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第351話

杏奈は円香へ目配せし、先ほど話題に上ったあの人へ連絡するよう促した。自身は当面、どう見ても常軌を逸しているこの女の相手を買って出るつもりだった。意図を察した円香がスマホを取り出し、創大へ連絡を入れようとした、まさにその矢先のことだ。「どきなさいっ!」気配を察した女が、甲高い金切り声を上げた。立ちはだかる二人を力任せに突き飛ばすと、素早く身を屈めて心愛を抱きかかえ、一目散に駆け出したのだ。遠ざかる背中から、無邪気な声が水面の波紋のように広がってくる。「レアアイテム、ゲットー!」不意を突かれ、大きく体勢を崩した二人は、しばし言葉を失った。……正直、もう関わりたくない。内心で毒づきながらも、体勢を立て直した二人の足は、すでに地を蹴っていた。本音とは裏腹に、追跡の手を緩めるつもりは毛頭なかった。数人がドタバタと追いかけっこを演じて去った直後、低く重厚な排気音を響かせて一台のスポーツカーが滑り込んできた。その後ろには、数珠つなぎになった漆黒のSUVが列を成している。黒龍を思わせる重厚な車列がアンティーク街の路地に停車すると、重いドアが一斉に開かれた。黒スーツに身を包んだ屈強なボディーガードたちが雪崩を打つように降り立つなり、周囲の露天商たちは顔を真っ青にし、商品を放り出して我先にと逃げ散っていった。先頭のスポーツカーから降り立ったのは、仕立てのいい白スーツを纏った長身の男だ。精悍な顔立ちは、今や冬の底冷えする水面のごとき静謐な怒りを湛えており、刃のような視線が一帯を射抜く。残っていた野次馬たちも、たまらず首をすくめてその場から逃げ出した。「探せ」男が、静かに口を開いた。本来ならば爽やかな印象を与えるはずの澄んだ声は、今この場にあっては、筆舌に尽くしがたい威圧感となってボディーガードたちの胸にのしかかった。「この街をひっくり返してでも、必ず見つけ出せ」「はっ!」一糸乱れぬ声で応じた黒服たちは、即座に四方へと展開していった。……一方、その頃。子どもを抱えて走る女の足は、それほど速くはなかった。百メートルも行かないうちに円香に追いつかれ、すぐさま回り込んだ杏奈が、鮮やかに心愛を奪い返した。「説明して」円香が女の肩を掴んで壁に押し付け、鋭い目を向ける。「あんた、何者?この子をどこへ
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第352話

重苦しい沈黙が、その場を支配した。言い訳など考えてもいなかったのか、女はしばらく口籠っていたが、やがてぽつりぽつりと、言葉を絞り出した。「わ、私はただ……一緒に遊びに連れていってあげようとしただけよ。この子が言うことを聞かないから、ああするしかなかったの」杏奈と円香が何かを言い返すより早く、心愛が不満げに唇を尖らせた。「うそつき。最初はプリキュアの魔法のステッキを買ってあげるって言ったくせに、騙したじゃない。最初から買う気なんてなかったんでしょ」心愛がやっと本音をぶちまけた。杏奈はすかさず畳みかける。「ねえ。この人、本当にあなたのお母さんなの?」「私は――んんっ!」心愛が答えようとした瞬間、女がその小さな口を強引に塞いだ。そのまま二人を肩で激しく弾き飛ばし、再び一目散に駆け出す。円香は呆れを通り越して涙目になっていた。「なんであの人、あんなに足が速いのよ!?」「そんなこと言ってる場合じゃ……」杏奈が叫びかけたところで、不意に言葉が途切れた。いつの間にか、前方の路地に黒スーツ姿のボディーガードが数人、分厚い壁のように立ちはだかっていたのだ。女の行く手を阻んだ彼らは、有無を言わさずその腕から心愛を奪い取ろうと手を伸ばす。「どいて!みんなどいてよ!この子は私の娘よ!」女は必死に身をよじりながら、獣のように叫んだ。もし、ボディーガードたちが発した言葉がなければ、杏奈も少しは彼女を気の毒に思ったかもしれない。「この狂女が、うちのお嬢様を拐かすとはいい度胸だ!」「早くお嬢様を放せ!杉野家に拾われ、飯まで食べさせてもらった恩を、こんな形で返すつもりか!」「お嬢様、ただいまお助けいたします!」黒い包囲網がじりじりと縮まり、女を力ずくで取り押さえようとしたその瞬間。「待って!」杏奈の鋭い声が響き渡り、全員の動きがピタリと止まった。声の主を振り向いたボディーガードたちは、杏奈の瞳が大きく揺れているのに気づく。彼女の切迫した視線は、女が心愛の首元を抱え込んでいるその手に、じっと注がれていた。降り注ぐ陽光の中、女の指先で、鈍い銀色の光がぎらりと跳ねた。間違いなく、鋭利な刃物の反射光だ。もし杏奈が声を上げて止めなければ、もみ合いになった拍子に、心愛の肌を切り裂いていたかもし
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第353話

「必ず……あの子を守って」「はっ!俺様、参上――っ!!」空気を切り裂く野太い絶叫が響き渡り、女は反射的にビクッと後ずさった。あと数センチで心愛を受け取れるところだった杏奈の表情が、虚無に包める。……やれやれ。手強い敵より、猪突猛進の味方の方がよっぽど質が悪いとは、まさにこのことね。黒服の人垣が再びモーセの海割りのように割れ、パリッとした白スーツ姿の男が堂々と歩み出てきた。鼻にはサングラス、手首の高級腕時計が陽光を受けてギラギラと嫌味ったらしい存在感を放っている。絵面だけを切り取れば、圧倒的な威厳に満ちているのだが、せめて、あの口さえ開かなければ、どれほど格好がついただろうか。「心愛、パパが来たぞ!今回は光の力を引っ提げて、お前を救いに来たんだ!」その能天気な台詞を聞いた瞬間、心愛の愛らしい顔が、これ以上ないほど不満に歪んだ。「プリキュアの方がずっと強いんだから!魔法の国の女王様に頼んで、パパなんかブタにしてもらう!」創大はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。「笑わせるな。その魔法の国の女王様とやら、登場した瞬間に俺の光の巨人に殴り飛ばされるのがオチだぞ」「うそつき!」「うそじゃない!」緊迫した路地裏で繰り広げられる、父と娘の果てしない小学生レベルの口喧嘩。それを間近で聞かされる杏奈の頭痛は、ピークに達しようとしていた。彼女が堪忍袋の緒を切らすより一瞬早く、隣にいた円香が弾かれたように飛び出した。パァン――ッ!見事な助走から放たれた渾身の一撃。華奢な手のひらが、思い切り創大の後頭部に炸裂した。響き渡った破裂音の分だけ、痛みも絶大だろう。創大は顔をしかめ、首筋から脳天に抜ける痺れに耐えながら、恨めしそうに円香を睨みつけた。「……お前、誰だ?」その瞳に宿る感情の比率は、困惑が三割、不満が三割、そして怒りが四割といったところか。円香は呆れ果てて、白目を剥きそうになっていた。「娘さんがまだ危険な状況なんですけど!?こんな時に口喧嘩してる場合?こっちが必死になって外で騒いでるのに、当の父親は我関せずってどういう神経してるのよ!」創大は「……あ」と小さく呟き、額にポンと手を当てて、今さら思い出したように口を開いた。「そうそう、証明しなきゃと思って……!」「もう一言でも
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第354話

「ああ、わかった」創大は屈託なく頷いた。それから心愛をひょいと抱え上げると、杏奈と円香に向けて、真っ白な歯を見せてニカッと笑いかけた。その笑顔たるや、こちらが毒気を抜かれるほど清々しい「能天気」ぶりである。「大恩は報せずってことで!さらば!」そんな時代がかった台詞を言い残し、彼は愛娘を抱えたまま、風のように颯爽と立ち去っていった。杏奈は呆気にとられ、目を丸くした。杉野家の当主という男は、つくづく……底抜けに裏表のない人物らしい。呆然としている杏奈の様子を見て、円香はポンと彼女の肩を叩きながら笑い声を上げた。「あの人、ああいう性格なのよ。見た目は抜けてるけど、根は絶対に悪くない。この業界に長くいると、腹に一物あるような人間ばかりで嫌気が差すでしょ?ああやって、思ったことをそのまま口にする裏表のない人間って、意外と評判がいいのよ」少しだけ間を置き、円香は路地の先を見つめた。「心愛ちゃんも、一見すると破天荒な父親の下で育ってて心配になるかもしれないけど、身の安全だけは絶対に守ってくれるから」杏奈は静かに頷いた。あの飾らない「真っ直ぐさ」が、複雑な世界において、どれほど貴重な財産であるかは痛いほどよくわかる。ちょっと頼りないけれど、大きくて温かいあの父親の庇護の下で、不思議な魅力を持った小さな女の子が、どうか健やかに育っていってほしいと、心から願った。……一方、走り出したリムジンの車内。ドアが閉ざされた瞬間、外の喧騒は完全にシャットアウトされた。さっきまで眩しい笑顔を振りまいていた創大の表情から、あの「おっとりとした気配」が、潮が引くようにすうっと消え失せた。まるで、被っていた仮面を剥ぎ取ったかのようだ。薄暗い車内で静かに光を放つその瞳の奥に宿っているのは、絶対的な高みに立つ者だけが持つ底知れぬ落ち着きと、万物を見通す鋭利な知性だった。そこにはもう、先ほどまでのゆるふわな空気など微塵も残っていない。高級なレザーのチャイルドシートに収まった心愛は、小さく首を傾けたまま、その年齢には到底似つかわしくない冷めた瞳で、じっと父親を観察していた。そして、あどけない口調のまま、鋭く核心を突く。「パパ、また変わり身が早くなったね。さっきは、誰を嵌めるつもりだったの?三浦家?それとも、どこかの暗がりに潜むドブネズミ
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第355話

もし外の人間がこの光景を目にしたなら、腰を抜かすほど驚いただろう。濱海市の老舗名門である杉野家の当主が、十歳にも満たない幼子に判断を仰いでいるのだ。しかも心愛の方は、それを至極当然のこととして受け止めていた。小さな腕を組み、その目は不気味なほど落ち着いていた。「相手も馬鹿じゃないわ。計画が止まった以上、必ず警戒して息を潜めるはずよ。こちらが強引に罠を仕掛ければ、意図を見透かされて、かえって危険を招く。だから今は――」細い指先が、車窓をこつんと叩いた。「じっと待つ。帰ろう。向こうが焦れるか……それとも、新しい隙が生まれるまで」「わかった」創大は迷いなく頷いた。娘への信頼は絶対的なものだった。「お前に任せる」車内に、短い沈黙が落ちた。ふと心愛が顔を上げた。澄んだ大きな瞳が父親をまっすぐに見つめた。しかし、次に飛び出した言葉は、氷のように冷たかった。「……あの狂った女は、どうするの?」幼い声には、何の感情も乗っていなかった。それがかえって、場に重苦しい空気を生み出していた。創大の頬が、かすかに引きつった。苦い笑みで場を和らげようとしながら、慎重に言葉を選ぶ。「心愛、お前もわかってるだろう……倉田(くらた)執事は、俺を救うために……」それは彼の心に永遠に刻まれた痛みであり、決して拭いきれない負い目だった。「知ってる」心愛はすかさず言葉を遮った。その幼い顔に、年齢とはおよそ不釣り合いな冷たい笑みが浮かぶ。車窓の外を流れる光がくるくるとした目に差し込み、氷のような鋭い輝きを映し出した。あどけない声音の奥には、理性を通り越した、感情を削ぎ落としたような冷淡さが滲んでいた。「そう、彼はパパを救ってくれた。杉野家は十分な補償をしたじゃない。私はあの人の娘を受け入れて、恩返しという名目で杉野家に住み着くことだって黙認したわ。衣食住、なに不自由なく。あの人はもう杉野家の裏の女主人も同然だった。なのに……」心愛の声が、鋭く跳ね上がった。深い憎悪を帯びて、小さな体が微かに震える。「なのに、あの人はママに嘘を吹き込んで二人の仲を裂き、わざと私の出生証明書に細工して、ママに私が本当の子じゃないって思い込ませたんだよ。絶望したママは、私を愛してることを証明しようとして……遅れた誕生日プレゼントを買いに、
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第356話

車内は、死んだように静まり返っていた。長い沈黙の末、創大はまるで一瞬にして老け込んだように、ゆっくりと手を伸ばした。この上なく慈しみ深く、しかし深い後悔を込めて、娘の頬の涙を拭う。その声は、ひどくしわがれて重かった。「……わかった。心愛、パパ……わかったよ」心愛は静かに目を閉じ、再び開いたとき、その瞳には静けさだけが残っていた。小さく頷き、背筋が凍るほど淡々とした声で言った。「髪の毛を一房切って……ママのお墓に持って行って。きっちりツケは払わせるって、ママに知らせてあげなきゃ」「ああ」創大は目を閉じ、重々しくそう答えた。たった一言が、全身の力を絞り尽くすほどの重さを持っていた。……夜が深まっていた。アンティーク街を半日かけて歩き回った杏奈は、重い足を引きずるようにして病室へと戻ってきた。「杏奈、今日は本当にいい刺激になったわ!あの古道具屋の店主たちって、揃いも揃って話術の達人なのよ」隣で円香が、まるで鳥かごから解放されたばかりの小鳥のように、絶え間なくしゃべり続けていた。「ひどい店なんて、錆びついたボロ自転車を売りつけようとして、なんて言ったと思う?『これははるか昔、この国を治めていた高貴な御方が、お忍びで城下を回るために特注した献上品で、掘り出し物の秘宝です』だって!千年以上前のママチャリよ!その御方がそれで都を爆走したって言うの!?あは、あははは――ゲホッ、ガァガァ!」笑いが転じてガチョウの鳴き声へと変わった円香の爆笑が、夜の静かな病棟の廊下に響き渡った。その生命力あふれる鳴き声は、すぐさま当直の看護師を呼び寄せることになった。眉を寄せた看護師がドアを押し開け、病室をぐるりと見渡す。「あの……VIP病室とはいえ、院内規則により、鳥類のペットのお持ち込みは禁止されております。ガチョウは今すぐお連れ出しください」円香:「…………」笑い声が、ぴたりと止んだ。表情が一瞬で凍りつき、まるで首を絞められた本物のガチョウそのものになった。「ふふっ」杏奈は円香の間抜けな表情を見た瞬間、こらえきれずに吹き出した。あわてて口を押さえたが、肩はひくひくと揺れ続けている。円香は恨みがましく看護師を一睨みし、それから泣きそうな顔で杏奈に向き直った。「あのね!あなたまで笑うの!?
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第357話

短いやりとりの後、円香は帰っていった。杏奈はしばらくベッドに横になっていたが、やがて何か食べようと立ち上がりかけたとき、病室のドアが外から開いた。「円香、何か忘れ――」言葉が途切れた。顔を上げた瞬間、杏奈の頬に浮かびかけた笑みが、まるで急に凍りついたかのようにすうっと消えた。代わりに神経がぴんと張り詰め、目の奥に鋭い警戒心が灯る。ドア枠に寄りかかり、こちらを値踏みするように眺めているのは他でもなく、紗里だった。彼女は同じ水色と白のストライプ柄の病衣を纏っている。その顔には薄い笑みが浮かび、声には旧知の友人に話しかけるような親しみが滲んでいた。「どうしたの、入るなと言いたげな顔ね?」杏奈は胸の内に波立つ警戒心を押し殺し、無表情のままわずかに体をずらした。「どうぞ」声には何の感情もなかった。紗里はゆったりと病室に入り、何気ないそぶりで、部屋の隅々まで細かく視線を走らせた。杏奈の洗面用具と、見舞い客が持ってきた差し入れの山。それ以外に、個人的なものは何もない。紗里の口元の笑みが、少し深まった。目の奥に残っていたかすかな懸念が、静かに払拭されていった。杏奈はその微妙な変化に気づかなかった。紗里が向かいの椅子に腰を落ち着けるのを待って、単刀直入に切り出した。「何の用?」声は冷ややかだった。紗里も回りくどい前置きはしなかった。わずかに体を前に傾け、姿勢はくつろいだままだが、見えない威圧感を放っている。「ちょっとお願いがあって」杏奈は眉を持ち上げ、耳を疑うように訝しんだ。「あなたが?私に?お願い?」その声には、隠しもしない呆れが滲んでいた。「そう、あなたに」紗里は頷き、笑みを崩さないままさらりと矛先を変えた。「……正確には、あなたを通して、親友の円香にお願いしたいの」円香の名前が出た瞬間、杏奈は考えるまでもなかった。「無理。円香のことは、私が勝手に決めない。考えるだけ無駄よ」きっぱりとした拒絶。その目には刃のような鋭さがあった。紗里はその反応を予期していたように、少し背もたれに体を預け、楽な姿勢を作った。声はあくまで穏やかで、どこか言い聞かせるような含みがあった。「そう急がないで。条件を聞いてから決めても遅くないんじゃない?……もしかしたら、考えが変わるかもしれないわよ」杏奈は
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第358話

それまで探るような、あるいは冷笑するような色を帯びていた杏奈の瞳が、紗里の言葉が落ちた瞬間、氷の刃のような鋭い光を放った。「三浦家に髪の毛一本でも傷をつけてみなさい、藤本紗里。あなたもただでは済まないと、それだけは保証するわ」杏奈はさらに一歩、前へ踏み出した。紗里の目を真正面から見据え、唇の端に冷たく歪んだ弧を描く。「たとえ地獄に落ちるとしても、地の底まであなたを道連れにしてやるわ!」紗里の瞳が、ほんの僅かに揺れた。この瞳の色を、彼女はよく知っている。すべてを失い、後先など何もかもかなぐり捨てて爆発する人間の、あの狂気の光。手負いの獣のごとく追い詰められたこの女が、今さらけ出した剥き出しの牙と、相刺し違えることも辞さない凄絶な覚悟は――紗里の想定をはるかに上回る凄みを秘めていた。二人の間に、重苦しい沈黙が広がった。一触即発の空気を孕んで、十数秒が経過したのち、先に口を開いたのは紗里だった。「まあ、そんなに殺気立たなくてもいいわ。今日来たのは、相打ちになりに来たわけじゃないもの。お願いしたいのは、本当に些細なことなのよ」杏奈の瞳から狂気の光が潮の引くように退いていき、表面上の静けさが戻った。先ほどまで人を噛み殺さんばかりの殺気を放っていた女と同一人物とは思えないほど、拍子抜けするほどあっさりと。「遠回しな言い方はいいから、さっさと本題に入って」紗里は鷹揚に頷き、まるで明日の天気の話でもするような、拍子抜けするほど軽い口ぶりで言った。「簡単なことよ。円香が参加しているオーディションの合宿――そこに、私のいとこの桐島明奈(きりしま あきな)もねじ込んでほしいの。一緒に研修を受けて、撮影にも参加できるようにしてもらえれば、ただそれだけでいいわ」その要求はたしかに、取るに足らない些細なことだった。円香自身が動く必要すらなく、一言頷けば下の人間が動く。ただそれだけの話だ。だからこそ、ひどく奇妙だった。わざわざこんな大袈裟な前置きをして、三浦家の壊滅という物騒な話までちらつかせて、その末に出てきたのがこんなちっぽけなお願い?杏奈は目を細め、疑念の色を一切隠そうとしなかった。「私の知る限り、藤本家にも桐島家にも芸能界のパイプはないでしょうけど、吉川グループには息のかかった関連会社がいくらでも転がってる。これくらいの
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第359話

「もういい」杏奈が冷ややかに遮った。その顔には、隠しきれない深い倦怠感が浮かんでいる。こんなままごとのような探り合いには、もうとうの昔に飽き飽きしていた。「言い訳なんか聞きたくない。あなたのお願いについては、私が円香の代わりに返事をすることはないわ。直接本人に聞いて。それから、『共存』についてはね……」一拍置いて、杏奈は氷点下の視線を向けた。「一度だけ、信じてあげる。あなたが大人しくしているなら、私に近づかず、私の周りの人間に手を出さないのなら、あなたが何をしようと、私は一切干渉しないわ」「……それで十分よ」望んでいた答えを引き出した紗里は、それ以上食い下がることはしなかった。すっと優雅に立ち上がり、隙のない、どこか距離感を保った完璧な微笑みを顔に貼り直す。「その言葉、信じさせてもらうわ。それでは、失礼する」踵を返し、迷いのない足取りで病室を出ていく。杏奈の視線は、紗里の背中に張り付いたまま離れなかった。ドアが静かに閉まり、その姿が完全に見えなくなっても――眉間に刻まれた深い皺は、一向に解けなかった。むしろ、さらに深まっていった。脈絡もなく押しかけてきて……蒼介という巨大な餌と、暴力的な脅しをちらつかせておいて……最後に出てきたのは、自分一人でどうとでもできる些細なお願いで……挙句の果てに、突然の「共存」宣言?藤本紗里……いったい何を企んでいる?本当の狙いは、何なの?――杏奈がその疑問の渦に呑み込まれ、胸の内で思考を転がしているちょうどその頃。廊下の突き当たりにある別のVIP病室でも、文彦が似たような困惑を露わにしていた。紗里がドアを開けて入ってくるなり、文彦はソファから弾かれたように立ち上がり、足早に歩み寄った。その顔には、戸惑いと焦燥が色濃く混じっている。「紗里、本気であの三浦杏奈と共存するつもりなのか!?あの女は蒼介の正式な妻だぞ。あのまま放っておけば、いつか必ず君の邪魔になる!」「もうすぐ、そうじゃなくなるわ」紗里は窓の前に立ち、外の景色を見つめながら淡々と言い放った。「え……っ?」文彦は一瞬動きを止め、すぐにその言葉の真意を悟った。その瞳に、剣呑な光が走る。「たとえ元妻に成り下がろうが、七年間も一緒にいたんだぞ、七日じゃない!よりを戻す可能性だって十分にある。災いの
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第360話

窓の外が白み始め、病室にはまだ夜の名残のような静けさが漂っていた。そこへ、耳障りな電話の着信音が無遠慮に響き渡り、朝の静寂を容赦なく引き裂いた。杏奈は眠い目を擦りながら、枕元のスマホを手探りで掴んだ。画面が青白く光る。【吉川のおじいさん】という文字が目に入った瞬間、残っていた微かな眠気が一気に吹き飛んだ。すぐさま通話ボタンを押す。「もしもし、おじいさん?」電話の向こうから聞こえてきたのは、政夫の弱々しくしゃがれた声だった。言葉の一つ一つに、老いた者だけが持つ隠しきれない衰えが滲み出ている。「杏奈ぁ……」その声を聞いた瞬間、杏奈の胸がきゅっと締め付けられた。思わず上体を起こす。「……どこかお加減でも悪いんですか?」政夫が急激に体調を崩し、一度倒れたという事実を、杏奈は知らされていなかった。「……いや、なんでもない。なんでもないんだよ」政夫は努めて声を落ち着かせようとしながら、かすれた笑いを二度ほど漏らした。「年を取ると、体のあちこちが言うことを聞かなくなってな。たいしたことじゃないから、わしのことは心配しなくていい」目を覚ますと同時に杏奈の具合を確認していた政夫は、これ以上彼女に心労をかけまいと、必死に意地を張っていたのだ。スマホを握る杏奈の指に、少し力がこもった。唇をきゅっと噛み締める。無理をして平気を装う彼の声色に、複雑な感情が込み上げてきた。心配と、言葉にできない罪悪感が混ざり合い、胸の内で渦を巻いた。あと三ヶ月で、蒼介との婚姻関係は完全に終わるのだ。その事実を知ったら、このおじいさんはどれほど深く落胆するだろうか。いっそ、今から少しずつ距離を置いた方が、お互いの傷が浅くて済むのかもしれない――そう考え、杏奈は押し黙った。それ以上、体調について深くは尋ねなかった。しかし政夫には、距離を置くつもりなど微塵もないようだった。おずおずとした、しかし期待を隠しきれない震える声で言った。「杏奈、今夜……時間はあるかな。顔を見せに来てくれないか、本家に」あの死の淵から這い戻ってきたとき、政夫は自分の生命の灯火が急速に燃え尽きようとしているのをはっきりと実感していた。残された時間は、そう長くはないかもしれない。今となっては、かつての執念も冷徹な計算も、胸の中でとうに消え失せていた。
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