「お客さん、着きましたよ」意識が水面から引き上げられるように浮上した。どうやらほんの少しのつもりが、思っていた以上に深く眠ってしまっていたらしい。ぼんやりとした頭のまま運転手に礼を言い、運賃を支払ってタクシーを降りた。夜の空気は思ったよりも冷たく、頬に触れる風が、まだ残っている疲労と現実感のなさをゆっくりと拭い去っていく。時計を確認すると、予定していた時間を大きく過ぎていた。これでは和美様はもうお休みになっているだろう。申し訳なさと、どこか安堵に似た気持ちが胸の中で交錯する。.「随分と遅かったな」低く落ち着いた声が暗がりから響き、思わず足を止めた。「……蓮司様?」視線を向けても顔は見えない。しかし次の瞬間、暗がりの一部が明るくなる。蓮司様が煙草をくわえている姿が見えた。煙草の火がわずかに明るくなり、その橙色の光が輪郭をさらに浮かび上がらせる。意図的に顔を照らすその仕草に、少しの意地の悪さを感じた。煙草を吸っているということは、お酒も入っているのだろう。きっとこの意地の悪い雰囲気はそのせいだ。「ただいま戻りました。遅くなって申し訳ありません」頭を下げると、「顔はどうした?」と予想外の問いが返ってきた。そして、『顔』と言われて思い出す。自販機の前での出来事。「病院に向かう途中で気分が悪くなり、車を降りて顔をこすったらメイクが取れてしまいまして……メイク道具を持たずに出かけたので、ほぼノーメイクなんです」華乃が買ってくれたアイライナーと、もともと持っていた色付きリップでどうにか整えただけの簡易的なメイク。普段から濃いほうではないが、手抜き感は否めない。「お見苦しくて申し訳ありません」「いや、気になったのは……いや。うん。化粧事情は……暗いし、気にする必要はない」男性の蓮司様にとっては、言われても困る内容だったに違いない。でも、言葉に詰まりつつも、飾り気がない言葉はそれゆえに余計な遠慮も感じさせなくて……力が抜ける。「そう言っていただけると有難いです……皆さま、お食事は? 和美様はなんとでもなるから気にしないでいいと仰られましたが」「菊乃井の本邸から幾人か来た。今後も何かあればそうすればいいから、君が無理をする必要はない。体調は?」気遣いが続く。「もう大丈夫です。お酒をお飲みでしたら、何か作りましょうか?」「……無理するなと言って
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