All Chapters of 塩対応の国宝級アイドルは、私の手料理がないと生きていけないらしい: Chapter 11 - Chapter 20

119 Chapters

11

「……はぁ」 私は観念して、その場にしゃがみ込む。「分かりました。追い出しませんから」「……ほんと?」「本当です。今日はもう遅いですし、電車もないですし」 言い訳を並べ立てると、彼は安堵したようにふにゃりと笑った。その笑顔は、テレビで見る営業スマイルの百億倍、無防備で破壊的だった。 そのまま、彼は電池が切れたように横倒しになった。安物のラグの上に、高級スーツのまま転がる。ものの数秒で、スースーと規則正しい寝息が聞こえ始めた。 よほど疲れていたのだろう、気絶するように深い眠りへ落ちている。 でも――私のスカートを握った左手だけは、決して離そうとしなかった。◇「……どうしよう、これ」 私は、動くに動けなくなっていた。スカートを掴まれたまま、体育座りをする。 目の前には、世界が恋する綺更津レンの寝顔。 スーツは汚れだらけ、涙の跡も目立つ。 それでも、やっぱり。悔しいくらいに美しい。 長い睫毛が頬に影を落としている。形の良い唇が、わずかに開いていた。 無防備すぎる。ここがもしセキュリティ万全の高級マンションならまだしも、鍵も心もとないボロアパートだぞ? 不審者とか来たらどうするんだ。危機感なさすぎじゃないか。 というか、不審者は実質的に私か。(推しが、私の部屋で、私のスカートを握りしめて爆睡している……) 改めて状況を整理しようとして、脳が処理落ちする。これは無理だ、現実味がなさすぎた。 でも、太ももに伝わる彼の手の体温は、確かに熱い。 明日の朝、彼が起きたらどうなるんだろう。正気に戻って、「訴えてやる」とか言われたらどうしよう。あるいは、全部忘れて帰っていくのだろうか。 不安がないと言えば嘘になる。でも、それ以上に。彼が私の作ったご飯を食べて、私のそばで安心して眠っている。その事実が、たまらなく愛おしくて、誇らしかった。「……おやすみなさい、レンくん」 小声で囁く。返事の代わりに、彼が握った手に力を込め、身じろぎをして私の膝に額を押し付けてきた。温かい。生きている重みだ。 睡魔が、私にも忍び寄ってくる。このままここで寝るわけにはいかないけれど。あと5分だけ。あと5分だけ、この奇跡のような時間に浸っていたい。 私は膝の上の「国宝」を見守りながら、壁にもたれて目を閉じた。
last updateLast Updated : 2025-12-03
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12:夢の跡と500円玉

 チュン、チュン。爽やかな小鳥のさえずりで目が覚めた  カァー、ガァー。と、言いたいところだけど、実際は近所のカラスのダミ声で目が覚めた。私の日常なんて、こんなものだ。「……んぐっ」 目を開けようとして、首にグキッと痛みが走る。バキバキと音がしそうなほど凝り固まった体を起こすと、腰からも悲鳴が上がった。  無理もない。フローリングの床に体育座りをしたまま、壁にもたれて寝ていたのだから。「……あ」 ぼやけた視界が焦点を結ぶ。  目の前の安物ラグの上には、誰もいない。  私が彼にかけてあげたタオルケットが、不器用に、でも丁寧に畳んで置かれているだけだ。「……いない」 当たり前だ。シンデレラの魔法は12時で解けるし、かぐや姫だって月へ帰る。国宝級アイドルが、築30年の木造アパートに永住するわけがない。 ふぅ、と息を吐いた。ほっとしたような。胸のど真ん中に、ぽっかりと穴が空いたような。形容しがたい喪失感が胸をかすめる。 でも、夢じゃなかった。6畳一間の空気には、確かに昨夜の香水――『CielBlue(シエル・ブルー)』の香りが残っている。甘く切なく、どこか寂しげなトップノート。それが私の生活、日常と混ざり合って、何とも言えない非日常の余韻を醸し出していた。 ◇  よろよろと立ち上がり、ローテーブルを見る。そこには空っぽになった土鍋と、綺麗に舐めとられたような茶碗が置かれていた。  そして、メモ帳の切れ端とおぼしき紙切れと、小銭の山があった。 紙切れを拾い上げる。乱雑に破り取られたメモ紙の裏面に、ボールペンで走り書きがされていた。『助かった。レン』「美味しかった」でも「ありがとう」でもなく、「助かった」。  その一言が、彼の切実な本音を物語っている。字は達筆だが、線が少し歪んでいた。書く時に手が震えていたのかもしれない。 私はその横の小銭たちを見た。500円玉が1枚と、100円玉が数枚。あとは10円玉が少し。ざっと数えても、1000円に届かない程度の金額だった。(……これたぶん、全財産だ) 察してしまった。彼は昨日、どこぞのパーティー会場からボロボロになって逃げ出してきたのだ。バッグを持っている様子はなく、財布も持っていなかっただろう。  ポケットに入っていた小銭、それが彼の手持ちの全てだった。「無銭飲食はしない」という彼のプライ
last updateLast Updated : 2025-12-04
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13

 何だか泣きたくなる。国民的アイドルがなけなしの小銭を置いていくなんて。その不器用さがひどく愛おしく、同時に胸を締め付ける。 私は小銭の山から、500円玉を1枚だけつまみ上げた。ひんやりとした金属の感触がする。銀色の硬貨は朝の光を受けて、鈍く光っていた。「……安すぎますよ、命の値段」 誰に言うでもなく呟いて、私はその500円玉をギュッと握りしめた。◇ 私は痛む体をぐーんと伸ばして、シャワーを浴びることにした。 髪や肌に染み付いた『CielBlue』の残り香を、安物のボディソープで洗い流していく。これは儀式だ。夢から覚め、現実に戻るための通過儀礼。 シャワーから上がったら、鏡の前でいつものメイクをする。派手すぎず、地味すぎず。誰の印象にも残らない「総務部の小日向さん」の顔を作る。 そうして出来上がったのは、モブの顔だ。いつもながらプロのモブ顔である。「あれは夢。全部、私の都合のいい妄想」 鏡の中の自分に言い聞かせる。推しをゴミ捨て場で拾って、ご飯を食べさせて、手を握って寝た? そんな小説みたいな展開、あるわけがない。疲れていたんだ、私。 アパートを出て駅へ向かった。満員電車に揺られながら、周囲を見渡す。 疲れ切った顔のサラリーマン。参考書を広げる学生。スマホをいじるOL。この車両の誰も、私が昨夜「国宝」にご飯を作ってあげたなんて信じないだろう。私自身でさえ、もう信じられなくなってきている。 スマホを取り出し、惰性でニュースアプリを開いた。トップニュースに見慣れた名前がある。『Noix(ノア)綺更津レン、新曲MV公開! 圧倒的な美で世界を魅了』 タップすると、動画が再生される。 重厚なイントロが鼓膜を震わせる。 画面の中の世界は氷で作られた城のように青白く、冷たく輝いていた。 その中心に彼がいる。―― 綺更津レン。 カメラを見据えるその瞳は、絶対零度のアイスブルーだ。 昨夜、潤んだ瞳で私を見上げていた男と同一人物だなんて、誰が信じるだろうか。そこにあるのは「媚び」など微塵もない、見る者すべてをひれ伏させる王者の眼差しだった。 長い手足が、鞭のようにしなやかに空気を切り裂く。 指先の動きひとつ、髪の揺れ方ひとつに至るまで、すべてが緻密に計算された芸術品であるかのよう。激しいビートに乗っているのに、彼の周りだけ重力が仕事をしていないみた
last updateLast Updated : 2025-12-04
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14

『――愛なんて、氷のように溶けて消える』 唇から紡がれる歌声はクリスタルのように硬質で、透明だった。 聴く者の心臓を直接握りつぶすような、甘く危険なハイトーンボイス。 顎を伝う汗さえきらびやかだ。 照明を弾いてきらめくそれは、もはや演出のための宝石か聖水にしか見えなかった。 呼吸をするのと同じように色気を撒き散らし、画面の向こうの数億人を殺しにかかっている。「…………」 昨日の、涙目で雑炊をかきこんでいた「迷い猫」はどこにもいない。 膝を抱えて「帰りたくない」と甘えてきた幼児もいない。 そこにいるのは、完璧にパッケージングされた商品としての「綺更津レン」だった。(遠い) あまりにも遠すぎる。画面の中の彼と、吊革に捕まっている私。やっぱり、私たちは別の世界に住む生き物なのだ。昨夜の出来事は、次元の裂け目がうっかり開いてしまっただけのエラーに過ぎない。もう二度と起きない奇跡だろう。 私はそっとブラウザを閉じ、スマホを鞄の奥底にしまった。◇「おはよーございまーす」 始業10分前のオフィスで、いつものようにタイムカードを切り、自分のデスクに向かう。給湯室の方から、キャピキャピとした声が聞こえてきた。 昨夜私に残業を押し付けた、後輩のキラキラ女子だ。お仲間の子たちと女子トークをしている。「ねえ昨日の番組見た!? レン様マジ尊かったんだけど~!」「見た見た! あの流し目ヤバくない? 見つめられただけで倒れるかと思った」「あんな完璧な人、絶対トイレとか行かないよね。てか霞食べて生きてそう」 彼女たちの会話が、鼓膜を素通りしていく。 トイレも行くし、お腹も鳴るし、必死な顔で雑炊も食べるよ。そう言いたくなる口を、ぐっと引き結んだ。「あ、小日向さーん! おはよーございます!」 私に気づいた後輩が、手を振ってくる。「小日向さんも見ました? 昨日のレン様!」「あ、うん。見たよ。…&he
last updateLast Updated : 2025-12-05
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15:テレビの中の他人

 夜の21時。それは、信徒にとって最も神聖な礼拝の時間だ。 私はお風呂を済ませて身を清めてから、部屋着の中でも一番綺麗な「正装」に着替えた。  テレビの前に座布団を敷いて正座する。その視線の先、部屋の隅にあるカラーボックスの上には、私の信仰の対象が鎮座している。 あの一角は名付けて、「レンくん神棚」。 最新のアクリルスタンドを筆頭に、厳選された缶バッジ、ファンクラブ限定のポストカード。  そして中央には、彼が愛用している香水『CielBlue(シエル・ブルー)』のボトル(未開封の観賞用)が祀られている。私はパンパン、と柏手を打ち、深く一礼した。「どうか今日も、世界が平和でありますように。レンくんの喉の調子がすこぶる良いものでありますように」 祈りを捧げ、リモコンの電源ボタンを押す。画面が明るくなり、生放送の音楽番組『ミュージック・アワー』のロゴが踊った。『今夜のトップバッターは、Noix(ノア)!』 司会者の声と共に、スタジオの照明が落ちる。鼓膜を震わせる、重厚なイントロが流れ始めた。無数のレーザー光線が交錯し、その中心に彼らが浮かび上がった。「……っ」 息を呑む。センターに立つのは、綺更津レン。今日の衣装は、氷の結晶を模したような青白いスーツだった。カメラを見据えるその瞳は、絶対零度のアイスブルー。唇の端をわずかに歪め、不敵に笑う。『――愛なんて、氷のように溶けて消える』 歌い出しのワンフレーズで、スタジオの空気が凍りついたように張り詰めた。完璧なピッチ。ダンスは指先の角度まで完璧に計算され尽くしている。汗さえもダイヤモンドの粉末のようにきらめき、彼の美しさを引き立てる演出にしかなっていない。 サイドの2人、セナとハルをまるで従えるようにして、彼は王者の風格で踊る。 セナはミステリアスで穏やかな魅力を。 ハルは元気いっぱいで弟のような快活さを。 それぞれに見せつけながら、彼らは歌う。(……同じ人、なんだよね?) 脳がバグを起こして、処理を拒否する。  昨日、この安物ラグの上で膝を抱えていた男と、画面の中で数百万人の視線を釘付けにしている「王」が、同一人物だなんて。  生物としての格が違いすぎる。あれはきっと、神様がうっかりシステムエラーを起こして、私の部屋に迷い込ませてしまっただけなのだ。 彼は光に包まれた別世界の住人。
last updateLast Updated : 2025-12-05
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16

「……よし」 私は自分に気合を入れるように、パンと膝を叩いて立ち上がった。私はモブだ。アイドルの輝きを遠くから眺める観客だ。彼を支える数百万分の一のファンに戻るんだ。 500円玉はもう少し考えよう。蒸発して消えるようなものじゃなし、保留にしておけばいい。 明日の弁当のおかずでも作ろう。そう思って、キッチンへ向かおうとした瞬間だった。『ピンポーン』 インターホンの電子音が鳴り響いた。ビクッとして、心臓が跳ね上がる。 こんな時間に誰? 時計を見ると、既に22時を回っている。宅急便の予定はない。新聞の勧誘? それとも某放送局の集金かな? あるいは、昨日の騒ぎを聞きつけたパパラッチとか……?背筋に冷たいものが走る。恐怖と、それから。ほんの1ミリだけ、ありえない期待が脳裏をかすめる。(まさか、ね) 私はそうっと忍び足で玄関へ向かった。ドアに耳を押し当てるが、外の気配は分からない。息を潜め、ドアスコープに片目を当てる。 魚眼レンズの向こう側。薄暗い廊下に、一人の男が立っていた。 黒いキャップを目深に被り、大きなマスクで顔の半分以上を隠している。見るからに怪しい。通報レベルの不審者だ。 でも。 人目を避けるように背を丸め、気配を殺したその立ち姿。 テレビの中の堂々とした「王者」とは似ても似つかないけれど、華奢に見えて意外と広いその肩幅には、見覚えがあった。(……うそ) 血の気が引くと同時に、体温が一気に上昇する。心臓が激しくバクバクと脈打った。 私は震える手でロックを外した。ドアチェーンをかけたまま、数センチだけドアを開ける。「……あの、どちら様で……」 思わず声が裏返る。男が、ゆっくりと顔を上げた。キャップのつばの下から、アイスブルーの瞳が覗く。街灯の光を反射して、濡れたように光っていた。「……俺」
last updateLast Updated : 2025-12-06
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17:禁断の二度目

 カチャリ。ドアチェーンを外す音が静かな夜の廊下に響く。その乾いた金属音は、私の理性が崩壊する音とよく似ていた。「……悪い」 彼は短くそう言って、靴を脱いだ。脱ぎ捨てられたのは、私の給料三ヶ月分はしそうなハイブランドのレザースニーカーだ。 それが狭い玄関に置かれた瞬間、我が家の玄関の格が爆上がりした気がする。 彼がリビングへと足を向けた、その時だ。私の脳内で警報サイレンが鳴り響いた。(まずい! アレを見られたら終わる!) アレとは何か。リビングの特等席、カラーボックスの上に鎮座まします「レンくん神棚」である。 最新のアクスタ、祭壇のように並べられた缶バッジ、そして未開封の香水。本人がそれを見たらどう思うか。「うわっ」と引くか、最悪の場合、ストーカー認定されて通報される。「ちょ、ちょっと待ってください!」 私は裏返った声を上げると、光の速さでリビングへダッシュした。脱衣所のカゴから、洗濯したばかりのバスタオルをひっつかむ。 そして、スライディング気味に神棚の前へ滑り込み、バサリとタオルを被せた。 隠蔽完了。ゼエゼエと肩で息をする私の背後から、呆れたような視線が刺さる。「……何してんの?」「い、いえ! 散らかっていたので! 見苦しいものを隠しただけです!」 嘘ではない。ある意味、オタクの業(ごう)という最も見苦しいものを隠したのだから。 彼は怪訝そうに眉をひそめたが、それ以上突っ込む気力もないらしい。ふらりとした足取りで、安物のラグの上に腰を下ろした。 長い手足を持て余すようにして、ぐったりとローテーブルに突っ伏す。(……すごい) この狭い六畳一間に、再び「国宝」が存在している。ただ彼がいるだけで、安アパートの空気が浄化され、マイナスイオンが発生しているような錯覚に陥る。 ここはもう、聖域だ。私は拝み倒したい衝動を必死に抑え、彼に向き合った。◇ 変
last updateLast Updated : 2025-12-06
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18

「食べたよ」 彼はテーブルに頬をつけたまま、虚ろな目で答えた。「ロケ弁も、差し入れの高級スイーツも、全部口に入れた」「じゃあ……」「でも、喉を通らないんだ」 彼は自分の喉元を、忌々しそうにさする。「飲み込んでも、砂利か灰を食ってるみたいで。……吐き気がする。実際、吐いた」 心因性の味覚障害。あるいは、拒食に近い状態なのだろうか。極度のストレスと孤独感が、彼の生存本能にブレーキをかけている? アイドルなんて、ストレスが多い仕事だろう。 想像するだけで、胃のあたりがキリキリと痛んだ。「……お前の作ったアレだけが、食べ物に見えるんだ」 彼が上目遣いで私を見る。その瞳は、「助けてくれ」と訴えていた。 私は今朝、残されていたメモを思い出した。「助かった」あれには確かにそう書かれていた。 彼にとっては助けだったのだと、改めて実感する。(責任重大すぎる……!) プレッシャーで押しつぶされそうだ。でも同時に、心の奥底でふつふつと湧き上がるものがある。 それは料理好きとしてのプライドと、謎の母性だ。「私の料理が世界一」と言われているに等しいではないか。彼の舌を、胃袋を、私が救ってみせる。 定食屋の娘の本領発揮だ。「分かりました」 私は腕まくりをするフリをして、気合を入れた。「すぐ作ります。待っていてください」◇ キッチンに立った。時刻は22時30分を回っている。こんな時間に、胃腸が弱った人間に何を食べさせるべきか。消化が良く、身体が芯から温まり、かつ「食べた」という満足感があるもの。 冷蔵庫を開けて、中身を確認した。大根、人参、ごぼうのささがき(冷凍しておいたもの)、豚こま切れ肉。よし、決まりだ。「豚汁にしよう」 小鍋にごま油をひき、具材を炒める。ジュワッ、という小気味よい音
last updateLast Updated : 2025-12-06
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19

 保温しておいたご飯を取り出す。炊きたてではないけれど、電子レンジで温め直し、熱々のうちに塩をまぶした手で握る。 具はいらない。海苔を巻いただけのシンプルな塩むすびにしよう。大きく、ふっくらと握った。「お待たせしました」 お盆に載せて運ぶと、彼はすでに上半身を起こして待っていた。その目は、獲物を狙う肉食獣のようにらんらんと輝いている。 お盆をローテーブルに置いた。 湯気の立つ豚汁と、海苔の黒さが際立つ大きめのおにぎり2つ。色合いは地味だ。茶色と白と黒しかない。でも今の彼には、どんな宝石よりも輝いて見えているらしい。「……いただきます」 彼は両手でおにぎりを掴んだ。そして、大きな口を開けてかぶりつく。 ハフッ。 熱さに目を細めながら、咀嚼する。続いて豚汁のお椀を持ち上げて、ズズッとすすった。熱い味噌汁が喉を通るたび、彼の喉仏が上下する。「……っ、ふぅ……」 彼はほう、とため息を吐いた。「……うまい」「良かったです」「ちゃんと、大根の味がする。……豚肉の味がする」 当たり前のことだ。でも、その当たり前が彼にとっては奇跡なのだろう。今日は涙こそ流していないけれど、その瞳は潤んでいた。 食事を進めるごとに、青白かった頬に少しずつ赤みが差していく。 ガツガツと夢中に、でも噛み締めるように食べ進める彼。その姿を見ていると、アイドルの食事風景というより、保護した野生動物の生命維持活動を見守っている気分になる。(もっとお食べ。いい子だねぇ……) 危ない。うっかり頭を撫で回しそうになる衝動を、太ももをつねって抑え込んだ。 私が菩薩のような顔で彼を見守っていると、彼はふと目を上げた。「お前は食べないのか?」「え? あ、私はさっきコンビニ弁当を……」
last updateLast Updated : 2025-12-07
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20

「……分かりました」 私はキッチンに戻り、自分用のおにぎりと豚汁を用意した。狭いローテーブルを挟んで、彼と向かい合わせに座る。(推しと向かい合ってご飯……!) 緊張で喉が詰まりそうだ。でも、彼がじっと私の様子をうかがっている。私が食べないと、彼も食べ始めないつもりらしい。「い、いただきます」 意を決して、おにぎりを手に取る。まだ温かい。大きく口を開けてかぶりつく。 モグモグ。 口いっぱいに広がるお米の甘みと、程よい塩気。空きっ腹に染み渡る美味しさだ。私は無心で咀嚼した。緊張しているはずなのに、美味しいものは美味しい。リスのように頬を膨らませて幸せを噛み締める。 正直な所、かなり空腹だった。今日も今日とて仕事は残業で、帰って来るまでものを食べる暇はなかったのだ。 その様子を彼がじっと見つめていた。 まるで珍しい動物でも観察するかのように。 そして安心したようにふっと表情を緩めて、再びおにぎりを口にした。「……ん」「どうですか?」「……うまい」 彼は深く頷き、また夢中で食べ始めた。 豚汁をすすり、ハフハフと息を吐き、またおにぎりを頬張る。 私もつられて、ペースが上がる。 2人で無言、同じリズムで食事をする。 カチャカチャという食器の音と、咀嚼音だけが響く静かな部屋。それがちっとも気まずくない。 むしろお腹の底からじんわりと温かくなるような、不思議な居心地の良さがあった。◇「ごちそうさまでした」 完食した。彼は満足げに息を吐き、私のビーズクッションに深く身体を沈めた。「人をダメにするクッション」の魔力には、国宝級アイドルも抗えないらしい。満腹になり、すっかりリラックスモードに入っている。「また助けられた。お前、名前は?」 何気なく言われた言葉に、またしても心臓が跳ねる。 推しが私をモブじゃなく、名前
last updateLast Updated : 2025-12-07
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