All Chapters of 幼馴染を選ぶはずの彼の心に、私が残っている: Chapter 41 - Chapter 50

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第41話

その言葉には、はっきりとは言えないものの、どこか含みを帯びた響きがあった。その空気を察したのか、傍らにいた賢人はそっと唇を引き結び、気を利かせて契約書をまとめ始めた。「藤崎社長、契約は無事完了しましたので、後の手配を進めてまいります……」そう言うなり、彼は慌てて立ち上がり、去り際には、横にいた徹までさっと連れ出していった。気がつけば、会議室には二人だけが残されていた。明乃は少し居心地悪そうに唇を噛む。まったく、賢人のやつ。変に気を回さなくてもいいのに。どうやって話を切り出そうかと思案していると、湊の長い指が軽くテーブルを叩いた。「どうして黙っている?」「別に……」明乃は小さく笑う。「教授から電話があって、学術交流会に誘われただけよ」「ほう?」湊がわずかに眉をつり上げた。「週末の交流会か?」「知ってるの?」「ああ」湊の口元が緩んだ。「ちょうど俺のところにも招待状が来ていた。同じ行き先なら、一緒に行かないか?」明乃は特に深く考えることもなく、あっさり頷いた。「いいわよ」「じゃあ、決まりだな」湊は満足そうにそう言った。……数日後、法学学術交流会は予定通り、水南地方国際会議センターで開催された。会場の入口は人で溢れ、全国から集まった法学者や研究者、弁護士たちで熱気に包まれていた。厳かな雰囲気の中にも、高揚感が漂っていた。明乃は、仕立ての良い濃いグレーのスーツを選び、化粧は控えめに、髪はすっきりとまとめていた。派手さはないが、専門家としての落ち着きと知性が際立つ装いだ。彼女は開始十五分前に到着し、受付で参加証と資料を受け取ると、そのままメイン会場へ向かった。席はあえて後方、通路に近い場所を選んだ。午前のメインフォーラムだけを聞き、午後は適当な理由をつけて早めに退席する。できるだけ、岳と顔を合わせないために。会場内はすでに満席だった。壇上では、大和田教授が主催者代表として開会の挨拶をしている。力強く、熱のこもった語り口に、聴衆は静かに耳を傾けていた。明乃も必死に意識を講演へ向けようとするが、視線はどうしても前方や入口を追ってしまう。彼女の胸の奥で、心臓が理由もなく速く打ち始める。説明のつかない緊張と、わずかな苛立ちが入り混じっていた。時間は滞りなく進み、やがて司会者が休憩を告げた。その瞬
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第42話

明乃は足を止めて振り返った。すると、大和田教授が満面の笑みを浮かべ、数名の学界の重鎮を伴ってこちらへ歩いてくるところだった。「大和田教授」「いやあ、ちょうど良かった。君にぜひ紹介したい先生方がいてね」教授は親しげに明乃を引き寄せた。「こちらが高木(たかぎ)教授、こちらが木村(きむら)学部長。いずれも知的財産分野の第一人者だ。そしてこちらが、私がいつも話している明乃さん。中でも特に才気にあふれた教え子の一人で、今は水南地方で自分の法律事務所を立ち上げ、実に意欲的にやっている」明乃は慌てて姿勢を正し、丁寧に挨拶を交わした。そのとき、背後から低く冷えた、それでいてひどく懐かしい声が響いた。「……教授」明乃の体が、瞬時にこわばった。岳だった。いつの間に来たのか、彼は明乃のすぐ後ろに立っていた。重鎮たちは彼をよく知っているらしく、笑顔で声をかける。「岳か。ちょうど明乃さんの話をしていたところだ。君たちは知り合いだろう?聞けば、彼女は一人で水南地方に事務所を構えたそうじゃないか。大したものだ」岳の視線は重鎮たちを越え、真っすぐに明乃へと向けられた。「ええ……彼女はとても優秀です」岳の視線は、明乃の肌にまとわりついた。明乃は自分を奮い立たせて振り向き、視線を受け止めた。唇にかすかな笑みを浮かべ、淡々と応じた。「恐縮です、霧島さん」視線が交わった瞬間、周囲の空気が凍りついたように感じられた。岳の瞳の奥では、複雑で読み取れない感情が渦巻いていた。一方、明乃の眼差しは氷に閉ざされた湖面のように静まり返り、微かな波紋すら立たなかった。その徹底した無関心は、憎しみよりもはるかに冷たかった。岳は喉仏をわずかに動かし、何か言いかけたが、その時。会場の入口の方で、再び小さなざわめきが起こった。人々は思わずそちらへ視線を向ける。湊が何人かと、堂々と会場に入ってきた。彼は今日、定番の黒いスーツ姿だった。ネクタイは締めず、シャツの襟元も二つほどボタンを外している。ビジネスの場で見せる鋭さは影を潜め、代わりに気だるく自然体な雰囲気をまとっているが、その存在感は相変わらず圧倒的で、目を逸らせない。「藤崎湊も来ているのか?」「ヒカリスバイオの藤崎湊だろ?法学の交流会にも顔を出すとはな」「法務のパートナー探しで来たかも
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第43話

大和田教授は慌てて場を和ませるように笑った。「はは、どうやら若い人たちは顔見知りのようだね。いいことだ、若いうちにどんどん交流するといい!そろそろ休憩も終わるし、中に戻ろうか?」一同は口々に同意し、再び会場内へと足を踏み入れた。岳は無意識のうちに明乃へ歩み寄ろうとしたが、その一歩先で、湊がさりげなく身を寄せ、自然な動作で二人の間に立った。主張しすぎないが、はっきりとした距離を作る仕草だった。湊はそのまま明乃の隣を歩き、わずかに顔を寄せて、二人にしか聞こえない声で囁く。「昨日、お前を不機嫌にさせたのは、あいつか?」温かな吐息が耳元をかすめ、明乃は耳の奥がじんと熱くなるのを感じた。彼女は思わず振り返り、彼を睨んだ。湊は気にする様子もなく、口元をわずかに歪めた。「確かに、めんどくさそうな男だな」明乃は何も言わなかった。なぜだろう。明乃は、湊が岳に対して、はっきりとした敵意のようなものを向けている気がしてならなかった。二人に、そんな接点があっただろうか。少なくとも、自分は何も聞いていない。その一連のやり取りは、半歩後ろを歩く岳の目にも、はっきりと映っていた。彼は拳を強く握りしめ、関節が白く浮き出ていた。……休憩時間が終わり、別のテーマのフォーラムへと移った。明乃は意図的に岳から距離のある席を選んだ。湊は彼女の斜め後ろに腰を下ろし、どこか気だるげな姿勢で、あくまでオブザーバーを装っている。岳の基調講演は、フォーラムの後半に組まれていた。彼が演壇に立つと、会場から自然と大きな拍手が起こる。やはり、認めざるを得ない。岳は、この分野において間違いなく傑出した存在だ。論理は明快で、主張は鋭い。引用される事例は的確で、分析も隙がない。語り口には説得力があり、聴衆の意識を一瞬たりとも離さなかった。明乃でさえ、個人的な感情を切り離せば、彼が一流であることを否定できなかった。客席から、スポットライトの下で語る彼を見つめているうちに、ふと記憶が引き戻される。――五年前のことだ。あの頃の彼も、同じように輝いていた。彼女は迷いなくその背中を追い、共に困難を切り拓こうとしていた。だが、近くにいた者だけが知っていた。その光が、どれほど冷たいものだったかを。彼の世界には、整理された条文と勝敗がはっきりした結果しか
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第44話

明乃は視線を逸らし、淡々と言った。「私はもう、コーヒーは飲まないの」岳の差し出した手が宙で止まり、硬直した。眉間の皺が、さらに深く刻まれた。――なぜ、また間違えたんだろう?自分なりに論理を積み重ね、最適解を導いたはずだった。それなのに、結果はいつも正反対になる。まるで解の存在しない問題を解こうとしているようだった。自分の誇りである理性は、彼女の前では脆く崩れ去る。「明乃」岳は一歩踏み出し、彼女の進路を塞ぐ。声は不自然に強張っていた。「少しでいい。五分だけ、話をさせてくれ」「岳……」明乃の声には、隠しきれない疲労が滲んでいた。「あなたは、いったい何がしたいの?」彼女の知る岳は、冷静で、距離を保つ人間だった。決して、こうして縋るように相手を引き止めるタイプではない。「俺は……」岳は喉を鳴らす。何度も頭の中で繰り返してきた言葉が、胸の奥で詰まった。「……間違っていた。だから……機会をくれ。埋め合わせの機会を……」「埋め合わせ?」明乃は、笑いそうになって、けれど笑えなかった。目の縁が、じわりと熱を帯びる。「何で、埋め合わせをするの?あなた、自分がどこで間違えたのか、分かってもいないでしょう!」岳は反射的に言い返した。「分かってる!俺は……」言葉がぷつりと切れた。言葉に詰まる彼を見て、明乃の心は完全に沈んでいった。心が壊れている人に、これ以上、何を求めればいいのだろう?もしかしたら、最初から間違っていたのかもしれない。彼を好きになった、その選択自体が。あの頃の自分は、無謀な勇気だけを頼りに、彼へと歩み寄った。周囲は皆、ばかにしていた。都合のいい女だと。それでも自分は信じていた。危機の中で自分を庇ったあの背中は、きっと温かいのだと。ただ、氷の殻に閉じこもっているだけなのだと。自分なら、その氷を溶かせると。今になって思えば、あまりにも幼稚な幻想だった。記憶が波のように押し寄せる。報われない期待。いつも後回しにされる悲しさ……それらは、やがて冷たい絶望となって胸の奥に沈殿した。「明乃……」岳は、彼女の瞳に宿る痛みを見て、胸を掴まれたような気がした。しかし、彼が口を開く前に――「岳!」切迫した声が、唐突に割り込んだ。美優だった。どこから現れたのか、彼女は勢いよく岳の腕に縋りついた。「岳!や
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第45話

それなのに今、岳は迷っている。そう思った瞬間、美優の表情はいっそう追い詰められたものになり、力任せに彼の腕を引いた。「岳、早く行こう!お母さんは、もう待てないの!明乃さんだって、もう立派な大人でしょう?子供じゃないんだから、あなたが四六時中そばにいる必要なんてないじゃない!」岳の呼吸が、一瞬詰まった。そうだ。明乃は大人で、自分のことは自分でできる。一方で、おばさんは命の瀬戸際にいて、彼を必要としている。比べるまでもない。どちらが優先されるべきかは、明白だった。しかし――「美優、君は先に帰ってくれ」岳は深く息を吸い、静かな声で言った。「病院に着いたら、まず中野(なかの)先生に連絡してくれ。おばさんの主治医だ。状況はすべて把握している。必要な手配があれば、仁に直接連絡すればいい。必ず手伝ってくれるから」その言葉に、美優だけでなく、明乃までもが思わず顔を上げた。「岳、あなた……」美優の顔に、信じられないという動揺が広がる。「何を言ってるの?私のお母さんよ!今まさに命が危ないのよ!」声は一気に高まり、焦りが滲んだ。「お母さんが、どうしてこんな状態になったと思ってるの?あなたを助けたからよ!あなたを突き飛ばさなければ、何年もICUで眠り続けることなんてなかったでしょう?」岳の胸が締め付けられた。それは、彼の論理体系において反論不可能で、最優先で償うべきことだった。その心の揺らぎを見逃さず、美優はさらに畳みかけた。「岳!そんな恩知らずなことできないでしょう!お母さんは、あなたにとって命の恩人なのよ!もし本当に何かあったら……あなた、一生後悔しないって言えるの!?」言葉の一つ一つが、毒を塗った針のように、岳の心を突き刺した。彼の顔色は見る間に悪くなり、拳を握り締めた指の関節が白く浮き上がる。「……明乃」喉仏が上下する。「おばさんの容体が危ない。少し戻らなければならない。一緒に来てくれるか?」その瞬間、明乃は、なぜか笑いそうになった。やはり……「岳!早く!お願いだから!」美優は半ば引きずるように、彼を連れ去っていった。明乃は、その場に立ち尽くしたまま、二人の背中が人混みに消えるのを無表情で見送った。ほら。これが岳という人だわ。彼の価値の天秤において、自分はいつも後回し。簡単に切り捨てられる、
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第46話

その頃、フォーラムはすでに終盤に差しかかっていた。だが明乃には、これ以上ここに留まる気力がなかった。彼女は立ち上がって会場を出ようとした、その瞬間、何かがおかしいことに気づいた。最初は、ただ熱いだけだと思った。人が多く、空気がこもっているせいだろうと。彼女は無意識に襟元を緩め、人の少ないテラスへ向かった。湿り気を含んだ涼風が頬を撫でる。それなのに、火照りは引くどころか、火種が燃え広がるように、彼女の全身へ一気に回った。心拍は意味もなく速まり、視界がわずかに揺れる。全身から、力が抜け落ちていくような感覚。おかしい……これは、明らかにおかしい。自分はお酒に弱くない。シャンパンを二杯飲んだ程度で、こんな反応が出るはずがない。その瞬間、脳裏に鮮明に浮かんだのは、さきほどのスタッフの顔だった。明乃はすぐに状況を理解し、慌ててバッグの中の携帯を探った。助けを呼ぼうとしたが、指が震えて思うように動かず、画面をタップするのもやっとだった。彼女は力の入らない脚を叱咤し、壁に手をつきながら進んだ。視界はどんどん霞み、耳鳴りが広がった。周囲のざわめきは、まるで水の底から聞こえるように遠かった。全身が異様に熱かった。「お嬢さん?大丈夫ですか?顔色が悪いようですが」誰かが異変に気づき、心配そうに声をかけてきた。明乃は口を開いたが、言葉が出なかった。首を振るのが精一杯で、彼女は支えようと伸びてきた手を振り払った。とにかく、ここから離れなければ。こんな状態を、誰かに見られるわけにはいかない。……一方その頃。会場の別の一角では――湊が海外出身の法学者と低い声で話し込んでいた。だがその視線は、何度も無意識に、先ほどまで明乃がいた辺りへ向けられていた。再び目をやった時、そこに彼女の姿はなかった。彼の眉がかすかにひそんだ。ほぼ同時に、修がふらりと隣へ来て、肘で軽くつついた。声を潜め、面白がるような口調で囁いた。「藤崎さん、あそこを見てみて。あの人、様子おかしくないか?一人でトイレの方へ行ったけど、足元もふらふらしていて、顔も真っ赤だったよ……飲みすぎたんじゃないのか?」その瞬間、湊の瞳が一気に冷えた。反射的に、彼は修の指す方向を見た。廊下の突き当たり。明乃は壁に寄りかかり、今にも崩れ落ちそうになっていた。次の瞬間
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第47話

「明乃!」湊は駆け寄ると、すぐさましゃがみ込み、彼女の身体を支えようとした。彼の指先に触れたことが、最後の引き金だった。明乃は溺れる者が浮き木にすがるように、本能のまま彼に縋りついた。火照った身体を強く押し付け、力の抜けた両手で彼の胸元を探った。そして、ぐっと彼の襟を掴み、引き寄せた。「熱い……苦しい……」潤んだ瞳で見上げ、そのまま焦点の合わないまま、彼の唇へ近づこうとした。湊は反射的に顔をそむけた。柔らかな唇が、彼の顎のラインをかすめる。湿り気を帯びた、熱を孕んだ感触。電流が走ったかのように、彼の全身が強張った。喉仏が大きく上下し、彼は一瞬で息を詰める。彼は深く息を吸い込み、体内に込み上げる衝動を力ずくで抑え込んだ。彼は彼女の手首をしっかりと掴み、低く掠れた声で呼びかけた。「明乃!よく見ろ。俺が誰か、分かるか?」だが、薬に理性を奪われた明乃には届かない。ただ、この男に触れていれば、焼けつくような苦しさが和らぐ――それだけだった。明乃は不満そうに身を捩り、また彼に縋りつこうとする。「……熱い……すごく熱い……」湊は目を閉じた。ここに留まれば、確実に取り返しがつかなくなる。迷うことなく、湊は彼女を横抱きにした。明乃は反射的に彼の首に腕を回し、火照った唇が彼の首元に触れ、擦れた。湊の全身の筋肉が再び強張った。歯を食いしばりながら、彼は手際よく自分のジャケットを脱ぎ、彼女を頭から足先まで包み込むように覆った。余計なものを、一切見せないために。彼は携帯を取り出し、即座に運転手へ電話を入れた。身体は彼女の熱に焼かれているのに、声だけは凍りついていた。「今すぐ車を回せ。地下駐車場B2、エレベーター前だ、今すぐ!急げ!」……リムジンの車内は、異様な緊張に満ちていた。運転手は前方から目を逸らさず、無言で仕切りを上げる。自分の存在を、できる限り消すために。後部座席で、湊は明乃を自分から引き離し、隣のシートに座らせようとした。だが、薬の回った彼女の力は想像以上に強く、まるで言うことを聞かない。湊から離された。ただそれだけで、彼女は不安になったのだろう。彼女はさらに強く縋りつき、小さな手で彼の身体を無秩序に撫で始めた。張り詰めた胸元から、鍛えられた腹部へ。そして、さらに下へ向かおうとした。湊は息を
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第48話

十数分後。会場から最も近い別荘の入口では、連絡を受けた医師と二人のお手伝いさんが、すでに待機していた。湊がスーツに包まれたもがき続ける女性を抱いて車から降りるのを見ると、医師はすぐに駆け寄った。「藤崎様」「薬を盛られている。急いで処置をしてくれ」湊の声は簡潔で、まだ声には消えやらぬ嗄れを帯びていた。彼は明乃をリビングの広いソファに慎重に寝かせたが、明乃の手は依然として彼のジャケットを強く握りしめたまま離さなかった。医師は急いで診察し、初期判断の後、迅速に鎮静剤を準備した。注射は順調には進まず、明乃が激しく抵抗したため、湊は背後から彼女を抱きかかえ、医師が処置しやすいようしっかりと身体を支え、押さえる必要があった。針が皮膚に刺さる微かな痛みに明乃は嗚咽を漏らし、抵抗する力は次第に弱まり、最終的に湊の腕の中でぐったりとなった。呼吸は次第に落ち着き、規則正しくなっていった。その場が突然静寂に包まれた。しかし、湊は依然として彼女を抱く姿勢を保ち、微動だにしなかった。ただ胸がわずかに上下し、荒い息遣いだけが残っていた。腕の中の体は柔らかく温かく、薄い生地越しに、先ほどの灼熱の温度をまだ感じ取れるようだった。眠りについた彼女の姿は、通常の時のよそよそしさが消え、長いまつげは二本の小さな扇のように、目の下に淡い影を落としていた。頬にはまだ消え残りの紅潮が浮かび、唇はわずかに開き、無意識に震えていた。空気中には彼女の淡い香りが漂い、お酒の匂いと彼女特有の甘い香りが混ざり合い、音もなく鼻先にまとわりついていた。湊の深淵のような視線は彼女の顔に注がれ、何か目に見えないものに引き寄せられたかのように、長く離れようとしなかった。彼は手を伸ばし、指先で彼女の額に張り付いた汗で濡れた前髪をそっと払いのけた。その動作には本人も気づかないほどの優しさが込められていた。彼の視線はゆっくりと下り、彼女のすっと通った鼻先を掠め、最終的に少し腫れた紅色の唇で静止した。ここだった……車内で、無意識に彼の首筋に擦り寄り、灼熱の柔らかな感触を残したあの場所。羽根が心の奥をかすめるように、言葉にできないほどの悸動をもたらした。彼の喉仏が無意識に動き、瞳の色は次第に深まり、まるで溶けきらない墨のようになっていた。指先は宙に浮かせられ、誘
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第49話

特に体調が悪いわけではなかったが、二日酔いのような頭痛と全身のだるさだけは残っていた。しかし、それでも安心できなかった。誰が着替えさせたのだろう?昨夜、一体何があったのだろう?あの男か……「目が覚めたか?」その時、低く落ち着いた声が不意に響いた。「気分はどうだ?頭はまだ痛むか?」明乃が慌てて顔を上げると、漆黒の瞳が視界に飛び込んできた。み……湊!?じゃあ昨夜は……彼だったの?視線は自然と、彼の冷たいほど白い首筋へと向かった――喉仏のすぐ横に、くっきりとした赤い痕が、紛れもなく刻まれていた!あの痕は……明乃の頭の中で「ガーン」と音がして、真っ白になった。呆然と口を開けたままその痕を見つめ、頬が火照り、耳まで真っ赤に染まっていく。湊は彼女の視線に気づき、無意識に首筋に手をやった。そして何かを察したように目を伏せたが、説明はせず、静かにコップを差し出した。「水を飲め。医者が目覚めたら脱水症状になるかもしれないと言っていた。朝食はできている。身支度をしたら、降りてくるといい」彼の態度は極めて自然で、まるで首の痕など最初から存在しなかったかのようだった。明乃は冷たい指先でコップを受け取り、俯きながら消え入りそうな声で呟いた。「昨夜……私は……」聞きたいが、勇気が出ない。湊は彼女の様子を見て、一瞬だけ笑みを浮かべたが、すぐにまた元の表情に戻した。「昨夜、お前は薬を盛られ、会場のトイレで倒れていた。俺がお前を連れて帰ったんだ」と彼は簡潔に説明し、要点だけを伝えた。「着替えはお手伝いさんがさせた」薬?明乃の心臓が強くドクンと跳ねた!やはり!あのお酒だわ!怒りと後悔が一気に込み上げてきた。誰!?しかしその直後、遅れて別の恥ずかしさが込み上げてきた――たとえ服がお手伝いさんに着替えさせられたとしても、それなら……首のあの痕は?まさか……お手伝いさんがつけた、なんてことはないよね?湊は彼女の心を見透かしたようだったが、あえて指摘せず、淡々と言った。「洗面用具は浴室にある。全て新品だ。下で待っている」明乃は彼が去る後ろ姿を見送り、自分が着ている男性用のパジャマを見下ろし、そして先ほど目にしたあの鮮明すぎる痕を思い返した……「あぁ――」彼女は悲鳴のような声を上げ、熱くな
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第50話

湊の言葉は淡々としていたが、明乃にはまるで雷に打たれたかのように響いた。「プハッ――ゴホゴホ……」彼女は口の中のトーストでむせて激しく咳き込み、顔は一瞬で真っ赤になり、咳で涙まで出てきた。彼に抱きついて離さなかった……しかも噛みついた……言葉の断片が頭の中で反響し、曖昧ながらも想像しただけで顔から火が出そうな光景を作り上げていく。湊はそれを見て、立ち上がって白湯を一杯注ぎ彼女に渡した。その動作は自然で、さっきのとんでもない発言はただの何気ない一言だったかのようだった。明乃はコップを受け取り、がぶがぶと何口か飲んでようやく咳を抑えたが、彼を見上げる勇気はなく、「昨夜は……意識が朦朧としていて……わざとじゃなかったの……」と弁明した。彼女は穴があればすぐにでも潜り込みたい気分だった!誰か助けて……これはあまりにも恥ずかしいわ……湊は彼女の耳まで真っ赤になっている様子を見て、眼底の笑みがさらに深まったが、それは一瞬で消えた。彼はハンカチで口元を拭い、彼女の頭頂部に視線を落とし、ゆっくりと付け加えた。「では、安藤さんは俺の……精神的損害と……それなりの被害を、どう補償してくれるつもりだ?」何も言えなかった。明乃は慌てて顔を上げ、彼の笑みを含んだ瞳に飛び込んだ。彼が冗談を言っているのか本気なのか、一瞬判断できなかった。補償?どう補償する?まさか……責任を取れというの?この考えが浮かんだ途端、明乃自身が驚き、心拍も突然乱れた。「じゃあ……ご飯をご馳走するのでいいかな?」彼女は覚悟を決めて聞いた。湊は振り向き、漆黒の瞳を細めた。「ご飯をご馳走する?」明乃は何も返せなかった。どうやらダメらしい……「じゃあ……藤崎さんは……」「俺はまだ何も考えていないけど」明乃は無言だった。これって、言いがかりをつけられてるのかな?湊は意味深な視線を彼女に向けると、傍らに置かれたタブレットを取り上げ、数回スワイプして画面を明乃に向けた。「補償の話は後でいい。まずこれを見てくれ。今はこちらの方が気になるだろう……」明乃は不思議そうにタブレットの画面を見た。そこには監視カメラの映像が映っていた――昨日の学術交流会の会場内の、ティーブレイクエリアの飲み物コーナー付近の映像だ!映像には
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