All Chapters of 知らないまま、愛してた: Chapter 11 - Chapter 20

224 Chapters

2-4

「九時にお迎えの車が来ると伺っておりますので……」言いながらも、私はほんのわずかに言葉を濁した。昨夜、蓮司様からは「もし寝ていたら起こしてほしい」と伝えられている。けれど、その“起こす”という行為を、私が担ってよいものかどうか、判断に迷いがあった。この家に来てから、私は何度も自分の中の基準と、この家の空気とのずれを感じている。花嶺家であれば、迷う余地などなかった。言われたことは必ず遂行し、たとえそれがどれほど不躾であっても、躊躇すること自体が許されなかった。一応は家族。その肩書きゆえの“甘え”もあったのかもしれない。だが、ここでは違う。役割の線引きがあり、互いへの配慮が前提として存在している。だからこそ、誰をどこまで起こしていいのか、どこからが踏み込みすぎなのか――そんな当たり前のようでいて、これまで考える必要のなかったことに、私はいちいち立ち止まってしまう。.「つまり、あの子は朝食もここで食べていくってことね。本当にごめんなさい」和美様が、申し訳なさそうに微笑まれる。「一人分も二人分も変わりはございませんので……」私はそう返しながら、キッチンのほうへ視線を向けた。実際、手間としては大差ない。むしろ人数が増えることで食卓が賑やかになるのは、どこか心地よいものですらある。「あ……電話が鳴っておりますので、失礼いたします」リビングの静かな空気を裂くように鳴り出したコール音に気づき、私は軽く会釈をしてその場を離れた。胸の奥に、ほんのわずかな予感のようなものがよぎる。時間的に考えれば、蓮司様のお迎えに関する連絡の可能性が高い。「はい、菊乃井でございます」受話器を取って応対すると、間髪入れずに女性の声が返ってきた。『ああ、お手伝いさん? 蓮司さんはそこにいらっしゃる?』その声音には、遠慮のない確信と、わずかな苛立ちが混じっているように感じられた。……吉川様。名乗られずとも分かる、その独特の響きに、私は一瞬だけ呼吸を整える。「はい、いらっしゃいます」簡潔に答えると、『それならいいわ』とだけ返され、通話は一方的に切れた。受話器越しに残る無機質な音をしばらく聞きながら、私はゆっくりとそれを元に戻す。……切れた、のよね?あまりにもあっさりとしたやり取りに、思考が一瞬だけ追いつかない。.「美香さん、受話器をそんなに見つめてどうしたの? 
Read more

2-5

吉川凛花様とは、これまでに何度か顔を合わせている。回数にすれば数回、どれも短い時間だが、それでも一度一度の印象が強く、記憶にはっきりと残っている方だった。整った容姿に隙のない所作、そして何より、場の空気を自分の思う方向へと自然に引き寄せてしまうような圧。けれど、その魅力と同時に、私の中にはどうしても拭えない違和感があった。―――桜子に、似ている。見た目ではなく、受ける側の印象の問題。もっと根本的な、雰囲気と言えばいいだろうか。他者を値踏みするような視線の質や、自分の立場を疑わない強さのようなものが、どこか重なるのだ。その既視感が、無意識のうちに警戒心を呼び起こし、結果として私は毎回どこかぎこちない対応しかできていない。.「さっき朋美が血相を変えて二階に行ったけれど、今の電話は吉川さんかしら?」和美様にそう問われ、私は静かに頷いた。その様子を見て、和美様はほんの一瞬だけ思案するように目を細め、それから穏やかな声で「朝食を少し早めにお願いできるかしら」と仰った。騒がしくなる前に済ませておきたい――言葉にされなくとも、その意図は十分に伝わってくる。私は「かしこまりました」と応じ、手早く準備を進めた。キッチンに立ちながら、空気の変化を感じる。まだ何も起きてはいない。それでも、確実に何かが動き始めている、そんな予感があった。やがて、すべての料理をテーブルに並べ終えた頃、「おはよう」と低く落ち着いた声が響いた。振り返ると、蓮司様が朋美様に半ば引きずられるような形でリビングへ入ってこられた。いつも整っている印象の強い方だが、今朝は明らかに疲れが見える。顔色は悪く、目の奥にもわずかな鈍さがある。昨夜の酒が残っているのかしら。「お兄、美香さんに謝りなよ」朋美様が、遠慮のない口調で言い放つ。謝る?思い当たる節がなく戸惑うだけだったが、すぐに蓮司様が私のほうへ向き直り、頭を下げられた。「美香さん、昨夜は申し訳ない」思わず「いいえ」と返しながらも、私はその理由を測りかねる。「体調は大丈夫ですか?」「……ああ、大丈夫だ。ありがとう」そうは仰るものの、やはり万全には見えない。一晩休んだとはいえ、回復しきっていないのだろう。「言い訳になるが、昨夜はかなり飲んで……その、途中からの記憶が曖昧なんだ」なるほど、と私は内心で納得する。確かに、昨夜の様
Read more

2-6

食後の飲み物を用意しようとキッチンへ向かいかけた、そのときだった。屋敷の外から、低く抑えられたエンジン音とともに車が滑り込む気配が伝わってくる。静かな朝の空気に、その音は思いのほかはっきりと響いた。「誰かしら?」和美様が顔を窓のほうに向けられる。その声音には、わずかな違和感と警戒感が混じっているようにも感じられた。私は一礼して窓際へと歩み寄り、カーテンの隙間から駐車場を覗く。そこに停まっていたのは見慣れた黒塗りの車体だった。「桐谷家のお車でございます」そう報告すると、和美様はわずかに眉を寄せられる。「蓮司の迎え……にしては、少し早いわね。何かあったのかしら。美香さん、対応してもらえる?」「畏まりました」私は短く応じ、すぐに玄関へと向かった。足音が廊下に静かに響く。胸の奥に、理由のはっきりしないざわつきが広がっていくのを感じながら、私は扉に手をかけた。深く息を整え、ゆっくりと開く――その瞬間、視界に飛び込んできた人物に、思わず息を呑んだ。そこに立っていたのは、吉川凛花様だった。整えられた装い、まっすぐにこちらを射抜く視線。その存在感は、朝の光の中にあってなお鋭さを失わない。予想していなかった訪問と、もともと抱いている苦手意識とが重なり、胸がひゅう、と音を立てたように感じた。「随分と驚いているようだけれど……何か疚しいことでも?」開口一番に投げかけられた言葉に、私は一瞬、思考が止まる。……疚しいこと?問いの意味を反芻する間もなく、凛花様はわずかに顎を上げ、私の反応を値踏みするように見つめてくる。その視線に、背筋が自然と伸びる。「いえ、そのようなことは……」なんとか言葉を返すと、凛花様は「まあ、いいわ」と興味を失ったように言い切った。その一言で、私の存在そのものが取るに足らないものへと分類されたような感覚に陥る。「蓮司さんは?」短く問われ、私はすぐに答えた。「ただいま、朝食をお召し上がりでございます」その瞬間、凛花様の目が大きく見開かれた。「なんですって!」鋭い声が響いたかと思うと、次の瞬間には彼女の手が私の肩口を押しのけていた。抵抗する間もなく、私は半歩後ろへとよろめく。そのまま凛花様は迷いなく家の中へと足を踏み入れていった。……何か、間違ったことを言ったのかしら。頭の中で言葉をなぞり返すが、思い当たる節はない。それに――
Read more

2-7

リビングへと足を向けると、戸口のところで吉川様が仁王立ちしていらっしゃった。まるでそこが関所であるかのように立ち塞がり、室内の空気を一変させている。先ほど玄関で受けた印象と寸分違わぬ強さ――否、むしろ一歩踏み込んだことで、その圧はさらに濃くなっているように感じられた。「吉川さん、騒々しいですよ」穏やかながらもぴたりと場を制する声音で和美様が仰る。その一言で空気は一度静まるはずだったが、なぜか吉川様の視線は私に向けられた。鋭く、探るような眼差し。……なぜ、こちらを?思わず内心で首を傾げながらも、私は表情を崩さないよう努める。―――いっそ「桜子二号」とでも呼んでしまえば、この苛立ちも少しは軽くなるのかもしれない。もちろん、そんなことは口が裂けても言えないが。やがて吉川様は、すっと表情を切り替えた。「おはようございます、蓮司さん」先ほどまでの硬さが嘘のように、弾んだ声。明らかに機嫌がいい。その変化の速さに、私は一瞬だけ戸惑う。まるで舞台の幕が切り替わるように、役割ごとに顔を使い分けているのか。それともこの状況であっても喜ばしいことがあったのか。「おはよう」対する蓮司様は、いつも通り淡々とした声で応じる。その落差が、かえって印象を際立たせる。だが、それでも吉川様は満足げに表情を明るめた。その様子を見ながら、以前朋美様から聞いた話が脳裏に浮かぶ。.吉川様とご兄妹は、幼い頃からの面識があるという。いわゆる幼馴染―――そう呼ばれる関係に近いのだろうが、朋美様はその表現を頑なに否定していた。「ただの知人。それ以上でもそれ以下でもない」と。その言葉の裏には、明確な線引きと拒絶の意志が感じられた。吉川様は幼い頃に蓮司様に一目惚れし、それ以来、ずっと傍にい続けているらしい。朋美様の言い方を借りれば、「付きまとっている」という表現が最も近いとのことだった。そして、蓮司様の周囲に現れる女性たちに対しては、容赦がなかったとも聞く。近づく者は片っ端から排除する―――そうした行動を繰り返してきた結果、いつしか「近づこうとする者自体がいなくなる」という状況を作り上げてしまったのだという。想像は難しくない。むしろ、今目の前にいる吉川様の姿を見れば、容易に納得できてしまう。その行為は、蓮司様にとって直接的な害ではなかった。むしろ、煩わしいと感じていた存在が自然と
Read more

2-8

「蓮司さん、お祖母様にいってくださった?」吉川様の声は、先ほどまでの柔らかさを保ちながらも、どこか催促めいた響きを含んでいた。「まだだ」短く返した蓮司様の言葉。その直前、私は一瞬だけ視線を感じた気がした。――今、こちらを見た?けれど、確かめる間もなくその視線は外されてしまい、確証は持てない。「昨夜ここに来たのは遅くて、祖母さんたちは寝ていたからな」なるほど、と私は内心で頷く。和美様に話があったけれど、今朝にした。昨夜の時間帯を考えれば当然の判断だ。けれど、その説明に対して吉川様は納得した様子を見せなかった。「……そう言えば、どうして昨夜はこちらに?」声の調子がわずかに変わる。先ほどまでの明るさは影を潜め、代わりに詰問めいた響きが混じっていた。蓮司様の眉間に、不快感も露わにはっきりと皺が寄る。「会社からは家よりもここが近いし、昨夜はかなり飲んでいたからな」「どうしてそんなに? 誰と飲んでいたのですか?」矢継ぎ早に重ねられる問い。蓮司様の全てを管理するかのような声の調子に、空気がわずかに張り詰めるのを感じた。「言い争いなら他でやってちょうだい」その緊張を断ち切るように、和美様が静かに、しかしはっきりと仰る。声を荒げることはない。それでも、その一言には十分な制止の力があった。そう、これはあくまでも当人同士の問題だ。この場所で繰り広げるべきものではない。私も心の中で同意する。吉川様がさらに言葉を重ねようとしたその瞬間、和美様は小さく、しかし深い溜め息をつかれた。「ごめん、祖母さん」蓮司様が短く謝罪する。その言葉は、この場の主が誰であるかを理解している者のものだった。ここは菊乃井別邸――和美様の住まいであり、蓮司様はあくまで客に過ぎない。その線引きを、蓮司様はきちんと弁えている。けれど――吉川様は違った。不満を隠そうともせず、ただ不貞腐れたように口を閉ざしている。その態度に、私は思わず先行きを案じてしまう。この関係は、本当に成り立つのだろうか、と。「吉川さん。ここは私の家よ」和美様が、静かに言葉を重ねる。「私の孫でもないあなたが、私の許しもなく入ってくるのはやめて頂戴」あまりにも率直で、遠慮のない指摘だった。その言葉に、吉川様の顔が一瞬強張る。けれど、すぐに表情を整え、手にしていた紙袋を差し出した。「お祖母様に美味しいパン
Read more

2-9

和美様の言葉に、吉川様は一瞬だけ戸惑いの色を浮かべたあと、ゆっくりと私へ視線を向け、そのまま射抜くように睨みつけてきた。……睨まれても、どうしようもない。これは仕事であり、私個人の感情で動く場ではない。胸の奥に引っかかるものがないわけではないが、こういう場面で言い返したところで何も変わらないことは、これまでの経験で嫌というほど学んできた。桜子たちとの日々が、こんなところで役に立つとは思わなかったが、だからこそ私は何も言わず、ただ静かに口を閉ざす。「こんな素人の作った料理なんかより、お店のもののほうが美味しいのに」吐き捨てるようなその言葉に、否定はしない。確かに、専門の料理人が作る料理には技術も洗練もある。けれど―――。「私が何を食べるかは、私が決めます。食べたいものは、美香さんにお願いします」和美様の声は穏やかで、しかし揺るがなかった。その一言で、この場の主導権が誰にあるのかがはっきりと示される。「でも、せっかくなのに……」吉川様の声がか細く揺れ、その瞳に涙が滲む。けれど、その涙に場の空気が動くことはなかった。少なくとも、この場にいる誰一人として、それを本気の弱さだとは受け取っていない。涙は時に強い武器になるが、それが通用する相手と場を選ばなければ意味がないのだろう。男性である蓮司様ですら、まるで反応を示さない。「食事くらい好きにさせて。それとも、私はあなたが認めたものしか口にしてはいけないの? それは随分と、まあ、傲慢……」言葉の最後にわずかに含まれた皮肉に、空気がぴんと張り詰める。「祖母さん」その瞬間、蓮司様が割り込むように口を開いた。「……何かしら?」和美様は視線を向ける。「このあと、話したいことがある」「……分かりました。時間を作りましょう」短いやり取りだったが、それだけで場の流れが変わる。これで一旦収束する―――そう思ったのも束の間だった。「蓮司さん、せっかくだから、ここで報告しましょうよ」先ほどまで涙を浮かべていた人物とは思えないほど明るい声に、思わず目を瞬かせる。分かっていたけれど、こうもあからさまに嘘泣きだったと暴露されると、呆れを通りこして疲れてしまう。本当に……桜子とよく似ている。「凛花」諫めるような低い声。それでも吉川様は引かず、むしろ一歩踏み出すような勢いを見せる。そのとき、蓮司様の視線が一瞬、
Read more

2-10

「それで……その報告は、子どもができたからあなたたちの婚約を認めろということかしら?」和美様の問いは静かだったが、余計な飾りを削ぎ落とした分だけ鋭く、核心を突いていた。「ええ。この子は桐谷家の正統な後継者ですもの。ご当主様たちもさぞかし……」誇らしげに腹部へ手を添える吉川様。その声音には、すでに勝利を手にした者の余裕が滲んでいる。「そう、それなら好きにしたらいいわ」「お祖母様⁉」予想外の和美様の返答。朋美様が思わず声を上げる。私も同じように一瞬だけ息を呑んだが、和美様はわずかに目線を和らげて朋美様を宥め、そのまま吉川様へと視線を戻した。そして小さくため息をつく。「あなたが何を勘違いして、私にこうも敵意を向けるのか分からないわ」「……そんなことは……」あるに決まっている、と心の中で呟く。吉川様の言動は、和美様に対する苛立ちを隠していない。この場にいる誰もが、それを感じ取っているはずだ。「あのね、別に私はあなたたちの婚約に反対しているわけではないの。ただ、二人は合わないと思う―――ただの感想を言っただけよ」確かに、その通りなのだろう。だが、その「感想」が五十年の実績に裏打ちされたものだからこそ、周囲は無視できず、ここまで大事になっているのだ。「だから、好きになさい」「それだけ、ですか?」食い下がる吉川様に、和美様は一切の温度を削いだ視線を向ける。「それ以外に、何を言えと?」その言葉に、吉川様の表情が歪む。納得できない、もっと何かを引き出したい―――そんな感情が露わだ。私にわかるくらい。和美様にはお見通しだろう。「まさか、お似合いの二人だと寿げというの? 今さらではないかしら」和美様は、わずかに笑みを浮かべる。「吉川さん。それはね、大の虫嫌いに昆虫食を美味しそうに食べろと言っているようなものよ」……思わず、心の中で悲鳴が漏れた。ここまで率直な例えを、これほど優雅に言い切れる人が他にいるだろうか。言葉は柔らかくても、内容は容赦がない。容赦がなさ過ぎる。その一言で、吉川様の要求の無理筋さが、誰の目にも明らかになった。和美様はそれ以上興味を示さず、視線を蓮司様へと移す。その眼差しは、先ほどまでとは打って変わって真剣そのものだった。「蓮司、桐谷家ほどの家の未来の当主の結婚ともなれば、それが親戚にまで影響することは分かるわね」「ああ
Read more

2-11

「美香さん、明日もまた人が来ることになったの」電話を終えた和美様は、受話器をそっと置きながら、どこか困ったように眉を寄せていらっしゃった。その表情は決して苛立ちではなく、むしろ申し訳なさが滲んでいるように見える。「お休みの予定のところ大変申しわけないのだけれど、また対応してもらえないかしら。もちろんその費用も、色をつけてお支払いするわ」「分かりました。大丈夫です」私は即座にそう答えた。口にした言葉に偽りはない。ここでの仕事は、花嶺家でのそれとは違い、理不尽でもなければ押しつけでもない。依頼としてきちんと成立しているし、それに対して正当に対価も支払われる。だから断る理由はない―――そう思う一方で、頭の片隅では別のことを考えていた。産婦人科の予約を、いつに変更するかという現実的な問題である。「ごめんなさいね」「本当に大丈夫です。大した用事もないので」自分でも驚くほど自然に出た言葉だったが、その実「大した用事」がないわけではない。むしろ、避け続けている最も重要な用事がある。ただ、それに向き合う覚悟がまだできていないだけだ。.吉川様の妊娠報告から、約一ヶ月。この家には、ほぼ毎日のように誰かが訪れるようになった。桐谷家の関係者、親族、古くからの縁者―――理由は様々だが、目的はほとんど同じ。蓮司様の婚約と、その相手である吉川凛花様、そしてお腹の子どもについての「確認」と「見極め」だ。その度に食事を用意し、応対を整え、場を取り繕う。私はその役割を淡々とこなしてきた。そして、この一ヶ月間は、私自身が産婦人科に行くことを先延ばしにし続けてきた時間でもある。予定を入れ、直前で変更し、また別の日に移し―――そうやって、都合のいい理由を積み重ねてきた。気づいていないふりをしているが、分かっている。私は仕事を理由にしているのではなく、仕事を理由にして現実から逃げているのだ。.「お祖母様、明日は誰が来るの?」リビングに入ってきた朋美様が、ソファに腰掛けながら軽い調子で尋ねる。この一ヶ月、朋美様はほとんどこの別邸で過ごしていらっしゃる。それまでも頻繁に訪れてはいたが、ここまで長く滞在されることはなかった。桐谷本邸では、親族たちがひっきりなしに訪れ、そのたびに議論やら詮索やらが繰り広げられているらしい。その騒がしさを避けて、こちらに身を寄せているというのが
Read more

2-12

  『武美ちゃんが玄関を潜った瞬間から騒がしくなるよ』朋美様の予言めいた言葉は、見事に現実となった。「大叔母様、アレは蓮司ではありません。蓮司の振りをした何かです」―――開口一番の断言に、場の空気が一瞬で塗り替えられる。冗談のようでいて、冗談にしては強すぎる言葉。だが、武美様の表情は至って真剣で、その真剣さがかえって滑稽さを際立たせていた。「みたいなことを言うかなと思っていたけれど……一言一句同じことを言われると複雑だわ」和美様が小さくため息をつくと、私は思わず吹き出しそうになるのを必死に堪えた。「大叔母様、聞いていますか? 本物の蓮司はきっと地球外生命体に拉致されたんです」畳みかけるような武美様の言葉に、場にいた全員が微妙な顔をする。冗談のようでいて、どこか本気が混じっている。だからこそ厄介なのだ。和美様を「大叔母様」と呼ぶ武美様は、和美様の妹である英由美様のお孫様であり、つまりこの家の血縁としてはやや遠い位置にいる。しかし、その距離感を感じさせないほど遠慮がない。むしろ、遠慮がないからこそ本音が出るのだろう。この一ヶ月、ひっきりなしに訪れる親族たちの中でも、武美様はひときわ感情の振れ幅が大きい人物のようだ。だが、その激しさの裏には一貫した意思がある。「蓮司を守る」という、ある種の使命感。そしてそれは、この家に連なる者たちに共通するものでもあった。吉川様との婚約が公になってからというもの、親族たちはそれぞれの立場から動き出し、時に衝突しながらも一つの方向に収束していく。その様子は、まるで目に見えない網が張り巡らされているかのようだった。吉川様の妊娠騒動は、その流れに拍車をかけたに過ぎない。むしろ、本当の火種は別にあった。吉川様が自身のSNSで発信した、あの投稿である。  【蓮司さんの親族の皆さんに認めてもらえるように頑張る】その言葉と共に発信された婚約の報告は、世間では祝福をもって迎えられた。【お似合いの二人】とか【理想のカップル】といった言葉が並び、外から見れば何の問題もない幸福な婚約に見える。だが、内側にいる者たちにとっては、それは決して軽く流せるものではなかった。なぜなら、その投稿は「順序」を無視していたからだ。本来であれば、まず家の中での了承があり、次に親族への挨拶があり、最後に外へ向けて公表される。それが、
Read more

2-13

今回は和美様がお二人の婚約を認めたとSNSに投稿されたことで、ご親族の騒ぎは前回以上に激しさを増していた。前回は驚きと困惑が主だったが、今回はそこに「確定してしまった」という重みが加わっている。その違いは大きい。まだ覆るかもしれないという余地があった前回と違い、今回は既成事実として押し出された形になっているからだ。それに、蓮司様は誰に何を言われようと吉川様と結婚すると言い続けているらしい。その意思の強さはある意味で見事だが、同時に周囲の反発をより強固なものにしているのも事実だった。.桐谷の本邸に押しかけた親族たちは、直接本人に問いただし、その意志が変わらないと知ると、行き場のない感情を抱えたまま和美様のもとへと流れ込んでくるようだ。その結果、この別邸は連日のように人の出入りが絶えず、まるで小さな会合所のような賑わいを見せていた。その賑わいは、不思議なもの。玄関での挨拶は明るいものではなく、どこか重苦しい空気を伴っている。訪れるご親族の方々は皆一様に、渋いものを口にしたかのような表情を浮かべていた。納得できない、理解できない、それでもどうにもならない―――そんな感情が滲んでいた。……武美様だけは例外だけど。でも、武美様は頬を紅潮させて露骨に怒りをあらわにしているが、その両親である春樹様と唯花様は他の方々と同じく、苦味を噛みしめるような沈んだ顔をしていた。「蓮司ったら、一体何を考えているのよ!」武美様が声を荒げるのを皮切りに、場はいつもの流れへと移行する。「そう言えば、蓮司って昔から……」誰かがぽつりと語り始めれば、そこからは親戚らしい思い出話が連鎖していく。幼い頃の失敗談や、意外な一面、家族しか知らない癖や習慣。最初は苛立ちや不満をぶつけるために集まっていたはずなのに、気づけば笑いが混じり、少しだけ空気が和らぐ。その変化を、私は何度も目にしてきた。いまもそうで、他のご親族のときも同じだった。そして―――私も、ここにいる。ふとした瞬間に和美様が「美香さんも休憩なさい」と声をかけてくださり、私はその場に腰を下ろす。そして気づけば、自然と会話の輪の中に取り込まれている。完全な部外者のはずなのに、排除されることはない。それどころか、誰かがふと思い出したように私へと視線を向ける。「そういえば、あなたは?」と内に入れてくれる。そこで私
Read more
PREV
123456
...
23
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status