All Chapters of 知らないまま、愛してた: Chapter 21 - Chapter 30

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2-14

「ん~、美味しい!」お湯が沸くのを待つ間、朋美様にコーヒーカップの準備を手伝っていただいたお礼として、皆様にお出しする予定のシフォンケーキの切れ端をお出しした。もちろん、これは端材とはいえ味に遜色はないし、むしろ焼き立てに近い分だけ香りも柔らかい。それに――朋美様がこれを狙って手伝いを申し出てくださったことも、分かっていた。「これ、絶対に武美ちゃんの好みだよ」頬を緩めながら朋美様が言う。フォークで小さく切り分けながら、彼女は首を傾げた。「いつもの美香さんのクリームとは少し違うよね。武美ちゃんの好み、知ってたの?」その問いに、私は手元の作業を止めずに答える。「武美様のお名前は、ご親族の皆様の会話の中でよく耳にしておりましたから。武美様がお好きだと仰っていたケーキを、以前に私もいただいたことがありまして……それを思い出して、お口に合えばと思い、少しだけ寄せてみました」「……美香さん、親戚の話を覚えているの?」朋美様は少し驚いたように目を丸くする。まさか、と心の中で苦笑する。「一言一句を覚えているわけではありません。ただ、重要そうな情報だけを拾っているだけです」.それは、昔からの癖のようなものだった。花嶺家では、「言われていないからやらなかった」は通用しなかった。むしろ「言ったでしょう」と叱責され、そのたびに罰を受けた。罰は決して身体的なものばかりではない。私にとって何より重かったのは、自分の時間を奪われることだった。休むことも、考えることも許されず、ただ働かされる時間。その苦しさを知っているからこそ、私は誰かの何気ない一言にも耳を澄ませるようになった。独り言のような呟きや、会話の端にこぼれる希望や不満。それらを拾い集め、次に何を求められるかを予測する。そうすることで、ようやく罰を避けることができた。「はあ……すごいわ。本当に。お祖母様が美香さんを気に入る理由が分かる気がする。……というか、最近は他の人たちも美香さんのこと好きになってるよね」朋美様は感心したように肩をすくめる。「まあ、それなら嬉しいですわ」私は軽く微笑む。「だってさ、お兄の婚約のことで愚痴りに来たはずなのに、帰る頃には全員が『あれ美味しかった』とか『次は何が食べたい』とか言ってるじゃない。実際、リピーター多いし」確かに、と内心で頷く。「蓮司様のご婚約が、ご親族の
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2-15

「お待たせいたしました」リビングの入口で声をかけた瞬間、それまで流れていた三人の会話がぴたりと止まった。空気が切り替わるあの一瞬には、いまだに少しだけ緊張する。けれど、それもすぐにいつもの仕事の感覚に上書きされる。私は順にコーヒーを配り、続いて朋美様がシフォンケーキをテーブルに並べていく。先ほども召し上がっていたはずなのに、朋美様はさりげなく一番大きなものをご自分の前に置いていらっしゃる……見なかったことにしよう。.「うわっ、美味しい! めちゃくちゃ美味しい! 大叔母様、これどこのシフォンケーキ?」武美様が目を輝かせながら声を上げた。「美香さんの手作りよ、美味しいでしょう」和美様がどこか誇らしげに答える。「なんで大叔母様がそんなに自慢げなの……朋美までドヤ顔してるし……へえ、あなたが噂の家政婦さんか」苦笑気味に和美様へ視線を送り、次に朋美様へ呆れた目を向けてから、武美様の視線がまっすぐに私へ向けられた。その目には明確な“値踏み”が含まれている。けれど、気にしない。自分の仕事が完璧だとは思っていないが、和美様にご満足いただけているという自負はある。それで十分だ。「ふうん……お祖母様に気に入られるだけあるわ」武美様の目元が緩んだ。「由美様、でございますか?」思わず問い返す。気に入られている、という実感はあまりなかったから。武美様のお祖母様であり、和美様の妹である由美様は、料理や菓子の感想を求められても「まあまあ」としか仰らない方だ。それが不満というわけではない。ただ、評価が読めないだけで。「お祖母様は人見知りでツンデレなのよ」武美様があっさり言い切る。その言葉に、和美様も朋美様も小さく頷いた。なるほど……ツンデレ。「私、三日前に深夜に日本に帰ってきたのよ」さらりと告げられたその一言に、この人の行動力の一端が見える。帰国してすぐに動き出し、昨日は本邸、今日はここ。息をつく暇もない。「今朝は久しぶりにテニスラケットを出して素振りをしていたの。中高とテニス部で、全国大会までいったのよ」「すごいですね」と素直に返すと、「ありがとう」と軽く笑ってから続けた。「昔取った杵柄で平手打ちには自信があるんだけど、ちゃんと決めたいから練習しておこうかなって思って」……ん?一瞬、言葉の意味を測りかねる。「武美ちゃんの平手打ちって、風が唸
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2-16

意識が浮上してくる感覚は、まるで深い水の底からゆっくりと水面へ押し上げられるようだった。重たい瞼をどうにか持ち上げると、視界に飛び込んできたのは見慣れた顔―――華乃だった。「華乃……」名前を呼ぶと、彼女は安堵したように息を吐いた。「大丈夫か? 菊乃井様から倒れたと連絡を受けて来たんだ」その言葉に、遅れて状況を理解する。倒れた。つまり私は、あの場で意識を失ったのだ。……原因は分かっている。春樹様の声だ。どこかで聞いたことがあるような、過去の記憶を無理やり引きずり出されるような感覚。それに加えて……多分、寝不足。ここ最近ずっと、『妊娠』という現実から目を背け続けていた自業自得の結果だ。……あれ?しまった。いまの華乃は【華乃】ではない。短い髪、スーツ姿、化粧もしていない――完全に【花岡乃蒼】としての姿だ。そうだ、ここは菊乃井邸。和美様や朋美様、そして桐谷家の関係者もいる。私は無意識に華乃の名前を呼んでしまった。自分の迂闊さに、胸の奥がひやりと冷える。しかし、華乃――いや、乃蒼はそんな私の動揺に気づいていないのか。あるいは気づいていても敢えて触れないのか、声は淡々としていた。「少し休んだほうがいい。顔色が悪い」その声は低く落ち着いていて、外で見せる【乃蒼】のものだ。【華乃】の柔らかさはそこにはない。その切り替えの鮮やかさに、改めてこの人の強さと、抱えているものの重さを思い知らされる。.花岡乃蒼が華乃の本名であり、社会での顔だ。華乃はトランスジェンダーであり、女性として生きたいと願っている。それでも外では徹底して男性として振る舞っているのは、偏見や差別から身を守るため―――そして何より、たった一人の家族である母親を悩ませたくないという思いがあるからだ。時代は少しずつ変わってきているとはいえ、「トランスジェンダー」という言葉が一般的になる以前は「性同一性障害」と呼ばれていた。その“障害”という響きが、どれだけ人を縛り、傷つけてきたかは想像に難くない。私ですら完全に理解しているとは言えないのだから、上の世代にとってはなおさらだろう。だからこそ華乃は、外では完璧な男性【花岡乃蒼】を演じ続けている。救いといえば、二年ほど前に【華乃】がパートナーに出会えたこと。【華乃】のパートナーである佳孝君も、同性愛者であることを公にした
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2-17

「……“かの”?」不意に落ちてきた低い声に、思考が途切れた。過去の記憶に引きずり込まれていた意識が一気に引き戻された感覚には驚きしかなく、私は反射的に顔を上げる。視界に入ったのは華乃――いや、【花岡乃蒼】の肩越しに立つ蓮司様の姿だった。その背後には朋美様と和美様の姿もあり、ようやく自分がリビングのソファに横たえられていることに気づく。このほんの一瞬の空白の間に、現実が一気に押し寄せてきた。軽率だった、ここで華乃の名を呼んでしまったこと。気を抜いてしまったこと。私は目だけで華乃に「ごめん」と訴える。すべてに対する謝罪だ。それに対して華乃はほんのわずかに口元を緩め、「大丈夫」と目で返してくれた。その笑みが、逆に胸に刺さる。「“かの”とは私のことです。花岡乃蒼の花と乃の字から“かの”。私の愛称です」自然な声音で、さらりと説明する華乃。その切り返しは滑らかで自然なものだけど、最初から用意されていたであろうこの言葉は私には不自然だ。思わず、華乃に手を伸ばしていた。「愛称……随分と親しいんだな」それに気づき、止めさせたのは蓮司様の声。見ると、蓮司様の視線は、わずかに鋭さを帯びていた。探るような視線。けれど華乃はそれすらも軽く受け流すように、にこやかに続けた。「プライベートでは友人ですから。大学時代からの付き合いで、その縁で彼女にはうちの会社に来てもらいました。彼女が家事のエキスパートであることは以前から知っていましたし」言葉の端々に、嘘はない。ただ真実の一部だけを切り取って並べている。その絶妙な距離感に、私は改めて感心すると同時に、どこかで安堵していた。華乃は、自分の秘密も、私の事情も、守ってくれている。「さて、彼女も目を覚ましたので、私は彼女を病院に連れていきます。菊乃井様、本日は東国がご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」きっぱりとした声で話を切り上げる華乃。和美様は首を横に振った。「いいえ、ここ一ヶ月、美香さんには無理をさせてしまったから」「本人がやると決めて引き受けたことです。ミスは東国の責任です」華乃は私を庇うことも、甘やかすこともしない。その代わりに、責任を明確にする。厳しいけれど、それが華乃の優しさだと私は知っている。「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」自分の口からも謝罪の言葉を絞り出す。「謝罪は受け入れるわ。
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2-18

「桔梗が雇ってほしいとうちに来た日、桔梗の首の後ろに歯形がついているのが見えたの」静かに告げられたその一言に、三ヶ月も前の出来事だというのに、私は反射的に首の後ろへ手を回していた。そこに、まだ残っているような気がしてしまった。指先に触れるのは何もないはずの皮膚なのに、あのときの感触が蘇るようで、ぞっとする。「桔梗が男を避けていることは知っていたけれど、こういうのは出会いだし。いい人を見つけたから、あの錦野柾との婚約がなくなったのだと思ってもいたの……その様子だと、違うみたいね」その言葉に、首元を押さえる手に力がこもる。違う。そんな綺麗なものではない。出会いでもなければ、選んだわけでもない。「なにがあったの?」その問いは、真っ直ぐだった。その瞬間、視界が揺らぎ、私はあの夜へと引き戻された。暗闇。冷たい空気。恐怖。体の奥に刻み込まれた痛み。思い出したくないのに、忘れようとしたからこそ、より鮮明に蘇る。抵抗した。必死に逃げようとした。けれど、あのときの私はあまりにも無力だった。.男に襲われたのは、あれが初めてではない。大学生の頃、同じアパートに住む男の先輩が部屋に押し入ってきたとき、襲われかけた。あのときはまだ男性が苦手というだけで、男だからで疑ってはいなかった。顔見知りだった。同じ大学で、同じ建物に住んでいるというだけで、どこか安心していたのだと思う。油断していた。帰宅して、玄関の鍵を開けて、何の警戒もなくドアを開けた、その一瞬だった。背後に気配を感じたときにはもう遅かった。押されて、よろめいて、気づけば床に倒れ込んでいた。息をつく暇もなく体を押さえつけられ、視界が歪む。何が起きているのか理解するより先に、恐怖が全身を支配した。あのときは運が良かった。華乃が異変に気づいてくれた。華乃が来てくれなければ、どうなっていたか分からない。あの出来事を境に、私は男性に対して明確な警戒心を持つようになった。全員がそうではないと、頭では理解していた。それでも「違うかもしれない」という希望より、「もしそうだったら」という恐怖の方が強かった。だから“男性”というだけで距離を取った。線を引いた。近づかないようにした。大学を卒業して実家に戻ってからも、その警戒は消えなかった。むしろ、別の形で続いた。桜子の“お友だち”。彼らは悪意
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2-19

下着を無理やり引き剥がされた。子どもじゃない。その先を理解していた。布が肌に食い込む痛みと同時に、逃げ場のない恐怖が全身を支配した。声を張り上げて泣き叫んでも、男は一瞬たりとも動きを止めなかった。まるでこちらの存在など最初から意識していないかのように、無機質で、冷酷で、ただ目的だけを遂げようとする獣のようだった。無言のまま足をこじ開けられ、何の配慮もなく体内に異物が押し込まれた瞬間、腹の奥が裂けるような激痛が走った。呼吸が止まり、悲鳴すら遅れて喉を震わせたが、それすらなんの意味を持たなかった。男は止まらなかった。乱暴に揺さぶられるたび、内臓が押しのけられ、身体の内側を蹂躙される感覚が鮮明に刻まれていく。吐き気が込み上げ、視界が歪み、意識が遠のいていく。どこかで、これ以上は耐えられないと身体が拒絶しているのに、それでも終わらない。やがて痛みすら輪郭を失い、ただ鈍い圧迫と嫌悪感だけが残り、意識はぼんやりとした闇に沈んでいった。不幸中の幸いと言うべきか、その先の記憶は曖昧で、断片的にしか残っていない。ただ一つ覚えているのは、終わりを願い続けていたことだった。いつか終わる、早く終われ―――それだけを繰り返し、心を切り離すことでしか耐えられなかった。男は何度も同じ行為を繰り返した。そのたびに身体は勝手に揺さぶられ、魂だけが置き去りにされていくようだった。.「う゛っ!」突如として現実に引き戻される。喉の奥からこみ上げる吐き気に抗えず、身体が前屈みになる。「桔梗!」華乃の焦った声と同時に車が大きく揺れ、急停止したことをぼんやりと理解する。だが確認する余裕などなく、震える手で鞄の中をまさぐる。指先が探り当てたビニール袋を広げた瞬間、こみ上げてきたものを抑えきれず吐き出した。「げぇっ」酸味を帯びた臭気が鼻を刺し、さらに吐き気を誘発する。胃の中のものを吐き切ってもなお、痙攣のように身体が震え、「ぐうっ」と呻き声が漏れる。「桔梗!」助手席のドアが開き、外気が流れ込む。冷たい空気が肺に入ると同時に、少しだけ意識が戻る。華乃が手際よくシートベルトを外し、半ば引きずるように外へ連れ出してくれたのが分かった。「うっ……」外の空気に触れて一瞬楽になるが、脳裏に蘇る記憶が再び吐き気を呼び起こす。三度目の嘔吐は、もう何も出るものがなく、ただ胃酸だけが
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2-20

冷たい水をゆっくりと喉に流し込みながら、私は途切れ途切れに、あの夜のことを華乃に話した。言葉にするたびに胸の奥がざわつき、記憶の断片が鮮明さを取り戻していく。それでも、一度口にしたものは止められなかった。長い時間だったと思う。途中で何度も言葉に詰まり、沈黙が落ちた。それでも華乃は一度も急かさなかった。ただ隣にいて、私の言葉を受け止めるように静かに耳を傾け続けてくれた。その沈黙は決して冷たいものではなく、むしろ「ここにいていい」と言われているような、許されているような感覚を伴っていた。.「ふう」息を吐く。すべて話し終えた。胸の奥に溜まっていたものが少しだけ軽くなった気がした。消えたわけではない。ただ、押し込めていたものに形が与えられ、外に出たことで、ほんのわずかに呼吸がしやすくなった。それだけでも、その変化は確かで……いま、私は穏やかだ。私はきっと、誰かに聞いてほしかったのだろう。そして、その「誰か」は華乃しかいなかった。華乃がいてくれてよかったと、心から思った。「ごめん」ぽつりと華乃が呟いた。「華乃?」思わず顔を上げると、彼女は視線を落としたまま続けた。「何も知らずに、何も考えずに妊娠とか言って……ごめん」その声はかすかに震えていた。「ううん、それは当たっていたし……普通なら、そんなことが起きたなんて思わないよ」そう返しながらも、胸の奥に小さな棘のような痛みが残る。非現実的だろうと、私には実際にあったことだ。「でも、気づくべきだった」華乃はかぶりを振るようにして言葉を重ねた。「桔梗にこれまであったことは聞いていた。事情は全部じゃないけど、それなりに知っていたんだ。だから、その可能性を私は考えるべきだった。考えるべきだったのに……本当にごめん」唇を強く噛みしめたあと、堪えきれなかったのか、彼女の頬を涙が伝った。その姿を見たとき、不思議と私は救われた気がした。自分のために涙を流してくれる人がいる。その事実が、張り詰めていた何かを緩めていった。私はそっと華乃の肩に寄り掛かった。華乃の体温が伝わる。震えているのは彼女なのか、それとも私なのか分からない。ただ、ここに一人ではないという確かな感覚だけがあった。これはきっと、幸せなことなのだろう。.「気をつけていたんだよ……」ぽつりと零す。「動画配信で護身術も少し
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2-21

「お祖父さんちは?」華乃が静かに問いかける。「……従兄がいるから」短く答えると、華乃はわずかに眉をひそめた。「あのニート、まだ西園寺家にいるのか。そもそも、アイツが諸悪の根源なんじゃないか? あいつに襲われたから桔梗は……初めてを、そんな形で……」その言葉は、怒りと悔しさが滲んでいた。分かっている。華乃が私のために怒ってくれていることは。でも、それは違う。少なくとも、単純に一人のせいにできる話ではない。「それは、八つ当たりで言いがかりだよ」私は小さく首を振った。それでも、「諸悪の根源」という言葉が胸の奥に引っかかる。完全な間違いだとは言い切れない自分がいることに気づいてしまったからだ。. * .西園寺家に居座っているその従兄――西園寺明広は、母の妹である明子叔母様の一人息子だ。いわゆる働いていない大人で、家に依存している存在。昔から、なぜか私に対して執着のようなものを向けてきた。といっても、特別に会話をした記憶はほとんどない。私が子どもの頃、よく一緒に遊んでいたのは叔父様の家の三兄妹で、彼らと庭を駆け回っていたとき、視界の端にちらつくように明広兄さんがいた、という程度の印象だった。頼人兄さん、理人兄さん、そして蝶子――三人とも優しくて、私にとって数少ない安心できる存在。だが、今はもうそれぞれの人生を歩んでいる。頼人兄さんと理人兄さんは結婚して家を出て、蝶子は海外で学問に没頭している。あの頃の「安全な場所」は、もうどこにもない。.明広兄さんと初めてまともに言葉を交わした記憶は、私が十歳の頃。母と一緒に西園寺家を訪れ、客間で着替えをしていたとき、ノックもなく扉が開いた。驚いて悲鳴を上げる私の前で、明広兄さんは一瞬だけ固まり、それから「間違えた」と言った。そのときの表情は、忘れられない。謝罪というよりも、何かを確かめたような、満足げな色を帯びていたのを、今でもはっきり覚えている。でも―――明子叔母様も一緒に謝罪し、周囲も「うっかりだろう」と収めた。私もそのときはそう信じた。けれど、あの視線だけは、どうしても忘れられなかった。それ以来、私は無意識のうちに明広兄さんを避けるようになった。そして、決定的だったのは、私が十七歳のとき。祖母が体調を崩したと聞き、学校帰りに見舞いに行った。思ったより元気そうな姿に安心し、帰ろうとしたそのと
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2-22

「子どもを堕ろすのは、仕方がないから?」華乃の問いは、静かであるのに妙な重さを、期待のようなものを持っていた。「華乃?」「暴行されたときのことを思い出すから産みたくないとかではなくて?」華乃が続けた言葉に、胸の奥に沈めかけていた記憶が軋み、ぐうっと胃が動く。こみ上げてくるものを押し込めるように深呼吸を繰り返しながら、私は言葉を選んだ。「子どもを見るたびにあの夜のことを思い出すかもしれない。でも、それは子どものせいじゃないわ。子どもがいてもいなくても、あの日のことは忘れられない」言葉にしたことで、逆にその事実が輪郭を持って迫ってくる。そう、たとえ運命的な出会いがあって、誰かに愛され尽くすような未来があったとしても、あの夜は消えない。どれほど優しくされても、不意に蘇る恐怖に私はきっと悲鳴をあげるだろう。そんな自分を、誰かがずっと愛し続けられるのか―――その問いに、私は首を横に振ることしかできない。「子どもに罪はないって使い古された言葉だけど真理ね。悪いのは私。現実逃避をしてあの日をなかったことにしようとして、アフターピルを飲まなかったから……そのせいでこんなことになって……」言葉の最後は、かすれて消えた。胸の奥で「ごめんなさい」という言葉が渦巻くけれど、それを口にする資格が自分にあるとは思えない。この子にとって私は、これから存在を消そうとしている人間なのだから。「あのさ……」間……ずいぶんと、言いにくそうだ。「あくまでも提案なんだけど、この子どもを私たち三人で育てない?」唐突に投げられた言葉に、思考が止まる。「三人でって……私と華乃と佳孝君でってこと?」確認すると、華乃は小さく頷いた。その提案は現実離れしているはずなのに、不思議と完全には否定できない重みを持っていた。華乃はゆっくりと言葉を続ける。「半年前にさ、似たような話があったんだ」語られたのは、佳孝君のもとに相談に来た女性の話だった。夫の暴力から逃げ出し、幼い子どもを抱えて行き場を失っていた女性。生活の基盤もなく、子どもを施設に預けることまで考えていたという。「私と佳孝、そのとき養子の話をしててさ。日本じゃ同性同士で親権を持つのは難しいし、どうにか別の形で家族を持てないかって」その状況で持ち上がったのが、三人で子どもを育てるという案だった。「俺たちが未成年後見人になって
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2-23

泣いたあとの喉の渇きは、体の奥から水分を引きはがされたような感覚を伴う。ペットボトルを傾けても、口に触れる水はわずかで、舌を湿らせるには足りなかった。喉の奥に残るひりつきと、胸の内に残る感情の余韻が、まだ消えていないことを示しているようだった。「泣いたからな。もう一本買ってくるよ」華乃の声には気遣いと呆れが混ざっている。「私も行く。甘い物が飲みたい気分だし、華乃の分も買ってくるよ」「私も行く。その言葉を聞いたら甘い物が飲みたくなった」些細なやり取りなのに、こうして誰かと一緒に動くことで、さっきまでの張り詰めた空気が少しだけほどけていくのがわかる。二人で自販機まで歩く道のりは短い。選んだミルクティのボタンを押し、落ちてくる音を聞きながらしゃがみ込むと、ふと視界に映った自分の顔に息を呑んだ。「なにこれ?」思わず漏れた声に、「ミルクティじゃないのか?」と的外れな返答が返ってくる。「違う、私の顔、なんかもう、めちゃくちゃ」「……泣いたからな」鏡代わりの自販機の反射に映る自分は、目の周りが黒く滲み、頬には涙の跡が残っている。「け、化粧落とし、持ってない?」縋るように聞けば、「持ち歩くわけないだろ」と即答される。「早く飲み物買っちゃって。車に戻って、最初のコンビニに寄って、化粧落としを買ってきて」「はいはい」「早く、早く」焦りは加速するばかりで、頭の中には“知り合いに会ったらどうしよう”という最悪の想像が広がっていく。そんな矢先、「家政婦さん?」と呼ぶ声がして、心臓が嫌な音を立てた。恐る恐る横を見ると、黒塗りの車の窓が静かに開き、吉川様がこちらを見ていた。ついさっき思い浮かべた“最悪”が、これ以上ない形で現実になった瞬間だった。「……なにやっていらっしゃるの?」言葉が詰まる。顔を隠そうとしながら後ろを見ると、助けを求めたはずの華乃は缶が引っ掛かって取り出せずにいるという、これまた間の悪い状況。「もしかしてそこの方となにやら……っ!」吉川様の声が止まったのは、ようやく缶を取り出して顔を上げた華乃を見たからに違いない。華乃を見た人の多くはまず驚くからだ。「そちらの方は?」吉川様の声音には、興味と値踏みが混ざっている。「うちの社長です」「家政婦派遣業の『コンシェルジュ・ド・ハウス』の花岡乃蒼と申します。いつもうちの東国がお世話にな
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