All Chapters of 離婚後、捨てられた私は人生の頂点に立つ: Chapter 421 - Chapter 430

430 Chapters

第421話

水琴は無言で解答用紙を受け取ると、赤ペンを手に取り、真剣な眼差しで採点を始めた。そしてすぐに、彼女はもう一枚のプリントを取り出し、灼也の目の前へと滑らせた。「今度は、私がする質問に答えながら、この問題を解いていって。一つの質問に答えるごとに、一問解くのよ」そう言うと同時に、彼女はカチッと音を立ててストップウォッチをテーブルに置いた。意図が読めないというように、灼也は微かに眉を寄せたが、最終的には従順に頷いてペンを握った。彼が真剣な顔でプリントに向き合うのを見下ろす。用意したのは、一見すると何の変哲もない高度な数学の計算問題だ。彼ほどの頭脳なら難なく解けるレベルだが、それでも集中して取り組まなければケアレスミスをしてしまう絶妙な難易度に設定してある。ペン先が紙に触れた瞬間、水琴は静かな声で一つ目の質問を投げかけた。「三年前――あなたには、付き合っている彼女がいた?」ピタッ、と。灼也のペン先が止まった。まさか初手からそんな直球が飛んでくるとは思っていなかったのだろう。僅かな沈黙。彼は何かを思案するように息を呑むと、やがて低く答えた。「ああ。……いたよ」彼が一問目を解き終えたのを確認し、水琴はストップウォッチのラップボタンを押し、時間を記録した。灼也が二問目に取り掛かると同時に、水琴はすかさず次の矢を放つ。「教えて。その彼女っていうのは……音羽琉里さんのこと?」「違う!」今度は、考える間も与えずに即答だった。語気には強い否定の色が滲んでいる。ラップボタンを押す。そして、水琴は彼が三問目に取り掛かる寸前に、最も核心を突く言葉を落とした。「なら――あなたは三年前から、私のことを知っていたのね?」その瞬間。灼也は紙に走り書きのように数字を書き殴ると、カチャリと音を立ててペンを置いた。「……もう、やめる」たった三つの質問。たったそれだけで、彼はこれ以上続けることを拒絶した。水琴は三回目のラップタイムを記録すると、彼が解いた問題の答えなど見向きもせずに、静かに口を開いた。「いいえ、もう十分よ。私が知りたかったことは、これで全部わかったから」水琴は微かに口角を上げたが、その瞳には笑みとは程遠い、重く鋭い光が宿っていた。「……何がわかったって言うんだ」「三年前、私
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第422話

怒りで我を忘れた佳乃は、水琴の鼻先に指を突きつけて喚き散らした。「この性悪女!わざとやってるんでしょう!紗夜さんだって被害者なのよ!黒幕は音羽琉里だってわかってるはずじゃない!どうしてあの女を責めないのよ!?まさか、相手が音羽家だからってビビってるんじゃないでしょうね!?」水琴は嘲笑を隠しもしなかった。「……ご存知ないんですか?警察に『紗夜さんが主犯だ』という決定的な証拠を突きつけたのは、他でもない音羽琉里ですよ?言うなれば、彼女こそが真の元凶です。佳乃さんは、私に文句を言いに来る暇があるのに、どうして琉里さんには文句の一つも言いに行かないんですか?……まさか、それこそ相手が音羽家だからビビってるんじゃないですか?」「あ、あんたっ……!」佳乃は図星を突かれ、顔を真っ白にしてワナワナと震えている。水琴はもう、彼女に反論する隙すら与えなかった。氷のように冷たい視線で見下す。「出て行ってください。ここはあなたのような方が来る場所ではありません」怒りと屈辱で顔を歪ませながら、佳乃はドアノブを乱暴に掴んだ。「……今に見てなさいよ!」負け惜しみの捨て台詞を吐き捨てて、佳乃は嵐のように去っていった。精神科の閉鎖病棟。朝食を終えた雅は、窓辺の椅子に力なく腰掛けていた。ここに隔離されて数日。最悪な環境ではあるものの、雅はすでにこの冷たい日常に慣れ始めていた。それもこれも、母親である佳乃が立て続けに面会にやって来ては「身代わりになれ」と繰り返したせいだ。あの瞬間、雅の中で家族に対する期待や情は完全に死に絶えたのだ。今では、誰かが面会に来ることすら恐怖に感じていた。かつて自分を愛してくれたはずの人間の口から、あんなにも氷のように冷たい言葉を聞かされるのは、もう耐えられなかった。しかし、一時間後。その恐怖は最悪の形で現実となった。「……雅、私よ」看護師に案内されて病室に入ってきたのは、少し声の震えた佳乃だった。「ッ……!」雅は怯えたように、椅子から数歩後ずさった。母親の顔をまともに見ることもできず、壁に背を向けて冷たく言い放つ。「……また、私に罪を被れって言いに来たの?無駄よ。絶対に断る。もう帰って」佳乃は一瞬だけ瞳を揺らしたが、すぐに冷徹な女主人の顔を取り戻し、ズカズカと雅に歩み寄った
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第423話

雅は息を呑み、力なく深い溜息をついた。佳乃の決意がどれほど固いか、痛いほど伝わってくる。彼女にとって、紗夜の腹の中にいる鷹司家の血脈こそがすべてなのだ。もし紗夜が実刑判決を受ければ、その子供は生まれながらにして「前科者の子」という拭えない十字架を背負うことになる。それだけは、何としてでも阻止したいのだろう。その時だった。佳乃が突然、床に膝をつき、雅の前に頭を下げたのだ。「……ッ!」雅の心臓がドクンと嫌な音を立てた。鷹司家の女主人として、誰よりもプライドが高く傲慢だった母親が。たかがまだ生まれぬ子供のために、実の娘に向かって土下座までして見せたのだ。その異様な光景に、雅の中で張り詰めていた糸がプツリと切れた。「……お母様。わかったわ、私が行くから!」雅はギリッと歯を食いしばり、血を吐くような思いでそう叫んだ。自分は利己的で、鷹司家の人間らしく損得だけで動ける冷酷な人間だと思っていた。けれど、あんなにも誇り高かった母親が自分に土下座をする姿を見せつけられては、どうしたって逆らうことなどできなかった。あのランタン祭りの夜からというもの、水琴の胸の奥には、ずっと正体のわからない酸っぱいような感情が蟠っていた。今まで、こんな気持ちになったことはない。灼也との関係をどう扱えばいいのか、彼女自身にも分からなくなっていた。以前のように彼を冷たく突き放すこともできず、かといって素直に熱を帯びた感情を向けることもできない。冷淡さと情熱の間を振り子のように行ったり来たりする、そんな不安定な感情に振り回されていた。その日。水琴は一人でハンドルを握り、南鳥市と松霧島を繋ぐ巨大な海上連絡橋を走っていた。松霧島は長らく開発がストップし、荒れ果てたままになっていたため、この連絡橋を利用する車もほとんどない。全長を渡り切るのに十分ほどかかる長い橋だ。島を出発して数分。水琴は、背筋を這い上がるような薄気味悪い違和感に気づいた。……あの車、島に入った時からずっと……ルームミラーをちらりと確認する。背後には、一台の黒いセダンが不気味なほど一定の距離を保ってついてきていた。試しにアクセルを緩めてスピードを落としてみる。しかし、後続のセダンは追い越そうとする気配を全く見せない。広大な海上橋の上に
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第424話

キキィィィィッ!!タイヤが悲鳴を上げ、焦げたゴムの臭いが車内に充満する。ダッシュボードでは、先ほどからずっとスマホの着信音が鳴り響いていた。きっと灼也だ。先ほど電波が切れる直前、私が「追われている」と叫んだのを聞いて、彼も半狂乱で電話をかけ続けているに違いない。電話に出たい。今すぐ助けを求めたい。だが、ほんの一瞬でも片手をハンドルから離し、視線を逸らせば、それだけで命取りになる。背後の二台は、もはや自分たちの命すら惜しくないのか、道連れにするような勢いで水琴の車のケツにガンガンと体当たりを繰り返してくる。巻き上がる土埃の中、ギリギリのデッドヒートが続く。しかし、極限状態の緊張と、先ほど胸を強打したダメージが、徐々に水琴の体力を奪い始めていた。急なヘアピンカーブに差し掛かった時、ふっと水琴の意識が白く霞んだ。駄目……!寝ちゃ、駄目……ッ!必死に歯を食いしばり、薄れゆく意識を繋ぎ止める。この狭く険しい峠道で、ほんの数センチでもハンドル操作を誤れば――待っているのは、谷底への墜落という確実な「死」だけだ。すっかり陽は落ち、街灯ひとつない峠道は恐ろしいほどの暗闇に包まれていた。背後から追ってくる車は、これ見よがしにハイビームを点灯し、チカチカと不規則にパッシングを繰り返してくる。強烈な光がバックミラーに反射して、水琴の目を容赦なく刺した。「くっ……!」眩しさに思わず目を細めた、その一瞬の隙だった。背後の車が、殺意をむき出しにして強烈な体当たりを喰らわしてきたのだ。「あッ……!!」ドガァッ!!という衝撃と共に、水琴はハンドルを取り落としそうになる。それどころか、先ほど打ち付けたばかりの胸を再びハンドルに激しく打ち付けられ、目の前が真っ白になった。しかし、最悪なのはそれだけではない。前方に広がるヘッドライトの光が照らし出したのは――道が途切れているかのような、急勾配のヘアピンカーブだった。曲がりきれない……!!すでに意識は霞み、手足の感覚は麻痺している。強烈なスピードに乗った車体は遠心力に耐えきれず、完全にコントロールを失っていた。このままではガードレールを突き破り、谷底へ真っ逆さまだ。「あああああっ!!」水琴は最後の力を振り絞り、ハンドルを限界まで右に切り込んだ。車体はスピ
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第425話

車体は無残にひしゃげ、窓ガラスは粉々に砕け散り、運転席側のドアはベコッと深く陥没している。その車内で、灼也は展開したエアバッグに押し潰されるようにして、ハンドルに突っ伏していた。彼の額には、びっしりと冷や汗が浮かんでいる。「灼也……っ!」喉が渇き切って、掠れた声しか出ない。「灼也!お願い、目を覚まして!」水琴が割れた窓の隙間から何度も必死に呼びかけると、やがて彼は微かに身じろぎし、重い瞼をゆっくりと開けた。「……みー、ちゃん……」エアバッグに圧迫された狭い車内で、彼はもがくように身を捩った。その瞬間、彼の顔が苦痛に歪む。「灼也!大丈夫!?」「ああ……俺は平気だ。君は、怪我してないか……?」掠れた、ひどく苦しそうな声だった。それでも自分のことより先に水琴を気遣う彼を見て、水琴の瞳からボロボロと涙が溢れ出した。彼が今まで自分に何を隠していたとか、そんな疑念はもうどうでもよかった。「私は無事よ!そんなことより、早く外に出て!」「……救急には、連絡したか?」その言葉に、水琴は慌ててポケットからスマホを取り出した。しかし、画面のアンテナマークは完全に圏外を示している。「駄目、電波がない……」昨夜、連絡橋を走っている時からすでに電波は不安定だった。おそらく、私を追跡していたあの二台の車のどちらかに、強力なジャミング装置が積まれていたのだろう。水琴は震える手でスマホを握りしめ、再び車内の灼也を見つめた。彼の上半身はエアバッグに押し込められ、下半身は完全にダッシュボードの下に隠れて見えない状態だった。「お願いだから、早く出てきて……っ」水琴の声は恐怖で震えていた。「泣かないで……大丈夫、すぐに出るから」灼也は無理して笑顔を作り、水琴を安心させようとした。彼は手でエアバッグを必死に押し退け、少しでも空間を作って体を引き抜こうともがいた。――しかし、抜け出せない。「大丈夫だよ、みーちゃん。すぐ、出るからね」彼は水琴に向かって優しい声で慰めながら、心の中では自嘲気味に苦笑していた。自分の体のことだ、誰よりも自分が一番よく分かっている。彼の右脚は、衝突でひしゃげた車体とペダルの間に、万力で締め上げられたようにガッチリと挟まり、完全に身動きが取れなくなっていたのだ。
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第426話

「行けよ、みーちゃん」灼也は力なく、自嘲するような笑みを浮かべた。「俺のことなんか構わなくていい。ただ……無事に街に戻れたら、琉里には近づくな。今回の件も、おそらくあの女が糸を引いているはずだ。あいつは……君が想像している以上に、恐ろしい人間なんだ」それが、自分にできる最後の忠告だった。そう言い聞かせても、水琴はやはり無言のまま立ち尽くしている。ああ……見捨てられたんだな。その事実が、鋭い刃となって灼也の胸を深く、残酷にえぐった。夜空に浮かぶ青白い月は、西の山際へとゆっくりと傾きかけている。だが、暗闇の中でふいに水琴が顔を上げた。彼女の大きな瞳には、いつの間にかいっぱいの涙が溜まっており、それが今、堰を切ったようにポロポロと頬を伝い落ちていた。「……灼也。二度と、そんなこと言わないで」「……え?」水琴は涙ぐみながらも、ふふっ、と小さく吹き出した。「俺のことなんか構うな、なんて……そんなの、放っておけるわけないじゃない!」彼女は踵を返すと、自分の車のトランクから車載工具の頑丈なバールを引っ張り出してきた。そしてそれをひしゃげたドアの隙間にねじ込むと、渾身の力を込めて抉じ開けた。ガキンッ!!金属が弾け飛ぶ音がして、ついに固く閉ざされていたドアが開いた。同時に、ダッシュボードの下に挟み込まれていた灼也の右脚が露わになる。ズボンの生地は破れ、痛々しい血の跡が幾筋も滲んでいた。「灼也……!」水琴は思わず息を呑んだ。灼也は苦しげに笑う。「嘘は言ってないだろ?この脚じゃ、誰かに助けを呼んできてもらわないとどうにもならない。……今回は、君だけが頼りなんだ」水琴は夜風に吹かれながら、顔を上げた。もし彼をここに残して助けを呼びに行けば、その間に野生動物に襲われるかもしれない。動けない彼には逃げる術がないのだ。かといって、このまま誰も来なければ、いずれにせよ彼は助からない。なら、やるしかない。「ちょっと、そっちに寄ってて!」水琴は辺りから手頃な大きさの重い石を拾い上げてくると、冷ややかな、けれど決意に満ちた声で言った。「……少し、我慢してて!」彼女は石を振り上げ、灼也の脚を挟み込んでいるプラスチックと金属のパネルに向かって何度も何度も叩きつけた。ガンッ! ガンッ!
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第427話

「……こほっ」微かな咳払いをすると、七緒が弾かれたように顔を上げた。「あ、灼也様!目が覚めたッスね!?」「……水琴は?」灼也が真っ先に口にしたのは、自分の脚の心配ではなく彼女のことだった。七緒はスマホをしまい、少しだけ安堵の息を吐いた。「大丈夫ッス。水琴さんは軽い擦り傷と打撲だけで済んだみたいで、入院の必要はないって言われたッスよ」その言葉に、灼也は心底ホッとして深く息を吸い込んだ。「……お祖父様には連絡したか?」気絶する直前、スマホに祖父からの不在着信が残っていたのを思い出す。七緒は深く頷いた。「もちろん関係者全員に連絡済みッス。景正様には『ちょっとした怪我で数日入院するだけですから心配いりません』って誤魔化しておいたッスよ」「そうか……」灼也は天井を見上げ、複雑な表情を浮かべた。「水琴は……もう帰ったのか?いつ帰った?」七緒は少し気まずそうに頬を掻いた。「水琴さん、ずっと灼也様が目を覚ますまで付き添ってたんスよ。……でも、一時間くらい前に帰っちゃいました」そうか、一時間前までここに……灼也の胸がギュッと締め付けられる。事故の衝撃でボロボロの体だったはずなのに、自分の脚を抉じ開け、あの険しい山道をずっと支えて歩いてくれたのだ。自分なんかより、彼女のほうがずっと無理をしていたはずだ。それでも、彼女が自分のそばに最後まで残っていてくれたという事実に、灼也の目元は自然と柔らかく和んでいた。……みーちゃん。やっぱり君は、俺のことを気にかけてくれているんだな。その確信に近い思いが、痛む体とは裏腹に、彼の胸を温かい喜びで満たしていた。病室の空気が少しだけ緩んだところで、七緒はやれやれと首を振りながら口を開いた。「オレ、本当に不思議でしょうがないッスよ。お二人は結局どうなりたいんスか?灼也様がそれほど水琴さんを想っているなら、どうして少し前に琉里さんが戻ってきた時……あんな冷たい態度を取ったんスか」その言葉に、灼也は自嘲気味に笑った。「他の人間ならともかく、お前には理由が分かっているだろ?」「……まあ、オレは知ってますけど」七緒は深いため息をついた。「でも、知るべき本人が知らないんじゃ意味がないッスよ。それに……水琴さんが本気で怒っているのは、『他の女
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第428話

――もう、時間がないのに。祖父から与えられた猶予は、たったの一ヶ月。音羽家の壮大な計画を成就させるためには、何としても高遠家との政略結婚を成立させ、灼也を手に入れなければならない。それなのに、灼也の隣には水琴という目障りな女が居座っている。海外から帰国する前は、あんな女、単なる暇つぶしの遊び相手だと高を括っていた。自分が不在の間に、少しだけ彼の傍に置いてやって頂けの、取るに足らない存在だと。だが、事態はここまできてしまった。今の灼也にとって、水琴は本当にただの暇つぶしなのだろうか?それとも、本気で――底知れぬ不安と焦燥が、琉里の心をドロドロと蝕んでいく。祖父の期待に応えるためには、是が非でもあの女を排除しなければならない。水琴さえこの世から消え去れば、灼也は必ず自分の元へ戻ってくるはずだ。そう信じるしかなかった。荒い息を吐きながら琉里が自分を落ち着かせようとしていたその時、書斎の重厚な扉が開いた。「思い通りにいかないからと喚き散らすなど、みっともない。私がどう教育したか、忘れたのか?」足元に散らばる陶器の破片を一瞥し、源蔵が低く威圧的な声を響かせる。その顔には、隠しきれない失望と冷酷さが張り付いていた。「……失敗したようだな」琉里は唇を噛み締め、悔しさで顔を歪めながら頷いた。せっかく掴んだ、千載一遇のチャンスだったというのに。「ほう。あの小娘、これほどの手を打っても逃げおおせたか」源蔵の口調には、怒りよりもむしろ、敵のしぶとさを楽しむような不気味な響きがあった。そして、怯える孫娘に向けて鷹揚に笑いかける。「そう焦るな。じっくりやればいい。まだ一ヶ月ある。その間に、灼也くんの心を確実にお前のものにしろ。お前ならできると信じているよ」琉里は、源蔵が幼い頃から音羽家の最高傑作として手塩にかけて育て上げた自慢の孫だ。美貌、教養、立ち振る舞い。どれをとっても超一流であり、どこの馬の骨とも知れない水琴ごときが敵う相手ではないと、彼は確信していた。「お祖父様……遠峰の件はどうなっていますか?」琉里が顔を上げて尋ねると、源蔵は手の中のステッキを軽く床に突き、余裕の笑みを浮かべた。「遠峰遼の取り込みはすでに終わっている。だが、我々の最終目的を考えれば、やはり高遠家と強固な繋
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第429話

柔らかな日差しが彼女の髪を透かし、淡い金の輪郭を描き出している。ただ隣にいて、同じ空気を吸っている。この静かで、満ち足りた時間。灼也は本気で、このまま時が止まってしまえばいいのにと願っていた。その時だった。不意に、少し離れた場所からくぐもった泣き声が聞こえてきた。ハッと我に返った水琴は、耳を澄ませてから不思議そうに灼也を見た。「ねえ……今、誰かの泣き声が聞こえなかった?」灼也も意識を向けてみる。確かに、誰かが苦痛に喘ぐような声が風に乗って微かに聞こえてきた。彼が静かに頷くと、水琴は弾かれたように立ち上がった。辺りを見回し、少し離れた大きな木立の陰で、一人の女性が地面にうずくまっているのを見つける。水琴は慌てて駆け寄った。「どうしたの?大丈夫ですか!?」声をかけられた女性は、脂汗を浮かべて顔を歪めながら、掠れた声で訴えた。「あ、あぁ……生まれ、そう……助けて……っ!」生まれる?水琴の顔からスッと血の気が引いた。よく見れば、女性の腹部は大きく膨らんでいる。妊婦だ。視線を落とすと、女性の足元はぐっしょりと濡れていた。破水している。このままでは危険だ。「待ってて!今、先生を呼んでくるから!」水琴は踵を返し、本棟に向かって全速力で走り出した。幸いにも水琴の呼びかけが早く、駆けつけた医師や看護師たちの迅速な対応により、妊婦は無事に分娩室へと運ばれていった。壁に寄りかかり、ホッと安堵の溜息を吐き出して乱れた呼吸を整えた水琴は、そこでハッと気がついた。――しまった、灼也を中庭に置き去りにしちゃった!自分で歩けない彼を放置してしまったことに血の気が引く思いで、水琴は慌てて病室へと駆け戻った。勢いよくドアを開けると、そこにはすでに車椅子からベッドへと自力で移動し、何事もなかったかのように静かに横たわる灼也の姿があった。日が落ち、完全に夜の帳が下りた頃。重人は水琴を促し、屋敷の奥にある普段は使われていない部屋へと向かった。部屋のドアの前には、黒服の屈強な男たちが数人、彫像のように無言で警備に立っている。異様な空気に水琴が息を呑む中、重人が顎でしゃくると、黒服の一人が恭しくドアを開けた。部屋の中央には、一人の男が椅子にぐるぐる巻きに縛り付けられていた。「重人お兄ちゃん……この
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第430話

その様子を見た水琴は、氷のような微笑を浮かべた。「描きたくないの?まあ、無理にとは言わないわ。それなら私が直接、あなたの家にお邪魔させてもらうだけだから」水琴は部屋のドアを指差した。「もちろん、外にいる彼らも一緒に連れて行くことになるけれど。それでもいい?」村上はハッと息を呑み、震える手で再びペンを握り直した。しかし、真っ白な紙を前にして、どこから手をつけていいのか分からずペン先が宙を彷徨う。「まずは、あなたのご家族を描いてみて」水琴の柔らかく、しかし有無を言わさぬ静かな声が響いた。村上は促されるまま、紙の上に三人の人物を描き出した。大人の女性と男性、そして小さな女の子の姿だ。「次は家。それから、大きな木。最後に……前へ進もうとしている『車』を描いて」水琴は一つ一つ、丁寧に指示を与えていく。村上は、水琴がなぜこんな真似をさせるのか全く理解できなかった。だが、この奇妙な圧迫感の中で、彼女に逆らうことは無意味だと本能で悟っていた。言われた通りに、家と、道と、一台の車を描き足す。水琴はその絵を受け取り、じっと見つめた。家と家族の絵に向けられる彼女の瞳には、ほんのわずかに同情のような柔らかい色が滲む。だが、視線が「車」に移った瞬間、その瞳は鋭く冷酷な光を放った。「……あなたには、年の離水琴は絵をテーブルに戻し、描かれた車をトントンと指先で叩いた。れた妹さんがいるのね?」「教えて。この車に乗っているのは、誰?」村上はビクッと肩を揺らし、顔を背けた。「……知らねえよ。あんたが描けって言ったんだろ」「いいえ。あなたは知っているわ」水琴はポケットから銀色の懐中時計を取り出し、村上の目の前で静かに揺らし始めた。振り子のように一定のリズムで揺れる光。催眠療法としては古典的だが、極限状態にある人間の精神の壁を突破するには、最も効果的な手段だった。「さあ、見つめて……」水琴の波のように心地よく、それでいて逃げ場のない声が響く。揺れる銀色の光を追ううちに、村上の瞼は徐々に重くなり、やがて糸が切れたように完全に目を閉じた。三十分後。部屋から出てきた水琴の瞳には、冷たい確信が宿っていた。隣の監視ルームから出てきた重人もまた、厳しい表情を浮かべている。マイク越しに全てを聞いていた
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