LOGINその様子を見た水琴は、氷のような微笑を浮かべた。「描きたくないの?まあ、無理にとは言わないわ。それなら私が直接、あなたの家にお邪魔させてもらうだけだから」水琴は部屋のドアを指差した。「もちろん、外にいる彼らも一緒に連れて行くことになるけれど。それでもいい?」村上はハッと息を呑み、震える手で再びペンを握り直した。しかし、真っ白な紙を前にして、どこから手をつけていいのか分からずペン先が宙を彷徨う。「まずは、あなたのご家族を描いてみて」水琴の柔らかく、しかし有無を言わさぬ静かな声が響いた。村上は促されるまま、紙の上に三人の人物を描き出した。大人の女性と男性、そして小さな女の子の姿だ。「次は家。それから、大きな木。最後に……前へ進もうとしている『車』を描いて」水琴は一つ一つ、丁寧に指示を与えていく。村上は、水琴がなぜこんな真似をさせるのか全く理解できなかった。だが、この奇妙な圧迫感の中で、彼女に逆らうことは無意味だと本能で悟っていた。言われた通りに、家と、道と、一台の車を描き足す。水琴はその絵を受け取り、じっと見つめた。家と家族の絵に向けられる彼女の瞳には、ほんのわずかに同情のような柔らかい色が滲む。だが、視線が「車」に移った瞬間、その瞳は鋭く冷酷な光を放った。「……あなたには、年の離水琴は絵をテーブルに戻し、描かれた車をトントンと指先で叩いた。れた妹さんがいるのね?」「教えて。この車に乗っているのは、誰?」村上はビクッと肩を揺らし、顔を背けた。「……知らねえよ。あんたが描けって言ったんだろ」「いいえ。あなたは知っているわ」水琴はポケットから銀色の懐中時計を取り出し、村上の目の前で静かに揺らし始めた。振り子のように一定のリズムで揺れる光。催眠療法としては古典的だが、極限状態にある人間の精神の壁を突破するには、最も効果的な手段だった。「さあ、見つめて……」水琴の波のように心地よく、それでいて逃げ場のない声が響く。揺れる銀色の光を追ううちに、村上の瞼は徐々に重くなり、やがて糸が切れたように完全に目を閉じた。三十分後。部屋から出てきた水琴の瞳には、冷たい確信が宿っていた。隣の監視ルームから出てきた重人もまた、厳しい表情を浮かべている。マイク越しに全てを聞いていた
柔らかな日差しが彼女の髪を透かし、淡い金の輪郭を描き出している。ただ隣にいて、同じ空気を吸っている。この静かで、満ち足りた時間。灼也は本気で、このまま時が止まってしまえばいいのにと願っていた。その時だった。不意に、少し離れた場所からくぐもった泣き声が聞こえてきた。ハッと我に返った水琴は、耳を澄ませてから不思議そうに灼也を見た。「ねえ……今、誰かの泣き声が聞こえなかった?」灼也も意識を向けてみる。確かに、誰かが苦痛に喘ぐような声が風に乗って微かに聞こえてきた。彼が静かに頷くと、水琴は弾かれたように立ち上がった。辺りを見回し、少し離れた大きな木立の陰で、一人の女性が地面にうずくまっているのを見つける。水琴は慌てて駆け寄った。「どうしたの?大丈夫ですか!?」声をかけられた女性は、脂汗を浮かべて顔を歪めながら、掠れた声で訴えた。「あ、あぁ……生まれ、そう……助けて……っ!」生まれる?水琴の顔からスッと血の気が引いた。よく見れば、女性の腹部は大きく膨らんでいる。妊婦だ。視線を落とすと、女性の足元はぐっしょりと濡れていた。破水している。このままでは危険だ。「待ってて!今、先生を呼んでくるから!」水琴は踵を返し、本棟に向かって全速力で走り出した。幸いにも水琴の呼びかけが早く、駆けつけた医師や看護師たちの迅速な対応により、妊婦は無事に分娩室へと運ばれていった。壁に寄りかかり、ホッと安堵の溜息を吐き出して乱れた呼吸を整えた水琴は、そこでハッと気がついた。――しまった、灼也を中庭に置き去りにしちゃった!自分で歩けない彼を放置してしまったことに血の気が引く思いで、水琴は慌てて病室へと駆け戻った。勢いよくドアを開けると、そこにはすでに車椅子からベッドへと自力で移動し、何事もなかったかのように静かに横たわる灼也の姿があった。日が落ち、完全に夜の帳が下りた頃。重人は水琴を促し、屋敷の奥にある普段は使われていない部屋へと向かった。部屋のドアの前には、黒服の屈強な男たちが数人、彫像のように無言で警備に立っている。異様な空気に水琴が息を呑む中、重人が顎でしゃくると、黒服の一人が恭しくドアを開けた。部屋の中央には、一人の男が椅子にぐるぐる巻きに縛り付けられていた。「重人お兄ちゃん……この
――もう、時間がないのに。祖父から与えられた猶予は、たったの一ヶ月。音羽家の壮大な計画を成就させるためには、何としても高遠家との政略結婚を成立させ、灼也を手に入れなければならない。それなのに、灼也の隣には水琴という目障りな女が居座っている。海外から帰国する前は、あんな女、単なる暇つぶしの遊び相手だと高を括っていた。自分が不在の間に、少しだけ彼の傍に置いてやって頂けの、取るに足らない存在だと。だが、事態はここまできてしまった。今の灼也にとって、水琴は本当にただの暇つぶしなのだろうか?それとも、本気で――底知れぬ不安と焦燥が、琉里の心をドロドロと蝕んでいく。祖父の期待に応えるためには、是が非でもあの女を排除しなければならない。水琴さえこの世から消え去れば、灼也は必ず自分の元へ戻ってくるはずだ。そう信じるしかなかった。荒い息を吐きながら琉里が自分を落ち着かせようとしていたその時、書斎の重厚な扉が開いた。「思い通りにいかないからと喚き散らすなど、みっともない。私がどう教育したか、忘れたのか?」足元に散らばる陶器の破片を一瞥し、源蔵が低く威圧的な声を響かせる。その顔には、隠しきれない失望と冷酷さが張り付いていた。「……失敗したようだな」琉里は唇を噛み締め、悔しさで顔を歪めながら頷いた。せっかく掴んだ、千載一遇のチャンスだったというのに。「ほう。あの小娘、これほどの手を打っても逃げおおせたか」源蔵の口調には、怒りよりもむしろ、敵のしぶとさを楽しむような不気味な響きがあった。そして、怯える孫娘に向けて鷹揚に笑いかける。「そう焦るな。じっくりやればいい。まだ一ヶ月ある。その間に、灼也くんの心を確実にお前のものにしろ。お前ならできると信じているよ」琉里は、源蔵が幼い頃から音羽家の最高傑作として手塩にかけて育て上げた自慢の孫だ。美貌、教養、立ち振る舞い。どれをとっても超一流であり、どこの馬の骨とも知れない水琴ごときが敵う相手ではないと、彼は確信していた。「お祖父様……遠峰の件はどうなっていますか?」琉里が顔を上げて尋ねると、源蔵は手の中のステッキを軽く床に突き、余裕の笑みを浮かべた。「遠峰遼の取り込みはすでに終わっている。だが、我々の最終目的を考えれば、やはり高遠家と強固な繋
「……こほっ」微かな咳払いをすると、七緒が弾かれたように顔を上げた。「あ、灼也様!目が覚めたッスね!?」「……水琴は?」灼也が真っ先に口にしたのは、自分の脚の心配ではなく彼女のことだった。七緒はスマホをしまい、少しだけ安堵の息を吐いた。「大丈夫ッス。水琴さんは軽い擦り傷と打撲だけで済んだみたいで、入院の必要はないって言われたッスよ」その言葉に、灼也は心底ホッとして深く息を吸い込んだ。「……お祖父様には連絡したか?」気絶する直前、スマホに祖父からの不在着信が残っていたのを思い出す。七緒は深く頷いた。「もちろん関係者全員に連絡済みッス。景正様には『ちょっとした怪我で数日入院するだけですから心配いりません』って誤魔化しておいたッスよ」「そうか……」灼也は天井を見上げ、複雑な表情を浮かべた。「水琴は……もう帰ったのか?いつ帰った?」七緒は少し気まずそうに頬を掻いた。「水琴さん、ずっと灼也様が目を覚ますまで付き添ってたんスよ。……でも、一時間くらい前に帰っちゃいました」そうか、一時間前までここに……灼也の胸がギュッと締め付けられる。事故の衝撃でボロボロの体だったはずなのに、自分の脚を抉じ開け、あの険しい山道をずっと支えて歩いてくれたのだ。自分なんかより、彼女のほうがずっと無理をしていたはずだ。それでも、彼女が自分のそばに最後まで残っていてくれたという事実に、灼也の目元は自然と柔らかく和んでいた。……みーちゃん。やっぱり君は、俺のことを気にかけてくれているんだな。その確信に近い思いが、痛む体とは裏腹に、彼の胸を温かい喜びで満たしていた。病室の空気が少しだけ緩んだところで、七緒はやれやれと首を振りながら口を開いた。「オレ、本当に不思議でしょうがないッスよ。お二人は結局どうなりたいんスか?灼也様がそれほど水琴さんを想っているなら、どうして少し前に琉里さんが戻ってきた時……あんな冷たい態度を取ったんスか」その言葉に、灼也は自嘲気味に笑った。「他の人間ならともかく、お前には理由が分かっているだろ?」「……まあ、オレは知ってますけど」七緒は深いため息をついた。「でも、知るべき本人が知らないんじゃ意味がないッスよ。それに……水琴さんが本気で怒っているのは、『他の女
「行けよ、みーちゃん」灼也は力なく、自嘲するような笑みを浮かべた。「俺のことなんか構わなくていい。ただ……無事に街に戻れたら、琉里には近づくな。今回の件も、おそらくあの女が糸を引いているはずだ。あいつは……君が想像している以上に、恐ろしい人間なんだ」それが、自分にできる最後の忠告だった。そう言い聞かせても、水琴はやはり無言のまま立ち尽くしている。ああ……見捨てられたんだな。その事実が、鋭い刃となって灼也の胸を深く、残酷にえぐった。夜空に浮かぶ青白い月は、西の山際へとゆっくりと傾きかけている。だが、暗闇の中でふいに水琴が顔を上げた。彼女の大きな瞳には、いつの間にかいっぱいの涙が溜まっており、それが今、堰を切ったようにポロポロと頬を伝い落ちていた。「……灼也。二度と、そんなこと言わないで」「……え?」水琴は涙ぐみながらも、ふふっ、と小さく吹き出した。「俺のことなんか構うな、なんて……そんなの、放っておけるわけないじゃない!」彼女は踵を返すと、自分の車のトランクから車載工具の頑丈なバールを引っ張り出してきた。そしてそれをひしゃげたドアの隙間にねじ込むと、渾身の力を込めて抉じ開けた。ガキンッ!!金属が弾け飛ぶ音がして、ついに固く閉ざされていたドアが開いた。同時に、ダッシュボードの下に挟み込まれていた灼也の右脚が露わになる。ズボンの生地は破れ、痛々しい血の跡が幾筋も滲んでいた。「灼也……!」水琴は思わず息を呑んだ。灼也は苦しげに笑う。「嘘は言ってないだろ?この脚じゃ、誰かに助けを呼んできてもらわないとどうにもならない。……今回は、君だけが頼りなんだ」水琴は夜風に吹かれながら、顔を上げた。もし彼をここに残して助けを呼びに行けば、その間に野生動物に襲われるかもしれない。動けない彼には逃げる術がないのだ。かといって、このまま誰も来なければ、いずれにせよ彼は助からない。なら、やるしかない。「ちょっと、そっちに寄ってて!」水琴は辺りから手頃な大きさの重い石を拾い上げてくると、冷ややかな、けれど決意に満ちた声で言った。「……少し、我慢してて!」彼女は石を振り上げ、灼也の脚を挟み込んでいるプラスチックと金属のパネルに向かって何度も何度も叩きつけた。ガンッ! ガンッ!
車体は無残にひしゃげ、窓ガラスは粉々に砕け散り、運転席側のドアはベコッと深く陥没している。その車内で、灼也は展開したエアバッグに押し潰されるようにして、ハンドルに突っ伏していた。彼の額には、びっしりと冷や汗が浮かんでいる。「灼也……っ!」喉が渇き切って、掠れた声しか出ない。「灼也!お願い、目を覚まして!」水琴が割れた窓の隙間から何度も必死に呼びかけると、やがて彼は微かに身じろぎし、重い瞼をゆっくりと開けた。「……みー、ちゃん……」エアバッグに圧迫された狭い車内で、彼はもがくように身を捩った。その瞬間、彼の顔が苦痛に歪む。「灼也!大丈夫!?」「ああ……俺は平気だ。君は、怪我してないか……?」掠れた、ひどく苦しそうな声だった。それでも自分のことより先に水琴を気遣う彼を見て、水琴の瞳からボロボロと涙が溢れ出した。彼が今まで自分に何を隠していたとか、そんな疑念はもうどうでもよかった。「私は無事よ!そんなことより、早く外に出て!」「……救急には、連絡したか?」その言葉に、水琴は慌ててポケットからスマホを取り出した。しかし、画面のアンテナマークは完全に圏外を示している。「駄目、電波がない……」昨夜、連絡橋を走っている時からすでに電波は不安定だった。おそらく、私を追跡していたあの二台の車のどちらかに、強力なジャミング装置が積まれていたのだろう。水琴は震える手でスマホを握りしめ、再び車内の灼也を見つめた。彼の上半身はエアバッグに押し込められ、下半身は完全にダッシュボードの下に隠れて見えない状態だった。「お願いだから、早く出てきて……っ」水琴の声は恐怖で震えていた。「泣かないで……大丈夫、すぐに出るから」灼也は無理して笑顔を作り、水琴を安心させようとした。彼は手でエアバッグを必死に押し退け、少しでも空間を作って体を引き抜こうともがいた。――しかし、抜け出せない。「大丈夫だよ、みーちゃん。すぐ、出るからね」彼は水琴に向かって優しい声で慰めながら、心の中では自嘲気味に苦笑していた。自分の体のことだ、誰よりも自分が一番よく分かっている。彼の右脚は、衝突でひしゃげた車体とペダルの間に、万力で締め上げられたようにガッチリと挟まり、完全に身動きが取れなくなっていたのだ。
「サインを」頭上から、冷たく低い声が響いた。目の前に突きつけられたのは、一枚の離婚届。静沢水琴(しずさわ みこと)はわずかに目を見張り、黙って鷹司臣(たかつかさ じん)を見上げると、乾いた笑みを浮かべた。ああ、そういうことだったのね。どうりで今朝、珍しく電話をかけてきたわけだ。今夜は帰る、話がある、と。一日中、胸を躍らせていたというのに、彼が伝えたかったこととは、これだったなんて……三年に及んだ結婚生活も、これで終わり。水琴は無言で離婚届を受け取ると、その紙を握る手にぐっと力が入る。しばし黙り込んだ後、掠れた声で尋ねた。「……どうしても、離婚しなきゃだめ?」臣はわず
水琴の睫毛が、微かに震えた。もし臣と出逢わなければ、自分は今頃、心理士として歩んでいたはずだ。だが、数年の空白がある。専門知識に錆びつきはない自信があるものの、本当にあの頃のように、自分が最も得意とした場所へ戻れるのだろうか。蓮見は、彼女の心の揺らぎを見透かしたように、穏やかな声で語りかける。「焦る必要はないさ。だが、もし君にその気があるのなら、この老いぼれも喜んで力を貸そう」「先生……ありがとうございます」胸の奥が、じんわりと温かくなる。結婚してからの三年間、一度も顔を見せられなかったというのに、恩師はずっと自分を気にかけてくれていたのだ。水琴は蓮見の体調を気遣い、し
宗一郎は湯呑みをトン、と乱暴に置く。その視線は遠くを見つめ、声には悲しみが滲んでいた。「あの子が嫁いでから、お前の母親はあれほど彼女に冷たく当たっておきながら、自分の体調が悪い時は、医者の手配から何から、毎回あの子を顎で使っていたではないか。雅が我儘を言ってはその尻拭いをさせられ、財布代わりにされて。……お前が夜更けに帰るたび、夕食を温め直して待っていたのは誰だ。あの女のせいで胃を壊したお前のため、慣れぬ手つきでスープを作り、手に大きな火傷までこしらえて……!」宗一郎は、深く息をついた。「あの子の父親が亡くなり、小林家に身を寄せていた時でさえ、あの子は誰かにあそこまで尽くしたことなどなかっ
臣が呆然としていると、温かい手がそっと彼の手を握った。隣に座る紗夜が、心配そうに顔を覗き込んでいる。「臣さん、どうしたの?胃の調子でも悪いのかしら。スープでもいただく?」臣は力なく首を横に振った。水琴は宗一郎に笑顔で応えると、臣と紗夜のやり取りなどまるで存在しないかのように、静かに椅子を引いて腰を下ろした。その傍らで宗一郎が、見せつけるような二人の親密さに、侮蔑を込めてフンと鼻を鳴らした。鷹司家の食卓は、食事中の私語を許さない厳格な家風がある。水琴に食欲などあるはずもなく、ただ宗一郎の手前、仕方なく箸をつけただけだった。やがて食事が終わると、宗一郎が水琴を引き留めた。「臣と







