INICIAR SESIÓN【神崎柊吾side】
8月のある朝、俺は珍しい光景を目にした。
少しだけ開いた社長室の隙間から、デスクで氷室蓮が本を読んでいるのが見えた。
仕事の資料ではない。表紙には『はじめての妊娠・出産 パパのための完全ガイド』と書いてある。
俺は一度居住まいを正し、あえて聞こえるようにノックをしてから入室した。
「失礼します。氷室様、10時のアポの確認です」
「ああ」
蓮は本を閉じた。
閉じたが、机の引き出しにしまう前に俺はしっかり見た。
付箋が、何枚も貼られていた。色違いの付箋が、びっしりと。
「……その本、いつから読んでいるんですか」
「咲希の妊娠が分かった翌日から」
「……そうなんですね」
俺は書類をデスクに置いて、一歩引いた。
完璧に、表情を保った。完璧に。
◇
それから数週間、俺は蓮の変化を近くで見続けた
数日後の夜。蓮さんは珍しく早く帰ってきたが、ベッドに入った途端に眠ってしまった。「旅館と、グループの件で少し進展があった。後で話す」と言いかけたまま、寝息を立てている。私は布団をかけて、横になった。気づいたら、私は泣いていた。理由は、よく分からなかった。蓮さんがまた何かを一人で抱えていることへの不安なのか、妊娠中のホルモンバランスのせいなのか、それとも両方なのか。自分でも整理できないまま、涙が出た。蓮さんを起こさないように、静かに枕に顔を押しつけた。その時、お腹がきゅっと鳴った。そういえば、夕食をあまり食べられなかった。「……チョコミントのアイスが食べたい」誰に言うわけでもなく、呟いた。「どこのだ」隣から声がした。「っ……蓮さん、起きてたんですか?」「今起きた」蓮さんが、体を起こした。「泣いていたのか?」「泣いていません」「声が鼻声だ」「……少しだけ」「理由は?」蓮さんが、私の顔を覗き込む。「理由は……ないんです。よく、分からなくて」しばらく沈黙があった。蓮さんが、私の頭を引き寄せた。「それでいい」「え?」「理由なんてなくていい。泣きたければ泣け」「でも……」「君が泣いていると、俺が落ち着かない。それだけだ」少し矛盾している気がしたが、その腕が温かかったので、何も言わなかった。「チョコミントのアイスが、食べたいです」「コンビニで売っているか?」「蓮さん、今何時だと思って……」「何時だ」「深夜の2時です」蓮さんが、ベッドから出た。「買ってくる」
10月の、よく晴れた午後。旅館のSNSを開いて、新しい投稿の準備をしていた。工事前の客室の写真、庭の秋景色。文章を考えながら、お茶を一口飲んだ。コーヒーの香りが苦手になったのはつわりのせいで、今も麦茶を飲んでいる。こういう小さな変化が、自分の中に新しい命がいる証拠なんだと思うと、不思議な気がした。スマートフォンに、母からの着信が入った。「お母さん、どうしたの」『咲希、元気?今、大丈夫?』「うん、全然大丈夫。つわりも落ち着いてきて」『本当に良かった。……それでね、聞いてほしいことがあって』母の声が、少し弾んでいた。「何?」『今日ね、源さんが、厨房で一人でいるところを見たんだけど』「うん」『笑ってたのよ』私は、手を止めた。「……源さんが?」『そう。新しい厨房を見回して、小さく笑って。気づいたら独り言みたいに言ってたの。「悪くない」って』私は、しばらく何も言えなかった。『咲希?』「……ごめん、ちょっと、嬉しくて」『私もよ。あの源さんがね。厨房が新しくなってから、仕込みの時間が長くなったって、お父さんも言ってたわ』「そうなんだ」『きっと、新しい設備でやりたいことが増えたんでしょうね。蓮さんが説得してくれたおかげよ。お母さん、感謝してるの』「……私も、蓮さんに伝えます」『うん。伝えてあげて』電話を切った後、しばらくスマートフォンを握ったまま動けなかった。源さんが、厨房で笑った。あの源さんが。ここ数日で一番、胸が温かかった。◇その夜、蓮さんに話した。「母から連絡があって。源さんが、新しい厨房で笑っていたそうです」蓮さんが、少し手を止めた。「『悪
【神崎柊吾side】8月のある朝、俺は珍しい光景を目にした。少しだけ開いた社長室の隙間から、デスクで氷室蓮が本を読んでいるのが見えた。仕事の資料ではない。表紙には『はじめての妊娠・出産 パパのための完全ガイド』と書いてある。俺は一度居住まいを正し、あえて聞こえるようにノックをしてから入室した。「失礼します。氷室様、10時のアポの確認です」「ああ」蓮は本を閉じた。閉じたが、机の引き出しにしまう前に俺はしっかり見た。付箋が、何枚も貼られていた。色違いの付箋が、びっしりと。「……その本、いつから読んでいるんですか」「咲希の妊娠が分かった翌日から」「……そうなんですね」俺は書類をデスクに置いて、一歩引いた。完璧に、表情を保った。完璧に。◇それから数週間、俺は蓮の変化を近くで見続けた。まず、帰宅時間が変わった。以前は深夜まで残っていた蓮が、18時には席を立つようになった。「氷室様、まだ懸案事項が」「明日やる」「明日は役員会が」「朝一番に繰り上げろ。午後の予定はすべてキャンセルだ」「……かしこまりました」無茶苦茶だ。だが、今のこの男に正論は通じない。すべては、咲希さんの夕食に間に合わせるためだ。それは分かる。分かるが。2年前、「帰宅は何時でもいい」と言っていた男と同一人物とは思えなかった。……まあ、あんなに幸せそうな顔をされては、秘書としても友人としても、黙って従うしかないのだが。◇数日後。社長室の環境が変わった。デスク脇に、新しい本が増えた。『妊婦のための栄養学』『つわりを和らげる食事レシピ』『胎教に良い音楽100選』
先週、蓮さんと森川荘を訪れ、父に法人化の計画を話した。父は黙って全部聞いて、最後にただ一言「頼む」と言った。その一言が、まだ胸の奥に温かく残っている。9月の、晴れた午後。空は高く、秋の気配を含んだ風が街を通り抜けていく。ここ数日、波のように押し寄せていたつわりが、今日は嘘のように穏やかだった。蓮さんは今朝、珍しく「午前中に会社に行って、午後には戻る」と言い残して出かけていった。具体的な用件は言わなかったが、その横顔には、仕事の時とは違う、どこか厳粛な響きがあった。そんな時、私のスマートフォンに神崎さんからメッセージが届いた。『今日は、亡くなられた先代・隆一郎様の命日です。氷室様にとって、人生で最も大切な日の一つです。蓮様は一人で行くつもりでしょうが、よければ、そばにいてあげてください』添えられていたのは、都内の霊園の名前と区画番号。「……一人で背負おうとするのは、蓮さんの癖ですね」私は、急いで身支度を整えた。◇石畳を踏みながら、私は花束を持って歩いた。木々の間から、秋の光が差し込んでいる。遠くに、人影が見えた。蓮さんだった。墓石の前に、一人で立っていた。花と線香を供えて、ただ立っている。私は足音をできるだけ立てないようにしながら、近づいた。砂利が鳴った。「……来たのか」振り返らずに蓮さんが言った。背後から聞こえる私の足音だけで、分かったらしい。「神崎さんから、今日だと聞きました。……勝手に来て、すみません」「いや。……いつかは、紹介しなくてはいけないと思っていた」蓮さんは、墓石に刻まれた『氷室隆一郎』という文字を見つめていた。私は持ってきた季節の花を供え、深く頭を下げた。「ご挨拶が遅くなりました」小さく、墓石に向かって言った。「咲希と申します
3日後の夜、蓮さんがいつもより少し早く帰ってきた。「咲希、話がある」蓮さんが、向かいに座った。「この2週間、遅くなっていた理由の一つを、話す」「一つ、ですか」「ああ。実は……森川荘の件で、動いていた」「実家の旅館の?」「ああ」蓮さんが、封筒をテーブルに置いた。「開けてくれ」中身を取り出すと、何枚かの書類だった。一番上の文字を見て、私は目を見開いた。『株式会社森川荘 設立計画書』「これ……」「旅館を、法人化する計画だ」蓮さんが、話し始めた。個人経営のままでは、融資が通りにくい。税制面でも不利な部分がある。法人化すれば信用力が上がり、設備投資の資金も集めやすくなる。「来年、森川荘の本格的な立て直しに入りたい。客室のリノベーション、温泉設備の更新、源さんの料理を売りにした宿泊プランの開発」「でも……なぜ、今まで言ってくれなかったんですか」「弁護士、税理士、投資家との交渉が続いていた。まだ確定していない部分を話すのは、心配をかけるだけだと思って」「……なぜ、氷室グループの名前を出さないんですか?」「君の旅館だからだ」蓮さんが、真っ直ぐ私を見た。「新婚旅行の時、君が言っていたことを考え続けた。氷室の名前で一気に変えるのではなく、あの旅館自身の力で立てるようにしたい」喉の奥が、詰まった。「あの旅館は、森川家の旅館だ。君が誇りを持って継ぐ場所だから」「……蓮さん」「この2週間の帰りが遅かった理由の一つは、それだ。不安にさせて、すまなかった」「……いいえ」私は首を横に振った。「私こそ。蓮さんを信じ切れなくなりそうになって」「なりそうに、か」「なりそうになった、だけです。あなたを信じると決めていましたから」蓮さんが、少し目を細めた。「そうか……強くなったな、咲
それから2週間、蓮さんの帰りは深夜が続いた。妊娠が分かってからしばらくは早く帰ってきていた蓮さんが、また遅くなっている。『もう少しで、話せる』そう言ったまま、それ以上は何も言わない。カチカチと、時計の音だけが響くリビング。私は、冷めてしまったハンバーグにラップをかける。かつて彼が美味しいと言ってくれた料理が、今はただの無機質な塊に見えた。彼のことを、信じている。信じているけれど。こうして二人分作って、一人分をラップで包む夜が続いた。◇ある深夜1時を過ぎた頃、玄関が開いた。「ただいま」玄関に立った蓮さんのスーツから、夜の冷気と、知らない場所の匂いがした。タバコではない。お酒でもない。それは私が選んだ洗剤の匂いでも、彼が愛用しているシトラスの香水でもない。もっと甘くて、どこか都会的で冷ややかな──。誰かの存在を予感させる、知らない香りがした。……どこにいたんだろう。そんな疑問が頭の中を過ぎった瞬間、自分でも驚いた。こんなことを考えてしまう自分が、怖かった。聞けなかった。聞いたら、何かが変わってしまう気がして。「まだ起きていたのか。体に障る」「眠れなくて」「横になれ」「蓮さん」私は、蓮さんを見た。「最近、また帰りが遅くなっていますね」「仕事だ」「どんな仕事か、聞いてもいいですか」蓮さんが、動きを止めた。「……色々だ」「色々、って」「体調が悪い時に、余計な心配をするな」「余計な心配じゃないです」私の声が、わずかに震えた。「私はただ、蓮さんのことが心配なんです」蓮さんは、黙っていた。「もう少しで、話せる」「もう少し、って、いつですか」
『契約書を作り直そう』そう言って、氷室様は書斎へ向かった。私は、その背中を見つめた。氷室様の肩が、少し震えているように見えた。3年前のことを思い出して、苦しんでいる。私は、拳を握りしめた。大丈夫。私がそばにいる。氷室様は、一人じゃない。◇しばらくして、氷室様が新しい契約書を持って戻ってきた。それをテーブルに置く。「読んでくれ」私は、契約書を手に取った。***【婚約者契約書】期間:本日
──目が覚めた。私は、ベッドの上で激しく息を切らしていた。心臓が、警鐘のようにドクドクと鳴り響いている。夢……だった。トランクを開けた、悪夢のような夢。中には、何が入っていたんだろう。見た、はずなのに。目が覚めた瞬間、あの光景は霧のように消えてしまった。思い出せない。ただ──恐怖だけが、胸に残っている。私は、クローゼットをじっと見つめた。あの中に、トランクがある。本当に開けてしまいそうで、何よりもそれが怖かった。時計を見ると、午前
私は、息を呑んだ。死──?「死ぬって、そんな大袈裟な……」「いいえ、大げさじゃないんです」神崎さんは、真剣な目で続けた。「過労死、という言葉をご存知ですか?」「はい……」「氷室様は、その一歩手前です」私は、胸がぎゅっと締め付けられた。「氷室様は仕事ばかりで、自分の健康を顧みない。朝は7時に家を出て、夜は0時を過ぎることもある。食事は全てコンビニか外食です」「……そんな」「なので、どうか氷室様を救ってあげてください。
夜の11時を回ると、リビングには重苦しい空気が戻ってきた。氷室様はすぐに神崎さんに連絡を取り、椿さんからのメッセージについて報告していた。私は一人、ソファに沈み込んで窓の外を眺めていた。東京の夜景はいつものように眩く瞬いているが、今夜はその光の粒のひとつひとつが、私を突き放すように冷たく感じられる。『楽しみにしています。2月14日を』椿さんのメッセージが、頭から離れない。「咲希」背後から届いたその低く穏やかな声に、張り詰めていた心がわずかに緩んだ。振り返ると、ネ