All Chapters of 離婚後、捨てられた私は人生の頂点に立つ: Chapter 71 - Chapter 80

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第71話

南鳥市の名だたる名家や有力者が集うこの場において、鷹司家の存在など、取るに足らないものに過ぎなかった。ホールの西端に設けられた、床まで続く大きな窓辺。金色の燭台がいくつも置かれ、その柔らかな灯が揺らめいている。水琴はシャンパンを片手に佇み、その傍らには灼也がいた。彼は通りかかったウェイターのトレイから、別のグラスを一つ手に取ると、水琴にそっと差し出す。「こっちを試してみないか?きっと君の好みだと思うよ」水琴は持っていたグラスを脇のテーブルに置くと、その一杯を受け取った。ふわりと漂う、すみれの花のかすかな香り。「これ……ネッビオーロ?」「流石だね。じゃあみーちゃん、産地はどこか当ててみて」水琴は促されるままに一口含む。濃厚なスミレの香りに、ほのかなチェリーの甘酸っぱさが追いかけてくる。彼女はふっと笑みをこぼした。「バルバレスコ、かしら?」灼也は満足そうに頷いた。ネッビオーロの二大産地は、バルバレスコとバローロ。バローロは力強く、重厚な「王のワイン」。対してバルバレスコは、艶やかで情熱的な「女王のワイン」と称される。水琴はもう一口、その芳醇な液体を味わった。彼女自身はワインに詳しいわけではない。ただ、一度味わったその香りと風味を、身体が記憶しているだけ。それがいつ、どこでだったかは、もう思い出せないけれど。「随分とあっさり許してあげたんだな」面白そうに眉を上げて、灼也が尋ねる。「盗撮された動画なんて、法的な証拠にはなり得ないわ。隠し撮りした写真も同じ」そう言って、水琴はグラスにそっと口をつける。縁には、彼女のルージュの跡が淡く残った灼也は楽しげに目を細め、自分のグラスを彼女のそれに軽く合わせた。そして、心から申し訳なさそうに言う。「……俺の落ち度だな」「また、あなたに助けていただいてしまいましたね。高遠さん」水琴はくすりと笑う。「これでまた一つ、借りができてしまいました」「当然のことをしたまでだよ。みーちゃんは、少し他人行儀すぎるな」甘く、低く響くその声には、彼女を慈しむような温かさが多分に含まれていた。「高遠さんは、どうして私が庭にいると……?」水琴はふと不思議に思った。あの時、彼は景正と話していたはずだ。自分が裏庭に連れ出されてから、ほんのわずかな時間しか経っていなかったのに。灼也は指先でグラスの縁を軽く弄び、
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第72話

マンションの前に着くやいなや、紗音は七緒を車から追い立てるように降ろした。水琴はくすくすと笑みを漏らし、自身も車を降りる。あらゆる機会を逃さず、水琴と灼也を二人きりにさせようとする紗音は、七緒の腕を掴むと強引に脇へと追いやった。「紗音ちゃん、もう上がりましょう。高遠さんもお酒を飲んでいらっしゃるし、お休みにならないと」水琴は紗音のそばへ歩み寄り、その手をそっと取った。「でも、兄様が……っ」紗音は目を大きく見開いて、兄に「今がチャンスでしょ!」とでも言いたげに必死で目配せを送る。灼也は穏やかな声で妹を諭した。「紗音。静沢さんがお疲れだ。お前も早く部屋に戻って休みなさい」「……はぁい」不満げな返事を一つこぼすと、紗音は水琴に手を引かれるがまま、エントランスの中へと消えていった。灼也と七緒は並んで車に寄りかかり、二人の姿がエントランスに消えるのを見送っていた。「一本、どうっスか?」七緒はそう言って、箱から煙草を抜き、灼也に差し出した。灼也はそれを受け取ると、吸うでもなく、ただ指先に挟む。「鷹司の連中、どうしますかね?」「……少し、灸を据えてやるか」夜が深まっていく。やがて二人は静かに車に乗り込んだ。パーティーでの一件が幕を下ろしたことで、水琴は心理学知識コンテストの準備に意識を完全に切り替えていた。企画案を提出した直後、紗音がどっさりと書類の束を抱えて駆け込んでくる。「水琴お姉ちゃん、見て見て!今回のコンテスト、申し込みがすごいことになってるの!先輩たちの話だと、今までの少なくとも倍はいるらしいよ!」水琴は申し込み用紙の束を受け取ると、ぱらぱらと捲った。「こんなに沢山……?」「大丈夫だよ、水琴お姉ちゃん!今朝、私が学生会長に直談判して、学内で一番大きい講堂、押さえてもらったから!」紗音は得意げに胸を張る。水琴はそんな彼女の頭を優しく撫でた。「えらいわね、紗音ちゃん。あなたがいてくれて、本当に助かるわ」会場の問題は解決した。他の準備も計画通りに進んでおり、コンテストの骨子はほぼ固まったと言っていい。その頃、A大学のキャンパスでは――雅は教室に入るなり、数人の学生が自分を見てひそひそと指をさし、何かを囁き合っていることに気づいた。何が起きているのか分からず戸惑っていると、亜紀が、おずおずといった様
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第73話

彼女が学生の心理を紐解こうとしていた、まさにその時だった。相談室のドアが、乱暴に開け放たれた。「水琴っ!あんた、どうしてこんな真似を!」そこに立っていたのは、怒りに顔を歪ませた雅だった。彼女はスマートフォンの画面を、水琴の顔に突きつけるようにして見せる。水琴は冷たく彼女を一瞥し、言い放った。「仕事中よ」突然の剣幕に、相談に来ていた学生はびくりと肩を震わせ、慌てて立ち上がる。「せ、先生、私はまた今度、改めて……」あっという間に二人きりになった相談室で、雅は歯ぎしりせんばかりの勢いで捲し立てた。「昨日のパーティーで、私はちゃんと謝ったじゃない!なのに、どうしてこんなことをネットに書き込むわけ!?あんたって、本当に陰湿な女ね!」「何のことかしら」水琴は相手にするのも馬鹿らしいとばかりに、手元の書類へと視線を落とす。「とぼけないでよ!」雅は顔を真っ赤にして、さらに声を荒らげた。「昨日のパーティーでのことなんて、あの場にいた人しか知らないはずでしょ!こんなことネットに書き込むなんて、あんた以外に誰がいるっていうのよ!」水琴は彼女のスマートフォンを一瞥し、そこで初めて合点がいく。「知らないわ。私には関係のないことよ。大声で乗り込んできて人を詰る前に、まず、それが私の仕業だという証拠でも見つけてきたらどう?そして、今すぐ出て行って。ここは心理相談室。人の話も聞かずに喚き散らす学生の相手をする場所じゃないの」「やっておいて、よく言うわね!どうせ、お兄様への当てつけでしょ!言っておくけど、お兄様が、あんたみたいな女を好きになるわけないんだから!」雅の肩が、わなわなと震える。その時、水琴はすっと立ち上がり、その双眸から射るような冷たい光を放った。「鷹司雅さん。あなたのお兄様と私は、もう何の関係もないわ。それから、忘れないで。あの動画はまだ、私の手の中にあるのよ。――今すぐ、出ていきなさい!」「今すぐあの書き込みを削除しなさい! そうじゃなきゃ、私、ここを絶対動かないから!」雅は目を血走らせ、とうとう部屋の椅子にどさりと腰を下ろした。「やったのは、わたしよ!文句があるなら、わたしに言いなさい!」その時、鈴を転がすような、しかし凛とした声が響いた。紗音が息を切らしながら相談室に駆け込んできた。その手には、何かの資料が握られている。「紗音ち
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第74話

「そうね。紗音ちゃんのおかげよ」「じゃあ、ご褒美!今日の夜、水琴お姉ちゃんと一緒にご飯が食べたいな」紗音はそう言って、水琴の腕にぎゅっと抱きつき、甘えるように揺すった。企画案も通って一区切りついたところだ。水琴は快く頷いた。「いいわよ。私がご馳走してあげる」「やったぁ!」相談室を出るやいなや、紗音は急いで電話を掛けた。「兄様!学校終わったら、迎えに来て。一緒にご飯食べたいの」「え?会議?だめっ!兄様、今日、絶対に迎えに来てくれなきゃ嫌だからね!来なかったら、兄様が絶対後悔することになるから! 忘れないでよ!」電話の向こうから、観念したような溜息混じりの返事が聞こえてくる。紗音は、してやったりと悪戯っぽく笑みを浮かべた。A大学の校門前。停められた一台の黒いカイエンが、下校する学生たちの目を惹いていた。紗音は水琴の腕を引きながら、きょろきょろと辺りを見回す。「あ、いた!」彼女は声を弾ませ、その車へと駆け出した。その特徴的な車体を見て、水琴の心臓が小さく跳ねる。――紗音ちゃん、灼也まで呼んでいたなんて。こちらに気づいた灼也が声を掛けようとするより早く、妹がその胸に飛び込んできた。そして、兄の耳元で作戦の成功を告げるように、得意げに囁く。「ね、ちゃんと連れてきてあげたんだから。兄様、しっかり頑張ってよね!」それからくるりと向き直ると、満面の笑みで水琴に向かって手を振った。「水琴お姉ちゃん、こっちこっち!」呼びかけに応じ、水琴がそばへと歩み寄る。「高遠さん。紗音ちゃん、あなたまでお呼びしていたなんて、知らなくて」「どうした?俺の顔を見て、不満だったか?」「いえ、そんなことは」水琴が慌てて首を振ると、灼也は面白そうに眉を上げた。「じゃあ、嬉しいってことだな?」その時、紗音が手際よく助手席のドアを開けた。「水琴お姉ちゃん、わたし今日、後ろでごろごろしたい気分なの。だから、お姉ちゃんは前に座って」水琴は、その質問から逃れるように、するりと車に乗り込んだ。ちょうどその時、雅と亜紀が校門から出てくるところだった。「ねぇ、雅。あそこ、静沢先生と紗音ちゃんじゃない?一緒にいる男の人って……」雅は眉をひそめ、そちらに視線を向ける。三人が親しげに車に乗り込むのを見るや否や、悔しさに地団駄を踏んだ。昨日のパーティ
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第75話

そして、彼は七緒に向かって優雅に言い放った。「君が美味いと思うものを、片っ端から全部持ってきてくれ」その言葉に、七緒はようやく満足げな笑みを浮かべ、恭しくメニューを下げた。やがて、彼が最初に運んできたのは、先ほど熱弁していたブルーシュリンプだった。目の前に置かれた芸術品のような一皿に、紗音は目を釘付けにしていた。鷹司家。帰宅するなり、雅は凄まじい剣幕で癇癪を爆発させた。「お母様!もう最っ悪!大学の掲示板、昨日のパーティーのことで持ちきりじゃない!みんなジロジロ変な目で見てくるし、もう学校になんていられないわ!」佳乃はすぐさま立ち上がり、眉をきつく顰める。「静沢水琴……あの女に決まってるわ!あの子は私たち鷹司家が目障りなのよ!」「そうよ、絶対あいつよ!見つけたから問い詰めてやったのに、しらばっくれて……そしたら高遠紗音が、自分がやっただなんて言い出すのよ!きっと水琴があの子をそそのかして、わざと私を陥れたのよ!私が惨めになるのを見たいだけなの!どうすればいいのお母様……もう学校行きたくない!」そう言ううちに、雅の目からは大粒の涙が流れ始めた。佳乃は娘が不憫でならず、すぐさま大学の上層部に連絡を取り、掲示板から関連する書き込みを削除するよう強く要求した。しかし、一つのスレッドを消したところで、まるでモグラ叩きのように、また別のスレッドが瞬く間に注目を集めていくだけだった。階下の騒がしさに、紗夜は様子を見に降りた。耳に届くのは雅の泣き声。その途切れ途切れの言葉から、何があったのかをすぐに察した。紗夜は心の中でせせら笑う。本当に愚かな子。問題を起こしては泣き喚くだけ。けれど……今はまだ、臣とのことを考えれば、この母娘に頼らざるを得ない。そう結論づけると、紗夜はさも心配しているかのように階段を駆け下りた。「雅さん、どうしたの?」紗夜の顔を見るや否や、雅は昨夜のことを思い出し、抑えきれない怒りを瞳に宿した。「あなたのせいじゃない!昨日の夜、あんなくだらない入れ知恵をしたのはあなたでしょ!なのに私一人に全部押し付けて!あなたの言うことなんて聞かなければ、今日みんなに笑われずに済んだのに!」一瞬気まずい表情を浮かべた紗夜だったが、すぐにそれを隠し、あくまでも優しく声をかけた。「雅さん、ごめんなさい……昨日は私の配慮が足りなかったわ。でも、
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第76話

「その件はもういい。今、調べている」臣は話を遮る。「協賛の件だが、あいつに高遠灼也をずっと動かせるような手腕があるとは思えん」臣の瞳に、暗い光がよぎる。先日のトレジャーホテルでの光景が脳裏に焼き付いており、彼の表情は一層険しさを増した。トレジャーホテル。会話の最中、軽やかな着信音がそれを遮った。水琴が電話に出ると、相手は大学の実行委員で、協賛の件でかなり焦っている様子だった。水琴も予想外だった。鷹司家が南鳥市のほとんどの旧家や企業に圧力をかけ、コンテストへの協賛をしないよう釘を刺したというのだ。A大学の理事会はこの件に聞く耳を持たず、完全に黙殺を決め込んでいる。一介の講師のために鷹司家を敵に回したい者など、いるはずもなかった。たとえ鷹司家を恐れない者たちがいたとしても、わざわざ余計な面倒事に首を突っ込む必要はない、というわけだ。「わかったわ、その件は私がなんとかするから」水琴はそう言って電話を切ったが、わずかに眉を寄せた。灼也がローストビーフの一切れを彼女の皿に取り分けながら、気づかうように尋ねる。「……どうしたんだい?誰から」「ううん、なんでもない」水琴は首を振った。彼女はすでに灼也に大きな借りがある。これ以上、彼に頼るわけにはいかなかった。紗音はチキンレッグを平らげると、スマートフォンをいじり始め、やがて声を上げた。「あ、水琴お姉ちゃんがなんで困ってたか、わかっちゃった!」紗音のスマホを一瞥した水琴は、慌ててその画面を手で覆い隠す。「大丈夫よ、これは私が何とかする問題だから」いざとなれば、自分で協賛すればいい。しかし、灼也の表情が、すっと翳りを帯びた。「みーちゃん、俺に何か隠してるのかい?」紗音が待ってましたとばかりに口を開く。「兄様!水琴お姉ちゃんが担当してるコンテスト、横槍が入ったんだって!鷹司の連中が協賛しないだけならまだしも、他のところにもさせないように圧力をかけてるの!ひどいと思わない!?絶対、鷹司雅の仕業だよ!」ふと、紗音は兄を見上げると、ぱあっと表情を輝かせた。「水琴お姉ちゃん、どうしてわざわざ他所を当たる必要があるの?ここにいるじゃない、うってつけの人が」灼也は口元に楽しそうな笑みを浮かべたまま、徐々に熱を帯びる視線で、水琴が口を開くのを待っている。水琴は落ち着きを払い、何か
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第77話

昨夜のパーティーでは着けていなかったから、気に入らなかったのかと、少しだけ思っていたのだ。「まったく、今日の七緒と紗音ときたら。君の仇討ちだとばかりに、張り切ってくれたみたいだ」灼也が苦笑しながら言った。たった一度の食事で、紗音はデザートを次から次へと注文し、七緒もそれに応えるように腕によりをかけて料理を出し続けた。テーブルに乗り切らないほどの皿が並び、ようやく灼也は解放されたのだ。「今回の協賛の件、本当にありがとう。だから今度は私にご馳走させて。その時に、しっかり仕返ししてもらって構わないから」水琴が悪戯っぽく笑う。その笑顔に、灼也は一瞬、心を奪われた。すぐに我に返ると、彼は目を細めて応える。「ああ、楽しみにしているよ」やがてマンションの前に車が停まると、水琴はまだ眠っている紗音を支えながら、建物の中へと入っていった。鷹司家が手を回し、大学の掲示板から雅に関する書き込みはほどなくして削除された。ネット上で表立ってその件に触れる者はいなくなったものの、教室に戻るたびに突き刺さる侮蔑の視線が消えることはなかった。心理学知識コンテストの開催まで、一週間を切っていた。雅が今一番望んでいるのは、コンテストが始まる前に、水琴を担当から引きずり下ろすこと。大学の上層部を動かす力は、彼女にはない。ならば、その矛先を直接、水琴本人に向けるしかなかった。心理相談室。コンテストの実行委員の学生たちが、協賛の契約書を持ってきた。灼也の署名はすでに入っている。「紗音ちゃんのおかげだよね、高遠グループの協賛が取れたんだから」「ホントだよ!鷹司家よりずっと格上だし。あの鷹司雅、自分が何でもできるとでも思ってたのかしらね!」水琴は一人の生徒とのカウンセリングを終えたところだった。水を一杯注ぎ、実行委員の学生たちの姿に気づく。「あら、みんな来てたのね」コンテストの準備のため、彼女が特別に呼び出したのだ。「先生、契約書の締結、完了しました」一人の学生が、水琴のデスクに契約書を置いた。もう一人の学生が、一枚のリストを差し出す。「こちらが、事前にリストアップした審査員候補です。先生、何か変更点はありますか?」水琴はリストを受け取る。大学の心理学教授陣に、小林学長。妥当な人選だ。その候補者リストの中に、自分の名前も見つける。「……もう
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第78話

「……ええ、わかったわ」雅は頷いた。亜紀と共に校門へ向かうと、そこには見慣れたマセラティが停まっていた。そして、そのドアに寄りかかるようにして、兄の臣が立っている。「お兄様、私を迎えに?」雅は驚きと喜びの声を上げ、亜紀の手を引いて臣の前まで駆け寄った。内心では、また水琴を探しに来たのではないかとひどく不安だった。この前、散々恥をかかされたのだ。今回こそ、兄が自分を迎えに来たのだと思わせなければ。「ああ。そちらは、お前の友人か?」臣は頷き、亜紀にも軽く会釈した。途端に、雅の虚栄心は一気に満たされた。「でしょ?言ったじゃない、今日はお兄様が私を迎えに来てくれたんだって。ついでだから、あなたも送ってもらうわよ」そして兄に向き直る。「お兄様、この子、私の友達なの。途中まででいいから、一緒に乗せてあげて」断られるのを恐れるように、雅は期待の眼差しで臣を見上げた。臣はわずかに眉を顰めたが、それでも頷いた。車に乗り込むと、亜紀はキョロキョロと物珍しそうに車内を見回し、あちこちにそっと触れている。こんな高級車に乗るのは、もちろん初めてだった。一方、雅は不満をぶちまけるのに夢中だ。「ねえお兄様、信じられないわ、あの水琴、やっぱり灼也様を頼ったのよ!今や大学中が、あの二人の関係を噂してるんだから!学生の間じゃ、もう好き勝手な憶測が飛び交ってて……本当に、あんな素行の悪い人が、どうして心理学の先生なんてやってられるのかしら」「……何だと?」臣は急ブレーキを踏んだ。一瞬にして、その顔から表情が消える。雅は呆れたように、不機嫌な声を出した。「お兄様、びっくりするじゃない!だから、高遠グループがコンテストに協賛することになったのよ。昨日、実行委員の子たちが色んなところに電話してたけど、一つもいい返事がもらえなかったのに、今日の朝になったら、もう高遠グループがサインしたって話になってたの」臣は唇を固く引き結び、その瞳は威圧的な光に満ちていた。なぜ、あの高遠灼也はいつもいつも、こうも横からしゃしゃり出てくるのか。鷹司家に戻るなり、雅は佳乃に怒りをぶちまけた。その話に、紗夜も内心では驚いていた。「これでわかったでしょう、臣!それでもまだ信じないつもりなの!?あなたはあの子にあんな大金を渡して……結局、他の男のために貢いだだけじゃない!」佳乃がヒステ
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第79話

紗夜は雅の耳元にそっと顔を寄せ、囁いた。「……これはね、『敵を罠に誘い込む』策よ」「誕生日パーティーを……前倒しで?でも、あいつが来るかしら?」雅が呆然と繰り返す。「冗談じゃないわ!」佳乃が不満の声を上げた。「あの女の顔なんて見たくもないのに、わざわざ雅の誕生パーティーに招待するですって?とんでもない!」だが、雅はその言葉を気にも留めなかった。もし紗夜の言う通りになれば……水琴が来れば、灼也も来る可能性が高い。そして、たとえ彼が来なくても、その時は誰も彼女を守る人間はいないのだ。水琴をパーティーに呼び出しさえすれば、後は自分の思い通りになるのではないか?それに、自分の誕生日はもうすぐだ。それをほんの数日、コンテストの前に早めるだけのことだった。「お母様!決めたわ、誕生日パーティーは前倒しでやる!お義姉さん、知恵を貸して。あいつ、素直に来るとは思えないもの」雅はそう言ったものの、すぐに顔を曇らせた。「雅さん、考えてみて。今、彼女が一番必要としているものは何かしら。そこから手掛かりが見つかるかもしれないわ」紗夜が穏やかな声で助言する。「一番必要としているもの……?」考え込んでいた雅だったが、やがてその口の端が弧を描いた。「……わかった!どうすればいいか、わかったわ!」先ほどまでの苛立ちは、すっかり消え失せていた。翌朝、水琴は早くに目を覚まし、紗音と共に大学へ向かった。実行委員の学生たちは、すでに審査員のほとんどから内諾を取り付けていた。残るは、水琴が招聘を担当する小林菫だけだ。コンテストまで、あと五日。企画担当はプログラムの準備などを控えており、審査員の序列を決めるのも重要な仕事の一つだ。この一両日中には、小林先生が参加するかどうかを確定させなければならない。しかし、彼女のスケジュールを調べ、アシスタントに電話をかけても、得られる返事は「近日は多忙で」の一点張り。本人への取り次ぎすら、にべもなく断られてしまった。「安心して。もし招聘が叶わなかったら、すぐに皆さんに連絡するわ」「はい、それならよかったです」その言葉に、実行委員の学生はほっと胸を撫で下ろした。水琴がプレゼンの資料を作成していると、不意にノックの音が響く。ドアを開ければ、そこに立っていたのは意外にも雅だった。水琴はきつく眉を潜め、その口調から
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第80話

しかし、雅の言葉が落ちてから、水琴は長い間、何も答えなかった。雅がしびれを切らして再び口を開こうとした、その時。水琴がようやく口火を切った。「雅さん、私はもう、はっきり言ったはずよ。鷹司臣は、もう好きじゃない。彼とは離婚したの。これ以上、何の関わりも持ちたくない。よく覚えておいて。もしあなたがもう一度彼の名前を口にしたら……必ず後悔させるわ」水琴の瞳は、底なしの沼のように深く、凍てついた光を放っていた。その視線に射抜かれ、雅は思わず背筋に冷たいものが走るのを感じた。拳を固く握りしめ、紗夜の言葉を思い出し、どうにか怒りを鎮める。「……お兄様のためじゃないとしても、小林菫先生のためなら、来るしかないんじゃない?安心して、私は本心からあなたを招待してるの。ただ、紗夜さんがどれだけ私に良くしてくれるか、あなたに見せつけてやりたいだけ。あなたを完全に諦めさせるためにね。あなたが来てくれたら、本当にお兄様のことを吹っ切れたんだって信じてあげるわ」その名に、水琴ははっとした。小林菫が、雅の誕生日パーティーに?なぜ彼女が小林先生を?まさか、自分が先生をコンテストの審査員に招聘しようとしていることを、とっくに知っていたというの?「……小林先生をご存知なの?」水琴が訝しむように尋ねる。「馬鹿にしないでよ」雅は鼻を鳴らした。「あなたが小林先生を審査員に誘おうとしてることなんて、A大学の人間ならみんな知ってるわ。もう秘密でもなんでもない。それに、小林先生が私のパーティーに来てくれるのは、昨日決まったばかりなの。その後はしばらくスケジュールが埋まってるらしいわよ。それでも、あなたは来ないつもり?」「……小林先生を招待したのは、私をあなたのパーティーに参加させるため?」水琴は訝しんだ。この子は一体、何を企んでいるのか。わざわざ小林菫を招聘してまで、自分を呼び出そうとするなんて。「とにかく、私は伝えたわよ。来るか来ないかは、あなたが決めること。小林先生を、諦めるっていうなら話は別だけど」雅は得意げに笑みを浮かべた。水琴は黙り込んだ。目の前に置かれた招待状を前に、彼女は確かに、難しい選択を迫られていた。「水琴、私はあなたが来てくれることを、結構楽しみにしてるの。がっかりさせないでね」雅はそう言い捨てると、心理相談室から出て行った。時を同じくし
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