All Chapters of 罪の鎖に繋がれた没落令嬢は猟奇領主の執愛に溺れる~ローレライの夜想曲~: Chapter 21 - Chapter 30

48 Chapters

第20話 夜明けの出窓とディアンドル

 療養生活三日目──今日は、午前のうちに精神科医が来るとのことできるイルゼは夜明け前に目を覚ました。  この生活になって、不思議と目覚めが良い。養鶏業を営む上で夜明けとともに起きるが、イルゼは朝が弱かった。 否、午前中が気怠くて仕方なかった。具体的に言うと、月の障りの期間を除いた殆どが寝起きが悪い。とはいえ、眠いだけで他に何か支障があるわけではなかった。 『突然食欲が増したり、眠くもないのに欠伸が出たり他にも色々とね……命を宿す機能がある時点で女の子の身体ってとても神秘的なものよ』  そんなことを初潮が来た頃に義母から聞いていたので、これを特別不安に思うことは無かった。しかし、ああも眠かったのに、たった三日で爽快だ。  もしかしたら養鶏業を営む上で精神的な負荷を抱えていたのではと思えてしまう。確かに屠殺は自分の担当で、いつも心が痛んでいたが……。  伸びをしたイルゼは、天窓に歩み寄り静かにカーテンを開く。もうすぐ空が白み始めるのだろう。夜の色──深いライラックの名残を残した紫色の世界には薄ぼけて丘陵一面に縦縞模様を作る葡萄棚が見えた。  そうして幾許か、次第に空が白み始めて、遠くに穏やかに流れるハンデル川が鮮明に見え始める。 ボロ屋敷ではこんな光景は望めない。同じ領地だというのに、この城から望む夜明けは本当に美しい。これが、とてつもなく贅沢に思えてしまい。イルゼは感嘆とした息を一つつく。 しかし、見とれている場合でない。早急に着換えなくては……。  イルゼはクローゼットの前に歩み寄り夜着を脱ぎ始めた。 イルゼが早起きすることが分かった初日から、メラニーは日の出とともに朝食を持ってくるのだ。別に食事なんて遅くたって構わないが……と、言えば「その方が早く次の仕事に取りかかれるし、何よりイルゼともっと話がしてみたいから!」と爛々と目を輝かせるものだからイルゼは困惑した。  こんな自分と話がしたいなど、物好き
last updateLast Updated : 2025-12-03
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第21話 診察前の再会、睨み据える端正な歪み

「イルゼ、おはよう! 今日も早いわね!」 「おはよう……?」    メラニーが声量も変えずに軽い口調で話しかけてきた。  イルゼはそれに驚き、目をしばたたく。いったいなぜ……大丈夫なのだろうか?  不安げに、ミヒャエルの部屋に続く天鵞絨のベールへ目を向けると、メラニーは噴き出すようにケラケラと笑い出した。   「私、気分があがっちゃうと、どうも声が大きくなるみたいでね。敬語使わないで喋ってるの旦那様にバレちゃったの。そしたら別に良いんじゃないのって」 「……そうなの?」    確かに昨日の鶏の話をした時の反応や声量を思い返すと、バレそうな気がしていた。否、彼女の性格を考えればボロが出そうな気がして仕方ない。    だが、馬鹿丁寧な口調で話されるより気が楽だ。  何せ〝様〟などと呼ばれると背中がむず痒くて堪らない。それに、たった三日だが、イルゼは彼女に慣れ始め、丁寧な言葉使いをやめた。  否、彼女に「そっちこそ敬語はやめろ」と言われたのだ。  イルゼは昨日を思い出し、彼女を一瞥して小さく息を吐く。  けれど、メラニーときたら、おてんばな笑みを浮かべていた。   「あら。今日のディアンドルも可愛いじゃない。よく似合ってるわ。いいなぁーディアンドル。可愛いからちょっと羨ましい」    そう言って、メラニーはお仕着せの裾を摘まんで眉を寄せた。  畜産業と同じく、貴族に仕える使用人だって年中無休と思しい。イルゼはすぐそれを理解して「今度、着てみる?」と訊けば彼女は即刻、首を振った。   「いいなぁーとは思うけどね、そういうのじゃないの。そんなことしたら、今度こそ怒られるわ。さぁさ、午前中に診察でしょ? 午前って言っても私もいつに来るか分からないから早めに食事にしちゃって」    そうして、メラニーはテーブルの上に朝食を並べ終えると退室した。    ***    ミヒャエルが医者と義兄のヨハンを連れてきたのはイルゼが食事を終えて、三時間ほど──時計の針が午
last updateLast Updated : 2025-12-04
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第22話 閉ざされた感情、貼り付いて取れない父の罪

 医者は唇を開いても言葉はすぐに出てこない。どこか戸惑うような雰囲気に、イルゼも何を聞かれるかは、だいたい見当がついた。   「……お父様のことが心的外傷になっているでしょう。思い出しては、日々辛い気持ちに追いやられていませんか? 貴女はそこで人生が変わったに違いないです。人と関わりが持てなくなったと思えます」    ややあって、発せられた言葉は案の定のものだった。  けれど、惑ってくれる優しさも、白く濁った医師の瞳に宿る心配そうな視線もありがたい。  イルゼはすぐに首を横に振った。   「それは大丈夫です。私には、義兄さんがいるので」    その答えに、医師は心から安堵したように唇の端を綻ばせた。   「貴女の心に悪い部分はない。ただ、こういった事件があった上、お義姉様からの言葉の暴力もあり、きっと感情を閉ざしてしまったのでしょう。だからきっと、抑えきれなくなって爆発したのでしょう。けれど、貴女には療養が必要になるかと思います」    感情を閉ざしてしまった。  それだけは、イルゼ自身も自覚がある。  事実、父の一件以来、何事にも動じなくなってしまった。腹が立っても、悲しく思っても感情が表に出せなくなってしまった。  嬉しいだ、楽しいだなんて感情を自分が持って良いのか……なんて、罪悪感だって持ち合わせている。私は、何も感じるべきではないだろうと。    そして、溜め込んだ負の感情を、自分の中ですべて消化しようとした。  きっと何もかも時間が経てば忘れるだろうと思えたのだ。そう、心の中に蓋をして、すべて諦めていたのだ。私は普通ではないのだから……と。    けれど、一定期間の療養とは……。   「あの。私、どのくらい療養すれば良いですか」 「そうですね、三ヶ月くらいは見た方が良いかと思います。七月の終わりを目安にして頂ければと。私がミヒャエル様にお伝えしますよ」    三ヶ月……。随分と長い。イルゼは、深いため息をつくと、医者は「そう、案じないでください」と切り出した。  
last updateLast Updated : 2025-12-05
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第23話 心根優しい猟奇領主の影

 ふと、頭によぎるのは背中に刻まれたあの夥しい傷痕だ。そして、背中に羽のように広がる重度の火傷痕を思い出し、イルゼは呆然としてしまえば、医師は額に手を当てて首を振る。   「あぁ、ごめんなさい。余計な話をしました。医師がこうも目上の人の話をするなど良くないですね。私が怒られてしまいます。どうか、忘れてください」    秘密で。なんて、念を押されるように言われたので、イルゼは黙ったまま頷いた。    ……この言い方では、間違いなく過去にミヒャエルを診察していたのだろう。  だが、精神科医を知ってるだの言った時点で、確かに繋がっている。    けれど、心根が優しいと。  そう聞くと、ほんの少しだけ、安心するような気がするのは、きっと彼も自分と同じように心に傷を負っているからだろうと、イルゼは思った。    ***    問診を終えると、医師は一礼した後、部屋を出て行った。それから幾許か、医師から話を聞いたであろう、ヨハンとミヒャエルが部屋に入ってきた。   「城での療養期間は三ヶ月」    逃げんなよ。と、どこか狡猾にミヒャエルは言う。  片やヨハンは気が気でないようだった。そうして、医者とヨハンを送って行くとミヒャエルは部屋を出て行った。馬車の見送りをするとイルゼは言ったが、階段がきついだろうから大丈夫だ。と、ヨハンはやんわりと断った。    二人が部屋を出て行く最中だった。ミヒャエルはイルゼの背後から何かを手渡して握らせた。質感からして紙──恐らく手紙だと分かる。   「読んでね」    小さな声でイルゼの耳元に吹き込むと、彼は何食わぬ顔で部屋を出て行った。  彼らの足音が遠ざかったのを確認して、イルゼは手紙を開く。    ────今夜、夕食を一緒に取らないか? この間の詫びもしたいし、君になら色々なことを話しても良い気がした。しっかりと君と話がしてみたい。無理にとは言わない。  まるで招待状のよう。参加の有無を訊くように〝はい・いいえ〟の
last updateLast Updated : 2025-12-06
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第24話 「可愛い」と囁く穏やかな視線

 深いため息をついて、イルゼは窓辺から離れてソファに座る。  現在は五月。あと三ヶ月間この城の中で暮らすこととなったが、それまでにしっかりと自分の今後の身の振り方を考えようとは思うが、息が詰まりそうなほどに気分が重たかった。    誰かに相談してもいいだろうが、結局は自分で決めなくてはならない。  そんなとき、ふと、目の端にミヒャエルの手紙が映る。   (そうだった……)    イルゼは、テーブルの上に置きっぱなしにしていたミヒャエルの手紙を手に取った。    結局、あの後手紙の返事を書けずにいた。あの日の埋め合わせに違わない。断る理由なんてどこにもないが、どうにも自分のことで精一杯だった。  会食するとなれば、当たり前のように会話を交わすこととなる。それも〝君と話がしてみたい〟と綴られている。    しかし、直接の会話と文面での会話は違うのだ。ただ話を聞くだけなら良いが……。と、こうも自分勝手な考え方をしてしまうことに嫌気が差してくる。    そうこうしている間に、夕飯の時間になる。無回答では恩を仇で返すような気分になってしまう。   (話を聞くだけなら……)    イルゼは、テーブルに置いたペンで〝はい〟に丸をつけた。しかし、この手紙をどう渡せば良いのだろう。メラニーだって年中イルゼの部屋にいるわけでない。部屋に来るのは、午前中の掃除のときに食事を運ぶときと午後三時にお茶のときだけ。    完全に手詰まりだ。こうなれば、もう直接本人に渡す他はない。それか口頭で言う他ない。手紙を握りしめたイルゼは恐る恐るベールで隔てた彼の部屋に向かって行った。    一つ目のベールをくぐり抜け僅かな通路を経て、もう一枚のベールを捲るとソファに座しているミヒャエルの後ろ姿が見えた。手に本を持っていた。熱中しているのか、まったくイルゼに気づいていない。   「……あ、あの」  そんな後ろ姿におどおどと声をかけると、彼は背をビクリと震わせて、慌ててイルゼの方を向く。   「うわっ。びっくりした…
last updateLast Updated : 2025-12-07
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第25話 砕けた口調の双子の近侍たち

 その後、ミヒャエルが戻って暫くすると、男の使用人が二人食事を運んできた。 ……双子だろうか。  非常に顔立ちがよく似ており、鋭い目つきが印象的な精悍な顔立ちをした青年たちだった。髪の色はメラニーと同じ灰金髪。歳は義兄やミヒャエルとそう変わらぬ年端と思しい。   彼らは、イルゼのことを特に気にするわけもなく、テキパキとした所作でテーブルの上に食器を並べていく。   「あ、そうそう。イルゼ。こいつらヘルゲとザシャ。俺の近侍」    正面に座したミヒャエルが二人に顎で示すと彼らは少しばかり煙たそうな顔をした。   「貴方、相変わらず態度が悪いですよ。人に紹介するにも、もう少しマシな言い方は無いのですか……」 「本当だよ。雑にも程があるっすよ。これが辺境伯だとか聞いて呆れるよ……まったくさぁ」    二人の話し方が非常に砕けていることにイルゼは内心で驚いてしまった。  主人と仕える者の立場でないのか。そうは思うが口は出せない。イルゼは黙って彼らを交互に見て、無言で会釈すると、彼らはニコリと笑んだ。片やミヒャエルは、ふて腐れたようで目をジトと細めている。   「そんなん今更でしょー? イルゼが深くお前ら知る必要ある? 別にどうでもいいじゃん……」 「そうですけどね。一応は人様の前なんですから、地位にふさわしい振る舞いをしなさいとあれほどに……」 「あんたさぁ、それなりに頑張れば普通にできるんだから、客人の前くらい頑張れよ。それ、絶対ウケ悪いよ。まして相手は女の子っすよ」    物凄い言われようだ。しかし、ミヒャエルは特に気に留めることもなく「へいへい」と気の抜けた返事をした。    ……頑張れば普通にできる。  つまり、掴み所もなく言葉も汚い変人が彼の素なのだろう。    普通とは、恐らく手紙のような態度だ。わざとかと思ったが、そうでなかった。予想が外れたが、イルゼは驚くこともなく、今一度彼との手紙のやりとりを反芻した。  ただの文面だ。だからこそ普通に聞こえていただけなのだろうか
last updateLast Updated : 2025-12-08
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第26話 背中に傷を負った身代わり領主

 宣言通り、食事を終えた頃合いに同じ顔をした使用人たちがお茶を運びに来た。  茶菓子とお茶を汲み終えると彼らは早々に退席する。  そうして、足音が消えたのを見計らうように、ミヒャエルは戸惑い気味に口を開いた。   「それで、手紙にも書いた本題なんだけどもさぁ。君、見たんだよね」    見たとは恐らく背中の傷のことだろう。  おずおずと頷けば、彼は深いため息をついて、イルゼをジッと見据える。   「飯前だったのに、気持ち悪かったよね。ごめんね、部屋が隣だって言うの忘れてて。しかし……まさか君に見られると思わなかったんだよね。迂闊だったや」    手紙と同じ謝罪だった。しかしこちらは、好意で療養に居させて貰ってる身。寧ろ自分の方が無礼だったと思う。  イルゼが首を横に振ると「無理しないでいーよ」なんて彼はヘラリと笑った。   「なんとなくだけど、君になら話したって良い気がしたから、ちょっと話させてね? あれね。子どもの頃に前の領主……実の父親に折檻された痕なんだわ」    随分と重苦しいことを彼はさらりと言う。  それもどこか無邪気な笑みまで向けられるので、イルゼは息が詰まってしまった。   「なんで、そんなことを……。私が知って良いのですか」 「だってさぁ、前も言ったけど……君って、あのお義兄さん以外に関わりある人は居ないでしょ? 絶対に言わなそうだもん。秘密を教えても大丈夫かなって思ったの」    彼は悪戯好きな子どものように唇の端を吊り上げて頬杖をつく。   「そもそもねぇ。俺、身代わりなんだ。あ。勿論、前領主……親父の子どもだよ? とはいえ、愛人の子だけどね。本物のミヒャエルはとっくの昔に死んでる。確か十四歳くらいだったかなぁ。ミヒャエル、すんげぇ病弱だったんだよね……。まぁ身代わりっていうくらいだし、俺、本当にあいつによく似てるんだよねぇ」    さらさらと彼は語るが、イルゼは黙ったままだった。    衝撃発言の連発でなんと答えたら良いかも分からない。  しかし、愛人の子だとしてもそのような虐待を受けることが信じられなかった。  けれど、どうしてそんなに酷いことをするのだろう。実子に違いないのだ。殺人を犯した自分の父親だって手を上げるなんてことはなかった。    自然と眉間に
last updateLast Updated : 2025-12-09
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第27話 災いの色、呪われた血に汚れた瞳

 そして彼が緩やかに瞼を持ち上げると、空色の瞳は穏やかに彩度を失い、星の光によく似た冷ややかな色彩、白銀へと変わり果てた。    見たのはこれで二度目だ。  イルゼが息を飲むと彼は口角を綻ばせてクスリと笑む。   「こっちが本当の色。災いの瞳って言われてるらしーよ。これ、呪術を授かって色付けてるの」 「災いの瞳、呪術……」    イルゼが二つの言葉を復唱すると、彼は深く頷き「そう」と短く答える。   「つまり、呪いでミヒャエルと同じ目の色にしてるの。北端の領地の魔女に頼んだんだよ。念じるだけで目の色が変わるって優れものなんだけどさぁ、長い時間この目のままでいると疲労するんだよね。呪術って対価を必要にするけど……まぁ体力を対価にしてるわけ」    ざっくり説明されたが、イルゼはやはり驚きを隠せず口を開けていた。  この国には、魔道士や魔女といった神秘の力を持つ存在がいることは知っているが、実際見たことなんてないので、童話の中の存在のように思っていた。    こんな非現実的な事象を見たのは初めてだ。  しかし、対価を必要としていると……。  それが体力ならば、続ければ身体が弱り始めるように思えてしまう。   「外行きの目で君に会ったからねぇ。いきなり目の色を変えたらびっくりされるだろうなぁ……とは、思ってた。だから、この件だけはすぐに明かせて良かった。災いの瞳だとか言われるけど、別に、本当に何か悪いことが起きるわけじゃないから安心して」    息をついて彼は再びカップに口をつける。  片やイルゼは戸惑った表情を浮かべたままだった。   「本当に……私が知って良かったんですか?」 「うん。君なら平気かなって。もうさぁ……ここまでは話したから全部言うけど、今日、君を診察した医者は俺の担当医だったよ。それに、君を療養所送りにするの止めに入ったのも、実際に入ってたから全力で止めたんだよねぇ。全部は覚えてなくとも、酷い目に遭った。もっと頭がおかしくなる」    まるで見てきたかのように言っていた上、医者の言葉
last updateLast Updated : 2025-12-10
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第28話 几帳面な字に宿る想い

 ……字を褒められたのは、初めてだ。    確かに、女は基本的に結婚して家庭に入るものなので勉学は無縁に等しい。それでも、文字の読み書きくらいできて普通だろう。  イルゼは同じ焼き菓子を取って、包み紙を外しながら彼に視線を向けた。   「私、学校には通ってないです。ただ、字の読み書きは義兄さんから教わっただけです。でも、字に関しては、私なんて比べようもないほどにミヒャエル様……の方がお上手かと」    ミヒャエルでないのなら、ミヒャエルと呼んでもいいのか?  ほんの少し戸惑いつつ言うと、彼もイルゼの違和に気づいたのか「それでいいよ」なんて微笑むが、すぐに「敬語」なんて付け添える。    いや、そっちの方が難題な気がしてならない。どちらにしても彼は領主に違いないのだから。   「まぁ、俺も字に関してだけはヘルゲに褒められるけどさぁ。それでもだよぉ? 君、本当に字が上手いよ。なんなら、帳簿を付けるだとか代筆に雇いたいくらいだって思ったけど。なんだろ。字の上手さって几帳面で真面目な性格の反映かなぁ。まぁそれっぽいよね」    うん。そうだ。そうに違いない。なんて、彼は何度も頷くが、イルゼは何度も目をしばたたく。    ……字の上手さが性格に反映されるならば、彼はいったい何だろうと思えてしまう。  黙り込んでしまうと、彼は、どこか悪戯気にニヤニヤと笑んでイルゼの顔を眺めた。   「〝それ、お前が言うなよ〟って顔してる」 「そういうわけじゃないですけど……」    慌てて反論すると物凄い早口になってしまった。すると彼は目を丸くした一拍後──大口を開いてゲラゲラと笑い声を上げた。    とても貴族だなんて思えない品性の欠片もない笑い方だ。それも、膝で手を叩き眦に涙が浮かんでいるので相当面白かったらしい。  しかし、ここまで威勢良く笑われてしまうと、かえって微笑ましく思えてしまう。    釣られてイルゼが唇を綻ばせると、彼は込み上げる笑いを堪えているのか、肩をプルプルと震わせつつ、イル
last updateLast Updated : 2025-12-11
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第29話 真夜中の歌声と運命の再会

 しかし、眠りから覚めてしまうのは存外早かった。  カーテンの隙間から覗く空は紺碧のまま。詳しい時間は分からないが、まだ空が白み始めるよりもずっと前──真夜中だろう。    カーテンの隙間から差し込む室内は月明かりで周囲は薄ぼけて見える。改めて壁掛け時計に目をやると、ちょうど午前二時を示していた。    短時間でも、存外ぐっすりと眠ってしまったこともあるだろう。  すぐには眠りにつけそうにない。諦めて起き上がったイルゼは、テーブルの上に置かれた水差しを掴みグラスに注いで一口だけ口に含んだ。  ミントで味付けした水だろうか。口の中に涼やかさが突き抜け、更に頭が働いてしまった。    本当に暫く寝られそうにない。  完全に諦めたイルゼは窓辺に歩み寄り、出窓にもたれかかって外を眺めた。    当たり前だが、下の葡萄畑には農夫の姿などない。誰もが眠る時間なのでさも当然だが、世界に自分が一人ぼっちになってしまったような気分になった。    ──義兄もいない。早朝に喧しい鶏の声もしない。ここには知らない人ばかり。  ほんの少し寂しく思えるが、ミヒャエルは義兄から聞かされた人物像より存外まともそうで、使用人だって皆良い人そうだとは思う。    それでも、どうにも落ち着かなかった。  それに拍車をかけるのは、今後の身の振り方や自立を視野に入れるようになったからだろうか。  イルゼは、ぼんやりと遠くを眺めつつ、自然と歌を口ずさんだ。   『不安になった時は歌いなさい』  これは、過去に母が言った言葉だ。    癖のように、母から教わった「川底の歌」を歌い始めて間もなく……唐突にミヒャエルの部屋に通ずるベールが開き、イルゼは慌てて歌を止めた。   「……ねぇ。今の、君が歌ってたんだよね?」    ベールの前には寝間着姿の彼がいた。  ガウンを羽織っているが、どうにも胸が開けすぎていた。さすがに目のやり場に困り、イルゼは彼から目を背けて、小さな声で一言詫びた。   「怒ってないよ。俺、眠り浅いからねぇ。ついさっきまで仕事してたし、気にしないで」    けろりとした調子で言われたので安心したが、あの話を聞いた後だ。少し心配げな視線を送ると、彼はイルゼの隣まで歩み寄り、出窓に腰掛けた。   「字だけじゃなくて
last updateLast Updated : 2025-12-12
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