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第4話

Author: カンカンドド
そこに現れたのは、成長しきった虎と黒い狼だ。

何かの匂いを嗅ぎつけたのか、獣たちは檻の中で狂ったように暴れ回る。

アオーン――

狼は天を仰いで遠吠えし、黄金色の瞳で獲物を狙うように澄人を睨みつける。

澄人は思わず一歩後ずさり、ふとあの異様に鼻をつく花束の匂いを思い出す。

澄人はハッと警戒し、不安を覚えながら口を開く。

「瑠璃、僕、ちょっと気分が悪い。先に部屋へ戻る」

これまでなら、彼が体調を訴えれば、瑠璃は決まって大慌てで彼を部屋へ連れ戻したものだ。

だが今は、ただ困ったように眉をひそめるだけだ。

「澄人、そんなこと言わないで。俊也はあなたに謝るために、ずっと準備してきたのよ」

澄人は拳を握りしめ、唇を固く結んだ。血の気が引き、口元はすっかり白くなっている。

やがて出し物が始まる。俊也がぎこちない手つきで虎と狼を操っている。

二頭の猛獣は火の輪をくぐり、細い橋を渡っていく。一見、すべて順調に見えている。

「すごいわ!俊也、本当に上手!」

瑠璃は惜しみなく拍手を送り、その視線は俊也に釘づけだ。そして、そこに宿っているのは、あふれんばかりの愛だ。

彼女には、澄人の視力がまだ戻っておらず、この「償いの出し物」を見ることができない――そのことに全然気づいていないんだ。

だが、それ以上に澄人の胸を締めつけたのは、抑えきれない恐怖だ。指先の震えは止まらず、全身に広がっていく。

彼だけが気づいていた――虎と狼が振り返り、自分を狙うように視線を向けてくる回数が、明らかに増えている。

その目の底にあるのは、本能むき出しの食欲。

彼は気づかれないように後ずさる。ひと歩、またひと歩。

もう少しで、攻撃の間合いから抜けられる――そのとき。

「きゃっ!」

指揮台の上で俊也の体が大きく揺れ、手にしていた制御用のチェーンがぱっと外れた

同時に、虎と狼が突如として暴れ狂い、耳をつんざく咆哮を上げる。

「俊也!」

瑠璃が思わず悲鳴を上げ、護衛たちを引き連れて駆け出した。

その刹那、澄人は完全に二頭の猛獣の前にさらされる。

虎と狼の動きがぴたりと止まり、剥き出しの牙をこちらへ向ける。

澄人の瞳孔が縮み、呼吸が喉元で止められる。

ほとんど瞬きする間もなく、二つの巨大な影が彼に向かって飛びかかってくる。

痛い!あまりにも、痛い!

内臓が押し潰されるような激痛だ!

「ああっ!」

澄人の喉から、命尽きる寸前の絶叫がこぼれる。

視界は血の色で染まり、遠くに、瑠璃と護衛たちが俊也をしっかりと守りの輪の中心に抱え込む姿がぼんやりと見えた。

……

再び目を開けたとき、澄人は藤堂グループ傘下の病院のVIP病室に横たわっていた。

胸と脚に走る激痛に、澄人は思わずうめき声を漏らす。

「動かないでください」

看護師が彼の肩を押さえる。

「あなたは本当に運がよかったわ。肋骨は三本骨折、肝臓出血。昨夜は救急が手薄で佐藤先生しかいなかったのに、それに、藤堂さんが夫を先にって言い張って……

幸い、彼のほうは擦り傷だけで、あなたの治療に遅れは出なかったけど。

ところで、ご家族は?」

澄人は全身をまるで車に何度も轢かれたかのように痛めつけられ、声は乾ききってかすれている。

「僕に家族はいません」

看護師ははっとし、目に一瞬、憐れみの色を浮かべた。

そのとき、病室の外から俊也の声が聞こえる。

「瑠璃、ごめん!本当にわからなかったんだ、どうしてあいつらが突然暴れ出したのか。僕のせいで安部さんがこんなことに……」

「俊也、あなたのせいじゃないわ。あなたも怪我をしているのよ」

瑠璃は彼の赤くなった目元に口づけし、囁く。

「泣いちゃだめ。大人しく病室に戻って横になって。私も赤ちゃんも、それを見ていると胸が痛むの」

俊也は声を詰まらせ、さらに泣いた。

「戻りたくない。安部さんに、償いたいんだ」

また「償う」という言葉を耳にして、澄人の堪えていた怒りはついに決壊した。彼は手にしていたコップを力任せに投げつける。

外の気配がぴたりと止まり、瑠璃が慌ただしく病室へ駆け込んでくる。

「澄人、水が欲しいの?私が入れてあげる」

作りものではないその心配そうな顔を見て、澄人の胸にどうしようもない倦わしさが広がる。

「調べたのか?どうしてあの猛獣たちが、あんなふうに突然暴れ出したのか」

彼の声はかすれて乾ききり、瞳の奥にはかろうじて最後の光が揺れている。

虎と狼があれほど暴れ出したのは、何かの匂いを嗅ぎ取ったからに違いない。

しかも、狙いは間違いなく彼ひとりだった。

「ただの事故よ」

瑠璃は一瞬の迷いもなく答え、澄人の掛け布団を整える。

「ゆっくり休んで。余計なことは考えないで、ね?」

澄人の瞳に宿っていた光は、ついに完全に消え去った。

彼はしばらくのあいだ瑠璃を見つめ続け、胸が締めつけられるように何度も痛んだ。

澄人は三年前のことを思い出す。瑠璃と外出した際、彼らは激しい雨に見舞われ、車が立ち往生してしまった。ところが、思いもよらず不良の一団に囲まれてしまったのだ。

「おい、そこのお嬢さん。車が動かないみたいだな、俺たちの車に乗せてやろうか?」

先頭の男が下卑た笑みを浮かべ、瑠璃の手をつかもうと伸ばしてくる。

澄人はとっさに彼女を車内に押し戻し、自らがドアの前に立ちふさがった。

「瑠璃、絶対に出てくるな!」

逆上した連中は罵声とともに殴る蹴るに及んだ。

「この役立たずの盲野郎が、俺たちの邪魔をする気か!」

澄人の端正な顔にはすでに傷が走り、口元から血がにじんでいた。それでも彼は車のドアを離さず、瑠璃に一指たりとも触れさせまいと踏ん張り続けた。

瑠璃は車の中から叫び声を上げた。

「澄人、大丈夫なの?」

幸い護衛が駆けつけ、不良たちを取り押さえた。

瑠璃は目を真っ赤にして、憤りを滲ませながら言い放った。

「徹底的にぶちのめして。あなたたちが澄人に加えた一発一発、その何百倍もの代償を払わせて!」

路地に響く悲鳴は三時間もやまず、血が地面を赤く染め上げた。

澄人は、あのとき瑠璃があれほど激しく怒るのを見たことがなかった。

その後、その一味は全員逮捕されて刑務所に送られた。澄人を殴った男は腕を折られ、その後の獄中生活に耐えきれず、命を落とすことになった。

けれど今や、澄人は瀕死の目に遭い、全身に傷を負わされかけたというのに――

瑠璃は真相を探ろうともせず、俊也を疑う素振りさえ見せない。

澄人の心はすっかり冷え切り、何の感情も残っていないかのようだ。彼は顔をそむけ、静かに言う。

「わかった」

瑠璃はどこか引っかかるものを覚えたが、深く考える間もなく、俊也の病室から騒がしい声が響いてくる。

彼女は慌ただしく立ち上がる。

「澄人、食べ物を用意してくるわ。待っててね」

澄人はただ、無言で横たわっていた。彼女に視線を向けることもなく。
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