All Chapters of 離婚後、捨てられた私は人生の頂点に立つ: Chapter 91 - Chapter 100

100 Chapters

第91話

やれやれ、といくつかの袋を両手に提げたが、まだ残っている。これ以上は持てそうになかった。「……手伝って」そう呟いた瞬間、手の中がふっと軽くなる。水琴が持っていたものも含め、すべての袋が灼也の腕の中に奪われていた。彼はその大荷物を軽々と提げ、さっさとマンションへ入っていく。「高遠さん、私も持ちますから!」水琴は慌てて、その荷物をいくつか奪い取ろうとした。エレベーターホールに着くと、先に行った紗音と鹿耶を乗せた扉がちょうど閉まったところだった。二人は次のエレベーターを待つ。灼也は、ひらりと身をかわして水琴の手を避けた。「俺が持つ」「でも、多すぎます。いくつかください」彼女はもう一度、手を伸ばす。荷物は重そうではないが、とにかくかさばって持ちにくそうだった。チーン、と音がして、エレベーターが到着した。「先に乗りな」灼也に促され、水琴はすぐにエレベーターに乗り込む。だが、灼也が乗り込もうとした時、荷物の幅が広すぎてドアに少しつっかえてしまった。彼女は慌ててその袋を引っぱろうとする。閉まりかける扉。灼也はわずかに眉をひそめると、袋もろとも彼女の体をぐっと抱き寄せ、二人まとめてエレベーターの中に滑り込んだ。水琴は、エレベーターの壁際に追いやられる形になった。目の前には灼也の胸と、行く手を阻む買い物袋の山。鼻先をくすぐるのは、灼也の香り。かっ、と顔に熱が集まるのを感じた。「……あっち、行ってください」水琴が、か細い声で言う。灼也は、さらにぐっと体を寄せた。「どっちへ?」「……わざとでしょ」水琴は顔を赤らめたまま、彼の体を押し返そうとするが、かさばる荷物のせいで身動きが取れない。むしろ、もがけばもがくほど距離は縮まり、彼女の背中は、完全に壁に押し付けられていた。チーン。到着を告げる音と共に、扉が開く。その先に立っていた鹿耶と紗音が、同時に甲高い声を上げた。「きゃあっ!わたしたち、なーんにも見てませんから!」」その言葉に、水琴ははっと我に返る。今の自分たちの体勢が、角度のせいで、まるでキスをしているかのように見えることに気づいたのだ。「ち、違うから!」顔を真っ赤にして灼也を突き飛ばすと、水琴はそそくさとエレベーターを飛び出し、部屋のドアへと向かった。灼也が袋を下ろすと、水琴はようやく鹿耶が持ってきたものの正体を知った
Read more

第92話

「……わかったわ」水琴が頷くと、鹿耶は選んでおいた服を彼女にぽいと投げ渡した。「あのクズ男とは、もう金輪際会っちゃダメよ。信じらんない、『結婚中に不貞を働いてた』なんて、よくもまあ言えたもんだわ!」「ええ……彼のことは、今日でよくわかったわ」水琴の瞳から、すっと温度が消えた。案の定、水琴の読み通りだった。翌日のニュースで、あの地獄絵図と化した鷹司家の誕生日パーティーの件は一行も報じられていない。代わりに、鷹司雅が何者かに付きまとわれる被害に遭った、と些細なゴシップのように報じられているだけだった。大学に着いた水琴は、まず自分の携帯を探したが、やはり見当たらない。本格的に探し回ろうとした、その時だった。蓮見教授が彼女を呼び止めた。「おお、水琴くん!いやぁ、驚いたよ。君が本当に、あの小林菫先生を説得してくれるなんて!」興奮した様子の蓮見に、水琴は何のことか分からず戸惑いの声を上げた。「えっ……?先生、昨夜お会いしたことは確かですが、まだ確かなお返事はいただけていませんけど……!」「どういうことだね?」蓮見は怪訝そうに眉をひそめた。「今朝、君に電話をかけたら、君自身の口から『うまくいきました』と聞いたんだが!」そんなはずがない……!携帯は、昨夜から失くしたままなのに!血の気が引くのを感じながら、水琴は険しい表情で口を開いた。「先生、何かあったのかもしれません。私の携帯、昨夜から見当たらなくて……おそらく、誰かが私のふりをして電話に出て、そんな嘘を……」水琴の真剣な眼差しから、蓮見は彼女が冗談を言っているわけではないと悟った。「本気かね?よく思い出してみてくれ、どこかに心当たりは?いったい誰が電話に出たというんだね?」彼は深刻な顔で続けた。「まずいことになったぞ……大学の上層部は、君が小林先生の招聘に成功したとすでに認識している。間もなく全学に告知され、メディアを呼んで大々的に宣伝する計画まで進んでいるんだ。もし学長から君に確認の電話が入っていたら……私を騙せたのなら、学長を騙すことだって可能だろう」それこそが、水琴が最も恐れていた事態だった。自分に恨みを抱いているのは鷹司家をおいて他にない。一体、誰が自分の携帯を?携帯にはパスワードを設定してある。けれど、着信にはそのまま出られてしまう。それが、果たして幸運だったのか、不
Read more

第93話

疑わしい相手は、何人かいる。筆頭に挙がるのは、自分をあれほど憎んでいるであろう雅とその母親の佳乃。臣は……あそこまでするだろうか。いや、可能性はゼロではない。今の彼なら、自分が知っていた彼とはまるで別人だ。そう考えてもおかしくはない。昨日のパーティーの一件で、雅は大学を休んでいるという。迷いはなかった。水琴は踵を返し、鷹司家へと向かった。インターホンを鳴らすと、出てきた使用人は水琴の姿を認めて息を呑んだ。日々、佳乃と雅が水琴を口汚く罵るのを聞いている彼女にしてみれば、驚くのも無理はなかった。「……静沢さん、どうしてこちらに?」「鷹司臣に用があるの」水琴は単刀直入に告げた。「あいにく臣様はご不在でして……また日を改めていただけませんでしょうか」その時、奥から柔らかな声がした。「どなた?」ひょっこりと顔を出したのは紗夜だった。彼女は玄関に立つのが水琴だと気づくと、どう反応すべきか分からず、引き攣った笑みを浮かべるしかない。「あ、あなた……どうしてここに?」「昨日、パーティーの時に携帯をここに忘れたみたい。取りに来ただけよ」水琴は紗夜と無駄口を叩く気など毛頭なく、冷たく言い放った。紗夜は一瞬戸惑ったような顔をしたが、すぐに作り物の笑みを浮かべた。「静沢さん、昨夜お掃除をしましたけれど、携帯電話は見当たりませんでしたわ。どこか別の場所に置き忘れたのではなくて?」「もう一度、よく確認していただけますか」水琴の有無を言わさぬ口調に、紗夜は気まずそうに表情を硬くし、玄関を開けた使用人に視線を移した。「ねぇ、昨日ホールを掃除した時、携帯電話を見なかったかしら?」問われた使用人は少し考え、「いいえ。昨夜は私ともう一人で片付けをいたしましたが、グラスやお皿をお下げしただけで、携帯電話のようなものは見当たりませんでした」と首を振った。「ご覧の通りよ、静沢さん。やはりここにはないみたい。早く他を探した方がいいんじゃないかしら」紗夜はそう言って、早く帰るようにと暗に促す。水琴にしてみれば、聞いても無駄なことは分かっていた。ここへ来たのは、ただ彼女たちの反応を確かめるため。これで確信できた。少なくとも、紗夜はこの件を知らない。「お義姉さん!誰か来てるの?」二階から降りてきた雅が、水を飲もうとして玄関先に立つ紗夜に気づいた。
Read more

第94話

「なっ……あなたねぇ!」逆上した雅が、反射的に手を振り上げた。水琴は静かに一歩下がる。「やめておいた方がいいわ。この前のことは、私が見逃してあげただけ。同じことを繰り返すなら、今度こそ昔の分もまとめてきっちり落とし前をつけてもらうから」その冷たい声に、雅は振り上げた手を下ろすしかなかった。「鷹司家は、あなたなんて歓迎しない!」バタン!雅はそう言い捨てると、乱暴にドアを閉め切った。水琴は閉ざされたドアを無感情に一瞥すると、静かにその場を後にした。彼女はそのまま携帯ショップへ直行し、SIMカードを再発行して新しい端末を購入した。セットアップを終え、真っ先に学内掲示板を開くと、あの偽りの電話一本が、いかに厄介な事態を引き起こしたかを改めて思い知らされる。心理学部の学生たちは、まるでアイドルを迎えるファンのような熱狂ぶりで、小林菫を歓迎するための横断幕まで企画している始末だった。水琴はもう一度、菫のアシスタントに電話を試みたが、やはり返ってくるのは「多忙」という事務的な返答だけ。提出した学生たちの論文も、まるで深い海に沈んだ石のように、何の音沙汰もなかった。覚悟を決め、水琴は学長室のドアをノックした。「おお、静沢先生!」小林学長は彼女の顔を見るなり、喜色満面で迎えた。「よくやってくれたじゃないか!君が小林先生を招聘してくれたこと、心理学部の学生たちもさぞ感謝していることだろう」「小林学長。本日お伺いしたのは、まさにその件についてご報告するためです」水琴の表情は、ますます硬くなる。「うん、なんだね。言ってみなさい」「……小林先生は、いらっしゃらないかもしれません」「なっ……!?」学長の手の中で、グラスがカタリと揺れ、水面が大きく波打った。「昨日、確かに先生にお会いし、審査員就任をお願いいたしました。ですが先生は、これまでも多くのコンテストからの依頼をすべて断ってきた、と……そのお言葉は、事実上、お断りになったという意味だと、私は解釈しております」水琴は毅然として事実を述べた。学長は、苦虫を噛み潰したように眉間に深い皺を刻む。「静沢先生、冗談はよしてくれたまえ。もし断られたというのなら、なぜ今朝、私が君に電話で確認した時、君は『承諾いただけました』と答えたんだね?」「昨日、パーティー会場で携帯電話を紛失いたしま
Read more

第95話

「静沢先生、これは大学の威信に関わる一大事だ。……こうなったら、もう一度、何とかして先生の意向を探ってみてくれないか。幸い、コンテストまでまだ数日はある」そう言う学長の声は、明らかに躊躇いがちに震えていた。彼が学長といえども、その上には理事会が存在するのだ。「……承知いたしました」水琴は重々しく頷いた。鷹司家のこの一手は、完全に彼女を崖っぷちへと追い詰めるものだった。学長室を出た水琴は、そのまま心理相談室へ向かった。そこには、彼女を待っていた紗音がいた。「水琴お姉ちゃん!話は全部聞いたわ。これから、どうすればいいの……?」「……もう一度、小林先生に連絡を取ってみるしかないわね」水琴は力なく笑った。菫に渡した資料の中には、彼女の最新の研究テーマに関する、自分自身の論文も忍ばせてある。……だが、万が一、彼女がそれに気づかなかったら?望みは、あまりにも細い糸だった。午後三時。雅は学内掲示板で白熱する議論を満足げに眺めていた。彼女はいくつもの捨てアカウントを巧みに操り、誰もが「小林菫は必ず来る」と信じて疑わないよう、巧みに世論を誘導していた。その隣室で、紗夜は枕の下からそっと一台のスマートフォンを取り出した。画面を点灯させ、臣の誕生日を入力する。パスワードが違います。次に水琴の誕生日。やはり違う。諦めかけたその時、ふと灼也の誕生日が頭に浮かんだ。試してみる。それでも、画面は無情にも同じメッセージを返すだけだった。「……いったい、何なのよ」紗夜は恨めしげに呟き、携帯をベッドに放り投げた。今朝、水琴が携帯を探しに来た時の光景が脳裏を蘇る。そう、携帯を盗んだのは彼女だった。昨夜、水琴が帰った後、ホールに落ちているのを発見し、誰にも告げずに自室へ持ち帰ったのだ。そして今朝、蓮見教授からの電話に出たのも彼女だ。昨夜から今まで、考えつく限りのパスワードを試したが、ことごとく失敗。ついには入力回数制限でロックまでかかってしまった。このロックさえ解ければ、静沢水琴の秘密を、すべて暴けるのに。同時刻。水琴は、霧島ホテルのエントランスに足を踏み入れていた。しかし、菫がどの部屋に滞在しているかまでは分からない。彼女はフロント脇のソファに腰を下ろし、ひたすら待つことにした。菫のスケジュールは調べ上げてある。今夜
Read more

第96話

菫は、困ったように微笑む。「静沢さん。私はもう、はっきりお伝えしたはずです。時間がありませんし、コンテストに参加するつもりもありません」アシスタントが水琴の前に立ち、きっぱりとした口調で言った。「お嬢さん。先生の今回の帰国日程は非常にタイトで、すべてのスケジュールは事前に決められています。あなたの言うコンテストのために予定を変更することは、物理的に不可能なのです」「先生、お渡しした資料は、ご覧いただけましたか?」水琴は、最後の望みを託して尋ねた。菫は、彼女のあまりの執念に少し驚いたように頷いた。「ええ、すべて拝見しました。A大学の学生さんたちは、皆さん非常に優秀ですね。興味深い視点の論文がいくつもありました」彼女はそこで一度言葉を切り、諭すように続けた。「ですが静沢さん。残念ながら、あの論文を拝見したからといって、私のスケジュールを変更できるわけではありません」「今回の帰国の目的は、南鳥市の心理学の専門家たちと会議を開き、臨床における難題について討議するためです。そこで解決される問題の一つひとつが、同じ病に苦しむ患者さんたちにとって、どれほど大きな助けになるか。私にとって一分一秒を争うのは、お金のためでも名声のためでもなく、ただ心に病を抱える人たちのためなのです。……それとも静沢さん。あなたは、私がやろうとしていることよりも、あなたの大学のコンテストの方が重要だと、そうお考えですか?」菫の言葉は、まるで頭を殴りつけられたかのような衝撃だった。水琴は呆然と立ち尽くす。そこまで考えが及んでいなかった。ただ、A大学の学生たちのために、としか考えていなかった。そうだ。研究の進歩という大義の前では、いかなるイベントも、彼女の歩みを阻むことなどできないのだ。「では、なぜ……」水琴は、どうしても理解できなかった。「なぜ私が、鷹司雅さんの誕生日パーティーになど出席したか、ですか?」菫は気分を害した様子もなく、ただ穏やかに、諭すように説明を続けた。「それは、鷹司臣さんが、ある約束をしてくださったからです。ご存知の通り、どのような分野の研究であれ、莫大な人的、金銭的資本を必要とします。そして、先進的な研究が行われている環境というのは、やはり、この分野に潤沢な資金が投じられているものなのです。鷹司臣さんが提示してくださった支援は、私が数時間パーティ
Read more

第97話

灼也が、妹の紗音のために見つけてきたという心理セラピスト。そして、先ほどホテルのロビーで自分を待ち続けていた、あの女性。資料の束の一番最後には、一枚の紙が挟まっていた。心理学コンテストの進行表と……そこに記された、論述問題のテーマ。彼女はふと、思った。もしかしたら、新しい時代の学生たちに触れてみるのも、悪くないのかもしれない。この世代の若者たちが、自分にどのような驚きをもたらしてくれるのか……それを見てみるのも、一興か。水琴は家に戻ると、ただぼんやりと窓の外を眺めていた。菫の言ったことは、何も間違っていない。彼女は海外で長年腕を磨き、数多くの研究プロジェクトに参加し、心理学の世界で唯一無二の地位を築き上げた人物だ。今回の帰国も、南鳥市の専門家たちが抱える問題を解決するためだけではない。ある特殊な臨床ケースを分析・解剖するという、極めて重要な目的がある。彼女の時間は、あまりにも貴重だ。もし、それ以上の価値がある何かを提示できるのなら、あるいは菫を説得することもできたかもしれない。だが、今の自分にそれはない。ならば、諦めるしかないのだ。翌日、水琴はまっすぐに学長室へ向かった。「学長、申し訳ありません。小林先生は、今回のコンテストにはいらっしゃいません」学長も覚悟はできていたのだろう。力なく苦笑した。「……そんな気はしていたよ」「理事会の方々は……?」水琴が心配するのは、そこだった。鷹司家、特にあの佳乃が、この面倒な事態を黙って見過ごすとは思えない。噂をすれば影、とはよく言ったものだ。ガチャリとドアが開き、佳乃が姿を現した。「あら、水琴も一緒なの。ちょうどよかったわ、わざわざ呼びに行かなくて済むもの」その背後には、勝ち誇ったような笑みを浮かべる雅の姿もある。水琴が眉をひそめる横で、学長は愛想笑いを浮かべた。「これは鷹司夫人。本日はどのようなご用件で……?」「小林先生の件よ。審査員をお引き受けくださったと聞いて、詳しく伺いに来たの」佳乃はそう言うと、雅にちらりと目配せした。雅は待ってましたとばかりに、甲高い声で言葉を継ぐ。「そうよ、お母様!この静沢先生がね、小林先生と話がついたって。今朝、教授と学長から電話があった時も、ご自分でそうおっしゃったんですって!今、掲示板もその話ですごいことになってるのよ。ねぇ、静沢先生
Read more

第98話

「どなたが、私が貴校の心理学コンテストに参加しない、と仰いましたか?」その場に凛と響いた、聞き覚えのある声。水琴は弾かれたように目を見開き、衝撃に振り返った。学長室のドアが開けられ、菫がアシスタントを連れて、静かに入ってくる。雅は、信じられないといった様子で来訪者を見つめた。「こ、小林……菫!」菫は佳乃と雅には目もくれず、まっすぐに学長へと歩み寄り、手を差し出した。「こんにちは、小林菫です」「先生……!どうして、ここに……?」水琴は呆然と彼女を見つめた。「その件は後でお話しします」菫は短く応えると、佳乃の方へ視線を移した。「そちらの奥様。私がこの度のコンテストに、審査員として参加することが確定いたしました。これで、失態とは言えなくなりましたでしょうか?」佳乃の顔がみるみるうちに強張っていく。彼女は雅と顔を見合わせ、声なき声で問いかけた。どうして小林菫が?まさか、また灼也様が裏で手を……?「小林先生!本当に、審査員をお引き受けいただけるのですか!?」学長が、信じられないといった様子で尋ねる。菫は静かに頷いた。「ええ、そのようにお考えいただいて結構です」「ありえない!」雅が、半狂乱で叫んだ。「時間がないって言ってたじゃない!だって、パーティーの日にお兄様が聞いた時、絶対に来ないってきっぱり断ったじゃないの!」言ってしまってから、雅は自分が何を口走ったのかに気づいて青ざめた。学長の鋭い視線が、突き刺さるように彼女に向けられる。雅は慌ててその視線から逃れるように俯いた。「ち、違うの、そういう意味じゃ……」「雅さん。臣さんが私にお尋ねになったのは、近々イベントに参加する時間はあるか、という点でしたわ。そして私は、座談会以外は参加しない、とお答えしました」菫は静かに続けた。「この度のコンテストに参加を決めたのは、静沢さんがくださった資料……A大学の学生さん方が書かれた論文を拝見し、素晴らしいと感じたからです」佳乃はようやく我に返ったが、目の前の現実が信じられなかった。あと一歩で静沢水琴を追い出せるところだったのに、またしても、この女にしてやられた。だが、このまま引き下がる彼女ではない。「小林先生。先生は水琴の過去をご存じないのですわ。彼女は、一度離婚を経験している女ですのよ?そのような、はしたない女のために審査員を
Read more

第99話

コンテストを翌日に控え、水琴は一日中、大学で忙しく立ち働いていた。イベント実行委員や企画部の学生たちと共に講堂の設営に汗を流し、心配した蓮見教授までもが遅くまで残って様子を見ていたほどだ。「コンテストの問題用紙は、ちゃんと保管してあるかね?」蓮見が尋ねる。水琴は頷いた。「はい。心理相談室の金庫に入れてあります。鍵は私だけが持っていますので」「そうか、それなら安心だ」蓮見が帰った後も、水琴は念のため講堂の音響や照明設備をもう一度すべて点検して回った。全ての準備が整ったのは、夜の十一時半を回る頃だった。水琴は、疲れの混じった安堵のため息をつく。どうであれ、明日のコンテストが無事に終われば、この疲れも報われる。彼女は心理相談室へ戻って荷物をまとめ、帰ろうとしたところで、紗音からの電話を受けた。「紗音ちゃん?」電話の向こうから、心配そうな声が届く。「水琴お姉ちゃん、まだ帰ってこないの?」「心配しないで。もう片付けは終わったから、すぐ帰るわ。こんなに遅くまで起きてちゃだめよ。明日、コンテストに出るんでしょう?」そう言う水琴の声は、疲労で少し掠れていた。「うん……じゃあ、家に着いたら、ちゃんと連絡してね」まだ眠たそうな紗音の声に、水琴の胸に温かいものが込み上げた。彼女は頷き、電話を切る。時刻は深夜。キャンパス内の灯りもまばらで、ほとんど闇に沈んでいる。安全のため、設営を手伝ってくれた学生は寮生だけで、彼らも十時には全員を帰した。だだっ広いキャンパスに、今は自分一人きりだ。風が唸りを上げて吹き抜けていく。夜の気配は重く、空気は肌寒い。水琴は思わず自分の腕を抱いた。寒さは怖くない。けれど、人の気配がまったくない暗闇そのものが、心細さを掻き立てる。彼女はスマートフォンのライトをつけた。その一条の光が、何よりの心強さだった。ようやく校門までたどり着いた、その時。見慣れたカイエンが、門のすぐそばに停まっているのが目に入った。待っていたのは、灼也だった。心臓が、とくん、と大きく跳ねた。「……どうして、ここに?」この感情を、どう表現すればいいのだろう。胸の内で渦巻いていた不安が、すっと霧散していくのが分かった。灼也は彼女のために、助手席のドアを開ける。その声は、彼女と同じように掠れていた。「紗音が、君がまだ帰ってないって
Read more

第100話

「病院なんて行きたくない……痛み止めを飲めば、大丈夫だから……」水琴は、ぽつりと呟いた。ハンドルを握る灼也の手に、ぐっと力が入る。「いつも、そんなに酷いのか?」「普段は、違うの。今日は……冷たいビールを、一本……」「忘れたのか?」灼也の声が、低く沈んだ。水琴は、はっとした。「覚えてた……けど、つい、楽しくて……」深夜の病院は、救急外来と当直の医師がいるだけだった。幸い、当直に婦人科の医師がおり、診察の後、痛み止めと、体を温めるためのハーブを調合した飲み薬が処方された。「このお薬は一日一回、これは必ず飲むようにね」「……はい、分かりました」水琴は小さく頷いた。大袈裟にしなくてもいいのに、と彼女は思う。いつもはこんなに酷くない。ただ今日、うっかり冷たいものを飲んでしまっただけなのだ。再び車に戻ると、灼也の表情は、先ほどよりも幾分か沈んでいた。マンションの前に車を停めると、彼は薬袋を手に、先にエレベーターへと向かった。水琴は呆気に取られ、慌ててその後を追った。玄関に着き、水琴がドアを開ける。「高遠さん、もう遅いですから、お戻りになった方が……」しかし灼也は答えず、真っ直ぐに家の中へ入ると、迷わずキッチンへ向かっていく。彼女のために、薬を煎じるつもりらしい。「高遠さん……」水琴はまず身支度を整え、バスルームから出てくると、コンロの前にまっすぐに立つ灼也の姿が目に入った。彼は土鍋の中に、処方された薬草を入れている。その横顔は、まるで会社の仕事でも処理しているかのように真剣だった。やがて、薬草の独特な香りがキッチンに立ち込め、ドアの隙間から漂ってくる匂いが水琴の鼻をくすぐる。それは薬草特有の乾いた匂いに、苦味が混じった香りだった。彼女はごくりと唾を飲み込むと、医者から処方された痛み止めを、そばにあった水で流し込んだ。キッチンから出てきた灼也が、彼女が薬を飲んだグラスを一瞥する。「冷水だ」グラスを持つ水琴の手が、びくりと震えた。彼女はテーブルにグラスを置く。「気づかなくて……薬を飲むことしか考えてなかったから」「……ああ」灼也は黙ってその水を捨てると、代わりに熱湯を注いだ。「これを飲め」水琴が指先で触れた途端、あまりの熱さに手を弾く。「熱っ!」「さっき飲んだ冷たい水と、胃の中で中和させ
Read more
PREV
1
...
5678910
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status