「九時にお迎えの車が来ると伺っておりますので……」言いながらも、私はほんのわずかに言葉を濁した。昨夜、蓮司様からは「もし寝ていたら起こしてほしい」と伝えられている。けれど、その“起こす”という行為を、私が担ってよいものかどうか、判断に迷いがあった。この家に来てから、私は何度も自分の中の基準と、この家の空気とのずれを感じている。花嶺家であれば、迷う余地などなかった。言われたことは必ず遂行し、たとえそれがどれほど不躾であっても、躊躇すること自体が許されなかった。一応は家族。その肩書きゆえの“甘え”もあったのかもしれない。だが、ここでは違う。役割の線引きがあり、互いへの配慮が前提として存在している。だからこそ、誰をどこまで起こしていいのか、どこからが踏み込みすぎなのか――そんな当たり前のようでいて、これまで考える必要のなかったことに、私はいちいち立ち止まってしまう。.「つまり、あの子は朝食もここで食べていくってことね。本当にごめんなさい」和美様が、申し訳なさそうに微笑まれる。「一人分も二人分も変わりはございませんので……」私はそう返しながら、キッチンのほうへ視線を向けた。実際、手間としては大差ない。むしろ人数が増えることで食卓が賑やかになるのは、どこか心地よいものですらある。「あ……電話が鳴っておりますので、失礼いたします」リビングの静かな空気を裂くように鳴り出したコール音に気づき、私は軽く会釈をしてその場を離れた。胸の奥に、ほんのわずかな予感のようなものがよぎる。時間的に考えれば、蓮司様のお迎えに関する連絡の可能性が高い。「はい、菊乃井でございます」受話器を取って応対すると、間髪入れずに女性の声が返ってきた。『ああ、お手伝いさん? 蓮司さんはそこにいらっしゃる?』その声音には、遠慮のない確信と、わずかな苛立ちが混じっているように感じられた。……吉川様。名乗られずとも分かる、その独特の響きに、私は一瞬だけ呼吸を整える。「はい、いらっしゃいます」簡潔に答えると、『それならいいわ』とだけ返され、通話は一方的に切れた。受話器越しに残る無機質な音をしばらく聞きながら、私はゆっくりとそれを元に戻す。……切れた、のよね?あまりにもあっさりとしたやり取りに、思考が一瞬だけ追いつかない。.「美香さん、受話器をそんなに見つめてどうしたの?
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