All Chapters of 罪の鎖に繋がれた没落令嬢は猟奇領主の執愛に溺れる~ローレライの夜想曲~: Chapter 31 - Chapter 40

48 Chapters

第30話 遠い夏の夜、崖の縁で出会った少年

 母が行方不明になったばかりの頃、父はイルゼの話をよく聞いてくれた。 「寂しい」と漏らせば、「きっと大丈夫さ」「父さんがいる」と優しく答えてくれたものだった。  しかし、数ヶ月も経てば対応は雑になった。   「いい加減にしろ、もう見つからない」と怒鳴るばかり。  そうして、イルゼは母のことを誰にも言えなくなった。    母は夏の夜空を閉じ込めたような青いペンダントをいつも着けていた。  角度によって不思議な光を放つ石で、その光に心奪われ──幼いイルゼはそれを見たいとよくせがんでいた。「これはね、私の母──あなたのおばあさまから貰ったのよ」 「いつかイルゼがお嫁に行く時に、あげるからね。だから大切にしてるのよ」    そう言って、優しく微笑んでいた記憶が鮮明だった。    ──だが、亡き人の記憶は時間とともに薄れていく。  最初に声が、次に表情が朧気になった。  心に〝諦め〟が芽生え、靄もゆっくり消えていった。それでもイルゼは川底の歌を歌い続けた。母を忘れぬために。    だが、そんなある夏の夜、自分を〝ローレライ〟と名乗る日は唐突に訪れた。  日中まで大雨だったせいでハンデル川は増水し、暗闇でも濁流の唸りがゴウゴウと響いていた。    そこに、やってきたのは痣だらけの黒髪の少年だった。  顔ははっきり覚えていないが、今ならわかる。色素の薄い瞳で、優しげな縁取りだったと。    子ども心に、彼が明らかな〝訳あり〟だと直感した。  夜半の崖の上に来るなど尋常じゃない。痣だらけの体に覇気の無い瞳──既にもう幽霊のようで。こんな場所に来なんて、間違いなく、ここから身を投げるつもりで来たのだろうと想像は容易かった。  そんな彼は、イルゼを見つけるなり、怯えきった顔で「誰? 何してるの?」と訊いた。  イルゼはそこで初めて「ローレライ」と名乗った。   「ねぇ。あなた、まさかここから飛び降りる気?」    思ったままを訊けば、彼はすぐに頷いた。  だからイルゼは当たり前のように引き留めた。目の前で死なれるのは嫌だった。そんな光景は見たくない。それに、ここで止めなければ絶対に後悔しそうだったから。   「酷い怪我。誰にやられたの?」    近づいて痣を指せば、「お父さん」と消え入りそうな声で彼
last updateLast Updated : 2025-12-13
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第31話 忘れた名、空っぽの心に浮かぶ顔

 しかし、あの日の少年が、まさか彼だったとは……。  それも彼が忘れた名を自分は知っている。    ルイ……ルードヴィヒ。  その名を教えて良いものか。イルゼは戸惑った。    母がいるまでの幼少の頃の知識だが、この名は、比較的珍しい男性名。  そうそう同じ名の人はいないだろう。  ルイードなり、ルイスなり……「ルイ」という略称の人なら、たくさんいるから思い出してもおかしくないだろうに……。    だが、夕方語っていた彼の言葉に嘘はなさそうだった。  名を忘れるほど──彼の記憶は虫喰いと聞いた。  この点を踏まえると、重度なのだろうと憶測できる。  つまり、彼はあの夜のことだって、詳細に覚えていないのかもしれない。   (ローレライに出会ったってことだけ覚えてるのかもしれない)    もし、名前を告げてしまったら……彼の精神は容易く壊れてしまうのではないのかと、不安に思えてしまう。    そして、同時に気づいてしまった。  彼は金髪碧眼の女性に執着し、そんな容姿の娼婦も束になって買うと……。  つまりは、完全に自分に向けられていた執念だとイルゼは気づいてしまった。    掴まれた手首から酷く熱を帯びるようだった。  それなのに、背筋には冷たい汗が一滴伝う。僅かに彼に目をやると、ミヒャエル……否、ルードヴィヒは星の光によく似た色彩の瞳を優しく細めてイルゼを見下ろしていた。  たった一瞬見ただけだが、その面はどこか儚げな美しさがあった。    間違いなく目の色が一因しているだろう。  星の光は目も眩むほどに夥しいほどの年月をかけてこの地上に降り注ぐと母から聞いたことがあった。否、この輝きは、既に滅びた星の残光なのかもしれない。そんな部分を自然と彷彿してしまう。   「ねぇ、歌ってくれないの?」    静かに問いかけられ、イルゼが首を振ると、ルードヴィヒは嬉しそうに唇を綻ばせた。  そうして強ばった唇を開き「川底の歌」を歌い始めたが
last updateLast Updated : 2025-12-14
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第32話 傲慢にも永遠に手放したくないと願った

 彼女を見た瞬間、本物の幽霊かと思った。  ローレライと呼ばれるこの岩山付近は流れが速く、舵が取りにくい。船が沈むと〝水死した幽霊が仲間を求めて人を引きずり込む〟とさえ言われるほどだ。    しかし── 「まさか、ここから飛び降りる気なの?」と訊かれ、頷いた途端、すぐに制止された。    その挙げ句、彼女の母親の言葉を聞かされた。  人生ってとても苦しいときもあるけど、素晴らしいものだと……。  前を向いて生きていけば、きっと幸せに繋がっていくと。  子どもからすれば、まるで夢物語のような耳触りの良い甘美な言葉だった。    そうして、彼女が歌い始めると、すぐに正体が〝ただの人〟だとわかった。  ……そう。亡霊にしては透けていなかったからだ。  彼女は至って普通の人間だった。この川のセイレーンであるローレライを自称していたが、それも違う。本物のセイレーンなら、この歌で川底に引き摺り落としていたはずだ。    だが、その時といえば、情けなくも怖じ気づいたままだった。  それでも、彼女と話して、歌を聴いているうちに、不思議と心の重い枷が外れるような心地がした。   「川底」を歌う歌詞はほのかに暗く、不気味にさえ思える部分はある。それでも、穏やかで優しいメロディーと彼女の歌声はあまりにも心地良かった。  彼女が何曲か歌い終えた後、やはり生きようと思い、城に帰る決意をした。    そうして、彼女と別れたが、その時自分が名乗ったかなんて覚えていない。    けれど、その後の日々はまたも凄惨な日々の繰り返しだった。  日々繰り返される折檻に、次第に心も頭も空っぽになっていった。使用人たちも見かねたのか、最終的に療養所へ入れられた。    だが、これが仕上げだったのだろう。  強い薬物で精神を徹底的に壊し、新しい人格を築かれたのだ。  幻覚を何度も見た。自我が剥がれ落ちる感覚も味わった。毎日、呪いのように植え付けられた〝ミヒャエル〟の名で、本当の名前がとうとう思い出せなくなってしまったのだ。
last updateLast Updated : 2025-12-15
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第33話 名前を秘めた渡せぬ手紙

 ────ミヒャエル様。私がローレライと知っていたのですね。 私がローレライと語ったのは貴方だけです。 いいえ、貴方以外の人にあの崖の上で会ったことがないので、私は貴方を鮮明に覚えています。貴方が忘れた本当の名を……。  そこまで書いてイルゼはペンを止め、こめかみを揉んだ。 あの夜から一週間近くが経過しようとしている。ミヒャエルことルードヴィヒとは幾度か手紙でのやりとりをした。それだけでなくお茶に二度も誘われたが、彼の口から昔の話は一度も出てこなかった。  ……いつか会えることを夢に見ていた。  つまり、ずっと探していたのだと思しい。本名を知る手がかりにして自分を探していたのだろうか。そう考えれば、療養と称したこのもてなしだって頷けるし、彼が金髪の娘に異常なほどの執着を持っていた噂も納得できる。  それなのに、彼はこの件を一切聞かないのだ。 果たして彼は何を考えているのか……。 イルゼは深いため息をつきつつ便箋を丸めてくずかごに捨てた。 (私から名前を教えて良いのか……)  出過ぎた真似かもしれない。聞かれるまで何も言わぬ方が良いか……。 イルゼが散らばった便箋を片付け始めたと同時──軽快な叩扉が二つ響いた。メラニーだろう。「はい」と短く返事して間もなく、姿を現したのは案の定メラニーだった。 「三時だしお茶はどう?」  彼女は穏やかに告げると、ワゴンを引いてテーブルの前までやって来る。だが、イルゼはすぐに立ち上がり、給仕を始めようとする彼女を遮った。 やはり、こんな好待遇は慣れないし、おかしいと思う。 「毎日、いいよ……私、お客さんじゃないし」  これを言うのはかれこれ三度目だ。イルゼがおどおどと言えば、彼女は深いため息をつき首を振る。 
last updateLast Updated : 2025-12-16
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第34話 睨み合いの甘い敗北

 驚くことだろうか? もう一声必要だろうか? イルゼはメラニーをジッと見つめて食い気味になる。 「メラニーお願い! 私お手伝いがしたい! お料理は最低限ならできる。お掃除はちゃんとできる。だって、だって! こんな待遇は絶対におかしい!」「ううん……その気持ちはありがたいよ。でも、あくまでも療養患者としてイルゼはいるわけだし……そこは私が判断を下せないわ」  彼女はこめかみを揉んで眉を寄せるが、「お願い」と、イルゼは念を押すように詰め寄った。 「分かった、分かったわ! じゃあ、その件は……旦那様に直接言うなりお手紙にするなり……」  すれば良い。と、彼女が言い切る前に「良いんじゃない?」とあの軽妙な声が響き、イルゼは目を丸くした。  その声に目をやれば、いつの間にか部屋を委ねたベールの前にミヒャエルが腕を組んで立っていた。  ……そうだ。大抵、彼は隣の部屋にいる。 勿論、外出していることもあるが、この二週間でそちらの方が希だった。  彼は、よほどのことがない限り表に出ないらしい。表の仕事の殆どをメラニーの兄たちに任せて、税金の割り当てや土地開拓の計画など主に事務作業をこなしていることが多いと、手紙のやりとりで知ったばかりだった。  表に出る時といえば、大きな金額が動く場合のみ。 ちなみにイルゼと出会ったあの時は、自警団の人件費や設備改良のために金を渡したついでに、どうやって人員を増やすかなどの相談に乗っていたらしい。 「あ……あ……旦那様すみません」  慌ててメラニーはヘコヘコと頭を下げと、ミヒャエルは少年のように悪戯気に笑んで「すげぇ取り乱し方」と嘲るように言った。 「まぁ。二週間も経つのに、イルゼは部屋に引きこもってるみたいだしねぇ。遠慮しすぎなん
last updateLast Updated : 2025-12-17
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第35話 お茶の時間、貴族らしからぬ優しい気遣い

「でもさぁ。メラニーがイルゼを思って持って菓子やお茶を運んで来たから、食べて欲しいなぁ。使用人には食材は好きにして良いって言っちゃいるけど、俺はメラニーに〝そんなことしろ〟なんて命じてない。これはメラニーの厚意だよ?」    そう言われて、メラニーを見ると彼女は、気まずそうな笑みをイルゼに向ける。    ……言葉は悪いが、やはり人を思い遣る心はある。  寧ろ、その厚意にさえ気づかず、一人で勝手に気負っていたのは自分自身。そう気づき、イルゼは黙って席についた。   「あの、熱いのに入れ直しますよ?」    主人の前だからか、メラニーは丁寧な口調で言う。  イルゼは首を横に振り、お茶を一口含んだ。生ぬるくなってしまったが、それでも充分に美味しい。寧ろ蒸し暑くなりつつある今の時期なら丁度良いと思えてしまうほどだ。   「折角だし、俺もここで休憩してくかなぁ。こんなにあるし、菓子貰っても良い?」 対面の椅子に座して、彼はテーブルの中央に置かれた焼き菓子に手を伸ばす。   「あ、旦那様のカップも持ってきますよ!」    メラニーは慌てて、部屋を出ようとするがミヒャエルはすぐにそれを遮った。   「別に良い。っていうか俺の部屋にカップあるし。階段上り下りするの面倒でしょー? っていうか、お前もお茶飲んで休憩して行けば良いんじゃね?」    ちょっと待って。と、菓子をモゴモゴと頬張りながら立ち上がった彼は、部屋に戻って行った。  そして暫く──二つのカップと椅子を引き摺って彼は戻ってきた。    しかし椅子まで。貴族の主人がするようなことではないのに。  イルゼは驚いてしまうが、メラニーも同様だった。慌ててメラニーは彼から椅子を奪うように取ろうとするが、ミヒャエルは面倒臭そうに首を振る。   「これくらい別に。ほら、お前はお茶汲んで。俺が淹れるより上手いんだし」    ──自分の仕事をしろ。と言って、ミヒャエルがテーブルにカップを置くと、メラニーは慌ててお茶を注ぎ始めた。   「ですが旦那様。このお茶、温くなってますけど」 「ん? 気温高けぇし丁度いいじゃん? イルゼ、それまずいか?」    そう訊かれて、イルゼが首を振ると「な?」と言って、彼はメラニーにニタリと笑む。   「そ、
last updateLast Updated : 2025-12-18
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第36話 温かなカップと乳母の寡黙な瞳

 六月上旬。初夏に差し掛かり、すっかり日の入りが遅くなった。 現在午後四時に差し掛かるが、いまだに太陽は煌々と輝いており、イルゼは額に滲み出た汗を拭い、窓の外を眺めて一つため息をつく。  城に来て、早いこと一ヶ月が経過した。 あれ以降、イルゼは部屋の外へ出るようになり、メラニーにぴったりくっついて歩き、使用人の手伝いをこなすようになった。  そうして彼女と深く関わるうちに知ったが、メラニーの掃除技術はイルゼの予想を遥かに超えていた。  身のこなしが軽く、手際が抜群に良い。 高い窓の掃除も何のその。華奢な体で壁に指をかけ、腕力と脚力だけでよじ登り、難なく埃を払う。 どう見ても細い腕に、そんな力が宿っているとは思えない。そんなギャップにイルゼは毎度驚かされている。  ……それ以外で驚かされたのは、ミヒャエルからの手紙を渡す時だ。  最初こそ素直に手渡しだった。 だが最近、イルゼが気づかぬうちにディアンドルのポケットへ滑り込ませるのである。 最初は手品かと思った。けれど、それはすれ違いざま、指先が一瞬だけスカートの布を掠めるだけ。そして次の瞬間、ポケットに手紙が入っているのだ。 ミヒャエルからの手紙がない日は、包み紙にくるんだ飴玉やヌガーが入っていることもある。「いつ入れたでしょうか?」と、メラニーはにやりと笑って当てるゲームを始める。  ほぼ毎日のやりとりだが、いまだに一度も当てたことがない。 決してぼんやりしているわけではないのに、本当にいつ入れたのかわからない。 とんでもない技術だ、とイルゼは素直に感心していた。  そんなメラニーを含めて、城内で働く使用人は四人だけだ。 彼女の兄──ヘルゲとザシャとは、もうすっかり顔見知り。二人ともメラニーと同じく朗らかで、人見知りのイルゼでも少しずつ馴染み始めている。  そして、もう一人は、調理場を担当する初老の女だった。 赤みを含んだ茶髪に白髪が交じり、紅葉を終えて
last updateLast Updated : 2025-12-19
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第37話 埃の図書室、本に挟まれた秘密メモ

 現在イルゼがいる場所は、城の東側。塔の真下にある図書室だった。 こぢんまりとした空間だが、背の高い本棚がぎっちりと並んでおり、その中も所狭しと本が詰まっていた。  見たところ古い本が多い。真新しいものもそれなりにあるが、殆どの見出しが色褪せていた。しかし、なぜに一人で図書室の掃除をしているのか。その理由は、昨日ミヒャエル本人に直々に頼まれたからだ。  ────重要な文献なんて置いていないけれど、どうにも使用人たちは入りにくいらしい。たまに俺が日干しに行くけれど、結構埃が積もっている。悪いが、お願いできるか? と、そのような旨の書かれた手紙を渡されて、イルゼはすぐに快諾した。  炊事の下ごしらえに洗濯に掃除と使用人の仕事は山のようにある。とはいえ、掃除に関しては、一日ですべてを終わらせるわけではないそうだ。 何やら、掃除箇所を数日に分けて回しているらしい。 しかし、自分が加わったことによって確実に効率が良くなったのだろう。循環があまりに早く来ることから、メラニーも戸惑っていた。 さすがに使用人たちの仕事を余計に奪うのは良くないと思えたので、イルゼは彼のお願いが丁度良いと思った。  けれど本当に、図書室は掃除をしていなかったのだろう。インクに埃とカビの臭いが混ざっており、部屋に踏み入った時は思わず鼻を摘まむほどだった。 すぐに換気をしたが、染みついているので臭いは簡単に剥がれない。 それでも、さすがに数時間もいれば慣れてしまう。イルゼははたきを持ち、脚立によじ登って再び本棚の上の埃を払い始めた。  そうして、幾許か。 本棚の上の掃除を終えた頃には壁掛け時計の針が丁度午後五時を示していた。あと二時間ばかりで夕食の時間となる。 まだ日も沈んでもいないので、六時くらいは粘ろう。 やり切れなかった分は明日に回せば良い。そう思って、イルゼは本棚の中の掃除を始めた。  とりあえず、面倒臭そうな分厚い文献が詰まった棚から始めることにした。 一冊如き大した重量でないが、二冊三冊と欲張って持
last updateLast Updated : 2025-12-20
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第38話 災いの瞳と古い争いの歴史

 ────シュロイエ。南東の山間部に住まう騎馬民族。 青みを帯びた黒髪と銀の瞳を持つ。南東部のツヴァルク、キーファー、ヴァイデ、フリーダなどへの侵攻。街を焼き払い、女や子どもを攫う悪行を繰り返し、〝悪魔〟と喩えられた。白銀の瞳は〝災いの瞳〟と呼ばれ、国々が束になって滅ぼすまでに半世紀を要した。  その一文を読んだイルゼは、すぐにこめかみを揉んだ。 『災いの瞳って言われてるらしーよ』 ふと、以前彼が言った言葉が頭を駆け巡る。 歴史を紐解けば、確かにそうなるだろう。  ……ツヴァルクやキーファーなどは今は領地の名だが、王国として統合される前はすべて独立した国だった。  つまり、シュロイエという騎馬民族がいたのは三世紀も四世紀も昔。否、もしかすればもっと古い。 こんな古い出来事を、いまだに持ち出して迫害されるなんて、信じられなかった。 生まれてからずっとツヴァルク伯爵領に住まうイルゼでさえ知らないのだから……。  否、自分が知らないだけか。 だが、外との交流があるヨハンもリンダも一度も口にしたことがない。つまり、皆ろくに知らないのだろう。 杞憂するのは、学がある者か、遠い昔話に詳しい老人くらいに違いない。  王宮側だって、そんなことは大して気にしないはずだ。  何せ、国が現在の領地程度に狭かった時代は、日常的に戦が起こり、各々が領地拡大に躍起になっていた。そうして勝者が敗者を吸収し、幾度も繰り返して現在の王国が成り立っている。 領地も保たぬ山岳の騎馬民族、シュロイエもその歴史の一部に過ぎない。 しかし、そんな民族がいたなど本当に知らなかった。  イルゼは深いため息を吐き、ぼんやりと項を眺めること幾許か……途端にハッと目を瞠った。 ふと、脳裏に「川底の歌」の歌詞が浮かんだのだ。  ──星の瞳を持つ者は夜風に駆け
last updateLast Updated : 2025-12-21
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第39話 図書室の無邪気な笑み

 ──翌朝。朝食を取ってすぐ、イルゼは図書室に来ていた。 本日の行程は、本棚の中の清掃。そして、落ちた塵をすべてモップで掃く。これだけやれば、きっと綺麗になるだろう。  ピタリと閉ざした窓を開けると、緑の匂いをたっぷりと含んだ初夏の風が入り込み、イルゼは深く深呼吸した。  昨日長い時間換気したお陰もあって、カビ臭さは幾分かマシになっていた。否、自分の鼻が麻痺してしまっただけかもしれないが……。そんなことを思いつつ、イルゼは早速本棚の掃除を始めた。  昨日の失敗を踏まえたお陰か、本棚掃除は思った以上に捗った。 正午になる前にはすべての本棚の清掃が終わり、残りは掃き掃除をしてモップがけで終わり。ここまでくれば、あとひとふんばりだ。 イルゼは早速、箒で部屋の隅から掃き始めて間もなくだった。 「おぉ~すげぇ。カビ臭さが薄くなってる」  間伸びた声が部屋の外からして、慌てて振り返るとミヒャエルの姿があった。 彼は濃紺の下衣のポケットに手を突っ込んでツカツカと図書室に踏入ってきた。しかし、歩くとなかなかに猫背で姿勢が悪い。 「……おはようございます」  ミヒャエル様と彼の名を付けて言いそうになるが、すぐにイルゼは口を噤む。 きっと〝様〟とかつけるなだと言われるので面倒だ。それに、あまり彼の名を呼べば、本当の名前をうっかり口走るのではないかと恐れてしまい、あれからというものの、口頭で彼の名前を極力呼ばないように注意している。 だが、彼は口を噤んだイルゼを気にする様子もなく、ニマっと口角を緩めた。 「やー。もう昼前だね。イルゼ集中して頑張ってたのかなぁ?」  偉いぞ~なんて間延びした調子で褒められるのがむず痒い。 頬をほんのり染めてイルゼが壁掛け時計を確認すると、確かにもう午前十一時三十分を過ぎている。 彼は仕事中ではないだろうか。もうすぐ昼食の時間になるので、もしや、呼びに来てくれたのか…&hell
last updateLast Updated : 2025-12-22
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