「……はぁ」 私は観念して、その場にしゃがみ込む。「分かりました。追い出しませんから」「……ほんと?」「本当です。今日はもう遅いですし、電車もないですし」 言い訳を並べ立てると、彼は安堵したようにふにゃりと笑った。その笑顔は、テレビで見る営業スマイルの百億倍、無防備で破壊的だった。 そのまま、彼は電池が切れたように横倒しになった。安物のラグの上に、高級スーツのまま転がる。ものの数秒で、スースーと規則正しい寝息が聞こえ始めた。 よほど疲れていたのだろう、気絶するように深い眠りへ落ちている。 でも――私のスカートを握った左手だけは、決して離そうとしなかった。◇「……どうしよう、これ」 私は、動くに動けなくなっていた。スカートを掴まれたまま、体育座りをする。 目の前には、世界が恋する綺更津レンの寝顔。 スーツは汚れだらけ、涙の跡も目立つ。 それでも、やっぱり。悔しいくらいに美しい。 長い睫毛が頬に影を落としている。形の良い唇が、わずかに開いていた。 無防備すぎる。ここがもしセキュリティ万全の高級マンションならまだしも、鍵も心もとないボロアパートだぞ? 不審者とか来たらどうするんだ。危機感なさすぎじゃないか。 というか、不審者は実質的に私か。(推しが、私の部屋で、私のスカートを握りしめて爆睡している……) 改めて状況を整理しようとして、脳が処理落ちする。これは無理だ、現実味がなさすぎた。 でも、太ももに伝わる彼の手の体温は、確かに熱い。 明日の朝、彼が起きたらどうなるんだろう。正気に戻って、「訴えてやる」とか言われたらどうしよう。あるいは、全部忘れて帰っていくのだろうか。 不安がないと言えば嘘になる。でも、それ以上に。彼が私の作ったご飯を食べて、私のそばで安心して眠っている。その事実が、たまらなく愛おしくて、誇らしかった。「……おやすみなさい、レンくん」 小声で囁く。返事の代わりに、彼が握った手に力を込め、身じろぎをして私の膝に額を押し付けてきた。温かい。生きている重みだ。 睡魔が、私にも忍び寄ってくる。このままここで寝るわけにはいかないけれど。あと5分だけ。あと5分だけ、この奇跡のような時間に浸っていたい。 私は膝の上の「国宝」を見守りながら、壁にもたれて目を閉じた。
最終更新日 : 2025-12-03 続きを読む