。三つのうち必ず一つ」 「……そこまで条件に入れるのは、甘やかし過ぎでは?」 「契約より先に救急箱。それが私の流儀」ふと、そばを通った若い従者が「藍、ですね」と頷いて、青い染料の小瓶を差し出してきた。二人は同時に固まる。王子が苦笑した。「今のは色じゃない」 「秘密の合図だ」皇子が咳払いでごまかすと、従者は耳まで真っ赤にして走り去った。軽い誤解は、緊張を薄める。鐘が三度重ねられ、摂政が行列の先頭に現れた。金の冠の縁を指で押さえ、権勢を示す動作。だがその手は揺れて見えた。大聖堂の奥、祭壇前に大司教が佇む。祈りの言葉より、監視の目が濃い。教会はこの結婚に口を挟む権を主張していた。皇子は喉を開いた。他人の言葉でなく、訓練した自分の声で。「摂政。あなたの委任は本日で終わる」 その一言で、空気の温度が変わる。大理石は音を吸い、香の煙だけが上へ逃げた。 「誰がそれを許した」摂政の声はかすれている。「まだ戴冠は——」 「条約婚は国法の一部だ。二国の署名、議会の賛成、教会は証人。主役は祈りではなく、国民の生活だ」王子が一歩だけ、皇子の斜め後ろへ。支える位置。公では皇子が前に、私室では王子が支える——二人で決めた二重の立ち位置。彼はその温度に背を押された。「公開する」皇子は巻物を差し出した。封蝋に刻まれた魔紋が薄く青く光る。契約書には婚姻条約
last updateLast Updated : 2025-11-29
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第89話:鍵の返納

鐘の音が、石の壁をやわらかく撫でていた。朝の冷えが残る大聖堂の回廊で、皇子は白骨鍵を両手で支えた。軽いのに、重い。骨の表面は磨かれて滑らかで、冷ややかな乳白が光を飲む。香の匂い。遠くの祭壇に垂れる絹。彼は息を整えた。王子が近づき、声を低く落とした。 「手、冷えてる?」 「少し」 「ここからは君が前。公では、君が先頭だ」 「わかってる」隣で若い侍従が巻物を掲げた。条約婚の文面。今日、広場で公示する。婚姻は二国の関税・関所を統合し、祭器の保全権を中立化する――それが骨争いを終わらせる鍵でもある。鍵は文字通りの一本と、制度というもう一本。階段上に大司教が立っていた。金の刺繍の外套。背後に修道士たち。反対側の柱の陰には地下街の顔役が腕を組む。深い皺と、笑っていない目。さらに奥には納骨堂の入口を守る老婆が杖を突いた。骨守と呼ばれる者。三者三様が、一本の鍵に視線を刺している。皇子は一歩進んだ。靴裏が石を鳴らす。 「白骨鍵の返納を宣言する。鍵は大聖堂の宝庫に置くが、権は一つに集めない」 ざわめき。王子が肩に手を置き、圧を小さく返す。それで彼の背中に熱が走った。訓練の合図。深呼吸。広場に出ると、群衆が待っていた。旗。花びら。子どもが果実を掲げる。結契の儀は短い。誓詞は簡潔に。皇子は巻物を開いた。 「婚姻契約の付帯条項。私的合意を明文化する。可、不可、合図、アフターケア」 ざわ、と空気がまた動いた。王子が微笑み、視線で「そのまま」と示す。皇子は読み上げた。 「可は手首までの拘束と軽い主従の言葉。不可は皮下刻印と公開性のある行為。合図は指で三回、言葉は柘榴。アフターケアは温湯、蜂蜜茶、抱擁と口頭確認」 群衆の方から笑い声がこぼれ、軽い手拍子が重なった。王子が一歩出て、短く言う。 「安全の仕組みは、愛の仕組みでもある。だから公にする」そのとき、屋台の方から明るい声が飛んだ。 「柘榴お買い得!」
last updateLast Updated : 2025-11-30
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第90話:夜が明ける前に

灯の油が細く焼け、私室に甘い香が残っていた。大聖堂の香炉の匂いが衣に移ったのだろう。窓の外はまだ群青。鐘は鳴らない。街は勝利の夜を飲み切って眠っている。 皇子は外套を椅子に置き、肩を落とした。 「……終わったね」 王子は杯に水を注ぎ、彼の手に触れないよう添えて渡した。 「条約婚の署名は済んだ。公開の儀は夜明け。お前は前に立つ」 「うん。怖いより、やる」 声は疲れて低い。それでも芯があった。地下街で商人組合の頭目と渡り合ったときの響きだ。納骨堂の司庫の老女が唸り、聖具庫の鍵を渋々差し出したのを王子は見ていた。 「……納骨堂の祭壇、冷たかった」 皇子が笑おうとしてやめた。指先が僅かに震える。 王子は頷いた。 「冷たさは終わりだ。数珠は返した。骨壺の蓋は封じ直した。大聖堂、地下街、納骨堂――三つ巴は、今夜はお前に膝を折った」 「折れたのは私の膝だったけどね」 冗談の角が丸い。王子はそれを受ける。 「床に跪くのも、立って命じるのも、お前の選択だ」 机の上に、二つの契約が並んだ。ひとつは金の紐で綴じた条約婚。もうひとつは黒い革表紙の私契。王子は革表紙を開いた。 ・可:跪礼、呼称の固定、首飾りの着用(儀礼用のみ)、命令の再確認 ・不可:侮辱語、打擲、呼吸の妨害、血を流す行為 ・合図:二度の指先叩きで「間」、三度で「終」。声の合図は「黎明」 ・セーフワード運用:即時停止、拘束があれば解除、水分補給、体温管理、言葉の確認 ・アフターケア:甘味一口、手当て、温浴、抱擁、翌朝の確認 ・週一回のスイッチ・デー:役割交換、指示出しの訓練、政務にも反映
last updateLast Updated : 2025-12-01
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第91話:共治案の骨組み

鐘が三つ鳴った。大聖堂の北翼、ひんやりした石の間に羊皮紙の匂いと聖油の香りが重なった。王子は皇子の襟を整え、笑った。「息、浅い」「大丈夫だ」返す声は少し掠れていた。森で出会った夜もそうだった、と王子は思った。雨で濡れた外套、震える肩。それでも前に立とうとした背中。今日、公では彼が前に出る。書記官が首を竦めて合図を待つ。長机には二つの束。条約婚の契約書と、交互統治の法案草案。王子は指で端を叩いた。節回しは短く、骨組みを見せる。「半月ごとの名義交代」「緊急時は共同署名」皇子が続けた。声はもう通る。「議題設定権は交番。議決は五印の過半。宗教、地下街、納骨堂、文官、騎士団」老宰相が眉を跳ねさせた。「五印など、重すぎる」王子は遮らない。皇子の肩が微かに上がって落ちる。息が整った。皇子は老宰相に向き直った。「重いからこそ、あなた方の席が残る。文官印は王家の指名ではなく、輪番とします。旧派も新派も回る」老宰相の目尻が揺れた。損はしないと気づいた顔だ。反対派にも利を渡す。それが骨組みの肝だ。大司教が首飾りを鳴らした。「大聖堂は儀礼の監督を求めます。婚姻の公開儀礼は、聖油と歌を欠いてはならない」王子が頷いた。「同意します。ただし、私室に干渉しない条項を付ける」「私室?」と大司教が目を細める。皇子は契約書の別紙を示した。書記官が耳まで赤い。「合意の取り決めだ。可、不可以項。合図。アフターケア。週に一度の立場交替の日」大司教は咳払いをした。「……公序への配慮は?」「合図は『灯』。口頭でも、握りでも。不可は痛みの強制と羞恥の誇示。アフターケアは温水、甘味、抱擁、体調の確認。書く」王子は指で皇子の手背を包んだ。契紋が微かに温度を持つ。甘やかしの手触りを、石の間でも隠さない。官能と政治は同じ文に置ける。約束だから。地下街の頭目は椅子を揺らした。「私らには何が落ちて来る?」皇子は答えを持っていた。「地下水脈の維持管理権。市場
last updateLast Updated : 2025-12-02
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