All Chapters of プライド崩壊の夜~元妻、二人目の妊娠~: Chapter 751 - Chapter 760

762 Chapters

第751話

もともと胡桃はひどく面倒くさがりな性分で、甲斐甲斐しく我が子の世話を焼くタイプではない。それなのに、あの赤ん坊はどういうわけか、そんな母親にやたらとべったり懐いていた。産後一ヶ月半も過ぎる頃には、赤ん坊はもちろん、樹までもがまるでからくり人形のように胡桃の背後をついて回り、片時も離れようとしなくなっていた。胡桃と明里が顔を合わせれば、自然と話は同じ終着点へと向かっていく。世の男という生き物は、どうしてこうも面倒くさいのか――と。行き着いた結論は、二人揃って筋金入りの「愛が重い」男を引き当ててしまった、という事実だった。そんな重すぎる愛情を向けてくる男など、そうそう転がっているはずもないのに。よりによって、二人揃ってである。「完全ミルクにしておいて本当に助かったわ」胡桃はからりと言ってのけた。「じゃないと、明里の結婚式に出られなかったもの」「もしかして……」明里はふと気になって口を開いた。「胡桃が結婚しないのって、私の結婚式でブライズメイドをやるため、なんてことないよね?」胡桃はくすりと艶やかに笑った。「まさか。これだけの仲だもの。もし私が先に結婚してたとしても、ちゃんとブライズメイドはやってあげるわよ」明里が信じきれないという顔を向けると、胡桃はさらに続けた。「変な想像はしないでよ。そこまで自惚れないで。あなたのために私の一生を捧げる気なんてないんだから」「じゃあ、本当に結婚しないつもりなの?」明里は真剣な眼差しで尋ねた。「やっぱり、私はそれが心配で」「もう、一番の親友なのに私の選択を応援してくれないなんて。悲しいわ」胡桃は明里の膝に頭を預けたまま、わざとらしく嘆いてみせた。だが、その声の奥には隠しきれない笑みがこぼれていた。「反対してるわけじゃないけど……まあ、いいか」「アキってば毎回、樹の長所を必死に絞り出そうとするじゃない。涙ぐましいわね」「そんなことないわよ。彼はずっと優秀だもの」明里は素直な思いを口にした。「ただ……いつか樹の気持ちがほかの女性に向いてしまったとき、胡桃がちゃんと入籍していないのが心配で」「考えすぎよ」胡桃はふんと鼻を鳴らした。「本当にそんな日が来たなら、盛大に送り出してあげるわよ」もちろん明里にはわかっていた。それが胡桃なりの強がりであるということを。樹がそんな薄情な真似をす
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第752話

女の子だからといって、男の子に劣るなどとは微塵も思っていない。潤の中に男女差別の意識などなかった。それでも、息子と娘とでは、潤は間違いなく娘の方を途方もなく甘やかしてしまう――潤にはそんな確かな予感があった。まだ娘がこの世に存在しているわけでもないのに。うまく言葉にはできない。ただ、明里の面影を七、八分ほど色濃く受け継いだ小さな女の子が、ふわりと自分の傍で微笑んでいる光景を想像するだけで、目に入れても痛くないほど溺愛してしまうだろうという確信が、胸の奥底から湧き上がってくるのだ。明里たちが帰った後、樹は胡桃に向かってぽつりとこぼした。「許嫁の話は諦めろ。もし明里が女の子を産んだら、潤はその子を女神様みたいに神棚へ祀り上げるぞ」「いくら箱入り娘に育てたって、いつかはお嫁に行くでしょ。近場の幼馴染ポジションが一番有利に決まってるじゃない」胡桃は事もなげに言った。「そもそも、子供のことに口出しできる決定権が、彼にあると思ってるの?」樹は少し考えて、確かにその通りだ、と納得した。明里がいる限り、潤に決定権などありはしない。それから樹は自分自身の身の上に思いを馳せ、思わず深い溜め息をついた。どう転んだところで、潤は少なくとも「夫」という立場だけは手に入れた。もうすぐ結婚式を迎え、入籍だって時間の問題だ。それに比べて自分はどうだろう。子供まで生まれたというのに、未だに夫としての名分も立場も与えられていない。一言で言えば、惨めだ。もっとも、樹は自分自身を慰める術に長けていた。何はともあれ、愛する胡桃も我が子も今はこうして自分の傍にいる。ある意味では、人生の勝者と言えなくもない。この世には、どれほど求めても得られない人間や、愛しても決して手が届かない人間が、星の数ほどいるのだから。これ以上、何を望むというのか。帰り道の車中で、潤は明里にきっぱりと言い放った。「樹の息子とは許嫁になんてしないぞ」「どうせ無理よ」明里はコロコロと笑った。「胡桃が産んだのは男の子なんだから」「将来の話をしてるんだ。もし俺たちに女の子ができたとしても、あいつの息子とは絶対に決めない」「まだわからない話じゃない」「とにかく、決めないったら決めない」「なんで?」明里には潤の固執する理由が理解できなかった。「前に、胡桃が子供を産む前に
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第753話

「いったい誰のせいだと思ってるの?」明里は反論した。「私が少し休もうとすると、べったりくっついて離れないじゃない。私に抱きついてベッドに引っ張り込む時間はあるくせに、こんな大事な話をする時間はないって言うの?」潤は気まずそうに鼻の頭を掻き、少し後ろめたそうに視線を泳がせた。明里のプライベートな時間を、一秒残らず全部自分のものにしたかったのだ。誰にも打ち明けてはいないが、どうやら潤は少しばかりマリッジブルーに陥っているらしい。潤はひそかにそう自覚していた。結婚式が待ち遠しくてたまらない。それなのに、その日が近づいてくるのがどうしようもなく怖いのだ。明里との関係は今、これ以上ないほどに穏やかでうまくいっているというのに、なぜか頭の片隅でくだらない妄想が渦を巻き、消えてくれない。もし明里がある日、突然結婚したくなくなったらどうしよう?式の当日に、ウェディングドレスのまま逃げ出してしまったら?極めつけには、ひどい悪夢まで見た。自分はタキシードを着て祭壇に立っているのに、明里は見知らぬ男と腕を組んで、皆の前に現れるのだ。そして永遠の誓いを立て、口づけを交わし――そのまま式は終わってしまった。夢の中で居ても立ってもいられなくなった潤は、その男を今すぐ刺し殺してやりたいというどす黒い衝動を抱えながら、弾かれたように飛び起きた。荒い息をつきながら隣を見ると、明里は潤の腕の中で、安心しきったように穏やかな寝息を立てていた。その寝顔を見て、深く、深く安堵の息を吐き出した。あれ以来、あんな恐ろしい夢は見ていない。それでも、心の奥底に巣食う妄想が完全に消えてなくなるわけではなかった。九月に結婚式の日取りを設定したことを、潤は今さらながら激しく後悔していた。しかも明里は、まずは式を挙げてから入籍したい、という強いこだわりを持っている。しばらく無言でハンドルを握っていた潤は、やがて絞り出すように口を開いた。「……やっぱり、先に入籍しないか」「え?」明里はきょとんと目を瞬かせた。「最初に、式を挙げてからって二人で決めたじゃない」「でも、順番なんてどっちでも変わらないだろ……」「変わらないなら、なんで急に前倒しにするのよ?」潤は静かに車を路肩に停め、シートベルトを外すと、明里の華奢な肩をそっと引き寄せた。「なんというか、俺
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第754話

それでも潤は、明里の大輔に対する態度が、ずっと心の奥で引っかかっていた。遠藤大輔という男は、本当に底の知れない男だ。何度思い返しても、そう結論づけるしかなかった。もし大輔が明里に愛を告白したり、強引に追いすがったりしてくるなら、潤もここまで苛立ちを募らせることはなかっただろう。明里が彼をきっぱりとはねつけることがわかっているからだ。厄介なのは、大輔の立ち回りがどうしようもなく巧妙であるという点だ。あくまで「友人」という安全圏に留まりながら明里の傍に居座り続け、彼女に嫌悪感を抱かせることもなく、己の未練を慰めている。今は海外にいるとはいえ、明里が未だに大輔のことを気にかけているのは、潤の目から見ても明らかだった。だが、相手の立場はあくまで「良き友人」なのだ。そこで潤が声を荒らげて嫉妬心を剥き出しにすれば、ただの器の小さい男に成り下がってしまう。大輔が海外へ去ってくれて、本当に心底ほっとしていた。もしまだこの街にいて、宥希の父親代わりであることを口実に足繁く通ってくるようなら、潤の理性はとうに焼き切れていたかもしれない。案の定、大輔の話題を出した途端、明里は不機嫌そうに目を細めた。「大輔がどうしたっていうの?私たちはただの友達よ!あなたと結婚したら、私には男友達と仲良くする権利すらなくなるってこと?」これこそが、大輔の狡猾なところなのだ。「そういう意味じゃない!」潤は慌てて否定した。「お前が誰と仲良くしようが自由だ。でも、あいつの下心なんて火を見るより明らかじゃないか……」「そんな言い方はやめて」明里は遮った。「大輔はただの一度だって、私に思わせぶりな言葉をかけたこともないし、不誠実な素振りを見せたことさえないわ」「わかってる」潤の胸の内に、どす黒い感情が渦巻いた。「わかってるさ。だからこそ、あいつは今ここにいないのに、俺たち二人はこうして喧嘩してるじゃないか」「喧嘩?」明里は不快げに眉をひそめた。「誰が喧嘩してるっていうの?」「俺の言い方が悪かった。もうこの話はやめにしよう……」「ちょっと、潤!」明里はついに我慢の限界に達したように声を荒げた。「少しは私たちの関係を信じられないの?私のことが信じられないの?私がそんなに、フラフラと他の男になびくような軽い女に見える?だいたい、もし私と大輔の間に少しでも何かあっ
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第755話

明里のその問いかけには、非難の色が滲んでいた。大輔と縁を切るなんて、できるはずがない。明里にとって一番辛くて、どこまでも孤独だったあのどん底の時期、異国の地でずっと支えてくれたのは、大輔と胡桃なのだ。大輔は何も悪くない。たとえ何かすれ違いがあったとしても、友人というのはお互いに支え合い、許し合うものであり、嫉妬されたからといってそう簡単に縁を切れるような軽い関係ではないのだ。それでも潤の態度は明らかに、明里に彼を切り捨ててほしいと願っているように見えた。潤は縋るような真剣な眼差しで、明里を見つめ返した。「……できないのか?」明里はようやく、怒りを通り越して呆れるというより、もはや笑えてくるような心境になった。実際、彼女の唇からは力ない乾いた笑いが漏れていた。明里の反応を見て、潤は自分の言葉が取り返しのつかない一線を越えたことに気づき、激しく狼狽した。「違う……いや、そうじゃない。お前が少しでもあいつと関わりを持つのが耐えられないんだ。お前にやましいことがないのはわかってる、でも遠藤の方はどうなんだ?」「大輔は、私にとってかけがえのない大切な友人よ」明里はきっぱりと言い切った。「普通の『友達』という言葉とは、重みが違うの」「俺にとっては憎き恋敵だ。それを『特別な友人』だなんて言われて、どうやって平常心でいられるっていうんだ?」「そこまで嫌な思いをさせてしまっているなら……ごめんなさい」明里は冷たく言い放った。「やっぱり、今日は先に帰るわ」話の着地点も見えないまま、明里が本気で怒って帰ろうとしている。潤がここで彼女をあっさり帰すわけがなかった。力強くその腕を引き留める。「逃げないでちゃんと話をしよう。前に約束しただろ、何かすれ違いがあったら、絶対にその日のうちに解決するって」「わかったわ」明里は振り返り、真っ直ぐに潤を見た。「ええ、とことん話し合いましょう」「家で話そう」潤は少しだけ安堵し、明里の手を引いた。「こんな道端で言い争っているところを人に見られたら、お互いみっともない」明里は仕方なく抵抗をやめ、潤のマンションへと足を踏み入れた。リビングのソファに並んで腰を下ろすと、潤はすぐさま立ち上がり、グラスになみなみと注いだジュースを運んできた。明里の好物である、特製のブルーベリージュースだ。さっ
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第756話

「心に居場所があるって言っても、あなたが想像するような意味じゃないわ」明里は何度も同じことを説明する気力すら薄れかけていた。「大輔に対して、恋愛感情なんてこれっぽっちもないのに!」そのきっぱりとした言葉を聞いて、ようやく潤の胸の奥で固く結ばれていたわだかまりが、溶けていく気がした。「わかった」潤は明里をそっと腕の中に包み込んだ。「俺が悪かった。もう二度とあんなふうに疑わない。なあ、帰らないでくれ。今夜はずっと俺の傍にいてくれ」「だから、生理中だって言ってるじゃない……」「だから何だっていうんだ」潤は明里の目をじっと見つめ返した。「俺がお前に求めているのは、体の関係だけだとでも思ってるのか?」明里がそう誤解してしまうのも、無理のない話だった。この男の独占欲と性欲は並外れており、時には明里が逃げ出したくなるほどの熱を帯びている。だから「体目当て」と思われても、自業自得というほかない。結局、明里は家には帰らなかった。二人で広いベッドに横たわり、潤が明里を大切に腕の中に抱え込み、ただ静かに寄り添って、彼女の柔らかな髪を優しく撫で続ける――そんな穏やかで甘い時間が流れていった。潤の独占欲がもう少し控えめで、こんなふうに変なところで嫉妬心を爆発させなければ、彼との生活は非の打ち所がないほど完璧なのに、と明里は密かに思った。潤は明里の髪を長い指で梳きながら、ぽつりと静かに口を開いた。「……これから先、もしまた今日みたいに喧嘩することがあっても、どんなに激しく言い合ったとしても、俺の傍から離れないでいてくれるか?」「いつも喧嘩ばかりしてたら、一緒にいる意味がないじゃない」「一緒に生きていれば、どうしてもぶつかることだってあるさ」潤は不安げに言った。「じゃあお前は、喧嘩したらすぐに別れるのか?結婚して夫婦になっても、簡単に離婚するつもりなのか?」「何が原因で喧嘩しているかによるわよ。もしそれが、お互いの根本的な価値観の違いなら……」「さっきの俺たちは……」潤はひどくおそるおそる尋ねた。「その『根本的』な問題に当てはまるか?」明里はわざと、深い溜め息をついてみせた。「私がこんなにもあなたを愛しているのに、少しも伝わっていないの?なんで私の気持ちをいつも疑ってかかるのよ?気持ちだけじゃない、私という人間の誠実さまで疑ってるじゃない」
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第757話

その夜、潤は明里を腕の中にきつく抱きしめたまま眠りについた。二人の体温が重なり合い、やがて心臓の鼓動までもが一つに溶け合っていくような、そんな安らかな夜だった。翌朝、明里はけたたましく鳴る目覚まし時計の音で目を覚ました。今日は大学へ行かなければならない。宥希はすでに夏休みに入っていたが、それでも習い事などで、毎日スケジュールがぎっしり詰まっている。第一線を退き、悠々自適の生活を送っている朱美が、宥希の世話を焼き、付きっきりで面倒を見てくれていた。昼近くになって、明里は潤に電話をかけた。「午後、少し話があるの。指定する場所に来てほしいんだけど」一秒でも早く明里に会いたかった潤は、待ちきれないように食い気味に尋ねた。「何時だ?今からすぐに行っちゃダメか?」「午後二時よ」明里はきっぱりと言った。「今はまだ忙しいの。後で場所のURLを送るから、絶対に時間通りに来てね!」それ以上は何も教えてもらえず、潤は大人しく引き下がるしかなかった。「……わかった」午後になると、潤はまったく仕事が手につかなくなった。数分おきに腕時計を睨みつけながら、なぜ今日に限ってこんなにも時間の進みが遅いのかと苛立ちを募らせた。午後一時半には早々に地下駐車場へ降り、車の中で明里からの連絡を待ち構えていた。絶対に遅刻してはならない――今はただ、それだけが頭の中を占めていた。これからどこへ行くのか、何をするつもりなのか、まるで見当もつかない。だが、明里が来いと言うのなら、たとえ地の果てだろうと火の中だろうと駆けつける。潤の決意はそれだけだった。やがて明里から、目的地のマップURLが送られてきた。場所は一軒のカフェ。ここから車で三十分ほどの距離だ。潤は即座に返信した。【今から向かう】車を走らせながら、最初は純粋にただのデートの誘いだろうと、気楽に構えていた。カフェで向かい合ってコーヒーを飲み、ゆっくりと言葉を交わし、夜はどこか雰囲気のいいレストランで食事でもしよう。二人きりの甘い時間。悪くない。だが、しばらく車を走らせているうちに、潤の頭の片隅に、どす黒い不安が忍び込んできた。待てよ、これはいつもの明里らしくない。彼女は基本的に忙しい人間だ。わざわざ平日の午後にカフェへ呼び出すほど、改まってしなければならない話があるということか。
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第758話

電話を切った後、明里は小さく深呼吸をし、着ている真っ白なシャツの衿元を鏡の前で軽く整えた。後で記念の写真を撮る時のことを考えて、今日はわざわざ、清潔感のある白いシャツに着替えてきていた。普段はストレートに下ろしている髪も、千秋に頼んで緩くカールしてもらい、ふんわりとした柔らかなウェーブに仕上げてある。いつもはすっぴんかそれに近い薄化粧で過ごしている明里だったが、今日はしっかりと眉の形を整え、唇にも色鮮やかなルージュを引いていた。たったそれだけのことなのに、彼女の美しさは息を呑むほど際立っていた。潤が重い扉を開けて中へ入ると、一瞬にして明里の姿が目に飛び込んできた。今日の明里は、ひときわ美しい――理屈抜きに、本能がそう告げていた。普段から化粧の気配がないだけに、少し手を加えただけで見違えるほどの変貌を遂げている。彼女が本来持っている凛とした冷ややかな美貌に、女らしい艶やかな色が加わり、パッと花が咲いたように華やいで見えた。周囲を見渡せば、店内にいる他の男たちの視線が、皆一様に、ちらちらと明里の方へ吸い寄せられているのがわかる。潤は足早に彼女の席へと近づき、できることなら今すぐ自分の上着で彼女をすっぽりと包み込み、誰の目にも触れさせたくないという強烈な独占欲に駆られた。「明里ちゃん!」しかし、潤自身はまったく気がついていなかった。彼が明里の隣に腰を下ろした、そのあまりにも堂々とした態度は、まるで「この女は俺のものだ」と周囲に宣言しているかのようだった。これほど美しい女性がとっくに彼氏持ちと察し、しかも隣に座った男の容姿と放つオーラがどう見ても自分たちと格が違うとわかれば、男は誰しも諦めるしかない。おかげで男たちの未練がましい視線は潮を引くように一斉に散っていったのだが、潤はそのことに一切気づいていなかった。「早かったわね」明里は手首の腕時計に目を落とした。「会社から直接来たの?」潤は明里の隣に深く腰を下ろすと、周囲の目も気にせず、彼女の白い額に愛おしげにそっとキスを落とした。「どうしてもここで話す必要があったのか?ここのコーヒーはそんなにうまいのか?」「まあまあ、かな」明里は微笑んだ。「あなたも飲む?」「いや、いい」潤に元々コーヒーを好んで飲む習慣はない。「一口もらうだけで十分だ」そう言って、明
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第759話

「わかったわ」「急にどうしたんだ?どうしてそんなことを聞く?」「ただ、はっきりさせておいた方がいいと思って」明里は少し間を置いて、また口を開いた。「もし私が妊娠して、それがまた男の子だったとしたら……あなたはそれでも、女の子を産んでほしいってがっかりする?」潤は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。「え……っ?もしかして……妊娠しているのか?」「してないわよ!」明里は顔を赤くして慌てて否定した。「昨日、生理中だって言ったじゃない。もう忘れたの?」「そ、そうか」潤はようやく昨夜のやり取りを思い出した。「じゃあ、なんでそんないたずらに期待させるような仮定の話をするんだ」「まずは質問に答えて」「思わない」潤は断言した。「今でさえ、お前の体が心配だから二人目なんて産んでほしくないと思ってるくらいだ。三人目なんてとんでもない。次が男だろうが女だろうが、子供はそれで終わりだ」「それじゃあ、もう一つだけ……」潤はたまらず口を挟んだ。「大事な話があるなら、涼しいカフェに座ってゆっくり話せばいいだろ。なんでこんな蒸し暑い屋外に立たせて、質問攻めにするんだ」「もしかして、面倒くさくなった?」「うんざりなんかしてない。ただ、お前が暑いんじゃないかと思って」潤は明里の着ている白いシャツの衿元を軽くパタパタと煽って、風を通した。「それにしても今日、どうして急にこんなきちんとした白いシャツなんか着てるんだ。本当に、見惚れるくらい綺麗だ」「じゃあ、いいじゃない」明里は潤の目をじっと見つめた。「これが最後の質問よ」潤は少し目を細め、甘く溶けるような声で言った。「どうぞ」「潤、あなたは私と一生涯、これから何があっても決して離れず、永遠に愛し続けると誓ってくれる?」潤の胸の奥が、激しく打ち震えた。それはまるで――神聖な結婚の誓いのようだった。信じられないような思いで、潤は目の前の明里を見つめた。「明里ちゃん……」明里は繋いだ潤の手を強く引き、通りの向かい側を指さした。潤が導かれるままにその方向へ目をやると、驚きのあまり思わず目を見開いた。道路を挟んだ向かい側に建っていたのは――区役所だった。かつて、明里と初めて婚姻届を提出した場所であり、そして、絶望の中で離婚届を提出した場所でもある。だが、普段の生活圏からは外
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第760話

「早く行かないと、役所の窓口が閉まっちゃうわよ」明里のその一言で、潤はようやく我に返った。愛おしいその手を引き、自分が車道側に立って彼女を庇うようにしながら、慎重に横断歩道を渡った。役所の中へ足を踏み入れると、想像していたよりもずっと人が少なかった。今日は特別な記念日でも祝日でもない、ごくありふれた平日だ。窓口周辺は閑散としていた。入籍の手続きは、拍子抜けするほどあっさりと終わった。七年ぶりに再び手にした婚姻届受理証明書をまじまじと見つめながら、潤はひどく不思議な感覚に包まれていた。まるで、明里と離れ離れになっていたあの空白の時間など、初めから存在しなかったような気がした。すれ違いばかりだった三年間の冷え切った結婚生活も、身を引き裂かれるような数年間の別離も、すべてはただの悪い夢だったのではないか。自分は最初からずっと、愛するこの人の傍で幸せに暮らしていたのではないか、と。真新しい証明書。潤にとってそれは、この世のどんな宝石よりも価値のある、何より大切な宝物に見えた。「もう十分見たでしょ」手続きを終えた二人は、すでに車に乗り込んでいた。それでも潤の熱を帯びた視線は、手元の証明書から一瞬たりとも離れようとしなかった。「見飽きることなんてないさ」潤は腑抜けたようにだらしなく口元をほころばせたまま答えた。「まるで夢みたいだ。本当に……本当に良かった」そのとき、明里のバッグの中でスマホが震えた。隣でニヤけ続けている潤をちらりと横目で見てから、明里は通話ボタンを押した。「お母さん」「アキ、無事に済んだ?」「ええ、もう済んだわ」明里は穏やかな声で答えた。「今から帰るところよ」電話の向こうで、朱美は弾んだ笑い声を上げた。「まあ、今日は待ちに待った入籍の記念日なのよ?まっすぐ家に帰ってきちゃってどうするの。二人で水入らず、ゆっくりしてきなさいな」「別にそんな……」明里が言い終わる前に、横から潤が勢いよく身を乗り出してきた。「じゃあ、お言葉に甘えて帰りません!お義母さん、ありがとうございます!」明里は目を丸くして、隣の潤をまじまじと見た。お義母さん?今、誰に向かって言っているの?しかし電話口の朱美は、その唐突な呼びかけをすんなりと受け入れた。「ふふふ、いいのよ。二人で思う存分、ゆっくり楽しんで
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