Share

14.その笑い声が、気に障る

Author: 中岡 始
last update Last Updated: 2025-10-28 16:14:26

正午を少し回った頃、営業二課のフロアには昼休み特有のゆるやかな空気が流れていた。

いつものように弁当を囲むグループ、食事を終えてスマホを見つめる者、コンビニの袋を提げて戻ってくる者、それぞれが束の間の自由に身を預けている。蛍光灯の白い光の下に、どこか気の抜けた会話と笑い声が響いていた。

晴臣は自席でサラダをつつきながら、斜め向かいに目をやった。

岡田が、川嶋紗英と話していた。

川嶋は入社三年目の営業アシスタントで、明るく、誰にでも分け隔てなく接するタイプだ。けれどその人懐っこさが、たまに必要以上に近く感じられるときがある。特に、相手が岡田である場合には。

「ほんまに?課長、それどう見ても自分が悪いですよ〜」

川嶋の声はよく通る。笑い混じりに軽く詰め寄るような口調に、岡田が苦笑する。

「いやいや、紗英ちゃん、それはちょっと手厳しいわあ」

その呼び方に、晴臣の指がピタリと止まった。

咀嚼の途中、舌に残ったトマトの酸味が妙に鮮烈に感じられる。箸を持つ手が、ほんの僅かに硬直した。

「紗英ちゃん」――岡田の口から出たそれは、あまりにも自然で、悪気のない甘さを含んでいた。だが、耳に入った瞬間に、喉奥に何かが刺さるような感覚を覚えたのはなぜだろう。

「やだ、課長、ちゃっかり名前で呼ぶとかずるい〜」

「いややなあ。人見知り克服のための努力やがな」

「どこが人見知りですか。あれでモテるんですよね〜、うちの課長」

それは別の席から投げられた軽口だった。ちょうど今食事を終えたばかりの若手社員が笑いながら言った。

「この前、総務の小泉さんも言ってたよ。『岡田課長って絶対ギャップあるよね』って」

「ギャップとかあったっけ?」

「あるある。見た目ちょっと頼りなさそうなのに、めちゃくちゃ切れるとこ、あれ反則でしょ」

笑い声が小さく弾けた。

晴臣は作り笑いを浮かべたまま、声を出さずに箸を置いた。胸の奥に、じりじりとした熱が渦巻いている。

岡田はと言えば、恥ずかしそうに後頭部をかいている。

「そない持ち上げられても、出てくるのはプリンぐらいやで」

その言葉にまた笑いが起きた。

――くだらない。

晴臣はそっと目を伏せた。口元の笑みだけを残したまま、視線は机の端に落とす。

岡田の笑い声が、妙に耳に残っていた。

普段のふわっとした調子と変わらないはずなのに、そのときだけ、誰かに向けられた声音として刺さった。川嶋の前でだけ、少し柔らかいのかもしれない。少し優しいのかもしれない。

……違う。そんなはずはない。

岡田のそういう部分は、誰にでも同じように見せている。気を許しているわけではない。ただの世渡りだ。気さくなフリが身についているだけだ。

そう思い込もうとしても、耳が覚えてしまった声の温度は消えない。

ふと、岡田がこちらに目を向けた。

目が合う。

その一瞬、晴臣は反射的に表情を整えた。

岡田はにこりと笑い、軽く手を挙げる。

「主任、さっきの共有ファイル見てくれた?あの、B社の資料」

「はい。確認しました。後ほど修正案お送りします」

「おおきに」

そのやりとりは何でもない日常の一部で、周囲には自然に聞き流されていた。だが、岡田の視線がこちらに向くことで、晴臣の中の熱はさらに深くに沈んでいった。

川嶋が岡田のほうへ身を乗り出して笑う。

それがいけなかった。

なぜかその仕草に、ぞくりとするほどの苛立ちが湧いた。

自分が整えたネクタイ。直したボタン。間近で聞いた声。触れた体温。そういうものが、誰にでも向けられているわけではないと、勝手に思っていたのかもしれない。

いや、むしろ思いたかった。

「主任、コーヒー淹れてきましょうか?」

川嶋が振り返って声をかけた。

「いえ、大丈夫です」

声が少しだけ冷たかったことに、自分でも気づいた。

川嶋が一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに笑顔に戻る。

「了解です。課長は?」

「もろとこかな。ありがと、紗英ちゃん」

またその名前が出た。

晴臣は深く息を吸い、静かに吐いた。

それは、彼自身もまだ正確に名前を持たない感情だった。

けれど、確かにそこにある。

所有欲、と呼ぶには早すぎる。

嫉妬、と呼ぶには甘すぎる。

ただ、誰かに向けられる笑顔が、自分の知らない色に染まることに、心がざわつく。

岡田佑樹という人間が、誰にでも優しい顔をすることに、ほんの少しだけ、傷ついていた。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   14.その笑い声が、気に障る

    正午を少し回った頃、営業二課のフロアには昼休み特有のゆるやかな空気が流れていた。いつものように弁当を囲むグループ、食事を終えてスマホを見つめる者、コンビニの袋を提げて戻ってくる者、それぞれが束の間の自由に身を預けている。蛍光灯の白い光の下に、どこか気の抜けた会話と笑い声が響いていた。晴臣は自席でサラダをつつきながら、斜め向かいに目をやった。岡田が、川嶋紗英と話していた。川嶋は入社三年目の営業アシスタントで、明るく、誰にでも分け隔てなく接するタイプだ。けれどその人懐っこさが、たまに必要以上に近く感じられるときがある。特に、相手が岡田である場合には。「ほんまに?課長、それどう見ても自分が悪いですよ〜」川嶋の声はよく通る。笑い混じりに軽く詰め寄るような口調に、岡田が苦笑する。「いやいや、紗英ちゃん、それはちょっと手厳しいわあ」その呼び方に、晴臣の指がピタリと止まった。咀嚼の途中、舌に残ったトマトの酸味が妙に鮮烈に感じられる。箸を持つ手が、ほんの僅かに硬直した。「紗英ちゃん」――岡田の口から出たそれは、あまりにも自然で、悪気のない甘さを含んでいた。だが、耳に入った瞬間に、喉奥に何かが刺さるような感覚を覚えたのはなぜだろう。「やだ、課長、ちゃっかり名前で呼ぶとかずるい〜」「いややなあ。人見知り克服のための努力やがな」「どこが人見知りですか。あれでモテるんですよね〜、うちの課長」それは別の席から投げられた軽口だった。ちょうど今食事を終えたばかりの若手社員が笑いながら言った。「この前、総務の小泉さんも言ってたよ。『岡田課長って絶対ギャップあるよね』って」「ギャップとかあったっけ?」「あるある。見た目ちょっと頼りなさそうなのに、めちゃくちゃ切れるとこ、あれ反則でしょ」笑い声が小さく弾けた。晴臣は作り笑いを浮かべたまま、声を出さずに箸を置いた。胸の奥に、じりじりとした熱が渦巻いている。岡田はと言えば、恥ずかしそうに後頭部をかいている。「そない持ち上

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   13.ボタンと声と、無防備な笑顔

    廊下の奥から、うっすらと紙詰まりの警告音が聞こえていた。昼下がりの本社ビル。営業二課のフロアを離れたコピー室は、どこか取り残されたような静けさを湛えていた。晴臣は手にした企画書を提出先に届ける途中、その音に足を止めた。「……」角を曲がった先、コピー機の前で困ったように立ち尽くしている人物がいた。岡田だった。ネクタイは当然のように少し斜めにずれ、シャツの裾が片方だけわずかにズレている。足元にはコンビニのビニール袋。よく見ると、襟元のボタンもどこか浮いている。手にしたマニュアルのような紙を片手でひらひらさせながら、もう一方の指でタッチパネルをあちこち突いている様子が、まるで機械に遊ばれている子どものようだった。「何してるんですか」晴臣が声をかけると、岡田は振り向いた。「あ、主任。えっとな、両面印刷しようとしたら…なんか、裏だけ真っ白で出てきてもうて」「設定、逆ですよ。原稿、上向きに置かないと」「そうなんか?ほな…あ、もう出てきてもうた」言いながら、岡田が手を伸ばした拍子に、シャツの前がふわりと開いた。見えてはいけないほどではないが、ボタンが一つ、ずれていることに晴臣はすぐに気づいた。こういうとき、なぜか目が勝手にそういう場所を捉えてしまう。コピー機の排出口から無音で吐き出される失敗した用紙を岡田が受け取り、肩をすくめる。「すまんな。紙、無駄にしてもうて」「いいですけど。あと…ボタン、ひとつずれてます」「え、どこ?」岡田が視線を下に向ける。その間に晴臣は自然と数歩近づいていた。「ここ。第二ボタンがこっちの穴に入ってる。ちょっといいですか」「え、ああ…うん」言うよりも先に、手が動いた。襟元に指先を滑り込ませ、ずれているボタンを静かに外す。そのまま、正しい穴に通し直す。指が一度、岡田の胸元に触れた。シャツ越しに感じた肌の温度は

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   12.ネクタイはまた曲がっていた

    月曜の朝は、どこか湿気を孕んでいた。十月も半ばになり、秋の匂いは濃くなってきたはずなのに、東京の空気はまだ汗ばんだ肌にじっとりと張り付くような温度を残している。東都商事の営業二課フロアには、冷房の名残とコーヒーの香りと、キーボードの軽快な打鍵音が交錯していた。週明け特有の張りつめた空気が漂うなか、晴臣はすでにデスクに着いてメールのチェックを終え、会議用の資料に目を通していた。エレベーターの扉が開く音がして、ゆるい足音がフロアに近づいてくる。晴臣は手元の資料を閉じ、気配だけで誰なのかを察する。「おはようさん」岡田佑樹の声だった。相変わらずのんびりとした関西訛り。大して早口でもないのに、言葉の輪郭だけがはっきりと届くその話し方は、フロアに不思議な余白を作っていく。晴臣は顔を上げた。案の定、岡田は今日も寝癖をつけたまま現れた。白いシャツはアイロンが甘く、ネクタイは見事なまでに右に傾いている。「……おはようございます」「ん、おはよ」岡田はそのまま自席に座ると、鞄からぐちゃりとした資料を取り出し、机の上に広げた。椅子の背にジャケットを放り投げるようにかけ、ペンを探して机の中を引っ掻き回す。ペン立てに入っているにもかかわらず。晴臣は無言のまま立ち上がり、会議室に提出する資料を手にした。そのついでのように、岡田の席に近づいていく。岡田が気づくよりも先に、晴臣は手を伸ばした。ネクタイの結び目に指先が触れる。岡田の動きが一瞬、止まる。ごく軽く、人差し指と親指で結び目を整える。その下の細い布がまっすぐになるように撫で下ろすと、晴臣の手の甲に微かな温もりが触れた。岡田の喉が、わずかに動いた。声を出すでもなく、身を引くでもなく、ただそこに立っている。触れた首元の皮膚は思っていたよりも柔らかく、熱を持っていた。香水でも汗でもない、岡田の体温のような匂いが、わずかに指先にまとわりつく。「……」晴臣は何も言わず、手を引いた。

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   11.気づいたら、見てしまっていた

    夜に溶けきる寸前の空が、窓の外に広がっていた。十八時少し前の社内。残業申請のない社員たちはすでに引き上げ、オフィスの中には散らばる蛍光灯の光と、ところどころの席に残されたデスクライトだけが灯っていた。コピー機の作動音も、清掃員の足音もなく、東都商事・営業二課は、稀に見る静寂をまとっていた。晴臣は、自席で最後のチェックを終えた書類をデータ化し、USBを外してバッグにしまった。「さて…」声に出すこともなく、そう呟くように息を吐きながら立ち上がる。机の引き出しを静かに閉め、ジャケットを肩にかける。タイムカードを切ろうとフロアを出たそのとき、目の前の廊下の先に岡田の後ろ姿が見えた。その人も、ちょうど帰るところだったらしい。背中のラインが、ネクタイの先まできちんと整っているのが目に留まる。珍しいな、と思った。それだけのことだったはずなのに、なぜか、その後ろ姿に吸い寄せられるように足を進めていた。エレベーター前に立つと、岡田が気配に気づいたように振り返った。「お、主任もお帰り?」「はい、今ちょうど」それだけ言葉を交わすと、また沈黙が落ちた。しんとした廊下に、電子音と共にエレベーターの扉が開く。乗り込んだふたりの間に、会話はなかった。フロア表示がひとつずつ下がっていくたびに、わずかに軋むような機械音が耳に残る。晴臣は、自分でも妙だと思いながら、真正面を見ていた。視線を岡田の横顔に向けないように、まるで意識してそうしていた。なぜだろう。ここ数日、岡田という存在がやけに近い。仕事で関わっているのはもちろんだが、それだけでは片づけられない“密度”が、どこかにある。昨日触れた手の感触が、ふと指先に蘇る。あの温度。言葉にできない沈黙。交わされなかった答え。扉が静かに開いた。一階のロビーは、昼間の賑わいが消えて、ガラス張りの壁から伸びた斜めの夕陽が床に長く差し込んでいた。岡田が先に歩き出し、自動ドアの前で立ち止まる。その横顔に、ちょうど西日の光がかかる。

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   10.課長のくせに、ちょっとずるい

    午後六時を少し過ぎたオフィスには、キーボードを叩く音と、書類を束ねる紙の擦れる音が断続的に響いていた。東都商事・営業二課。定時を過ぎても席に残っている社員はまばらで、誰もがそれぞれのペースで仕事の仕上げに取りかかっている。エアコンの風音がかすかに耳に届く程度の静けさのなか、晴臣はパソコンの画面を睨みながら、手元の資料を一枚めくった。外はすでに陽が落ち、窓の外には夜景が広がっていた。街灯とビルの灯りがガラスに反射し、自分の顔と重なる。斜め後ろの席から、ふと軽口まじりの声が聞こえた。「いやー、岡田課長って、なんだかんだで仕事できるんすね」「わかる。最初見たときは絶対やばいやつやと思ったけど、昨日のクロージングとか、めちゃスムーズやったし」「たぶん、手抜いてるようで要所は押さえてんだよな」こそこそとした声ではあったが、内容は明確だった。晴臣はマウスを持った手を止め、無意識に耳をそちらに傾けた。そのとき、自分の胸の奥が、わずかにきしむような感覚を覚えた。…それ、俺の方が、先に知ってた。そう、誰に向けるでもなく、心の中で呟いた。岡田佑樹は、ずるいほどに「力を隠す」人間だ。何も考えていないような間延びした口調。シャツの襟元がずれていても気にせず、コンビニ袋をぶら下げて現れる。スリッパのまま会議室に入ってくる日もあった。あらゆる“だらしなさ”を隠そうともしないくせに、その裏で、仕事の核心だけはしっかりと握っている。昨日の商談で空気を和らげたのも、今日のプレゼンで要所を押さえたのも、決して偶然ではない。「課長、あの後またB社に連絡入れたみたいっすよ。なんか、納期調整も前向きらしいっす」「え、マジ?やっぱやるじゃん、あの人」笑い声が小さく起きる。晴臣は、それに微笑むことも、苦笑することもなく、ただ背筋を伸ばして席を立った。手元の書類をファイルに挟み、プリンターのある棚へと向かう。歩く先に、岡田の席があるのが視界の隅に入ってきた。岡田は、デスク

  • そのネクタイ、俺が直してもいいですか?~ズボラな課長のくせに、惚れさせるなんて反則だ。   9.手が、少しだけ触れた

    昼過ぎの会議室には、静かな冷気が漂っていた。本社九階、使われていないミーティングルーム。壁際に置かれた長机の上にはノートパソコンとプリントアウトされた資料、ミネラルウォーターのボトルが一本だけ転がっている。蛍光灯の白い光が、整然と並んだ文字の上に規則正しく落ちていた。晴臣と岡田は、その一枚のモニターを挟んで、隣り合って座っていた。「ここの数字、最新のデータに差し替えてあります」晴臣は、画面の左下に表示されたグラフの棒を指さした。昨日まとめた収益率の推移に、今朝の更新分が追加されている。岡田はそれを覗き込むように身を乗り出し、頷いた。「うん、ええんちゃうかな。こっちのページとの整合も取れてるし」「……よかったです」会議室の空調が低く唸る音だけが、ふたりの間を満たしていた。資料のチェックは順調で、進行にも滞りはない。だが、そのわりには、空気に不思議な緊張が漂っていた。問題は、距離だった。晴臣の左肩と、岡田の右肩が、あと数センチで触れ合いそうな距離。座面を調整することもできたが、それをするには、なぜか妙な意識が働いた。画面をスクロールしようと、晴臣がマウスに手を伸ばした、そのときだった。「……っ」岡田の指先と、晴臣の手の甲が、わずかに触れた。ほんの一瞬。指の腹が、かすかに沈む感触。熱というより、柔らかさだった。紙をめくるような軽さで、それでいて確かに、相手の温度がそこにあった。音もなく、ふたりは動きを止めた。岡田がマウスを持っていた手をすっと引いた。晴臣はそのまま、触れた手を机の上に残したまま、モニターに視線を戻した。だが、もはや画面の文字は頭に入ってこない。たったそれだけの接触だったのに、手の甲に残った感触は、微かに痺れているようだった。岡田はすぐには何も言わなかった。ややあってから、ぽつりと呟いた。「……なあ、こういうの、苦手なん?」

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status