博之への食事の借りを返す時が来た。文月は、彼に何度も食事を奢ってもらっていることに、少し気が引けていた。彼女は滅多に料理をしない。かつて蒼介は胃が弱いくせに、泥酔して帰っては空腹で胃を痛めていたため、仕方なく覚えたのだ。文月は胃に優しいお粥や養生食を作るようになった。蒼介は典型的なお坊ちゃんで、偏食が激しかったため、文月は料理の腕を磨かざるを得なかったのだ。そんな蒼介から返ってきた言葉はこうだった。「文月は本当に、良妻賢母の素質があるな」その言葉は、褒め言葉というより、どこか馬鹿にされているように聞こえた。当時の文月は彼のご機嫌取りに必死で、彼が自分と結婚してくれるだけでありがたいと思っていた。何しろ彼は名家の御曹司で、自分は何者でもなかったのだから。本来なら博之を外食に誘うところだが、それでは誠意が足りない気がした。それに最近、北澤グループは多忙を極め、博之も竜生も目の回るような忙しさだ。それなのに、博之は頑なに彼女を家まで送り届けてくれる。これほど部下思いの上司は、そうそういないだろう。「今日も残業なの?」玄関に立ち、出かけようとする博之の背中に声をかけた。その姿はまるで、仕事へ向かう夫を見送る新妻のようだった。博之は思わず足を止め、彼女の柔らかな髪を優しく撫でた。声のトーンが自然と柔らかくなる。「早めに帰って、君にご飯を作るよ」文月は目を丸くした。早く帰ってきて、彼が自分にご飯を作る?どういう風の吹き回しだろう?急に恥ずかしさと戸惑いが込み上げてきた。彼女は居候の穀潰しではないし、博之は兄でもない。なぜそこまで世話を焼くのか。博之が出かけた後、文月は竜生にメッセージを送った。竜生は、未来の奥様からの連絡に首をかしげたが、博之の好みを尋ねる内容を見て、瞬時に背筋を伸ばした。彼はわざわざ電話をかけてきた。「奥……いや、星野さん。社長は好き嫌いはありませんよ。何でも食べます。ただ、生姜やピーマンといった癖のある野菜は避けていますが」ピーマンを切っていた文月の手が止まった。奇遇だ。彼女もピーマンと生姜が大嫌いだった。好き嫌いがないというのは嘘じゃないか。「海鮮はどうですか?アレルギーは?」竜生は一つ一つ丁寧に答えた。「ありませんよ。海老なら、社長も召し上がります」
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