《知らないまま、愛してた》全部章節:第 11 章 - 第 20 章

274 章節

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「蓮司様のお迎えの車が、9時に到着すると伺っております」私はほんのわずかに言葉を濁した。昨夜、蓮司様からは「もし寝ていたら起こしてほしい」と伝えられている。けれど、その起こすという行為を、私が担ってよいものかどうか迷っている。この家に来てから、私は何度も自分の中の基準と、この家の空気とのずれを感じている。花嶺家であれば、迷う余地などなかった。言われたことは必ず遂行し、たとえそれがどれほど不躾であっても、躊躇すること自体が許されなかった。一応は家族だったから。その肩書きゆえの甘えもあったのだと思う。だが、ここでは違う。役割の線引きがあり、互いへの配慮が前提として存在している。だからこそ、誰にどこまで深くかかわっていいのか。どこからが踏み込みすぎなのか。そんな当たり前のようでいて、これまで考える必要のなかったことに、私はいちいち立ち止まってしまう。.「つまり、あの子は朝食もここで食べていくってことね。本当にごめんなさい」和美様が、申し訳なさそうに微笑まれる。「一人分も二人分も変わりはございませんので気になさらないでください」私はそう返しながら、キッチンのほうへ視線を向けた。実際、手間としては大差ない。むしろ人数が増えることで食卓が賑やかになるのは、どこか心地よいものですらある。「……電話ね」「失礼いたします」リビングの静かな空気に届いた電話の音。私は和美様と朋美様に声をかけてその場を離れた。胸の奥を、かすかな予感がよぎる。時間的に考えれば、蓮司様のお迎えに関する連絡の可能性が高い。けれど。「はい、菊乃井でございます」『ああ、お手伝いさん? 蓮司さんはそこにいらっしゃる?』受話器を取って応対すると、間髪入れずに女性の声が返ってきた。その声には遠慮がない。質問の形を取ってはいるが、蓮司様がここにいるという確信と、そのことへの苛立ちが混じっている。吉川様。名乗られずとも分かる。その甲高い声に、私は呼吸を整える。「はい、いらっしゃいます」『それならいいわ』通話は一方的に切れた。受話器越しに残る無機質な音をしばらく聞きながら、私はゆっくりとそれを元に戻す。……切れた、のよね?.「美香さん、受話器をそんなに見つめてどうしたの? もしかして悪戯電話?」いつの間にか背後に来ていた朋美様が、軽い調子で声
last update最後更新 : 2025-12-12
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吉川様とは、これまでにも何度か顔を合わせている。どれも短い時間だが、それでも毎回の印象が強くて、記憶にはっきりと残っている。整った容姿に隙のない所作。何よりも、場の空気を自分の思い通りの方向へと変える圧。その力強さは魅力的ではあるけれど、私は彼女が苦手だ。なぜなら、彼女は桜子によく似ている。見た目は似ていないけれど、彼女と接したときに受ける印象が同じ。雰囲気が似ていると言えばいいのかもしれない。私を値踏みするような視線の質。自分が上の立場であることを疑わない、傲慢とも感じる強さが桜子と重なる。そうした共通点が、私に吉川様への警戒心を抱かせる。だからだろう。毎回どこかぎこちない対応になってしまう。.「さっき朋美が血相を変えて二階に行ったけれど、今の電話は吉川さんかしら?」リビングに戻ったところで和美様に問われ、私は頷いた。和美様は何かを考えこむように目を細めた。それから穏やかな声で、朝食を少し早めるように仰られた。吉川様がいらっしゃると思っているのだろう。私もそう思う。だから――騒がしくなる前に食事を済ませておきたい。その意図は伝わったし、その気持ちはよく分かった。「畏まりました」私は手早く準備を進めた。キッチンに立ちながら、空気の変化を感じる。まだ何も起きてはいない。それでも、確実に何かが動き始めている。そんな予感があった。◇◇◇「おはよう」全ての料理をテーブルに並べ終えた頃、低く落ち着いた声が響いた。振り返ると、蓮司様が朋美様に半ば引きずられるような形でリビングへ入ってきていた。いつも隙なく身だしなみを整えている印象の強い方だけど、今朝は明らかに疲れが見える。顔色は悪く、目の奥にもわずかな鈍さがある。昨夜のお酒がまだ残っているのかしら。「お兄、美香さんに謝りなよ」朋美様が、遠慮のない口調で言い放つ。謝る?思い当たる節がなく戸惑うだけだったが、蓮司様は私のほうを向き、頭を下げた。「美香さん、昨夜は申し訳ない」「いいえ」なるほど。昨夜のことで朋美様が何か蓮司様に注意したようだ。「気になさらないでください。体調は大丈夫ですか?」「……ああ、大丈夫だ。ありがとう」そうは仰るものの、やはり万全には見えない。一晩休んだとはいえ、回復しきっていないのだろう。「言い訳になるが、昨夜はかな
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2-6

食後の飲み物を用意するためにキッチンに向かいかけたとき。外から車のエンジン音と、タイヤが砂利を踏む音が聞こえた。静かな朝の空気に、それらの音が思いのほかはっきりと響く。「どっちかしら?」和美様が窓のほうに顔を向けられる。その声音には、朝食の時間を邪魔されたことへの不快感とわずかな警戒感が混じっている。窓際へと歩み寄り、カーテンの隙間から駐車場を覗く。そこに停まっていたのは、昨夜蓮司様をここに連れて来た黒い車だった。「桐谷家のお車でございます」そう報告すると、和美様はわずかに眉を寄せた。吉川様はどうしたのかと思っているのだろう。確かに、あの電話の勢いではすぐにここに来そうだった。「美香さん、対応してもらえる?」「畏まりました」すぐに玄関へと向かう。外の足音が聞こえて、思わず足取りが重くなる。ヒールの音。運転手の方ではない。胸の奥に、理由のはっきりしないざわつきが広がっていく。不安と緊張と――他にも得体のしれない何か。私は扉に手をかける。深く息を整え、扉をゆっくりと開けた。予想通り、そこにいたのは吉川様だった。整えられた装い。まっすぐにこちらを射抜く視線。その存在感は、朝の柔らかな光の中であっても鋭さを失わない。やはり、似ている。苦手意識が重なり、胸がひゅうと音を立てたように感じた。「随分と驚いているようだけれど……何か疚しいことでも?」思考が止まる。疚しいこと?何が?反射的に問いの意味を尋ねようとしたが、吉川様の目を見て喉が閉まった。わずかに顎を上げ、私の反応を見定めようとする目。その値踏みする視線に、背筋が自然と伸びた。「いいえ、疚しいことなど何一つありません」なんとか言葉を返す。吉川様は私をじっと見る。怖い。「まあ、いいわ」吉川様は興味を失ったようだ。興味が失せれば、私の存在は彼女にとって取るに足らないものへ変わる。この残酷なほどあっさりとした態度が本当に桜子によく似ている。.「蓮司さんは?」「ダイニングで朝食を召し上がっていらっしゃいます」「何ですって!?」突然の大きな声に驚いた。……朝食を食べていても不思議ではない時間だと思うけれど。そんなことを思っていたら吉川様の手が伸びてきた。肩を強く押される。抵抗する間もなく、私は半歩後ろへとよろめく。吉川様はこちらに
last update最後更新 : 2025-12-19
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2-7

リビングへ戻ろうとしたら、リビングの入口で吉川様が仁王立ちしていらっしゃるのが見えた。そこが関所であるかのように立ち塞がっている。キッチン経由でリビングに行くことはできるが、吉川様の後ろを通る?難癖つけられそうなので避けたい。いっそのこと早くリビングに入ってくれないかとも思ったが、和美様が歓迎していない方に、早く中へ入ってほしいと願うのも間違っている気がする。「吉川さん、騒々しいですよ」穏やかながらもぴたりと場を制する声音で和美様が仰る。その一言で空気は一度静まるはずだったが。「あなたがそこにいたら美香さんが入れないでしょう。中に入るか退くかしなさい」和美様が私を気遣ってくれたことは分かる。でも、矛先がこちらに向きそうなセリフな気もする。……やっぱり。吉川様が私を睨む。……鋭さや強さは分かるけれど、なんで探るように見るのかしら?内心で首を傾げながらも、私は表情を崩さないよう努めるけれど……訳が分からない。吉川さんが何を考えているのかはもちろんだけど、なぜ自分が苛立ちを感じているのか。桜子に似ているから?――いっそのこと『桜子二号』と呼べばスッキリするかしら。もちろん、心の中でだけど。そんなことは口が裂けても言えない。.「おはようございます、蓮司さん」気が済んだのか。吉川様は、すっと表情を切り替えた。先ほどまでの般若顔が嘘のように、明るい表情と弾んだ声。まるで舞台の幕が上がったかのように雰囲気を変えたけれど……和美様はもちろんのこと、朋美様も蓮司様もこのあからさまな変化には気づいたはず。朋美様によると吉川様は社交界で幅をきかせているようだけど、社交は下手なのかもしれない。感情が素直に出過ぎている。悪意や敵意ほど上手に隠さないといけないというのに。「おはよう」対する蓮司様は、いつも通り淡々とした声で応じている。吉川様の態度の急変をどう感じているかは読み取れない。さすが蓮司様だと思うのに、なぜだか読めないことが少し苛立たしい。.朋美様から聞いた話では、ご兄妹は幼い頃から吉川様と面識があるらしい。いわゆる幼馴染なのかと尋ねたら、朋美様には『ただの知人。それ以上でもそれ以下でもない』と思い切り否定された。あの言葉には明確な線引きと、明らかな拒絶があった。それはさておき。吉川様は幼い頃に蓮司様に一目惚れ
last update最後更新 : 2025-12-15
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「蓮司さん」吉川様が蓮司様に近づいたことで、私はようやくキッチンに行けた。コーヒーカップを温めていたお湯は冷めてしまっている。やり直しだ。.「蓮司さん、お祖母様に言ってくださった?」キッチンカウンター越しに聞こえてくる吉川様の弾んだ声には、どこか催促めいたものが滲んでいた。「まだだ」それに対して、蓮司様の返事は短い。でも、どうしてこちらを見たのかしら。コーヒー?一瞬だったから分からない。「昨夜ここに来たのは遅くて、祖母さんたちはもう寝ていたから」なるほど。昨夜こちらに来たのは、和美様にお話があったから。でも、昨夜遅くに着いたので、話は朝することにした。納得のいく説明だと思うのだけど。「蓮司さんっ」吉川様は不満そうだ。「そもそも電話でもいいのに、どうしてわざわざこんなところに来たの?」……こんなところ。吉川様に悪気はないのだろうけれど、悪気はないからこそ普段思っていることがそのまま言葉になってしまっている。和美様の表情に不快感が浮かぶ。そしてそれは、朋美様も、蓮司様も同じだった。「会社からは家よりもここが近いし、昨夜はかなり飲んでいたんだ」「まあ、誰と飲んでいたのですか!?」矢継ぎ早に重ねられる問い。蓮司様の全てを管理したいという思いなのか。束縛するような吉川様の言葉で、場の空気が一気に重くなる。早くお湯が沸いてほしい。そんな気持ちを込めてヤカンを見てしまった。.「言い争いなら、こんなところではなく、他所でやってちょうだい」和美様が静かに、しかし、はっきりと仰った。声を荒げることはない。でも、吉川様に『こんなところ』と言われたことへの不快感が滲んでいた。そう、私たちはただ巻き込まれている。迷惑だという和美様の意見に、心の中で同意してしまった。「でも……」それなのに、吉川様はさらに言葉を続けようとした。その瞬間、和美様は小さく、しかし深い溜め息をつかれた。「ごめん、祖母さん」蓮司様が短く謝罪する。その言葉は、この場の主が誰であるかを理解している人のものだった。ここは菊乃井別邸――和美様の住まいであり、孫とはいえ蓮司様は客人だ。食事の様子から分かるように、その線引きを、蓮司様はきちんと弁えている。けれど――吉川様は違う。不満を隠そうともせず、ただふてくされたよう
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2-9

「こんな素人の作った料理なんかより、お店のもののほうが美味しいのに」吉川様が私を射抜くように睨む。……睨まれても、こればかりはどうしようもない。私がここでしていることは仕事であり、個人的な感情で動いていい場所ではない。ただ、こういう場面で言い返したところで何も変わらない。それは、これまでの桜子とのやり取りで嫌というほど学んできた。どうしようもないことで八つ当たりされ、睨みつけられて気分が良いわけがないが、黙っているに限る。……桜子たちとの日々が、こんなところで役に立つとは思わなかった。.「食べたいものを美香さんに頼んでいるの。そして、私が何を食べるかは、私が決めるわ」和美様の声は穏やかだが、少しも揺らがない。その一言で、この場の主導権が誰にあるのかがはっきりと示される。「でも、せっかくなのに……」吉川様の声がか細く揺れ、その瞳に涙が滲む。けれど、涙で場の空気が動くことはなかった。この場にいる誰もが、吉川様が本気で泣いているとは思っていない。涙は時に強い武器になるが、それが通用する相手と場を選ばなければ意味がない。男性である蓮司様ですら、まるで反応を示さない。「食事くらい好きにさせて。それとも、私はあなたが認めたものしか口にしてはいけないの? それは随分と、まあ、傲慢……」「祖母さん」和美様の皮肉が滲む言葉を、蓮司様が遮った。「……何かしら?」和美様は視線を向ける。「このあと、話したいことがある」「……分かりました。時間を作りましょう」短いやり取りだったが、それだけで場の流れが変わる。これで一旦収束する―――そう思ったのも束の間だった。「蓮司さん、せっかくだから、ここで報告しましょうよ」先ほどまで涙を浮かべていた人物とは思えないほど明るい声に、思わず目を瞬かせる。分かっていたけれど、こうもあからさまに嘘泣きだったと暴露されると……。呆れるを通りこして疲れてしまう。本当に、どこもかしこも桜子とよく似ている。「凛花」諫めるような低い声。それでも吉川様は引かず、むしろ一歩踏み出すような勢いを見せる。また、蓮司様がこちらを見る。なるほど、これからは家族のお話になるようだ。「和美様、お話の前にコーヒーをお出ししてもよろしいですか?」「そうね、人数分のコーヒーをお願い」退室するために用事をすませようとし
last update最後更新 : 2026-04-28
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2-10

「それで……もしかして、子どもができたからあなたたちの婚約を認めろと言いにきたのかしら?」和美様の問い掛けは静かだった。だが、余計な飾りを削ぎ落とした分だけ鋭く、容赦なく核心を突いていた。「そうです。この子は桐谷家の正統な後継者ですもの。ご当主様たちも喜ばれるに違いありません」誇らしげに腹部へ手を添える吉川様。その声音には、すでに勝利を手にした者らしい余裕が滲んでいた。「そう、それなら好きにしたらいいわ」「お祖母!?」和美様の返答は予想外のものだったに違いない。朋美様が思わず声を上げた。私も同じように驚いたけれど、声はもちろん、表情にも出さなかった……はず。「そもそも、あなた。どうして私に敵意を向けるの?」「……そんなことは……」ないと仰ることはできないだろう。吉川様の言動は和美様に対する苛立ちを隠していない。「別に私はあなたたちの婚約に反対しているわけではないの。婚約を認めるのは家族、桐谷家の問題でしかないものね」困ったように和美様はため息を吐く。「ただ二人の婚約の話を聞いて、親戚がここに来たのは事実よ。そこで二人は合わないと言ったのも事実。でも――ただ感想を言っただけよ」確かにその通りなのだと思う。でも、その感想が100件以上の実績に裏打ちされた予言と取れる言葉だから周りはそれを無視できないだけなのだろう。「二人の好きにすればいいじゃない」「……それだけ、ですか?」和美様は一切の温度を削ぎ落とした視線を吉川様に向ける。「それ以外に、何を言えと?」吉川様の表情が歪む。納得できない。もっと何かを引き出したい。そんな感情が露わだ。私にわかるくらいだから、和美様にはお見通しだろう。「まさか、お似合いの二人だと祝福しろというの?」和美様が冷たい笑いを浮かべる。「吉川さん。それはね。大の虫嫌いに昆虫食を美味しそうに食べろと言っているようなものよ」ひえっ!……ええ。言葉は柔らかいのに、内容は容赦がない。容赦がなさ過ぎる。ここまで率直に切り捨てる言葉を、これほど優雅に言い切れる人が他にいるだろうか。いるわけがない。.和美様はそれ以上は吉川様に興味を示さず、視線を蓮司様へと移した。その眼差しは、先ほどまでとは打って変わって真剣そのものだった。「蓮司、桐谷家ほどの家の未来の当主の結婚ともなれば、それが
last update最後更新 : 2025-12-19
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2-11

「美香さん、明日もまた人が来ることになったの」電話を終えた和美様は受話器をそっと電話機に戻した。どこか困ったように眉を寄せていらっしゃる。「お休みの予定のところ大変申し訳ないのだけれど、また来客の対応をしてもらえないかしら。もちろんその費用も、色をつけてお支払いするわ」「分かりました。大丈夫です」私は即座にそう答えた。口にした言葉に偽りはない。ここでの仕事は、花嶺家でのそれとは違い、理不尽でもなければ押しつけでもない。依頼としてきちんと成立しているし、それに対して正当に対価も支払われる。だから断る理由はない――そう思いながら。産婦人科の予約を、いつに変更するか。頭の片隅では別のことを考えている。「本当にごめんなさいね」「大丈夫です。大した用事もないので」自分でも驚くほど自然に出た言葉だったが嘘だ。避け続けている最も重要な用事があった。ただ、それに向き合う覚悟がまだできていないだけだ。.吉川様の妊娠報告から約1ヶ月。この家には連日のようにお客様がいらっしゃっている。桐谷家の一族、親戚、古くからの縁者。繋がりは様々だけれど、目的はほとんど同じ。蓮司様の婚約、吉川様、そしてお腹の子どもについて見極めるためにいらっしゃっている。要は、和美様がどう思っているかの確認だ。来客対応は特に大変ではない。食事を用意し、場所を整え、歓迎する。私は和美様に求められるまま、その役割を淡々とこなしてきた。忙しいから。頼まれたから。それを理由にして、この1ヶ月間ずっと産婦人科に行くのを先延ばしにしている。予定を入れ、直前で変更し、また別の日に移す。そうやってちゃんと向き合っている振りをして、都合のいい理由に逃げることを積み重ねてきた。気づいていないふりをしているが、分かっている。私は仕事を理由にしているのではなく、仕事を理由にして現実から逃げているのだ。.「お祖母様、明日は誰が来るの?」リビングに入ってきた朋美様が、ソファに腰掛けながら軽い調子で尋ねる。この1ヶ月、朋美様はほとんどこの家で過ごしていらっしゃる。それまでも頻繁にいらっしゃっていたが、ここまで長く滞在されることはなかった。いま桐谷本邸は親族たちがひっきりなしにやってきて、議論やら詮索やらが繰り広げられているらしい。その騒がしさを避け、朋美様はこちらに身
last update最後更新 : 2026-04-28
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2-12

――武美ちゃんが玄関を潜った瞬間から騒がしくなるよ。朋美様の予言めいた言葉は見事に現実となった。.「和美叔母様、あれは蓮司ではありません! 蓮司のふりをした何かです!」武美様の言葉が、場の空気を一瞬で塗りかえた。冗談のようでいて、冗談にしては強すぎる言葉。だが、武美様の表情は至って真剣で、その真剣さがかえって滑稽さを際立たせていた。「……和美叔母様?」黙っている和美様に、武美様が不思議そうに首を傾げる。「……みたいなことを言うかな、と思っていたのよ」「そうでしょう!」「でも、一言一句同じことを言われると複雑だわ」「かもしれないね」呆気らかんとしている武美様。呆れたようにため息を吐く和美様。私は思わず吹き出しそうになるのを必死に堪えた。「和美叔母様、本物の蓮司はきっと地球外生命体に拉致されたんです」畳みかけるような武美様の言葉に、場にいた全員が微妙な顔をする。冗談のようでいて、本気が混じっている。そして、それを和美様も頭のどこかで「そうかも」と思っていらっしゃる。……笑いを堪えているから、お腹が痛い。.和美様を「叔母様」と呼ぶ武美様は、桐谷のご当主の妹様で、英家に嫁がれた由美様のお孫様。和美様とは血縁が遠い間柄だけれど、この一族はそういう細かいことを気にしていない。武美様は和美様に気さくに接し、遠慮がないから本音がバンバン出てくるようだ。この1ヶ月間、一族の色々な方を見てきた。どの方も個性豊かで、ひときわ感情の振れ幅が大きい武美様も実に興味深い。興味深いことはもう一つ。ここに来る方は色々なことを仰るけれど、その言葉の根底には、蓮司様を守るという共通の意志がある。蓮司様を子ども扱いして、庇護しようとするのとは違う。いつだったか和美様が仰っていた『主』という言葉がぴたりと当てはまる、主を守る、そんな使命感に満ちた気持ちを感じる。ここにいらっしゃる皆様は、互いの意見で衝突することはあっても、衝突しながらひとつの方向に収束していく。全ては蓮司様のため。その意志は、まるで目に見えない網のように、一族の間に張り巡らされている。.和美様の元を訪れる方々に『祝福』がないのは、残念なことであるが、理解もできてしまう。なぜなら吉川様は婚約騒動の初期、親戚一人一人を訪ねて挨拶をする手間を惜しんで、SNS上の投稿で挨拶回
last update最後更新 : 2025-12-16
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2-13

一族の皆様が和美様の元に来るのにも、吉川様のSNSが関係している。二度目の投稿では、妊娠の報告に加えて、和美様がお二人の婚約を認めたことが書かれていたからだ。その結果、騒ぎは前回以上に激しさを増しているらしい。ここに来る方々は、先に桐谷家に行っているらしい。そこで門前払いを食らったような気分になり、その鬱憤を晴らしにこちらへいらっしゃる。門前払いと言うのも比喩で、蓮司様はきちんと皆様の対応をしているらしい。ただ、蓮司様は誰に何を言われようと吉川様と結婚すると言い続けている。その意思の強さはある意味で見事だが、同時に周囲の反発をより強固なものにしているのも事実。どちらにせよ、皆さま不平不満を溜め込んで、ここへやってくる。.「蓮司ったら、一体何を考えているのよ!」まあ、開口一番で叫んだ武美様は例外みたい。一緒にいらしたご両親の英春樹様と唯花様は、他の方々と同じく、苦いものを噛みしめたような沈んだ表情をしていらっしゃる。「そう言えば、蓮司って昔から……」唯花様がぽつりと呟けば、そこからは和美様と唯花様で親戚らしい思い出話が始まる。皆さま、こうだ。幼い頃の蓮司様の失敗談や、今回の頑固さのような意外な一面。そして身内しか知らない癖や習慣の暴露。最初は苛立ちや不満をぶつけるために集まっていたはずなのに、気づけば笑いが混じり、少しだけ空気が和らいでいく。こんな変化を、私は何度も目にしてきた。そう、なぜか私もこの会話の輪に加わっているのだ。これも、いつものこと。和美様が「美香さんもこちらにいらっしゃい」と声をかけてくださり、誰かが私に椅子をすすめてくださる。それを無碍にできなくて腰を下ろせば……気づけば自然と会話の輪の中に取り込まれている。完全な部外者のはずなのに、排除されることはない。それどころか、誰かがふと思い出したように私へと視線を向ける。「そういえば、あなたは?」そう尋ねられ、会話の中心になる時間もある。私は皆さまに簡単な自己紹介をし、和美様が私の仕事ぶりを褒めてくださる。すると、場の空気が少し変わる。「そんなにお料理が得意なの?」「じゃあ今日はこれをお願いしようかしら」こんな具合で、話題は自然と料理へ移っていく。そうして私は、その日の昼食や夕食の献立を任され、和美様の許可を得て皆さまの分の料理を作ることにな
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