《知らないまま、愛してた》全部章節:第 21 章 - 第 30 章

274 章節

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「ん~、美味しい!」シフォンケーキを一口食べた朋美様が相好を崩す。皆さまにお出しするケーキの端っこ。それを、コーヒーカップの準備を手伝っていただいたお礼として朋美様に出した。端材とはいえ味に遜色はないし、むしろ香ばしい味わいで、私自身はこちらも好きだ。それに、朋美様がこれを狙って手伝いを申し出てくださったことも分かっていた。「これ、絶対に武美ちゃんの好みだよ」頬を緩めながら朋美様が言う。フォークで小さく切り分けながら、首を傾げた朋美様。「いつもの美香さんのクリームとは少し違うよね」「ええ。武美様のお好みに合うように少し調整しました」「え、武美ちゃんの好みを知ってたの?」好みを知っていたというか……。「武美様のことは、ここにいらした皆さまの会話でよく耳にしていて、どなたが仰ったかまでは忘れてしまいましたが、武美様がお好きだというケーキを聞いた覚えがあって」知っている店だった。完全に再現はできなかったが、武美様の好みに合うように少しだけ寄せてみた。朋美様の反応を見るに、成功したようだ。「美香さん、親戚の話を覚えているの?」朋美様は少し驚いたように目を丸くする。「まさか、全てを覚えているわけではありません。ただ、重要そうな情報だけを拾って覚えているだけです」それはもう癖のようなものだ。花嶺家では、「言われていないからやらなかった」という言い訳は通用しなかった。むしろ「言ったでしょう」と私のせいにされて怒られて、そのたびに罰を受けた。罰は決して身体的なものばかりではない。私にとって何より重かったのは、自分の時間を奪われることだった。休むことも、考えることも許されず、ただ働かされる時間。その苦しさを知っているからこそ、私は会話を覚えておくようになった。独り言のような呟き。会話の端にこぼれる希望や不満。それらを拾い集め、次に何を求められるかを予測する。そうすることで、ようやく罰を避けることができるようになった。.「はあ……すごいわ。お祖母様が美香さんを気に入る理由が分かる気がする」「ありがとうございます」「というか、最近は他の人たちも美香さんのこと大好きだよね」朋美様は感心したように肩をすくめる。「それはとても嬉しいです」私は軽く微笑む。「だってさ、お兄の婚約のことで愚痴りに来たはずなのに、帰る頃には全
last update最後更新 : 2025-12-17
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2-15

「お待たせいたしました」リビングの入口で声をかけると、三人の会話がぴたりと止まった。私は順にコーヒーを配り、続いて朋美様がシフォンケーキをテーブルに並べていってくださった。朋美様はさりげなく一番大きなものをご自分の前に置いていらっしゃる。さっきも食べていたのに。……見なかったことにしよう。.「うわっ、美味しい! めちゃくちゃ美味しい! 和美叔母様、これどこのシフォンケーキ?」武美様が目を輝かせながら声を上げた。「美香さんの手作りよ、美味しいでしょう」和美様がどこか誇らしげに答える。「なんで和美叔母様がそんなに自慢げなの……朋美までドヤ顔してるし……」武美様がこちらを見る。「あなたが噂の家政婦さんか」その目は、私を観察していた。値踏みされることには慣れているし、武美様の視線は嫌ではない。最初から私を『家政婦なんて』と下に見ていないと分かるから。自分の仕事が完璧だとは思っていない。でも、和美様にご満足いただけているという自負はある。私は家政婦という仕事にプライドがある。「ふうん……お祖母様に気に入られるだけあるわ」武美様の目元が緩んだ。「お婆様というと、由美様ですか?」思わず問い返す。だって、特別気に入られているという実感はなかった。英由美(はなぶさ ゆみ)様は、周りから私の作った料理やお菓子の感想を求められても「まあまあ」としか仰られなかった。それが不満だったというわけではない。ただ評価が読めず、こうして『気に入る』と言われる実感がないだけ。「お祖母様は人見知りでツンデレなのよ」武美様があっさり言い切る。その言葉に、和美様も朋美様も小さく頷いた。なるほど……ツンデレ。「私、三日前に深夜に日本に帰ってきたのね」帰国してすぐに動き出し、昨日は本邸、今日はここ。息をつく暇もない。武美様はとても行動力がある方のようだ。「帰国早々、久しぶりにテニスラケットを出して素振りをしたのよ」「テニス、ですか?」脈絡がない。「中高とテニス部で、全国大会までいったのよ」「すごいですね」「ありがとう。だから、平手打ちには自信があるのよ」「……え?」「素振りは練習、ちゃんと決めたいからね」……ん?一瞬、言葉の意味を測りかねる。「武美ちゃんの平手打ちって、風が唸ってから“ブワッチーン”って音するよね。あれで
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2-16

それは、まるで深い水の底からゆっくりと水面へ押し上げられるような感覚。「おい、しっかりしろ」華乃の声に、重たい瞼をどうにか持ち上げる。視界いっぱいに広がったのは華乃の顔。「華乃……」名前を呼ぶと、心配そうな顔が安心したものに変わった。「大丈夫か?」「うん……」「菊乃井様から倒れたと連絡を受けて来たんだ」倒れた。つまり私は、あの場で意識を失ったのだ。原因は……色々ある。多分、一番大きいのは寝不足。ここ最近ずっと、『妊娠』という現実から目を背け続けていた自業自得。あとは――春樹様の声。どこかで聞いたことがあるような声。ただ、過去の記憶が無理やり引きずり出されるような嫌な感じがした。……あれ?しまった。ここは菊乃井邸で、いまの華乃は『華乃』ではない。和美様や朋美様、そして桐谷家の関係者もいる。しまった。無意識に『華乃』と呼んでしまった。自分の迂闊さに、胸の奥がひやりと冷える。短い髪。オーダーメイドのスーツ姿。化粧もしていない。「少し休んだほうがいい。顔色が悪い」「ごめん」倒れたことと、この場で『華乃』と呼んだことを謝る。華乃は困ったように笑った。「気にするな、大丈夫だ」その声は低く、落ち着いていた。華乃の外向けの顔――花岡乃蒼(はなおか のあ)。その名で振る舞うときの声になっている。華乃の声に、いつもの柔らかさはない。全くの別人。改めて華乃の強さと、抱えているものの重さを思い知らされる。◇◇◇花岡乃蒼は、華乃の本名。表向きはそう名乗っている。別に怪しいことをしているわけではなく、トランスジェンダーの華乃は「女性として生きたい」と願っている。それでも外では徹底して男性として振る舞っている。それは偏見や差別から身を守るためと、何よりも、たった一人の家族である母親を悩ませたくないという思いがあるからだ。トランスジェンダーについて、かつては医療の場で「性同一性障害」という診断名が使われていた。その『障害』という言葉に、苦しんできた人もいるのだと思う。ある程度想像できる。でも、ある程度だけ。華乃を傍で見てきた私ですら完全に理解しているとは言えないのだから、上の世代にとってはなおさらだろう。時代は少しずつ変わってきているとはいえ、長年染みついた価値観が変わるのは、とても難しい。.だか
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「……“かの”?」不意に落ちてきた低い声に、思考が途切れた。過去の記憶に引きずり込まれていた意識が一気に引き戻された。反射的に顔を上げる。視界に入ったのは華乃――いや、乃蒼の肩越しに立つ蓮司様の姿だった。その背後には朋美様と和美様の姿もある。ようやく自分がリビングのソファに横たえられていることに気づいた。ほんの一瞬の空白を経て、現実が一気に押し寄せてきた。軽率だった。ここで華乃の名を呼んでしまった。気を抜いてしまった。私は目だけで華乃に「ごめん」と訴える。すべてに対する謝罪だ。それに対して華乃はほんのわずかに口元を緩め、「大丈夫」と目で返してくれた。その笑みが、逆に胸に刺さった。.「『かの』は私の愛称です。花岡乃蒼の花と乃の字から『かの』です」自然な声音で、さらりと説明する乃蒼。その切り返しは滑らかで自然なものだけど、最初から用意されていたであろうこの言葉は私には切なく聞こえた。思わず、乃蒼に手を伸ばしていた。「愛称……ね。随分と親しいんだな」蓮司様の異様なほど冷たく聞こえる声に手が止まった。蓮司様を見ると、その視線は鋭い。探るような視線。私ではない。乃蒼を見ている。でも、乃蒼はそれすらも軽く受け流すように微笑む。「プライベートでは友人ですから」「……友人?」「私たちは大学時代からの付き合いで、その縁で彼女にはうちの会社で働いてもらっています。そうでなければ彼女のような家事のエキスパート、私たちの業界では引っ張りだこで、小さな我が社になど来てはもらえません」言葉に嘘はない。ただ真実の一部だけを切り取って並べている。その絶妙な説明に私は感心すると同時に、どこかで安堵していた。乃蒼は自分の秘密だけでなく、私の事情も守ってくれている。「それでは、私は彼女を病院に連れていきます」乃蒼が立ち上がり、和美様に頭を下げた。「菊乃井様、本日は東国がご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」和美様は首を横に振った。「いいえ、ここ一ヶ月、美香さんには無理をさせてしまったから」「本人がやると決めて引き受けたことです。ミスは東国の責任です」乃蒼は私を庇うことも、甘やかすこともしなかった。「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」私も体を起こし、自分の口からも和美様に謝罪する。「謝罪は受け入れるわ。だから
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2-18

「桔梗が雇ってほしいとうちに来た日、首筋に歯形が残っているのが見えたの」静かに告げられたその一言。もう3ヶ月以上前の出来事だというのに、私は反射的に首の後ろへ手を回していた。そこに、まだ残っているような気がしてしまった。指先に触れるのは何もないはずの皮膚なのに、あのときの感触が蘇るようでゾッとする。「桔梗が男を避けていることは知っていたけれど、こういうのは出会いだし」「……え?」「いい人を見つけたから、あの錦野柾との婚約がなくなったのだと思ってもいたの」華乃がこちらをじっと見た。「……その様子だと、違うみたいね」その言葉に、首元を押さえる手に力がこもる。違う。そんな綺麗なものではない。出会いでもなければ、選んだわけでもない。「なにがあったの?」華乃の問いは、真っ直ぐだった。その瞬間、視界が揺らぎ、私はあの夜へと引き戻された。暗闇。冷たい空気。恐怖。体の奥に刻み込まれた痛み。思い出したくないのに、忘れようとしたからこそ、より鮮明に蘇る。抵抗した。必死に逃げようとした。けれど、あのときの私はあまりにも無力だった。.男性に襲われたのは、あれが初めてではない。過去に二回。最初は高校生のとき。従兄の明広兄さんに襲われた。未遂だった。でも押し倒されたトラウマと、服の上からでも体を触られたことで、男性が苦手になった。二回目は、大学生のとき。一人暮らしの部屋に押し入られた。同じアパートに住む大学の先輩だったけれど、顔見知りというだけの人だった。明広兄さんのときは、頭のどこかで自分に隙があったのだと思っていた。同じ部屋に二人でいたとか。だから、それからは気を付けていた。でもまさか、ろくに知らない他人に部屋に押し入られるとは思わなかった。油断していた。帰宅して、玄関の鍵を開けて、何の警戒もなくドアを開けた。だって、同じ大学の学生専用のアパートだから。背後に気配を感じたときにはもう遅かった。押されて、よろめいて、気づけば床に倒れ込んでいた。息をつく暇もなく体を押さえつけられ、視界が歪んだ。何が起きているのか理解するより先に、恐怖が全身を支配した。あのときは運が良かった。隣の部屋に華乃がいて、異変に気づいてくれた。華乃が来てくれなければ、どうなっていたか分からない。.あの出来事を境に、私は男
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下着を無理やり引き剥がされた。子どもじゃないから、その先を理解していた。布が肌に食い込む痛みと同時に、逃げ場のない恐怖が全身を支配した。声を張り上げて泣き叫んでも、男は一瞬たりとも動きを止めなかった。こちらの意思など全く気にしていなかった。無機質で、冷酷で、ただ目的だけを遂げようとする獣のようだった。.無言のまま足をこじ開けられ、何の配慮もなく体内に異物が押し込まれた。あの瞬間、腹の奥が裂けるような激痛が走った。呼吸が止まり、悲鳴すら遅れて出た。それも、なんの意味を持たなかった。男は止まらなかった。乱暴に揺さぶられるたび、内臓が押しのけられた。身体の内側を蹂躙される感覚が鮮明に刻まれていった。吐き気が込み上げ、視界が歪み、意識が遠のいていった。どこかで、これ以上は耐えられないと身体が拒絶しているのに、それでも終わらなかった。やがて痛みすら輪郭を失った。ただ鈍い圧迫と嫌悪感だけが残り、意識はぼんやりとした闇に沈んでいった。不幸中の幸いと言うべきか。その先の記憶は曖昧で、断片的にしか残っていない。ただ一つ覚えているのは、終わりを願い続けていたこと。いつか終わる。早く終われ。ただ、それだけを繰り返していた。心を切り離すことでしか耐えられなかった。男は何度も同じ行為を繰り返した。そのたびに身体は勝手に揺さぶられ、魂だけが置き去りにされていくようだった。◇◇◇「う゛っ!」突如として現実に引き戻される。喉の奥からこみ上げる吐き気に抗えず、身体が前屈みになる。「桔梗!」華乃の焦った声と同時に車が大きく揺れ、急停止したことをぼんやりと理解する。だが確認する余裕などなく、震える手で鞄の中をまさぐる。指先が探り当てたビニール袋を広げた瞬間、こみ上げてきたものを抑えきれず吐き出した。「げぇっ」酸味を帯びた臭気が鼻を刺し、さらに吐き気を誘発する。胃の中のものを吐き切ってもなお、痙攣のように身体が震えた。「ぐうっ」呻き声が漏れる。「桔梗!」助手席のドアが開き、外気が流れ込む。冷たい空気が肺に入ると同時に、少しだけ意識が戻る。華乃が手際よくシートベルトを外し、半ば引きずるように外へ連れ出してくれたのが分かった。「うっ……」外の空気に触れて一瞬楽になるが、脳裏に蘇る記憶が再び吐き気を呼び起こす。三度目の嘔
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2-20

冷たい水をゆっくりと喉に流し込みながら、あの夜のことを華乃に話した。途切れ途切れだったけれど、華乃は辛抱強く聞いてくれた。言葉にするたびに胸の奥がざわつき、記憶の断片が鮮明さを取り戻していった。それでも、一度口にしたものは止められなかった。長い時間だったと思う。途中で何度も言葉に詰まり、沈黙が落ちた。それでも華乃は一度も急かさなかった。ただ隣にいて、私の言葉を受け止めるように静かに耳を傾け続けてくれた。その沈黙は決して冷たいものではなかった。「ここにいていい」と言われているような、許されているような気分だった。.「ふう」息を吐く。すべて話し終えた。胸の奥に溜まっていたものが少しだけ軽くなった気がした。消えたわけではない。ただ、押し込めていたものに形が与えられ、外に出たことで、ほんのわずかに呼吸がしやすくなった。それだけでも、その変化は確かで……いま、私は穏やかだ。私はきっと、誰かに聞いてほしかったのだろう。そして、その『誰か』は華乃しかいなかった。華乃がいてくれてよかったと、心から思った。「ごめん」ぽつりと華乃が呟いた。「華乃?」思わず顔を上げると、彼女は視線を落としたまま続けた。「何も知らずに、何も考えずに妊娠とか言って……ごめん」その声はかすかに震えていた。「ううん、それは当たっていたし……普通なら、そんなことが起きたなんて思わないよ」そう返しながらも、胸の奥に小さな棘のような痛みが残る。非現実的だろうと、私には実際にあったことだ。「でも、気づくべきだった」華乃はかぶりを振るようにして言葉を重ねた。「桔梗にこれまであったことは聞いていた。事情は全部じゃないけど、それなりに知っていたんだ。だから、その可能性を私は考えるべきだった。考えるべきだったのに……本当にごめん」唇を強く噛みしめたあと、堪えきれなかったのか、彼女の頬を涙が伝った。その姿を見たとき、不思議と私は救われた気がした。自分のために涙を流してくれる人がいる。その事実が、張り詰めていた何かを緩めていった。私はそっと華乃の肩に寄り掛かった。華乃の体温が伝わる。震えているのは彼女なのか、それとも私なのか分からない。ただ、ここに一人ではないという確かな感覚だけがあった。これはきっと、幸せなことなのだろう。.「気をつけていたんだ
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2-21

「お祖父さんちは?」華乃が静かに問いかける。「……従兄がいるから」短く答えると、華乃はわずかに眉をひそめた。「あのニート、まだ西園寺家にいるのか。そもそも、あいつが諸悪の根源なんじゃないか? あいつに襲われたから桔梗は……初めてを、そんな形で……」その言葉には、怒りと悔しさが滲んでいた。華乃が私のために怒ってくれていることは分かっている。でも、それは違う。少なくとも、単純に一人のせいにできる話ではない。「それは、八つ当たりで言いがかりだよ」私は小さく首を振った。それでも、「諸悪の根源」という言葉が胸の奥に引っかかる。完全な間違いだとは言い切れない自分がいることに気づいてしまったからだ。.西園寺家に居座っているその従兄――西園寺明広は、母の妹である明子叔母様の一人息子だ。いわゆる働いていない大人で、家に依存している存在。昔から、なぜか私に対して執着のようなものを向けてきた。そうは言っても、特別に会話をした記憶はほとんどない。私が子どもの頃、よく一緒に遊んでいたのは叔父様の家の三兄妹。彼らと庭を駆け回っていたとき、視界の端にちらつくように明広兄さんがいた。その程度の印象だった。頼人兄さん、理人兄さん、そして蝶子――三人とも優しくて、私にとって数少ない安心できる存在。だが、今はもうそれぞれの人生を歩んでいる。頼人兄さんと理人兄さんは結婚して家を出て、蝶子は海外で学問に没頭している。あの頃の「安全な場所」は、もうどこにもない。.明広兄さんと初めてまともに言葉を交わした記憶は、私が10歳の頃。西園寺家の客間で着替えをしていたとき、ノックもなく扉が開いた。驚いて悲鳴を上げる私の前で、明広兄さんは一瞬だけ固まり、それから「間違えた」と言った。そのときの表情は、忘れられない。謝罪というよりも、何かを確かめたような表情だった。目に満足げな色が滲んでいたのを、今でもはっきり覚えている。でも、明子叔母様も一緒に謝罪したから、周囲も「うっかりだろう」と収めた。私もそのときはそう信じた。けれど、あの視線だけは、どうしても忘れられなかった。それ以来、私は無意識のうちに明広兄さんを避けるようになった。そして、決定的だったのは、私が17歳のとき。祖母が体調を崩したと聞き、学校帰りに見舞いに行った。思ったより元気そうな姿に安
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2-22

「子どもを堕ろすのは、仕方がないから?」華乃の問いは、静かであるのに妙な感じがした。重さというか、期待のようなものを感じる。「どういうこと?」「暴行されたときのことを思い出すから産みたくないとかではなくて?」華乃が続けた言葉に、胸の奥に沈めかけていた記憶が軋み、ぐうっと胃が動く。こみ上げてくるものを押し込めるように深呼吸を繰り返しながら、私は言葉を選んだ。「子どもを見るたびにあの夜のことを思い出すかもしれない。でも、それは子どものせいじゃないわ。子どもがいてもいなくても、あの日のことは忘れられない」言葉にしたことで、逆にその事実が輪郭を持って迫ってくる。そう、たとえ運命的な出会いがあって、誰かに愛され尽くすような未来があったとしても、あの夜は消えない。どれほど優しくされても、不意に蘇る恐怖に私はきっと悲鳴をあげるだろう。そんな自分を、誰かがずっと愛し続けられるのか。――その問いに、私は首を横に振ることしかできない。.「子どもに罪はないって使い古された言葉だけど真理ね。悪いのは私。現実逃避をしてあの日をなかったことにしようとして、アフターピルを飲まなかったから……そのせいでこんなことになって……」言葉の最後は、かすれて消えた。胸の奥で「ごめんなさい」という言葉が渦巻くけれど、それを口にする資格が自分にあるとは思えない。この子にとって私は、これから存在を消そうとしている人間なのだから。「あのさ……」……ずいぶんと、言いにくそうだ。「あくまでも提案なんだけど、お腹の子を私たち三人で育てない?」唐突に投げられた言葉に、思考が止まる。「三人でって……」華乃を見る。「私と華乃と佳孝君で、ってこと?」確認すると、華乃は小さく頷いた。その提案は現実離れしているはずなのに、不思議と完全には否定できない重みを持っていた。華乃はゆっくりと言葉を続ける。「半年前にさ、似たような話があったんだ」語られたのは、佳孝君のもとに相談に来た女性の話だった。夫の暴力から逃げ出し、幼い子どもを抱えて行き場を失っていた女性。生活の基盤もなく、子どもを施設に預けることまで考えていたという。「私と佳孝、そのとき養子の話をしててさ。日本じゃ同性同士で親権を持つのは難しいし、どうにか別の形で家族を持てないかって」そんな中で持ち上がったのが、三人で子
last update最後更新 : 2025-12-20
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2-23

泣いたら喉が渇いた。体の奥から水分を引きはがされたような感覚がする。ペットボトルを傾けても、口に触れる水はわずかで、舌を湿らせるには足りなかった。喉の奥に残るひりつきと、胸の内に残る感情の余韻が、まだ消えていないことを示しているようだった。.「泣いたからだよね。もう一本買ってくるよ」華乃の声には気遣いと呆れが混ざっている。「私も行く。甘い物が飲みたい気分だし、華乃の分も買ってくるよ」「私も行く。その言葉を聞いたら甘い物が飲みたくなった」些細なやり取りなのに、こうして誰かと一緒に動くことで、さっきまでの張り詰めた空気が少しだけほどけていくのがわかる。二人で自販機まで歩く道のりは短い。選んだミルクティのボタンを押し、落ちてくる音を聞きながらしゃがみ込むと、ふと視界に映った自分の顔に息を呑んだ。「なにこれ?」思わず漏れた声。「ミルクティじゃなかったの?」的外れな返答が返ってくる。「違う、私の顔、なんかもう、めちゃくちゃ」「……泣いたからね」鏡代わりの自販機の反射に映る自分は、目の周りが黒く滲み、頬には涙の跡が残っている。「け、化粧落とし、持ってない?」「持ち歩くわけがないでしょう」縋るように聞いたのに、即否定される。「早く飲み物買っちゃって。車に戻って、最初のコンビニに寄って、化粧落としを買ってきて」「はいはい」「早く、早く」焦りは加速するばかりで、頭の中には“知り合いに会ったらどうしよう”という最悪の想像が広がっていく。そんなときだった。「家政婦さん?」心臓が嫌な音を立てた。恐る恐る横を見ると、黒塗りの車の窓が静かに開き、吉川様がこちらを見ていた。ついさっき思い浮かべた『最悪』が、これ以上ない形で現実になった瞬間だった。.「……なにやっていらっしゃるの?」言葉が詰まる。顔を隠そうとしながら後ろを見ると、助けを求めたはずの華乃はこちらを見ていない。自販機の取出口に缶が引っ掛かって取り出せずにいる。なんて間の悪い状況。「もしかしてそこの方となにやら……っ!」吉川様の声が止まったのは、ようやく缶を取り出して顔を上げた華乃を見たからに違いない。華乃を見た人の多くはまず驚くからだ。「そちらの方は?」吉川様の声音には、興味と値踏みが混ざっている。「うちの社長です」「家政婦派遣業の『コンシェルジュ・
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