All Chapters of 知らないまま、愛してた: Chapter 31 - Chapter 40

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2-24

「お客さん、着きましたよ」意識が水面から引き上げられるように浮上した。どうやらほんの少しのつもりが、思っていた以上に深く眠ってしまっていたらしい。ぼんやりとした頭のまま運転手に礼を言い、運賃を支払ってタクシーを降りた。夜の空気は思ったよりも冷たく、頬に触れる風が、まだ残っている疲労と現実感のなさをゆっくりと拭い去っていく。時計を確認すると、予定していた時間を大きく過ぎていた。これでは和美様はもうお休みになっているだろう。申し訳なさと、どこか安堵に似た気持ちが胸の中で交錯する。.「随分と遅かったな」低く落ち着いた声が暗がりから響き、思わず足を止めた。「……蓮司様?」視線を向けても顔は見えない。しかし次の瞬間、暗がりの一部が明るくなる。蓮司様が煙草をくわえている姿が見えた。煙草の火がわずかに明るくなり、その橙色の光が輪郭をさらに浮かび上がらせる。意図的に顔を照らすその仕草に、少しの意地の悪さを感じた。煙草を吸っているということは、お酒も入っているのだろう。きっとこの意地の悪い雰囲気はそのせいだ。「ただいま戻りました。遅くなって申し訳ありません」頭を下げると、「顔はどうした?」と予想外の問いが返ってきた。そして、『顔』と言われて思い出す。自販機の前での出来事。「病院に向かう途中で気分が悪くなり、車を降りて顔をこすったらメイクが取れてしまいまして……メイク道具を持たずに出かけたので、ほぼノーメイクなんです」華乃が買ってくれたアイライナーと、もともと持っていた色付きリップでどうにか整えただけの簡易的なメイク。普段から濃いほうではないが、手抜き感は否めない。「お見苦しくて申し訳ありません」「いや、気になったのは……いや。うん。化粧事情は……暗いし、気にする必要はない」男性の蓮司様にとっては、言われても困る内容だったに違いない。でも、言葉に詰まりつつも、飾り気がない言葉はそれゆえに余計な遠慮も感じさせなくて……力が抜ける。「そう言っていただけると有難いです……皆さま、お食事は? 和美様はなんとでもなるから気にしないでいいと仰られましたが」「菊乃井の本邸から幾人か来た。今後も何かあればそうすればいいから、君が無理をする必要はない。体調は?」気遣いが続く。「もう大丈夫です。お酒をお飲みでしたら、何か作りましょうか?」「……無理するなと言って
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2-25

「ずっと悩んでいたことが、少しだけ解決しました」「それは羨ましい」蓮司様は短く返した。今度の声音はいつもと変わらないようでいて、どこか柔らかく、僅かに力が抜けているように感じられた。なんだろう、この違和感は。明確にどこが違うとは言えないのに、いつもの蓮司様ではない気がする。言葉遣いでも態度でもない。もっと曖昧で輪郭の掴めない部分が、ほんの少しだけ変わっている。蓮司様っぽくない―――そう表現するのが一番近い気がした。久し振りにお会いするからだろうか、と考える。朋美様は、この一ヶ月の蓮司様は非常に多忙で、息抜きもできずに苛立っていると仰っていた。それならば、むしろ張り詰めた空気を纏っていてもおかしくないのに、目の前の蓮司様はどこか緩やかだ。一ヶ月ぶりのはずなのに、不思議と久し振りという感覚が薄いのは、和美様を訪ねてくるご親戚の方々から、折に触れて蓮司様の話を聞いていたからかもしれない。「会うのは久し振りな気がするが、全く久し振りな気がしないな」まるでこちらの心中をなぞるような言葉が返ってきて、思わず目を瞬かせた。蓮司様も同じように感じていらしたのだろうか。「最近の親戚は口を開けば『美香ちゃんのご飯が』『美香ちゃんの料理が』と俺に自慢してきたからな。随分とジジババの我侭に付き合わされたみたいだな」続けられた言葉に、思わず苦笑がこぼれる。ジジババ、という言葉はあまりに率直で、けれどどこか愛情の滲む響きがあった。「皆さん、美味しいと仰って沢山食べてくださるので作り甲斐があります」そう返すと、だろうなと笑われる。「武美もシフォンを絶賛していた。本当に美味しいのだと言って、それなら食わせろと言ったら絶対嫌だと部屋に持ち込んで、部屋で食うなと祖母さんに怒られていた」蓮司様はどこか楽しげに語る。そして、その光景が目に浮かぶ。思わず口元が緩みかける。「喜んでいただけて何よりです。今日はこちらにお泊りですか?」「ああ、せっかく武美が来ているからな」蓮司様の口元がふわりと緩む。精悍な顔立ちの中に浮かぶその柔らかな笑みは、ほんの一瞬、変な感じがしたのは。変な感じは蓮司様ではなく、私のほう……そわそわ?次の瞬間、吉川様の顔が浮かんだ。胸の奥に冷たいものが走る。何で吉川様が……彼女が怖い、から?もともと感じていた畏れは、華乃から桜子と親しいと聞いたこ
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2-26

「世間で俺がどう見られているか分かっている。桐谷の若様。そう呼ばれて、舐められないようにそう振る舞っている自覚もある」静かに続けられた言葉には、先ほどまでの柔らかさとは別の、確かな重みがあった。まだ三十代前半というご年齢。上の世代が力を持つ世界に立つ以上、「若様」という呼び名は称賛にも軽視にも転びうる。だからこそ、舐められないように振る舞う必要があるのだろう。その現実を受け入れ、なお立ち続けていること自体が、既に一つの強さなのだと私は思う。「和美様も、ご親戚の皆様も蓮司様が可愛くて仕方がないのですね」蓮司様の視線がふっとこちらに向けられる。生意気なことを言ってしまったかしら……でも、本当のこと。蓮司様は、当主の器をお持ちだと思う。かつて父は酔うたびに「当主たるもの」と語っていたが、様々な家の当主に接する中で、それが一つの定義に収まるものではないと知った。何か特別な能力が明確に見えるわけではなくても、自然と人を惹きつける存在がいる。性別も年齢も関係なく、その人の周りには人が集まり、離れない。蓮司様は、まさにそういう方だ。「どの方も皆さま、蓮司様を慕っていらっしゃいますね」言葉を重ねると、「それはまあ、桐谷の後継ぎだからな」と軽く返される。「敬うのではなく慕っております。それは蓮司様のお立場は関係ないと、ただその人柄を皆様は好いていらっしゃるのだと思いますよ」言い切ると、自分でも少しだけ言い過ぎたかと思う。けれど、それが本心だった。そして次の瞬間、不意に込み上げてきたのは、父の姿だった。大声で「敬え」「従え」と叫び、力と金で人を従わせようとしていたあの姿。比べること自体が滑稽で、思わず笑いが漏れた。「笑った……」呟く声に、職場なのにと思うのに、止められない。「ふふふっ……も、申しわけありません、ただ、ちょっと、思い出したことがあって……」誤魔化すが、一度こぼれた笑いは簡単には収まらない。あの滑稽さと、今目の前にいる人の在り方の違いがあまりにも鮮やかで、可笑しくて仕方がなかった。.「君も……」「え?」不意の言葉に顔を上げながら、間の抜けた声が出てしまった。「親戚連中が君を大変気に入っていると聞いている……ちゃっかり夕飯まで食ってるし」蓮司様の続きの言葉に、思わず苦笑する。「私こそ、楽しい思いをさせていただいています」「あ
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2-27

「……ふっ」小さく息を漏らすような音が聞こえて、思わず顔を上げる。今、笑われた?それとも、ただの息遣い?……違う、肩が震えている。笑われた。「おかしい、ですか?」恐る恐る尋ねてしまったけれど……聞かなかったことにするべきだった?「いや、すまない……変ではないが……いや、変なのか……意外とは思ったのだからな」謝っていたのに、まだどこか楽しそうにしている。面白がっている様子が見え見えで、少しだけ頬が膨らみそうになる。「考えてみれば納得だ。君の料理は本当においしいからな。いろいろな味を知っているからこそできることなんだろうな、あれは」思いがけない、取り繕う以上の誉め言葉。しかも、しみじみ言われて、急に顔が熱くなる。そんな風に真っ直ぐ評価されることには慣れていない。いえ……和美様とか朋美様の言葉は、嬉しいけれど、ここまでではない……蓮司様、だけ?……なんで?.「いや、失礼。知っていれば作れるわけではないな。それなら俺は料理の達人のはずだ」「お料理、なさるんですか?」蓮司様の声が自嘲気味だから思わず聞き返す。「いや、全然。全くできない」即答された。その潔さに、思わず瞬きをする。「うちの一族は外から嫁入り、婿入りした者以外は全員料理ができない。うちの場合は両親ともに一族だから全滅だ」「それは……みなさま作る機会がないだけでは?」「そういう全滅ではない。簡単に言えば料理オンチだ」「……オンチ」「不器用なわけではない。もちろん味が分からないわけではない。でも出来たものが漏れなく不味い」「不味い……え、不味いのですか?」信じられずに確認すると、しっかりと頷かれた。「不味い。砂糖と塩を間違えるといった古典的な失敗を、どれだけ注意していてもそれレベルの失敗をどこかでやる。見た目がよくても絶対に不味い。呪われているのではないかってくらい不味い」しかも、断言された。そこまで言い切られると、逆に興味が湧いてしまう。「それでは、和美様も?」「とんでもない物を作る」即答され、思わず息を呑む。和美様のあの鋭い観察眼と、今聞いた“料理の壊滅的な腕前”がどうしても結びつかない。ある意味では、才能の偏りが極端な一族なのかもしれない。「おそらく俺たちはコンビニがなくなったら生きていけない」さらりと言われ、思わず苦笑する。社会的には頂点に近い
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2-28

「言い訳になるが……『すぐそこに美香さんの料理があると分かっていてコンビニのおつまみなんて耐えられないんだけど~』と朋美が言ってな」蓮司様が肩をすくめるようにして言った。その声音には、わずかな照れと、どこか楽しげな響きが混ざっている。思わず目を瞬かせた。朋美様の口調の再現があまりにも自然で、まるでご本人がそこにいるかのようだったからだ。え、こんなことまでお上手なの、と内心で驚いてしまう。「この時点で俺と武美はかなり飲んでいて気も大きくなっていて、怒られることを覚悟して食べることにした」意外な一面に気持ちが盛り上がっていたため、続いた言葉になんとも言えない気持ちになる。冷静な判断力そのものは残っていたのだろう。けれど、それを適切な方向へ使う余裕はなかったらしい。「一通り食って、ちょっと一服と思いながら夜風に当たっていたら徐々に冷静になって、明日の俺たちの朝食は作ってもらえないのではないかと……俺は別に卵かけご飯でもいいのだが、それさえ祖母さんは許さないんじゃないかなと思ってなと苦笑交じりに語られ、ああ、と腑に落ちる。「それで帰りが遅いと仰られたのですね」ストックを食べてしまった分の穴を埋めてほしかったのだろう。ご自身でどうにかしようにも、料理に関しては『呪われている』とまで言い切るほどなのだから、選択肢は限られている。「それは違う」「え?」即座に否定され、間の抜けた声が出た。「君がまだあの……」蓮司様がなにか言いかけたそのとき、「蓮司ー!」と鋭く通る声が夜の空気を裂いた。同時にガラス戸が開く音がして、ベランダに設置された防犯ライトがぱっと点灯する。突然の明るさに目がくらみそうになる。「蓮司と……美香さん?」続いた声に視線を向ける。「ただいま戻りました……武美様?」そこに立っていた武美様は、なぜか蓮司様を睨むような目を向けていた。その鋭さに、思わず息を呑む。「美香さん! 帰ってきたんだ、おかえりー!」その空気を押しのけるように明るい声が響き、武美様の横から朋美様が身を乗り出すように姿を見せた。……“お帰り”。お帰りという言葉は、何度も聞いたことがあるはずなのに、その響きはどこか特別で、胸の奥にじんわりと広がる。初めてではないのに、ひどく久し振りに感じるのはなぜだろう。思わず目の奥がじんと熱くなり、視界が滲む。朋美様の笑
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2-29

「お兄と武美ちゃんのことが気になる?」不意に朋美様に問われ、思わず手を止めた。麦茶を注いでいたコップの中で氷が小さく音を立てる。「朋美様?」聞き返すと、にこりとした笑みが向けられる。それは軽やかなようでいて、どこかこちらの内側を見透かしているような鋭さも含んでいた。気になるか……それは、確かに気になる。けれどそれをそのまま口にするのも憚られる。「お二人も食べるなら、一度に三人分作ってしまったほうがいいので」少しだけ的外れな答えに逃げる。でも、嘘ではない。一人分も三人分も手間は大して変わらないが、二度に分けて作るとなると流石に効率が悪い。冷蔵庫の中はすでに空に近く、献立の組み直しも必要になる―――そんなことを頭の中で計算しはじめると、朋美様の笑う声が聞こえた。「美香さんはそっちかって思って」「……どういう意味でしょうか」戸惑いながら問い返すと、彼女は椅子に腰掛け、ゆったりとした仕草でグラスを傾ける。「うちって恋愛に対しては両極端なの」唐突に話題が変わった。「恋愛、ですか?」と繰り返しながらも、私は自然とその言葉に意識を向けていた。恋愛という言葉は、どこか遠いもののようでいて、完全に無関係ではいられない響きを持っている。「思いっきり恋愛体質って人たちと、恋愛に対しては超淡白という人たちにバシッと分かれるの。うちの両親は前者。いまだラブラブ。社交とは別に月に一回は必ずデートしている」楽しげに語る朋美様に、「素敵ですね」と素直に感想が口をついて出た。そういう関係は、少し眩しくもある。「朋美様はどちらなのですか?」「超淡白。今までそういう意味の好きな人って一人もいなかったし」あっさりとした答えに、胸の奥がわずかに揺れた。好きな人が一人もいない。それは、私も同じなのではないか。誰かと恋愛するということを、真剣に考えたことがなかった。思い返せば、小学校に上がって間もなく柾さんとの婚約が決まり、それが当たり前の前提として日常に組み込まれていた。ちょうどその頃、西園寺家の頼人兄さんが長年の婚約者と結婚したこともあり、「婚約している相手がいるなら恋愛は不要」という価値観が、ごく自然に刷り込まれていったのだと思う。世間一般とは少しずれているのかもしれないが、周囲の環境がそうであれば、それが基準になる。私立の学校ではその婚約も周知されていたため、
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2-30

地方大学への進学を勧めたのは玲子さんだった。当時の私は、それを単純に学費や生活費の問題だと受け取っていた。家の状況を考えれば、できるだけ負担の少ない選択をするべきだと納得もしていたし、疑問を抱く余地もなかった。いま振り返ると、その提案には別の意図が含まれていたのではないかと思わずにはいられない。あの頃からすでに、桜子と柾さんを近づけるための布石が打たれていたのではないか、と。卒業して家に戻ると、父には「婚約者なんだから、もっと柾君と交流しろ」と言われた。その言葉自体は間違っていない。むしろ当然のことだろう。婚約している以上、互いを知る努力をするのは自然な流れだ。けれど、現実には私と柾さんの間には、その「自然」が存在していなかった。小学生の頃は、月に一、二度顔を合わせて軽く話をする程度。中学生になると、その機会すら減り、何かの催しで偶然顔を合わせたときに挨拶を交わすくらいになった。高校に入る頃には共通の知人もいなくなり、連絡を取ることすらなくなっていた。そんな関係のまま時間だけが過ぎていったのだ。だからこそ、いざ「交流しろ」と言われても、何を話せばいいのか分からなかった。地方での生活を経て戻ってきた私と、ずっとこの環境で過ごしてきた柾さん。その間にある空白は想像以上に大きく、共通の話題など見つかるはずもなかった。戸惑う私と、思うようにいかないことに苛立つ父。その空気を和らげるように、玲子さんが提案したのが「桜子を同席させる」というものだった。今思えば奇妙な提案だ。婚約者同士の交流の場に、なぜ第三者が同席する必要があるのか。しかし当時の私は深く考えることもなく、それを受け入れた。柾さんも特に異を唱えず、結果としてその場は成立した。こうして整えられた場で、会話の大半は桜子が担った。彼女は話題が豊富で、場を回すことに長けていたから、沈黙に困ることもなく、私はむしろ助けられているとさえ感じていた。あのときは、それで良かったのだと思っていた。けれど、いま思い返して気づく。あの場で交わされていた会話の中に、「思い出」という言葉がやけに多かった。気にも留めなかった。多少は違和感があったかもしれないけれど、柾さんと二人での時間をさけて蓋をしたのだろう。思い出が多いということは、それだけ共有していた時間があったということ。私にはない思い出。つまり、その時間の中
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2-31

「朋美様には婚約者はいらっしゃらないのですか?」「いないよ」ちょっと踏み込んだ質問かと、好奇心に緊張を織り交ぜた問いにあっさり返ってきた答え。その軽やかさに一瞬拍子抜けする。「一族には若い人がそれなりにいるし、みんな仲いいし、政略が必要なわけでもないから、結婚してもしなくてもいいよって状況なんだ」「自由、なのですね」あっさりとした理由に、素直に感想がこぼれる。私の周囲では、結婚や婚約は多かれ少なかれ家の事情と結びついていたから、その言葉は少しだけ遠い世界の話のように感じられた。「それがそうでもないんだよね」朋美様は苦笑する。「いつかお祖母様たちの手の上で転がされるの、私」「どういうことですか?」手の上で転がる?その意味が分からず、首を傾げる。「和美お祖母様にはあの目があるから、みんな人を紹介するときには本人より先に和美お祖母様に言うのよ。朋美にこの人はどうかなって感じで」そう言われて、思わず納得する。あの観察眼―――人の本質を見抜くような鋭さを思い出せば、確かに相談したくなる気持ちは分かる。「それで『いいね』となると、恋愛畑組の親族が出会いを演出するのよ。恋愛超淡白組はそもそも恋愛に興味がないから放置、誰も何も止めない」「それはまた……」呆れつつも、どこか妙に合理的だとも思ってしまう。和美様の“目”の実績を考えれば、成功率が高いことも想像に難くない。「他人事だと面白いのよ」朋美様は楽しそうに笑う。「実際に和美お祖母様が『いいね』といった二人って本当にお似合いだし、出会いからして一目惚れみたいにビビビッてくるらしいし」「すごいですね」思わず感嘆の声が漏れる。「子どもの頃はそんな風に出会った二人の話を聞くのは楽しかったんだけど、いざ自分がこの年になって対象者になると複雑だよね」その言葉にはわずかな現実味が滲んでいた。他人事で傍観者だったのに、突然我がごとになるのだから、戸惑いがあっても仕方がないだろう。「嫌なのですか?」「嫌ではないよ」即答される。「恋愛に興味がないせいか進んで好きな人を探しにいかないから、好きになれる人を連れてきてくれるのはありがたいとさえ言える」……なるほど。「恋愛のスリルを味わいたいわけではないし、浮気や不倫みたいなドロドロ愛憎劇を味わいたいわけではないし」淡々と語るその様子に、確かに朋美
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2-32

「ズバッと聞くね。美香さん、浮気をする男ってどう思う?」朋美様に問われた瞬間、頭の中に浮かんだのは柾さんの顔だった。けれど、その像はすぐに霧散する。どう思うか、と問われても、胸の奥に何かが引っかかる感覚はない。「私に関与しなければどうでもいいですね」「意外と冷徹!」朋美様は楽しそうに笑った。その笑い声が収まった直後、ふと何かに気づいたように表情が変わる。「……もしかして、浮気されたことがある?」「まあ、似たようなことは……ありますね」少しだけ声を落として聞かれ、曖昧に返すと「えええ!」と大きな声があがった。「美香さんみたいな恋人がいて浮気するって、馬鹿なの?」大げさに驚かれた。恋人ではなくて婚約者なのだけど、面倒になりそうだから訂正しなかった。「どんな女なら美香さんから恋人を奪えるの? あ、二次元!」「え?」間の抜けた声が出る。「三次元で実体のある人間の美香さんはダメというパターン?」冗談めかして言われたならよかったけれど、朋美様は真剣な顔。「そういう人なら私は最初から関わりを避けますね」「……そうだよね」妙に納得された。どんどん会話がおかしくなっている気がする。そういえば、そろそろいい頃合いかな。だし巻き卵に包丁を入れる。完全に冷めきってはいないが、形は崩れない程度には落ち着いている。多少出汁が滲むが許容範囲だ。小皿に盛り、爪楊枝を添えて差し出すと、朋美様は嬉しそうに一口で頬張った。「やっぱり美味しい~、どうやったらこんなに美味しく出来るの?」無邪気に聞かれたものの、その言葉に一瞬迷う。教えること自体は問題ないが、先ほど聞いた桐谷家の料理事情……料理オンチを思い出すと、果たして教えてよいものかどうか躊躇が生まれる。「そうですね……」美味しくするための細かなコツはいくらでもあるが、まずは失敗を避けることが先決だろう。「失敗する要素をなくすといいかもしれませんね。料理を始める前に使う材料を並べる、それ以外のものはしまうか手の届かないところに置いてしまう。これだけで失敗する確率はかなり落ちます」砂糖と塩を間違えるような初歩的なミスは、これで防げるはずだ―――いや、蓮司様は何をやってもそのレベルの失敗をするみたいなことを言っていた。これでは防げないかもしれない。そんな妙な確信が拭えない。「失敗する要素をなくすって?」
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2-33

恋愛劇はいまも昔も人の心を強く引きつける。古典から現代のWEB小説に至るまで、形を変えながらも繰り返し描かれるのは、結局のところ人の欲望と不安、そして独占したいという身勝手な願いだ。とはいえ、そんなドロドロの愛憎劇に実際に巻き込まれるのは御免こうむりたいし、誰それの浮気だ裏切りだといった話題に当事者として関わるのは疲れるだけだ。けれど、関わらない立場―――つまりは舞台袖から覗き込むだけの『家政婦の女』というモブであれば、どれほど間近であっても安全圏のまま観劇を楽しめるのではないか。そんな少々不謹慎なことを考える今日この頃である。.「お帰りなさいませ、武美様」「ただいま、美香さん」蓮司様の車が静かに停まると、助手席のドアが開き、武美様が軽やかに降りていらっしゃった。夜の空気はまだ肌寒く、玄関先の灯りに照らされたその姿はどこか凛としている。武美様はいま、この菊乃井別邸に滞在していらっしゃる。海外から戻られたばかりで本来はご実家に身を寄せておられたが、医師免許をお持ちということで和美様が強く滞在をお願いしたのだという。和美様は最近お体の不調を訴えることが増えている。医師である身内がそばにいることへの安心感は計り知れないだろうが、同時にそれは見過ごせない何かがあるということでもあり、私としては心配が募るばかりだ。「蓮司、今日もこっちに泊まっていくでしょう?」武美様が、運転席側から降りてきた蓮司様に声をかける。「ああ」「ちょっと蓮司さん!」後部座席のドアが勢いよく開き、吉川様が割り込むようにして降りてこられた。幼馴染の女性が助手席、そして婚約者が後部座席―――この構図には見覚えがある。武美様のお祖母様である由美様からおすすめいただいたWEB小説、その中で繰り返し描かれていた配置と寸分違わない。「吉川さん、助手席を譲ってくれてありがとう。私、車に乗るとすぐに酔っちゃうから」武美様が穏やかにそう言う。あの小説でも、幼馴染の女性は同じ台詞を口にしていた。けれど、その言葉が真実かどうかは別の話だ。「白々しい嘘つかないでください! 武美さん、そんな柔ではないでしょう!」吉川様は即座に反論し、武美様の前に仁王立ちになる。その指差し方はどこか芝居がかっていて、思わず某少年探偵の決めポーズを連想してしまう。「凛花、俺は武美と用事があると言った
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