Se connecter「行けよ、みーちゃん」灼也は力なく、自嘲するような笑みを浮かべた。「俺のことなんか構わなくていい。ただ……無事に街に戻れたら、琉里には近づくな。今回の件も、おそらくあの女が糸を引いているはずだ。あいつは……君が想像している以上に、恐ろしい人間なんだ」それが、自分にできる最後の忠告だった。そう言い聞かせても、水琴はやはり無言のまま立ち尽くしている。ああ……見捨てられたんだな。その事実が、鋭い刃となって灼也の胸を深く、残酷にえぐった。夜空に浮かぶ青白い月は、西の山際へとゆっくりと傾きかけている。だが、暗闇の中でふいに水琴が顔を上げた。彼女の大きな瞳には、いつの間にかいっぱいの涙が溜まっており、それが今、堰を切ったようにポロポロと頬を伝い落ちていた。「……灼也。二度と、そんなこと言わないで」「……え?」水琴は涙ぐみながらも、ふふっ、と小さく吹き出した。「俺のことなんか構うな、なんて……そんなの、放っておけるわけないじゃない!」彼女は踵を返すと、自分の車のトランクから車載工具の頑丈なバールを引っ張り出してきた。そしてそれをひしゃげたドアの隙間にねじ込むと、渾身の力を込めて抉じ開けた。ガキンッ!!金属が弾け飛ぶ音がして、ついに固く閉ざされていたドアが開いた。同時に、ダッシュボードの下に挟み込まれていた灼也の右脚が露わになる。ズボンの生地は破れ、痛々しい血の跡が幾筋も滲んでいた。「灼也……!」水琴は思わず息を呑んだ。灼也は苦しげに笑う。「嘘は言ってないだろ?この脚じゃ、誰かに助けを呼んできてもらわないとどうにもならない。……今回は、君だけが頼りなんだ」水琴は夜風に吹かれながら、顔を上げた。もし彼をここに残して助けを呼びに行けば、その間に野生動物に襲われるかもしれない。動けない彼には逃げる術がないのだ。かといって、このまま誰も来なければ、いずれにせよ彼は助からない。なら、やるしかない。「ちょっと、そっちに寄ってて!」水琴は辺りから手頃な大きさの重い石を拾い上げてくると、冷ややかな、けれど決意に満ちた声で言った。「……少し、我慢してて!」彼女は石を振り上げ、灼也の脚を挟み込んでいるプラスチックと金属のパネルに向かって何度も何度も叩きつけた。ガンッ! ガンッ!
車体は無残にひしゃげ、窓ガラスは粉々に砕け散り、運転席側のドアはベコッと深く陥没している。その車内で、灼也は展開したエアバッグに押し潰されるようにして、ハンドルに突っ伏していた。彼の額には、びっしりと冷や汗が浮かんでいる。「灼也……っ!」喉が渇き切って、掠れた声しか出ない。「灼也!お願い、目を覚まして!」水琴が割れた窓の隙間から何度も必死に呼びかけると、やがて彼は微かに身じろぎし、重い瞼をゆっくりと開けた。「……みー、ちゃん……」エアバッグに圧迫された狭い車内で、彼はもがくように身を捩った。その瞬間、彼の顔が苦痛に歪む。「灼也!大丈夫!?」「ああ……俺は平気だ。君は、怪我してないか……?」掠れた、ひどく苦しそうな声だった。それでも自分のことより先に水琴を気遣う彼を見て、水琴の瞳からボロボロと涙が溢れ出した。彼が今まで自分に何を隠していたとか、そんな疑念はもうどうでもよかった。「私は無事よ!そんなことより、早く外に出て!」「……救急には、連絡したか?」その言葉に、水琴は慌ててポケットからスマホを取り出した。しかし、画面のアンテナマークは完全に圏外を示している。「駄目、電波がない……」昨夜、連絡橋を走っている時からすでに電波は不安定だった。おそらく、私を追跡していたあの二台の車のどちらかに、強力なジャミング装置が積まれていたのだろう。水琴は震える手でスマホを握りしめ、再び車内の灼也を見つめた。彼の上半身はエアバッグに押し込められ、下半身は完全にダッシュボードの下に隠れて見えない状態だった。「お願いだから、早く出てきて……っ」水琴の声は恐怖で震えていた。「泣かないで……大丈夫、すぐに出るから」灼也は無理して笑顔を作り、水琴を安心させようとした。彼は手でエアバッグを必死に押し退け、少しでも空間を作って体を引き抜こうともがいた。――しかし、抜け出せない。「大丈夫だよ、みーちゃん。すぐ、出るからね」彼は水琴に向かって優しい声で慰めながら、心の中では自嘲気味に苦笑していた。自分の体のことだ、誰よりも自分が一番よく分かっている。彼の右脚は、衝突でひしゃげた車体とペダルの間に、万力で締め上げられたようにガッチリと挟まり、完全に身動きが取れなくなっていたのだ。
キキィィィィッ!!タイヤが悲鳴を上げ、焦げたゴムの臭いが車内に充満する。ダッシュボードでは、先ほどからずっとスマホの着信音が鳴り響いていた。きっと灼也だ。先ほど電波が切れる直前、私が「追われている」と叫んだのを聞いて、彼も半狂乱で電話をかけ続けているに違いない。電話に出たい。今すぐ助けを求めたい。だが、ほんの一瞬でも片手をハンドルから離し、視線を逸らせば、それだけで命取りになる。背後の二台は、もはや自分たちの命すら惜しくないのか、道連れにするような勢いで水琴の車のケツにガンガンと体当たりを繰り返してくる。巻き上がる土埃の中、ギリギリのデッドヒートが続く。しかし、極限状態の緊張と、先ほど胸を強打したダメージが、徐々に水琴の体力を奪い始めていた。急なヘアピンカーブに差し掛かった時、ふっと水琴の意識が白く霞んだ。駄目……!寝ちゃ、駄目……ッ!必死に歯を食いしばり、薄れゆく意識を繋ぎ止める。この狭く険しい峠道で、ほんの数センチでもハンドル操作を誤れば――待っているのは、谷底への墜落という確実な「死」だけだ。すっかり陽は落ち、街灯ひとつない峠道は恐ろしいほどの暗闇に包まれていた。背後から追ってくる車は、これ見よがしにハイビームを点灯し、チカチカと不規則にパッシングを繰り返してくる。強烈な光がバックミラーに反射して、水琴の目を容赦なく刺した。「くっ……!」眩しさに思わず目を細めた、その一瞬の隙だった。背後の車が、殺意をむき出しにして強烈な体当たりを喰らわしてきたのだ。「あッ……!!」ドガァッ!!という衝撃と共に、水琴はハンドルを取り落としそうになる。それどころか、先ほど打ち付けたばかりの胸を再びハンドルに激しく打ち付けられ、目の前が真っ白になった。しかし、最悪なのはそれだけではない。前方に広がるヘッドライトの光が照らし出したのは――道が途切れているかのような、急勾配のヘアピンカーブだった。曲がりきれない……!!すでに意識は霞み、手足の感覚は麻痺している。強烈なスピードに乗った車体は遠心力に耐えきれず、完全にコントロールを失っていた。このままではガードレールを突き破り、谷底へ真っ逆さまだ。「あああああっ!!」水琴は最後の力を振り絞り、ハンドルを限界まで右に切り込んだ。車体はスピ
雅は息を呑み、力なく深い溜息をついた。佳乃の決意がどれほど固いか、痛いほど伝わってくる。彼女にとって、紗夜の腹の中にいる鷹司家の血脈こそがすべてなのだ。もし紗夜が実刑判決を受ければ、その子供は生まれながらにして「前科者の子」という拭えない十字架を背負うことになる。それだけは、何としてでも阻止したいのだろう。その時だった。佳乃が突然、床に膝をつき、雅の前に頭を下げたのだ。「……ッ!」雅の心臓がドクンと嫌な音を立てた。鷹司家の女主人として、誰よりもプライドが高く傲慢だった母親が。たかがまだ生まれぬ子供のために、実の娘に向かって土下座までして見せたのだ。その異様な光景に、雅の中で張り詰めていた糸がプツリと切れた。「……お母様。わかったわ、私が行くから!」雅はギリッと歯を食いしばり、血を吐くような思いでそう叫んだ。自分は利己的で、鷹司家の人間らしく損得だけで動ける冷酷な人間だと思っていた。けれど、あんなにも誇り高かった母親が自分に土下座をする姿を見せつけられては、どうしたって逆らうことなどできなかった。あのランタン祭りの夜からというもの、水琴の胸の奥には、ずっと正体のわからない酸っぱいような感情が蟠っていた。今まで、こんな気持ちになったことはない。灼也との関係をどう扱えばいいのか、彼女自身にも分からなくなっていた。以前のように彼を冷たく突き放すこともできず、かといって素直に熱を帯びた感情を向けることもできない。冷淡さと情熱の間を振り子のように行ったり来たりする、そんな不安定な感情に振り回されていた。その日。水琴は一人でハンドルを握り、南鳥市と松霧島を繋ぐ巨大な海上連絡橋を走っていた。松霧島は長らく開発がストップし、荒れ果てたままになっていたため、この連絡橋を利用する車もほとんどない。全長を渡り切るのに十分ほどかかる長い橋だ。島を出発して数分。水琴は、背筋を這い上がるような薄気味悪い違和感に気づいた。……あの車、島に入った時からずっと……ルームミラーをちらりと確認する。背後には、一台の黒いセダンが不気味なほど一定の距離を保ってついてきていた。試しにアクセルを緩めてスピードを落としてみる。しかし、後続のセダンは追い越そうとする気配を全く見せない。広大な海上橋の上に
怒りで我を忘れた佳乃は、水琴の鼻先に指を突きつけて喚き散らした。「この性悪女!わざとやってるんでしょう!紗夜さんだって被害者なのよ!黒幕は音羽琉里だってわかってるはずじゃない!どうしてあの女を責めないのよ!?まさか、相手が音羽家だからってビビってるんじゃないでしょうね!?」水琴は嘲笑を隠しもしなかった。「……ご存知ないんですか?警察に『紗夜さんが主犯だ』という決定的な証拠を突きつけたのは、他でもない音羽琉里ですよ?言うなれば、彼女こそが真の元凶です。佳乃さんは、私に文句を言いに来る暇があるのに、どうして琉里さんには文句の一つも言いに行かないんですか?……まさか、それこそ相手が音羽家だからビビってるんじゃないですか?」「あ、あんたっ……!」佳乃は図星を突かれ、顔を真っ白にしてワナワナと震えている。水琴はもう、彼女に反論する隙すら与えなかった。氷のように冷たい視線で見下す。「出て行ってください。ここはあなたのような方が来る場所ではありません」怒りと屈辱で顔を歪ませながら、佳乃はドアノブを乱暴に掴んだ。「……今に見てなさいよ!」負け惜しみの捨て台詞を吐き捨てて、佳乃は嵐のように去っていった。精神科の閉鎖病棟。朝食を終えた雅は、窓辺の椅子に力なく腰掛けていた。ここに隔離されて数日。最悪な環境ではあるものの、雅はすでにこの冷たい日常に慣れ始めていた。それもこれも、母親である佳乃が立て続けに面会にやって来ては「身代わりになれ」と繰り返したせいだ。あの瞬間、雅の中で家族に対する期待や情は完全に死に絶えたのだ。今では、誰かが面会に来ることすら恐怖に感じていた。かつて自分を愛してくれたはずの人間の口から、あんなにも氷のように冷たい言葉を聞かされるのは、もう耐えられなかった。しかし、一時間後。その恐怖は最悪の形で現実となった。「……雅、私よ」看護師に案内されて病室に入ってきたのは、少し声の震えた佳乃だった。「ッ……!」雅は怯えたように、椅子から数歩後ずさった。母親の顔をまともに見ることもできず、壁に背を向けて冷たく言い放つ。「……また、私に罪を被れって言いに来たの?無駄よ。絶対に断る。もう帰って」佳乃は一瞬だけ瞳を揺らしたが、すぐに冷徹な女主人の顔を取り戻し、ズカズカと雅に歩み寄った
水琴は無言で解答用紙を受け取ると、赤ペンを手に取り、真剣な眼差しで採点を始めた。そしてすぐに、彼女はもう一枚のプリントを取り出し、灼也の目の前へと滑らせた。「今度は、私がする質問に答えながら、この問題を解いていって。一つの質問に答えるごとに、一問解くのよ」そう言うと同時に、彼女はカチッと音を立ててストップウォッチをテーブルに置いた。意図が読めないというように、灼也は微かに眉を寄せたが、最終的には従順に頷いてペンを握った。彼が真剣な顔でプリントに向き合うのを見下ろす。用意したのは、一見すると何の変哲もない高度な数学の計算問題だ。彼ほどの頭脳なら難なく解けるレベルだが、それでも集中して取り組まなければケアレスミスをしてしまう絶妙な難易度に設定してある。ペン先が紙に触れた瞬間、水琴は静かな声で一つ目の質問を投げかけた。「三年前――あなたには、付き合っている彼女がいた?」ピタッ、と。灼也のペン先が止まった。まさか初手からそんな直球が飛んでくるとは思っていなかったのだろう。僅かな沈黙。彼は何かを思案するように息を呑むと、やがて低く答えた。「ああ。……いたよ」彼が一問目を解き終えたのを確認し、水琴はストップウォッチのラップボタンを押し、時間を記録した。灼也が二問目に取り掛かると同時に、水琴はすかさず次の矢を放つ。「教えて。その彼女っていうのは……音羽琉里さんのこと?」「違う!」今度は、考える間も与えずに即答だった。語気には強い否定の色が滲んでいる。ラップボタンを押す。そして、水琴は彼が三問目に取り掛かる寸前に、最も核心を突く言葉を落とした。「なら――あなたは三年前から、私のことを知っていたのね?」その瞬間。灼也は紙に走り書きのように数字を書き殴ると、カチャリと音を立ててペンを置いた。「……もう、やめる」たった三つの質問。たったそれだけで、彼はこれ以上続けることを拒絶した。水琴は三回目のラップタイムを記録すると、彼が解いた問題の答えなど見向きもせずに、静かに口を開いた。「いいえ、もう十分よ。私が知りたかったことは、これで全部わかったから」水琴は微かに口角を上げたが、その瞳には笑みとは程遠い、重く鋭い光が宿っていた。「……何がわかったって言うんだ」「三年前、私
臣が呆然としていると、温かい手がそっと彼の手を握った。隣に座る紗夜が、心配そうに顔を覗き込んでいる。「臣さん、どうしたの?胃の調子でも悪いのかしら。スープでもいただく?」臣は力なく首を横に振った。水琴は宗一郎に笑顔で応えると、臣と紗夜のやり取りなどまるで存在しないかのように、静かに椅子を引いて腰を下ろした。その傍らで宗一郎が、見せつけるような二人の親密さに、侮蔑を込めてフンと鼻を鳴らした。鷹司家の食卓は、食事中の私語を許さない厳格な家風がある。水琴に食欲などあるはずもなく、ただ宗一郎の手前、仕方なく箸をつけただけだった。やがて食事が終わると、宗一郎が水琴を引き留めた。「臣と
水琴は足を止め、その差し出された手を見つめた。表情は凪いだまま、応じようとはしない。差し出された紗夜の手が、宙で居場所をなくし、彼女の顔から完璧な笑みがわずかに強張る。隣で、臣が割って入るように口を開いた。その声は低く、感情が読めない。「祖父が、俺たちのことを知った。今夜、話があるから屋敷に来いと。お前の携帯が繋がらなかったから、直接迎えに来た」「わかったわ」水琴は自分のスマートフォンに目を落とす。確かに、バッテリーが切れていた。「充電したら、すぐに向かいます」彼女はそう頷くと、付け加えた。「先に行っていて」その言葉は、あなたたちと行動を共にするつもりはない、という明確な拒絶だ
そして、呆然と立ち尽くす雅を視界の端に留めながら、スーツケースのハンドルを握りしめると、一度も振り返ることなく、その家を後にした。鷹司家の重々しい門を抜けると、一台の真っ赤なオープンカーが目に飛び込んできた。運転席から、親友の鹿耶が身を乗り出し、サングラスを額に押し上げながら、芝居がかった投げキスをよこす。「お姫様、ご乗車を。鹿耶様が、最高の祝賀会に連れてってあげる」祝賀会とは言ったものの、離婚したばかりの水琴の心情を慮ってか、鹿耶が連れて行ってくれたのは、落ち着いたジャズが流れる隠れ家のようなミュージックバーだった。離婚の経緯を話すと、鹿耶は呆れ返ったようにグラスを置いた。「また
書斎の外から漏れ聞こえてくる会話に、水琴は静かに目を伏せた。鷹司家に嫁いでからの日々が、脳裏をよぎる。姑である佳乃にも、義妹である雅にも、自分なりに心を尽くしてきたつもりだった。雅が事故に遭い手術を受けた時、何日も病院に泊まり込み、甲斐甲斐しく付き添ったのも自分だ。佳乃に対しては、常に敬意を払い、その言葉には注意深く耳を傾けてきた。けれど、どれだけ尽くしても、あの人たちの心を変えることはできなかったのだ。すべては、無意味だった。ふと、スマートフォンの着信が静寂を破る。小林鹿耶(こばやし かや)からだった。電話口から聞こえてくるのは、少し気だるげな親友の声。「ミコト、本当