All Chapters of 手遅れの愛、妻と子を失った社長: Chapter 141 - Chapter 150

151 Chapters

第141話

「知ってるだろ?」遥真は何でもないことのように言った。椅子の肘掛けに片手を置き、黒い瞳でまっすぐ柚香を見つめる。視線は一歩も引かない。二人とも譲ろうとしない。けれど、先に折れたのはやっぱり柚香だった。「もうそんなこと考えるの、やめて」柚香は彼の開き直った態度と、何も気にしていないような様子が嫌でたまらなかった。――なんで感情を揺さぶられるのは自分だけなの?「今、玲奈と関係がないとしても、私はあなたとは付き合わない」あの時言われた言葉、一生忘れない。本当に最低。「彼女が何も言わなければ、一生守る」遥真は静かに言った。柚香は本気で何か投げつけてやりたくなった。自分だってバカじゃない。この言葉がわざと自分に聞かせているものだと、わからないはずがない。「疲れてる?」遥真が聞いた。あの出来事以来、二人はあまり心の話をしなくなっていた。それでもこの間の彼女の生活は、遥真には全部わかっている。「昼は仕事して、昼休みには病院に行って、夜帰ってきたらまた徹夜でイラストの副業。毎日ずっとコマみたいに動きっぱなしだ」久瀬家の奥さんどころか、久瀬家の家政婦だってここまで働かない。柚香はその場で固まった。疲れてる。疲れてないわけがない。毎日、副業のイラストを描いて夜中の二時三時まで起きて、朝は六時過ぎに起きて朝ごはんを作る。仕事から帰ればまた夕飯の支度。陽翔が寝たあとも、またイラストを描き続ける。その上、数えきれないほどの細かい家事。こんなに疲れた生活、今まで一度もなかった。その疲れきった様子も、張りつめた神経も、遥真には全部見えていた。自分が大事に育ててきた人間が、こんな生活をしているのを見るのはやっぱりつらかった。「答えて。疲れてる?」「疲れてるよ」柚香は正直に言った。「でも、生きてたら疲れることくらいあるでしょ」「君には選べる道がある」遥真はまた言った。ここまで甘やかして、ここまで譲歩したのは、今まで誰にもない。陽翔でさえも。柚香は彼を見た。その瞬間、表情がすっと消えたみたいに、ただ静かな顔になる。「また久瀬家の奥さんに戻れって?」断られるとわかっていながら、それでも彼は答えた。「そうだ」「遥真、自尊心ってないの?」柚香はこれが彼の譲歩だとわかっていた。しかし、玲奈との関係を
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第142話

遥真は眉ひとつ動かさなかった。感情を抑えきれずにいる彼女を見て、ほんの一瞬だけ、自分の選択が間違っていたのではないかと思った。約束のために柚香との関係を壊してしまうなんて。しかし、もし自分までその約束を守らなかったら、あのとき両親が言ったことが正しかったということになる。どれくらい時間が経ったのだろう。柚香の荒れた感情は、ようやく落ち着いた。遥真は抱き続けたまま、いつもの穏やかで優しい声で言った。「右の方はまだ噛んでないよ。噛まないと対称にならないだろ?」柚香の瞳が急に赤く染まり、鼻の奥がツンとした。――遥真は嫌なやつだ。二人の想いを裏切った。でも同時に、遥真はとても優しい人でもある。自分の気持ちも考え、求めることも理解してくれる。そして、ふたりの「遥真」は切り離せない。どちらも、目の前で自分を抱きしめているこの人なのだ。遥真は彼女をそっと離し、指の腹で頬の涙を拭った。その動きはとても優しく、まるで珍しい宝石を扱うかのようだ。以前と変わらず優しく、忍耐強い彼を目の前にして、柚香の胸はさらに苦しくなる。しかし分かっている。もう二人の関係は戻らない。あの日、彼が玲奈と一緒になった時点で、可能性は消えたのだ。「遥真……」柚香が呼ぶ。遥真の声は心地よく、温かい。「ん?」「私を困らせないでくれない?」柚香は本当に疲れていた。日頃の感情表現は、ただ生活をやり過ごすためのものに過ぎない。「私、いつか耐えられなくなりそうで怖いの」涙を拭う手が止まった。「この数日、困らせてないだろ」「これからは?」しばらく沈黙したあと、遥真は口を開く。「俺の行動の基準、知ってるだろ」その言葉で柚香は答えを悟り、心はさらに沈んだ。自分が一日でも彼の元に戻らなければ、遥真は気分次第で全てを決めることができる。「分かった」「柚香……」遥真は彼女の感情の変化に気づく。柚香は何も言わず、一歩下がった。その一歩が遥真の胸にチクリと刺さる。美しい眉がわずかにひそめられる。「ごめん」濡らしてしまった服を見ながら、再び心の壁を作る。「服を汚しちゃった」遥真は苦笑する。――使い捨てみたいに謝るなんて、何様だと思ってるんだ。あれ、この悪い癖、もしかして自分が甘やかしたのか……温かさは消え、視線は彼女をロックする。「誰にそんな謝
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第143話

柚香は手を伸ばして彼を押し返そうとしたが、遥真の手つきはあまりにも手慣れていて、ほんの少しの間に全身の力が抜けてしまった。大きな手が腰へと滑り、きめ細かくなめらかな感触に、彼は思わず続きを求めたくなる。けれど、その手触りから彼女がかなり痩せたこともはっきりと伝わってきた。「最近、ちゃんとご飯食べてるのか?」遥真は動きを止めて彼女を放し、底の見えないような深い視線を向けた。柚香は隙を見つけると、彼を突き飛ばした。「関係ないでしょ」怒りのせいか、それともさっきの余韻のせいか、頬がほんのり赤く染まっている。唇は湿ってつややかに色づき、光を受けて艶めいていた。わずかに開くたび、思わず触れたくなるような色気を帯びている。「何する気?」彼が近づいてくるのを見て、柚香は反射的に後ずさるが、二歩も行かないうちに背中が壁にぶつかった。遥真は片手を彼女の横の壁につき、長身を少しかがめる。薄い唇をわずかに開き、低く響く声で言った。「そんな、ひどい目にあったみたいな顔で見るなよ」柚香は睨みつける。――違うって言えるの?「さっき、全然楽しんでなかったって言える?」遥真はさらに近づき、清潔で心地いい香りがまた彼女を包み込む。柚香は心にもないことを言った。「ない!」自分は遥真とあまりにも親しく、彼は自分の体のどこが敏感かすべて知っていた。さっき感情が抑えきれず、心の防御が崩れかけた瞬間、彼の優しさと甘やかしに、一瞬だけ身を委ねてしまった。こんなの、よくないと分かっている。しかし感情が壊れているとき、最低限の理性さえ保てなかった。「へえ?」遥真の声には、どこか誘うような響きが混じる。もう片方の手が彼女の腰に落ちた。「じゃあ、確かめさせてくれる?」柚香は、ここまで図々しいとは思っていなかった。「図星か?」遥真が尋ねる。柚香は手を振り上げて彼を叩こうとする。けれど遥真は軽々とそれを掴み、ゆったりとした口調で言った。「それ、逆ギレってやつじゃない?」「最低!」柚香は吐き捨てる。「さっき、自分で言ってただろ。俺は厚かましいって、自尊心がないって」遥真はまったく気にした様子もない。柚香は言い返そうとして、言葉が喉で止まった。しばらくして、掴まれている腕を振りほどこうとしながら、低い声で言う。「放して」遥真は放
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第144話

これは事実だ。言い訳で打ち消せるものじゃない。「もうどうでもいい」柚香は再び心を固く閉ざした。「あなたが彼女を一生面倒見るつもりで、私にその存在を受け入れろって言うなら、他はどうでもいい」遥真の瞳の色が、ゆっくりと深くなる。――その通りだ。言い返せない。「陽翔、そろそろ起きる時間だよ」柚香は時間をちらりと確認し、再び彼と視線を合わせた。「どいて」「用が済んだらすぐ切り捨てる、その感じ……ほんと変わってないな」遥真は手を引き、もう彼女を引き止めることなく、ゆったりとソファへ歩いていった。柚香は何も言わなかった。目の前から気配とぬくもりが消えると、胸の奥がわずかに揺れる。部屋の様子を見に行こうとしたその時、中からドアの開く音がした。続いて、服をきちんと着た陽翔が小さな足でとことこと歩いてきて、あどけない声で呼ぶ。「ママ」「起きたの?」柚香は気持ちを整え、彼の頭を優しくなでた。「歯磨きして顔洗っておいで。パパが朝ごはん持ってきてくれてるよ」陽翔はソファでくつろいでいる遥真をちらりと見た。しかし、声はかけなかった。その様子を見て、遥真はふと、昔よく「陽翔は性格が自分に似てる」と言われたことを思い出す。――今見ると、この根に持つ感じはむしろ柚香にそっくりだ。陽翔が身支度を終えたのは、だいたい七時ごろ。三人で食卓を囲んで朝食をとったが、彼はずっと柚香にだけ話しかけ、遥真には一言も話さなかった。「ママ、遊園地に行きたくない」陽翔がふいに口を開く。「どうして?」柚香は優しく尋ねた。陽翔はうつむいたまま、うまく言葉にできない。楽しみにしていた一日が、誰かからの一本の電話で台無しになるのが嫌だった。パパがあの人を大事にしているのは分かっている。もし電話が来たら、きっとそっちへ行ってしまう。そうなれば、ママはきっとつらくなる。それなのに、自分のために無理して笑って、機嫌を取ろうとする。そんなのは嫌だ。「今日は君とだけ過ごす」遥真が、彼の気持ちを見抜いたように言う。陽翔はようやく彼をまっすぐ見た。丸い瞳の奥に、わずかな感情をにじませながら。「約束? それとも、ただ言ってるだけ?」遥真ははっきり答えた。「約束だ」陽翔は満足そうに頷き、素直に朝ごはんを食べ始めた。パパが来たとき、彼はもう起きていた。
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第145話

「この答え、最初から分かってたんじゃないの?」友人が口を開き、玲奈を見る目に複雑な感情が揺れた。玲奈は、遥真と柚香が陽翔の手を引いて一緒に歩いていく姿を見つめながら、目の奥に渦巻く狂気と嫉妬が頂点に達していた。「でも、納得できないの」「どうするつもり?」と佐伯紗優(さえき さゆ)が尋ねる。玲奈はぎゅっと拳を握る。「彼を、私のところに来させる」あれだけはっきり拒絶されて、あの瞬間に気持ちの整理もついたはずなのに。それでも、どうしても納得できない。どうして柚香だけが、彼の本当の気持ちも愛も手に入れられるのか。命の恩人である自分には、彼の本心が一欠片も向けられないなんて。自分のどこが柚香に劣っているというのか。「バカなことしないで」紗優は諭すように言った。「昨夜あんなにはっきり言われたのは、ちゃんと引くべきところで引いてほしいからでしょ。彼と子どもの時間を邪魔したら、きっと怒るよ」玲奈だって、彼が怒ることくらいわかっている。けれど、自分にもしものことがあれば、怒ってもそこまで強くは出られないはずだ。陽翔は、自分の予感が当たっていたなんて知らないまま、遊園地のウォーターパークエリアにやって来た。楽しそうでスリルのあるアトラクションを指さして、小さな顔を上げて遥真を見る。「パパ、これやりたい」遥真は両脇に垂らしていた手をぎゅっと握りしめた。瞳の奥に、ほんの一瞬だけわずかな感情がよぎる。それに気づいた柚香は、しゃがんで陽翔に声をかけた。「ママと一緒に行こうか?パパ、その靴だと水に入れないし」遥真は水が苦手だ。それは彼女も知っている。太ももより深い水になると、どうしても無理で、体が拒否してしまうのだ。「うん」陽翔は素直にうなずき、なんとなく事情も察していた。張り詰めていた遥真の心が、ほんの少しだけ緩む。二人に気をつけるよう声をかけようとしたそのとき、ポケットのスマホが鳴った。玲奈からの着信だ。柚香と陽翔は足を止めて彼を見る。遥真はそのまま通話を切った。ポケットにしまう前に、またすぐ着信が入る。今日は陽翔と過ごすと伝えてあるのに、一度切られてもまたかけてくるなんて、どういうつもりだ。「パパ、誰から?」陽翔が聞く。遥真ははっきりとは言わなかった。陽翔の気分を乱したくない。「友だちだよ」「じゃあ、な
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第146話

それなのに今は……「ママがいるでしょ」柚香は話題を変えた。「何して遊びたい?ママ、ずっと一緒にいるよ。思いっきり遊ぼう」陽翔は、自分を元気づけようとしてくれているのが分かって、くるっと目を動かした。「じゃあ、お化け屋敷!」柚香は彼のおでこを軽くつついた。「いたずらっ子なんだから」二人は水の中で十数分遊ぶと、ほかのウォーターアトラクションへ向かった。ひと通り遊び終えるのに、だいたい一時間ちょっとかかった。柚香が風邪を引かないようにと陽翔に着替えさせようとしたとき、ふと気づく。予備の服は遥真の車の中だ。彼はそのまま病院へ向かったのか、それとも誰かに迎えを頼んだのか……そう考えていたところへ、いきなり服の入った袋が目の前に差し出された。柚香「?」陽翔「?」二人は同時に袋を持つ手を見て、そのまま顔を上げた。「早く着替えてこい」遥真は袋をさらに差し出しながら、眉をひそめて、びしょ濡れの親子を見た。柚香と陽翔は顔を見合わせる。さっき、急いで出ていったのを見たはずじゃなかった?遥真は柚香の両手を取って袋を持たせた。「自分で女子更衣室に行って着替えてこい。終わったら入口で待ってて。陽翔は俺が着替えさせる」「うん」柚香は思わず頷いた。遥真はそのまま陽翔の手を引いて行く。――まさか、さっきあの二人があんなに素早くいなくなるとは。ほんの服を取りに行っている間に、もう影も形もなかった。更衣室で、陽翔はつい丸い目を何度も遥真に向けてしまう。「言いたいことがあるなら言え」遥真は持ってきたタオルで彼の体を丁寧に拭いた。陽翔は少し言葉を選び、小さく口を開く。「病院行ったんじゃなかったの?なんで戻ってきたの?」遥真は逆に聞き返す。「いつ俺が病院に行った?」言ってから、ふと止まる。さっき二人がぽかんとした顔で自分を見ていたのは、病院に行くと思っていたからか?「そんなにあの人のこと大事なんでしょ。ママと離婚までしたくらいだし」陽翔は幼い声ながら、はっきりした口調で言った。「事故で入院したなら、見に行かないの?」自分は同年代より大人びていると思っている。でも、パパのことだけは、ずっと分からないままだ。「今日は君と過ごすって言っただろ」遥真の表情は変わらない。沈んでいた陽翔の気持ちは、少し軽くなり、口
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第147話

柚香が初めて身をもって実感した。「お金があるってすごいんだな」と。「時間も遅いし、先にご飯にしよう」遥真はまだ陽翔の手を引いたまま、落ち着いた声でそう言った。柚香は一度、ゴミ箱の方へ視線を向ける。陽翔がもう片方の手で彼女の手を握り、気を逸らすように言った。「ママ、行こう」柚香は軽く息を吐く。「うん」三人で遊園地の近くにあるレストランへ向かった。窓際の席に座ると、遊園地全体と少し離れた湖まで見渡せた。食事中、遥真は時折陽翔と話している。まるでさっきの電話なんてなかったかのように。それが、柚香には引っかかった。玲奈の事故は、本当なのか、それとも……「何ぼーっとしてる」あまり食べていない彼女に気づき、遥真が声をかける。柚香が顔を上げて彼を見ると、その表情には心配も悩みもまったく見えない。いつもと何も変わらない。それ以上考えるのをやめて、箸を取った。本当でも嘘でも、自分には関係ない。自分の生活をちゃんとやればいいだけ。遥真は、そんな彼女を少し不思議に思っていた。ぼんやりしたり、急に考え込んだり、まるで大きな悩みでも抱えているようだ。「パパ」陽翔は何口か食べてお腹が満ちたのか、くりっとした目で言った。「あとで一緒に脱出ゲームやらない?」遥真は反射的に、その隣の柚香を見る。「ママに聞いて」陽翔が横目で柚香を見る。柚香は一度は断ろうとしたけど、せっかくの子どもの日だと思い直してうなずいた。「いいよ」これまで柚香は、脱出ゲームをやるときはいつも遥真にしがみついてばかりだった。怖がりなくせにやりたがるタイプ。今は頼れる人はいないが、こういうのはいつか乗り越えなきゃいけない。ずっと怖がってるわけにはいかない。陽翔の手がぴたりと止まる。本当はパパの反応を見たくて言っただけなのに、まさかママがOKするなんて。いざ始まるとき、陽翔は柚香に外で待っててもらおうと思った。しかし言いかけた瞬間、柚香が彼の小さな手を引いて、さっさと中へ歩いていく。「私、外で待つの?ママってそんなに怖がりに見える?」「ち、違うけど……」「あとで私がクリアしてあげる。いつもと違うママ、見せてあげる」真剣な顔を見て、陽翔はこくんと頷いた。「うん!」いざ密室に入った瞬間、薄暗くて不気味な雰囲気と照明に、柚香の背中がぴんと張る
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第148話

遥真は、柚香が極度の恐怖に怯えるところから、それを乗り越えていくまでを見ていた。怖くて仕方ないはずなのに、最後には勇気を振り絞って打ち勝ったことも。そんな成長を、彼は少しも嬉しいとは思えなかった。自分がどうにかして彼女をそばに引き留めなければ、いつか彼女は今日みたいに恐怖を乗り越えるように、今感じている違和感や不慣れさもすべて克服して、最終的には完全に自分のもとを離れていく……彼にはそれがはっきり分かっていた。そんな結末は見たくないし、絶対に認めるつもりもなかった。「パパ」陽翔が話しかけようとしたところで、彼の視線がママに向けられているのに気づく。「なんか変だよ? 参加できてなくて拗ねてるの?」柚香は顔を上げた。ちょうど彼の深く黒い瞳とぶつかる。「そうだな」遥真は一度だけ彼女を見て視線を外し、半分冗談めかして聞いた。「パパのこと、なぐさめてくれる?」陽翔は容赦なく首を振った。「やだ」その日の午後。陽翔と柚香はとても楽しそうに遊んでいた。遥真はずっと、荷物を持つ係のような存在だった。夕食を終えて家に帰り、ベッドに入って休む時間になっても、陽翔はまだ午後の楽しい時間の余韻に浸っていた。しかし彼はちゃんと分かっている。自分が眠ったら、パパはきっとあの人のところへ行く。夜九時。陽翔は柚香に寝かしつけられて、いつものように眠りについた。部屋のドアを閉めてから外に出ると、まだ遥真が外に座っている。柚香はそのまま帰るように促した。「陽翔はもう寝たよ。帰っていいよ」遥真は腕時計に目を落とした。「まだ今日は終わってない」柚香「……」そこまで言うならと、柚香はそれ以上相手にしなかった。リビングの隅の椅子に座り、パソコンを開いて副業のイラスト作業を始める。けれど、遥真の存在感が強すぎる。視線もあまりに真っ直ぐで、背を向けていても見られているのがはっきり分かった。もう一度追い出そうとしたそのとき、遥真のスマホが鳴った。彼はちらりと確認し、無表情のまま通話をスライドで受ける。声は低く、淡々としていた。「何だ?」「何通も送ったのに、なんで一つも返してくれないんだ?」時也の少し不満げな声が聞こえる。「見たのか?」「まだ」時也はこめかみを押さえ、頭がずっとガンガンしているような気分になりながら、送った内容を
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第149話

遥真は何も言わず、まったく動じなかった。柚香は彼が一言も発しないのを見て、喉まで出かかっていた言葉を結局飲み込み、隣にあったイヤホンを手に取って耳に装着し、外の世界を完全に遮断した。時間は少しずつ過ぎていき、やがて夜の十一時五十九分。遥真は腕の時計の秒針を見つめ、再びそれが十二を指した瞬間、スマホと車のキーを手に立ち上がって部屋を出た。ドアがバタンと閉まる音が響き、その気配に気づいた柚香は時間を一瞥する。零時零分九秒だ。彼女は気にも留めず、視線を再びパソコンの画面へ戻し、そのまま原稿を描き続けた。一方、遥真は下へ降りると、すでに恭介が車のそばで待機していた。彼は車のキーを投げ渡してから後部座席に乗り込み、広く伸びた背中をシートに預けたまま、薄く冷たい声で問いかける。「どうだ」「ご推察どおりです。事故は玲奈さんが故意に起こしたものでした」恭介は運転席に座り、資料を手にしている。「水月亭を出られてからずっと後をつけており、社長が柚香さんと坊ちゃんを遊園地に連れて行かれたあと、ようやく離れました」遥真の周囲の空気が、さらに冷え込む。玲奈が策略を巡らせるタイプで、手段を選ばないことは分かっていた。だが、ここまで自分の体を顧みないとは思っていなかった。「これが事故前から発生までの一連の映像です」恭介は業務用のスマホを差し出した。遥真はそれを開く。玲奈はわざと交通量の多い場所を選び、突然車道へ飛び出していた。映像の中で「ドンッ」という衝撃音が響き、車に跳ねられる瞬間が映し出される。もともと疲れがにじんでいた遥真の眉間はさらに深く寄り、漆黒の瞳は氷よりも冷え切っていた。車内の空気は一瞬で極限まで張り詰める。「病院へ行け」恭介はすぐにエンジンをかけた。……玲奈は、自分の行動がすべて遥真に知られていることなど知る由もなかった。十二時になっても遥真が来ず、さらに時也まで帰ってしまったことで、彼女の感情はますます歪んでいく。彼女はスマホを取り出し、遥真に電話をかけようとした。「何してるの」紗優がそれを止める。「もう十二時を過ぎたのよ」玲奈は全身が痛んでいたが、それより胸の痛みの方がずっと辛かった。「子供に一日付き合うにしても、もう来る時間でしょ」紗優は彼女が正気じゃないと思い、スマホを取り上げる。「来る人は電
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第150話

今回の通知も、最初の番号のときと同じだった。今回の通知も、最初の番号のときと同じだった。またしても柚香にブロックされてしまった。「スマホ、貸して」玲奈は、自分がこれだけ犠牲になったのに、遥真からほんの少しの気遣いすらもらえなかった現実を受け入れられなかった。自分が演技しているのを知られるのを恐れて、あえて本気でぶつかろうとしていたのだ。しかし、結果は想像とはまったく違った。遥真は、柚香とその子どもを置いて病院に来ることはなかったし、自分が事故に遭ったことに対しても、少しも焦った様子を見せなかった。自分は、彼の中で言っていたほど大切な存在なんかじゃない。そもそも、まったく気にかけられていないのだ。「もうやめたほうがいいよ」紗優は彼女が極端になりすぎていると感じた。「忘れないで、柚香は今でも遥真の奥さんなんだよ。さっきみたいなこと、どんな立場で言うの?」玲奈は拳を握りしめた。「私は彼の命の恩人よ」紗優は淡々と続けた。「それで?」玲奈は意味がわからず、彼女を見つめた。それでって何? 遥真は、ちゃんと面倒を見てくれると言った。欲しいものも全部与えると約束したのに。「どうしてそんなに、遥真と恋愛関係になりたいの?」紗優は諭すように言った。「一度まとまったお金を手にして、不自由のない生活を送ればいいじゃない」「嫌よ!」玲奈はつい口にしてしまった。柚香の代わりをすることを、一生秘密にできるならまだしも、もしバレたら……遥真の性格なら、お金を受け取って離れた後で真実を知ったとき、どんな手を使ってでも取り返してくるに決まってる。だからこそ、賭けに出るしかない。彼に自分を愛させるしかない。彼が自分を愛してくれさえすれば、すべてが明るみに出たその日でも、情がある分だけ、多少は甘く見てくれるかもしれない。今、柚香にしているように。「でも、そんなやり方は体を傷つけるだけで、何になるの?」梨花の言葉は冷静だった。「自分でも分かってるでしょ、彼があなたを好きになるはずないって」その一言で、昨夜の出来事が玲奈の脳裏によみがえる。玲奈は首を振った。「違う……」遥真があんなことを言ったのは、まだ自分のことをよく知らないから。もっと一緒に過ごして、自分のいいところを知ってもらえれば、いつかきっと好きになるはず。ダメな
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