All Chapters of 過ぎ去った時間は戻れない: Chapter 1 - Chapter 10

21 Chapters

第1話

夫に閉じ込められてお城で生活して五年目、伊佐山晴美(いさやま はるみ)は偶然、夫が外に自分の身代わりを見つけたことを知った。その身代わりは晴美とよく似た容姿で、妻として公の場に姿を見せ、つまり晴美を守る盾のようなものだという。晴美の最初の反応は、信じられないというものだった。細川裕司(ほそかわ ゆうじ)は極端なまでに独占欲が強く、彼女が外出することすら許さないほどの執着ぶりだ。そんな彼が身代わりを用意するなんて、どう考えてもあり得ない。ちょうどその頃、長らく続いていた失語症が思いがけず治ったことに気づき、晴美はそれを口実に、五年ぶりに厳重に閉じ込められたお城を抜け出すことにした。彼女はタクシーを拾い、裕司の会社へと向かい、真相を確かめようとした。だが、市の中心部に入ったところで、警察に行く手を遮られた。「本日、細川社長が全ての幹線道路を貸し切って、世紀の結婚式を挙げています。関係者以外は迂回してください」晴美は戸惑いの表情を浮かべた。「どの細川社長ですか?」「田舎者だったのか?もちろん細川裕司若様に決まってるだろ!」警察は怪訝そうな顔で彼女を見つめた。「細川社長は奥さんと五年前にすでに婚姻届を出してるんだが、式は五十二回も延期されていてな。今回は細川社長が特別に市全体の警備を動員して、万が一のことがないよう厳重に護衛してるんだ……」その言葉はまるで雷鳴のように晴美の耳を打ち、頭の奥まで痺れるような痛みが走った。結婚式?裕司からそんな話、一言も聞いていない。この一週間、彼はずっと会社の仕事で忙しいと言い続け、家に帰る暇さえなかった。胸の奥で、疑念が静かに広がっていく。これまで裕司が何度も結婚式を延期してきたのは、いつも式の前日に彼女が事故に遭っていたからだった。1回目、結婚式の前夜、彼に甘い言葉でなだめられ、ちょっとだけ遊ぼうと言われたはずが、結局はジェルを十本も使い果たしてしまい、そのせいで結婚当日の朝は寝過ごしてしまった。2回目、結婚式の朝に飼い犬が突然死してしまい、予定されていた結婚式は葬儀へと変わった。そして52回目の結婚式では、彼女を式場へ送るためのウェディングカーが事故に遭った。彼女は全身に二十二か所の骨折を負い、三度も救急救命室へと運ばれる重体に陥ったが、辛うじて一命を取り留
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第2話

細川グループ本社ビルの外では、夜空に次々と華やかな花火が打ち上がった。それは、かつて晴美が好きと口にした種類のものばかりだ。次の瞬間、ポケットのスマホが突然バイブした。画面には裕司からのメッセージと、高層階の大きな窓から撮られた花火の写真が添付されていた。【晴美、今夜は花火大会だ。きれいだろ?】【会社の仕事でまだ忙しいけど、お前に会いたい。今夜サプライズも用意したよ】スマホを握る晴美の手に力がこもり、胸の奥がぎゅっと痛んだ。この五年間、裕司はいつもこんなふうに、まめに連絡をくれて、彼女に安心を与えてくれていた。もし今も何も知らないままだったなら――きっと彼のこのメッセージだけで、一日中幸せな気持ちでいられるのだろう。けれど今の彼女は、すべてを知っていた。この五年間、裕司がかけてくれた甘い言葉のうち、いったいどれが本当で、どれが嘘だったのか。考えることすら恐ろしい。晴美はメッセージに返信はせず、代わりにスマホを持ち上げて一つの番号へ電話をかけた。相手はほとんど瞬時に出て、低くて魅力のある声が受話器越しに響く。「おやおや、伊佐山お嬢さん、自らご連絡とは。あの狂気じみた旦那に嫉妬されるのが怖くないのか?」「冗談はいいから、一週間後、私の誕生日に、死を装うための段取りを頼む」裕司の宿敵・平山圭司(ひらやま けいじ)は、明らかに一瞬言葉を失った。「お前は裕司の最愛の人だろう?あの小山巧美って女はただの社長補佐に過ぎない。お前の細川夫人の立場を脅かす存在じゃない。そこまでして、なぜなんだ?」彼の声には、さらにからかうような色が混じった。「五年前、犯人からお前を助けたのは義理ってやつだ。だが今回はリスクが大きすぎる。俺にどんな得がある?」晴美の声はかすれていたが、その口調は驚くほど冷静沈着で淡々としていた。「あなたも知ってるでしょう。私は細川グループの二番目の株主よ。私名義の四十パーセントの株を、すべてあなたに譲るわ」圭司は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに口元をゆるめて笑った。「いいだろう。成約だ。七日後、迎えに行く」電話を切ると、晴美は正面の大型スクリーンを見つめた。そこに映っているのは、細川夫妻の結婚写真。だが、その花嫁は彼女ではない。小山巧美(こやま たくみ)とい
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第3話

「隣にいるのが、俺の妻だ」裕司はぐいと巧美を抱き寄せ、さっきまで冷たかった声が一瞬で柔らかくなる。「伊佐山家のお嬢さん、伊佐山晴美こそが本物の細川夫人だ。そして――」驚きの視線を無視して、裕司は一拍置き、顔面蒼白の晴美をちらりと見やった。「彼女は俺の社長補佐で、小山巧美だ。ただ妻に似ている身代わりだ。そばに置いて遊んでるだけさ。目の保養にはなるけどな」その言葉が落ちた瞬間、場内がざわめきに包まれた。説得力を増すかのように、裕司は突然身をかがめ、巧美に深く口づけた。記者たちに見せつけるように。二人の唇と舌が絡み合い、とろけるような淫らな糸を引いていた。晴美は信じられないままその場に立ち尽くし、まるで雷に打たれたようだった。だが、憎らしい失語症が喉を締めつけ、反論も問い詰める言葉も出てこない。巧美は挑発的な視線で彼女を一瞥して、笑みを浮かべた瞳には隠しきれない得意が滲んでいた。「裕司、ここ風が強いわ。帰りましょう?」頬の紅潮がまだ引かず、巧美は甘えるように裕司の腕に絡みつく。「昨夜は夜中まで私を相手にしてくれたでしょ?そのあと身体まで拭いてくれて、自分は一晩中眠れなかったのに……もう風邪ひいちゃうわよ」巧美の言葉には、どこか誇らしげな響きがあった。二人が去る直前、晴美はふと裕司と一瞬だけ視線を交わした気がした。ほんの一瞬、彼の漆黒の瞳に、言葉では言い表せないような謝罪の色が浮かんだ。野次馬たちは気まずそうに顔を見合わせ、去っていった。中にはわざとらしく大声で話す者もいる。「どうせあの女、自分から細川夫人に似せて整形したんでしょ?体でのし上がったんだよ、汚い女、ほんとに恥知らず……」悪意の視線が雨のように降り注ぎ、無数の鋭い針となって、晴美の傷だらけの心を容赦なく突き刺した。晴美の目が一瞬で赤くなり、唇の端に自嘲の笑みが浮かんだ。あの拉致事件の後、彼はこれまでと普通通りに接すると、あれほど強く誓ってくれたというのに。なのに今、裕司は守るという芝居のために、わざと事実をすり替えている。ありもしない罪を、彼女の頭にかぶせたまま。ドンッ!突然、晴美のすぐそばで、ガス漏れで爆発が起こった。熱い炎が一気に立ち上り、灼けるような熱風が彼女の腕の肌を焼く。瞬く間に広がる水
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第4話

「ごめん、さっき巧美がケガして……焦ってて、お前がいるのを忘れてたんだ……」裕司の腕が晴美の腰をしっかりと抱き寄せ、温かな掌が彼女の腰に触れた。まるで宥めるようでもあり、当たり前のように自分のものだと主張しているようでもあった。彼は慎重に彼女の体を確かめ始める。その仕草は、まるで昔の彼そのものだ。「どこか痛めてない?今すぐ家に連れて帰るから」晴美はそっと傷ついた腕を隠し、目を赤くしながら首を横に振った。距離は近いのに、心だけがこんなにも遠くに感じたのは初めてだ。彼女が助手席のドアを開けたときには、すでに巧美がそこに座っていた。「あらやだ、うっかり裕司さんの奥さん専用シートに座っちゃったみたい。でも晴美さんは普段ほとんど外に出ないんでしょう?気にしないですよね?」彼女は舌をちょこんと出しておどけてみせたが、席を譲る気配はまるでなかった。「大丈夫、彼女は気にしない」晴美が首を振るより早く、裕司が先に答えた。彼は後部座席のドアを開け、優しく宥めるように言った。「巧美はいつもわがままに育ったから、今回は足をくじいて動くのも大変なんだ」晴美は何も言わず、静かに後部座席に腰を下ろした。「晴美、彼女とはただの演技だ。嫉妬する必要なんてない」裕司は気もそぞろにハンドルを握り、バックミラー越しに何度も彼女を見やった。「外にお前を狙う男はうようよしている。俺は心配でたまらない。だから、彼女を盾にさせてもらうのが一番安心なんだ、わかるだろ?」裕司が説明を重ねるたびに、晴美の胸はさらに痛んだ。彼女は以前のように手話で返すこともせず、ただ黙り込んでいる。巧美も口を挟んだ。「そうよ、私は走ることも叫ぶこともできる健康な体。晴美さんの代わりに外の攻撃を受け止めるくらい、全然平気ですもの」彼女はわざと裕司に顔を寄せ、甘えるように彼の腕をつかんだ。「毎日細川社長のそばにいるから、何曜日にどんな色のパンツを履いてるかまで知ってるのよ。そんな私が下心なんて持つわけないじゃない?私たちは純粋な親友関係よ。細川社長がこの前、接待で間違って偽物の酒を飲んじゃったときも、病院まで送ったのは私なの。晴美さん、奥さんとして家に閉じこもって、それ知ってました?」巧美の言葉には優越感とわざとらしい探り入りがにじんでいた。
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第5話

晴美は涙をたたえた目で、自分の上に覆いかぶさる裕司を睨みつけた。胸の奥から、復讐したいという衝動が一気にあふれ出す。彼女は傷だらけの腕を持ち上げ、半乾きの血痕をわざと見せつけて真実を覆い隠した。[私がどうして純潔を失ったのか、もう忘れたの?]晴美の唇が自嘲めいた笑みを引きつらせた。彼女は自ら身体を引き離し、絶え間なく手話を打った。[全部、あなたのせいよ]裕司の身体がびくりと震えた。脳裏にあった喜びは、一瞬で痛ましい記憶に覆われた。「俺を責めてるのか?」裕司の目が血走り、彼女の言葉に完全に怒りが引き出された。「もし五年前、お前がこっそり俺に会いに来なければ、あんなふうに拉致されることも、他の男に汚されることもなかったんだ!」寝室の明かりが強すぎて、彼の目に浮かぶ嫌悪の感情の微細な表情まではっきり浮かび上がった。燃えるような二人の視線がぶつかり合い、空気が凍りつく。晴美はその目の奥に、愛と憎しみが絡み合っているのをはっきりと見て取れた。彼女は、かつて自分を守れなかった彼に後悔という罰を与えたい。そして、今はもう自分をそれほど愛していない彼にも。だが、鋭い言葉を吐き出した瞬間、麻痺していた心がなぜか再び激しく痛みだした。しばらくして、晴美は震える手で手話を打ち、空気の中に壊れた弧を描いた。[この五年間、あなたはずっと、私が汚れたと思っていたんでしょう?]別荘の中は恐ろしいほど静まり返り、骨董品の掛け時計のカチカチという音だけが響いてる。数秒の沈黙の後、裕司は声を柔らかくして答えた。「……そんなつもりじゃない」その話を聞くと、晴美は笑った。あの数秒のためらいこそが、彼の本心だった。彼女はもっと早く気づくべきだったのだ。そのとき、場違いなタイミングでスマホの着信音が鳴り響く。裕司が眉をひそめる。「巧美?」スピーカー越しに、泣き声まじりの甘えた声が聞こえた。「先生がね、足の骨まで傷ついたって……手術が怖いの……」「すぐ病院へ行くから」裕司の表情が一瞬で和らいだ。その目の奥に宿る焦りが、晴美の胸を鋭く刺した。かつてそれは、彼女だけのものだったのに。しかし今、彼の心の中で最優先される人は、とっくに彼女ではなくなっていた。裕司は素早く服を整え、冷静な声で言っ
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第6話

その後の三日三晩、晴美は高熱にうなされ、意識が戻らなかった。彼女は何度も十八歳だった頃の裕司の夢を見た。土砂降りの中、いつも片方の肩を濡らしながら、車の流れの外側を歩く彼の姿。そして、いつも自分の笑顔を映してくれたあの瞳……だが夢の終わりには、すべての幸福が泡のように消えていった。二十八歳の裕司。彼は何度も巧美のほうへ歩いていき、二人の手を取り合った背中は、どんどん遠ざかっていった。晴美は声を張り上げて呼び止めようとするのに、喉からは何ひとつ音が出ない……悪夢にうなされて目が覚めたとき、晴美の耳には裕司の怒鳴り声が響いていた。「……どうしてまだ目を覚まさないんだ!」ぼやけた視界の中、彼は病室の扉の前に立ち、真っ赤な目で院長に怒声を浴びせていた。「彼女がこれ以上目を覚まさなかったら、この病院は閉めろ。あの無能な医者どもを連れて京西市から出ていけ!」視界の隅で晴美のわずかな動きを捉え、裕司は矢のように病床へ駆けつけた。「晴美、目が覚めたのか?」彼の目の下には深い隈が刻まれ、声もかすれていた。「どうして緊急連絡先に電話しなかった?」晴美の胸の奥が一瞬、震えた。ぼんやりと、幼い頃に熱を出した時のことを思い出した。あの時も裕司はこうして傍にいて、焦りながらも優しく見守ってくれていた。けれど、甘い記憶はすぐに意識を失う直前の光景にかき消された。晴美は身を起こそうとしながら、急いで手話を打った。[巧美がボディーガードに命じて拉致したの。警察に通報しないと]「わかってる」裕司の瞳が、深く沈んだ光を宿した。「でもこれは、巧美の子どもじみた悪ふざけにすぎないんだ。もう自分の過ちもわかって、お前に謝りたいって俺に頼んできた」彼の口調は淡々としていて、それはまるで子供の取るに足らない喧嘩について話しているかのようだ。晴美は怒りで目を真っ赤にし、手の動きがあまりに速くて点滴の針が抜けそうになる。血が逆流して点滴袋の中に入り込んだ。[もし私がどうしても責任を追及すると言ったら?]「もう彼女には罰を与えた」裕司の眉間に不快の色が滲んだ。「あの子は度を越した。だから外出禁止にして、一日中家で反省させている」晴美は一瞬、呆然としたかと思うと、次の瞬間には怒りに震えながら笑いをこぼした。その笑いの度
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第7話

入院している間、裕司は一度も姿を見せなかった。彼から届いたのは、素っ気ない一通のメッセージだけ。【今出張中。プレゼント、何が欲しいかはアシスタントに言いなよ。全部買い与えるよ、お詫びの気持ちでね】晴美は返信しなかった。巧美が毎日欠かさず更新するSNSには、裕司との旅行写真ばかりが並んでいた。この期に及んで、まだ嘘をつくのか。晴美は一人で入院し、一人で食事をし、一人で薬を塗った。退院の日、それはちょうど晴美の誕生日であり、偽装死計画を実行する日でもある。「乗って。誕生日パーティーに連れて行く」黒いマイバッハの傍らで、裕司はスーツ姿で背筋を伸ばして立っていた。助手席に座る巧美は真っ赤のドレスに身を包み、紅い唇をわずかに吊り上げ、妖艶な笑みを浮かべていた。「晴美さん、今日はフォローをよろしくね。代役として、こんな高級なパーティーに出るのは初めてなんだ」その光景を目にして、晴美はふと自分の身にまとった純白のドレスを見下ろし、すべてを悟った。裕司が彼女のために用意したドレスは、巧美とまったく同じデザインだ。ただ一つ違うのは、巧美のそれがより鮮やかな赤だったこと。自分の誕生日でさえ、晴美は小山巧美という身分で、ただ傍観するしかない。豪華に飾られたクルーズ船の宴会ホールでは、高価な贈り物が小山のように積み上げられ、大スクリーンには裕司が晴美のために直筆で綴ったラブレターが流れている。しかし、晴美の心は既に麻痺していた。裕司は「伊佐山晴美」という名前を使って、華やかなヒロインを演じさせた。けれど、本人である彼女自身は結局、何者でもなかった。宴会中、晴美はまるで部外者のように、目立たない隅の方に立っていた。裕司が巧美を抱き寄せ、夫婦として客を迎える姿を、晴美はただ黙って見つめるしかなかった。まるで、あの婚約パーティーの再現のように。ぼんやりしていると、トレイを持った男性スタッフが通りかかり、うっかり晴美の肩に触れた。はっとして手元を見ると、いつの間にか一枚の小さな紙切れが握られていた。そこには、見覚えのある、どこか懐かしい筆跡でこう記されていた。【今夜八時、お前を連れ出す】「どうした?」いつの間にか背後に立っていた裕司が、不機嫌そうに眉をひそめた。「さっきのスタッフ、お前に
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第8話

その時、荒れ狂う波が一気に押し寄せ、晴美の姿を飲み込んだ。彼女が海面から消えていくのを目の当たりにして、裕司の瞳孔が一瞬で縮んだ。思わず声が漏れた。「晴美!やめろ!」張り裂けるような叫びが、瞬く間にその場の全員の注目を集めた。人前ではいつも冷静沈着な細川社長が、こんなにも取り乱すのは初めてのことだった。その場の招待客たちは一斉に息を呑み、疑わしげな視線を顔面蒼白の裕司へと向ける。「裕司、どうしたの?」巧美の顔色がわずかに変わり、表情を曇らせて、彼の腕にそっと手を回した。「そばにいるのに、どうしてそんなに大声で叫んだの……」だが次の瞬間、裕司はためらうことなくその腕を振りほどき、巧美を振り切ってデッキへと駆け出した。ハイヒールを履いた巧美は足元がふらつき、よろめきながら数歩後ずさって、なんとか体勢を立て直した。危うく派手に転ぶところだった。その甘い笑顔が、瞬く間に凍り付いた。裕司が自分にこんな乱暴な態度を取るなんて、初めてだ。巧美の胸に不快感が広がり、彼が先ほどまで凝視していた方向へと視線を向けた。窓の外では、華やかな花火が夜空を彩り、海面をきらめかせていた。その明滅する波間に、細い人影が波に揺られて上下している。身にまとったドレスが、どこか見覚えのあるものだ。それは――晴美だ!巧美の心臓が跳ね上がり、驚きが一瞬で大きな喜びへと変わった。周囲の客たちのひそひそ声など気にも留めず、彼女は慌ててドレスの裾をつまみ、裕司が駆け出した方向へと小走りに向かった。デッキの上は強い風が吹きつけ、巧美は今にも倒れそうになった。一方、裕司は必死に手すりを掴み、視線をそのかすかに見える人影に釘づけにしていた。「誰か!晴美を助けろ!」「は、はいっ!」部下たちは命令を受け、慌てて救命ボートの準備を始め、いくつかの救命浮輪を海へ投げ込んだ。だが運悪く、さらに大きな波がいくつも押し寄せてきた。白く細いその人影は、暗い海面の中へと完全に消え、跡形もなくなった。裕司の心臓が一瞬止まった。「晴美!晴美!」彼は声が枯れるまで、何度も何度も晴美の名を叫び続けた。だが返ってくるのは、波の音と風の唸りだけ。裕司の頭の中は真っ白になり、どうして晴美が海に飛び込んだのか、いくら考えても答えが出な
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第9話

高熱のせいで頭がぼんやりしている裕司の目が、ぱっと見開かれた。「晴美は今どこにいる?」彼は身を起こそうと必死にもがき、勢い余って手の甲に刺さった点滴針を引き抜いてしまいそうになった。「救助隊は三日三晩、あらゆる方向から捜索しました。しかし最終的に引き上げられたのは、奥様がパーティー当日に着ていたドレスの布切れだけです」アシスタントは少し間を置いて、戸惑いの表情を浮かべた。「救助隊の見解によりますと、サメによる襲撃の可能性が極めて高いとのことです。仮に奇跡的に難を逃れたとしても、あの波高では、熟練の水泳選手であっても一瞬で飲み込まれてしまったでしょう……奥様は……ほとんど生存の可能性がありません」その言葉は、雷が裕司のすぐ傍らに落ちるように轟き、鼓膜が焼けるような痛みが走った。彼の顔から血の気が一気に引いていった。「そんなはずがない!」裕司はふらつきながらアシスタントの前へ突進し、手の甲から血が噴き出すのも構わず、その肩を掴んで激しく揺さぶった。「捜索を続けろ!生きているなら俺の前に連れて来い。死んでいるなら遺体を探し出せ!」彼は魂が抜けたように、口の中でうわ言のように繰り返した。「晴美は泳げないんだ。自分から海に飛び込むなんてありえない。ましてや、あの子が自分からサメの餌になるなんて……あんなに痛がりなのに……」混乱の中で、ぼんやりと一つの記憶が脳裏をかすめた。あの日、晴美はデッキに一人残され、何一つ弁解しなかった。彼の瞳は枯れ井戸のように虚ろで、全身からは死の気配が漂っていた。それなのに――あの時の自分は、何も気づかなかったのだ。まさか、あの時本当に何かが起きていたのか――強い嫌な予感が胸を締めつけ、裕司の目は血走った。まるで自分に言い聞かせるように叫んだ。「彼女は絶対に殺されたんだ!今すぐクルーズ船の監視映像を調べろ!」普段、ビジネスの世界では冷静な裕司が、今は狂ったようにパニック状態に陥り、まるで世界が崩れ落ちたかのようだった。「社長……ご愁傷様です」アシスタントでさえ見ていられず、目に哀れみの色を浮かべた。「奥様は本当に自分で手すりを越えて海に飛び込みました。これが私たちが集めた証拠です」そう言って、彼は封筒を取り出した。「社長、こちらをご確認ください」裕
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第10話

お城の掃き出し窓の前で、裕司はひとり、タバコの煙に包まれながら、表情を煙の向こうに晦ましていた。指先のタバコの火が燃え尽き、熱さが皮膚を焼くように感じた瞬間、途切れていた思考が突然現実へと引き戻された。圭司が晴美を連れ去ってから、何の連絡もない日々がすでに十日も過ぎていた。裕司は視線を落とし、晴美とのチャット画面を見つめる。そこには、昼も夜も途切れることなく送り続けた数千ものメッセージが並んでいる。【どうして圭司と一緒に行った?なぜ何も言わずに去ったんだ?】【全部わかった。とにかく家に帰ってこい。ちゃんと話そう。もう拗ねないでくれ】【晴美、本当に会いたい】……メッセージを送っても電話をかけても、晴美からは一切返事がなく、すべてが虚しく消えていった。しかし、過ぎ去ったこの五年間、彼女は裕司が心を込めて建てたお城の中で、ほとんどの時間を彼のためだけに費やしてきた。彼が送るどんなメッセージにも、彼女はいつも一瞬で返信してくれた。晴美の世界には、裕司しかいなかったのだ。それなのに、彼は他人の前で身代わりを立てるなんて馬鹿げたことを思いつき、知らず知らずのうちに彼女の心を深く傷つけてしまった……後悔がこみ上げてきて、胸が締めつけられるようだ。視線の隅にふと映ったのは、机の上に置かれた婚姻届受理証明書である。裕司の胸が再び痛みで締めつけられた。晴美の去り方はあまりにも突然で、家のものは何ひとつ持って行かなかった。あの、かつて宝物のように大切にしていたこの婚姻届受理証明書さえも。裕司の目は真っ赤に染まり、指先でその婚姻届受理証明書をそっと撫でながら、喉の奥から壊れたような呟きが漏れた。「晴美、今どこにいるんだ?」周囲の空気はあまりにも静かで、自分の鼓動の音だけが響き渡る。ふと婚姻届を提出しに行ったあの日の晴美を思い出した。彼女は眩しいほどの笑顔を浮かべていた。輝くその瞳には、幸せの色があふれていた。彼女がこんな笑顔を見せたのは、いったいいつ以来だろう。裕司自身にもわからない。もしかしたら、彼が巧美のそばで一週間も家に帰らなかったあの時から。あるいは、晴美が彼が身代わりを探していたことを知ったあの日からかもしれない。だが、どんな理由であれ、考えたところで、彼女が去った事実は変わら
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