Masukそれから数日後の午後のこと。 ペントハウスの広大なリビングには温かい日差しが差し込んで、平穏な時間が流れていた。 私はキッチンで夕食の仕込みをしながら、リビングのソファでスマートフォンを耳に当てているセナさんの様子をうかがっていた。「……ええ、はい。承知いたしました。……ええ、誠に光栄なことです。スケジュールにつきましては、追って担当の者から調整のご連絡をさせていただきます。……はい、本日はわざわざのお電話、ありがとうございました。失礼いたします」 セナさんが丁寧な口調で通話を終えて、スマートフォンをテーブルに置いた。 彼は中指で眼鏡のブリッジをスッと押し上げる。 キッチンにいる私、床でブロック遊びをしている伊織と茉莉、さらには向かいのソファで寝転がっているハルくんと、台本を読んでいるレンくんの全員を見渡した。「今の電話は、白石監督ご本人からです」 セナさんのその言葉に、リビングの空気がピンと張り詰める。「先日行われた次期大型ドラマの子役オーディションの結果が出ました。……伊織、茉莉」 セナさんが静かな声で双子の名前を呼ぶ。 双子はブロックの手を止めて、不思議そうに首を傾げた。 そんな彼らに向かって、セナさんは滅多に見せない温かさを帯びた笑みを浮かべた。「おめでとうございます。白石監督直々の熱烈な指名により、あなたたち2人が今回のドラマのメイン子役の座を見事に勝ち取りました」 数秒の沈黙の後。「うおおおおおっ! やったああああっ! すっげえええええっ!」 真っ先に叫び声を上げて飛び起きたのは、ハルくんだった。 彼はソファから飛び降りると、伊織と茉莉の元へ駆け寄って両腕でガバッと抱き上げた。「お前ら最高だよ! あの超気難しいって有名な白石監督に指名されるなんて、天才すぎだろ!」「きゃははっ! ハルお兄ちゃん、ぐるぐるしてー!」「やったー! お仕事きまったの?」 訳も分からず喜ぶ双子を抱えたまま、ハルくんがリビングをぐるぐると回り始める。
6歳の男の子とは思えない、生真面目で理屈っぽい言葉だった。 母親から日頃から刷り込まれている言葉を、そのままなぞっているかのようだった。「うん……そうだよね。ごめんなさい、お兄ちゃん」 美桜ちゃんはしょんぼりと肩を落とす。 膝の上に置いた自分の小さな手をギュッと握りしめた。 そうして再び感情を押し殺したような、完璧な「子役の顔」へと戻っていった。 私はそのやり取りを見て、胸の奥がチクリと痛むのを感じた。 あの子たちは5歳や6歳にして、どれほどのプレッシャーと我慢を強いられているのだろう。 大人の期待に応えるために、子供らしい欲求や無邪気さを全て押し殺して、あの完璧な仮面を被っている。 それは本当にあの子たちの望みなのだろうか? 美咲さんは親のエゴを押し付けているだけではないのか? そんな疑問が湧いた。 やがてスタッフが名前を呼ぶ。 彼らはオーディション会場の方へ消えた。 一方で私の目の前では。「ママ! このクッキー、もう一個食べてもいい?」「だめよ、茉莉。お腹いっぱいになっちゃったら、オーディションでお返事できなくなるでしょう」「えー! じゃあ、終わったらお家でクッキー焼いてくれる? クマさんとウサギさんの!」 今度は伊織が声を上げる。「ふふっ、ええ、もちろん。ご褒美にたくさん焼こうね」「やったー! 伊織、がんばろうね!」「うん! がんばる!」「パパといっしょに、ドラマ出るんだもんね!」 伊織と茉莉は、ニコニコと満面の笑みを浮かべていた。 どんなにアウェイな環境でも、どんなに悪意を向けられても、決して自分たちのペースを崩さない。 彼らの心臓には毛が生えているどころか、分厚い鋼鉄の鎧でもまとっているのではないかと思うほどの度胸だ。(頼もしいなぁ……) 私はありのままの「子供らしさ」を失わない2人の姿に、深い安堵と誇らしさを感じていた。 大
普通の子なら、大人の発するピリピリとした怒気や、この異様な空間のプレッシャーに萎縮してしまうはずだ。 美咲さんもこの場の空気に乗じて、私と双子を威圧するつもりだったのだと思う。明らかに悪意が感じられたから。 けれど伊織と茉莉は、美咲さんの嫌味を完全にスルーした。 ただ純粋に「美味しいおやつ」の存在に心を奪われていたのである。「いただきまーす!」 2人はケータリングコーナーのそばで、サクッ、サクッと音を立ててクッキーを頬張り始めた。「んー! バターの味がして美味しいね、伊織!」「うん! クマさん、お耳から食べちゃった!」「あはは! 伊織、お口の周りに粉がついてるよ!」 伊織はえへへと笑って口の周りを指で拭った。 かじりかけのクマさんクッキーを見て、首を傾げる。「美味しいけど、ママのクッキーのほうが美味しいな?」「そうだよねー! 今度、ウサギさんの作ってもらお!」 双子はキャッキャと無邪気な笑い声を上げる。 ごく自然体で天真爛漫な姿だった。 周囲に満ちる異様な空気など、ちっとも気にしていない。 張り詰めていた糸がプツンと切れたかのように、周囲にいた他の親子たちも、呆気にとられた顔で双子を見つめている。「な……なんなのよ、あの子たち……っ!」 完全にペースを乱されて、渾身の嫌味を無視された美咲さんは、顔を真っ赤にしてワナワナと震えていた。 怒りの矛先をどこへ向けていいか分からず、ヒステリックに私を睨みつけた。「ど、どういうしつけをしてるの! オーディションの前にケータリングを漁るなんて、非常識にもほどがあるわ。なんて卑しいの! やっぱり親の七光りだけの素人ね!」 捨て台詞を吐き捨てて、美咲さんは乱れた呼吸を整えながら、カツカツと足音を荒立てて自分の席へと戻っていった。 私はほっと胸を撫で下ろし、クッキーを食べている2人の元へ歩み寄った。「伊織、茉莉。こぼさないように食べてね。お口の周り、ハンカチで拭くからね」
「地味な、いえ、堅実なお母様ね。……ふふっ、なんだか場違いなところに来てしまったって顔をしているわよ?」 甘ったるい声の奥に、明らかな棘が隠されている。「テレビの密着番組、拝見したわ。アパレルブランドのモデルだっけ? 確かに、お顔立ちは可愛らしいわね。でもね……」 美咲さんは一歩前に詰め寄り、声をひそめた。「ここは『演技』を審査される神聖なオーディションの場よ。テレビで少し話題になった程度の素人が受かるほど、巨匠監督の目は甘くないわ」「……」「だいたい、父親が主演だからって、親の七光りで特別扱いされると思ったら大間違いよ。演技の基礎も知らないような素人の子供が、遊び半分でこの場を荒らさないでちょうだい」 冷酷な言葉だった。 露骨なやっかみと、見下したような嫌味の連打である。 私はギュッと拳を握りしめた。 レンくんの名前を出して七光りと揶揄されたことに、心の奥底で怒りがふつふつと湧き上がる。 伊織と茉莉は自分たちの力で旋風を巻き起こした。 この子たちの努力と才能を否定されたくない。 ましてや七光りなんて、レンくん自身も望まないに決まっている。 言い返したい衝動に駆られるが、ここで揉め事を起こせば、それこそレンくんの顔に泥を塗ることになる。(我慢よ。このくらいの嫌味、マスコミのバッシングに比べれば、どうってことない) 私が唇を噛み締めて耐えようとした、その時だった。「あっ! ママ、見て見て!」 沈黙を破ったのは、私の背後にいた茉莉の無邪気な大声だった。「ん? どうしたの、茉莉」 私は思わず毒気を抜かれて、茉莉の方を振り返る。「あそこに、おかしがいっぱいあるよ!」 茉莉が小さな指で指し示したのは、控室の奥に設置されたケータリングのコーナーだった。 長机の上にはミネラルウォーターやお茶のペットボトルの他、色とりどりのお菓子が並べられたカ
だから絶対に迷惑はかけられない。 変な悪目立ちをして、レンくんの顔に泥を塗るようなことだけは避けなければならない。 私は双子の専属管理官として、並々ならぬ覚悟を持ってこの付き添いを引き受けていた。 長椅子に座り、水筒の麦茶を2人に飲ませて一息ついた時だった。「ごきげんよう。監督、本日はよろしくお願いいたします」「よろしくおねがいいたします!」「おねがいいたします!」 控室の入り口付近で、ひときわ通る明るい声が響いた。 視線を向けると、関係者らしき男性スタッフに向かって、深々と寸分の狂いもなく完璧な角度でお辞儀をしている親子の姿があった。 男の子は仕立ての良い紺色のフォーマルスーツに身を包み、髪の毛一本すら乱れていない。 女の子は淡いピンク色のフリルがあしらわれた上品なワンピースを着て、まるで精巧なフランス人形のように愛らしい微笑みを浮かべている。(あの子たちは……) テレビで何度も見たことがある。 すでに「天才子役」として数々のドラマに出演し、名実ともにトップクラスの知名度を誇る翔太くんと、美桜ちゃんの兄妹だ。 翔太くんは6歳、美桜ちゃんは5歳のはず。 うちの双子と同年代だ。 けれどその立ち振る舞いには、子供らしさというものが一切感じられなかった。 背筋をピンと伸ばして、周囲の大人たちへ完璧な挨拶と愛想笑いを振りまいている。 子供らしさどころか、機械のような正確さだった。 彼らを背後から操るように寄り添っているのが、母親の美咲さんだった。 三十代前半だろうか。 体にぴったりとフィットしたハイブランドの黒いスーツに身を包み、ピンヒールをカツカツと鳴らして歩く姿は、並々ならぬ自信と上昇志向の強さを全身から発している。 彼女はちらりと周囲を見た。 とても鋭い眼光だった。 控室にいる他の親子たちを「敵」として値踏みしているかのようだった。「さあ、翔太、美桜。あちらの席で最終確認をするわ
テレビ局の広大な建物の奥深く。 厚い防音扉に仕切られたその区画は、少々異質な空気に包まれていた。 磨き上げられたリノリウムの床を歩く私の足音さえ、周囲の張り詰めた空気に吸い込まれて消えてしまいそうだ。 私は緊張を覚えながら、それでも笑顔を作って双子に話しかけた。「伊織、茉莉。ここが今日のオーディション会場の控室よ。中に入ったら、静かに待っていましょうね」「うん、わかった!」「茉莉、おとなしくできるよ!」 伊織と茉莉は、私の両手をそれぞれしっかりと握っている。普段と変わらない元気な声で頷いた。 今日は子役オーディションの日。 双子はさらなる飛躍として、ドラマのオーディションを受けることにしたのだ。 ドアノブに手をかけて、控室の扉を押し開ける。 その瞬間、むわっとした熱気と、肌を刺すような緊張感が押し寄せてきた。「……!」 広い控室には、厳しい書類選考を勝ち抜いた数十人の子役たちと、それに付き添う親たちがひしめき合っていた。 ただの待合室ではない。 ここは子供たちの人生と、親たちのプライドが交錯する戦場だ。 壁際では台本を握りしめた母親が、引きつった顔で子供に早口でセリフを叩き込んでいる。「違うでしょ! ここはもっと悲しそうな顔をしてって言ったじゃない! もう一回最初から!」「うぇぇん、ママ、もうやりたくないよぉ……」「泣かないの! ここまで来るのにどれだけ苦労したと思ってるの! ほら、涙を拭いて!」 発声練習の声と厳しい叱責、プレッシャーに負けて泣き出す子供たちの声があちこちから聞こえてくる。 異様なほどピリピリとした空気が、部屋全体を支配していた。 私は圧倒されそうになる心を奮い立たせて、部屋の隅にある空いた長椅子へ双子を誘導した。(大丈夫。私たちは私たちのペースでいこう) 数日前のペントハウスでの出来事を思い出す。 密着ドキュメ
カサッ。 微かな衣擦れの音がした。クッションの「壁」の上を、何かが乗り越えてくる気配。(えっ!?) 暗闇の中で、温かいものが私の腕に触れた。手だ。レンくんの手が、国境を侵犯している!「っ! 違反です! 退場!」 私は小声で抗議した。しかし侵略者は止まらない。布団の中で、もぞもぞと私の手を探り当てて捕獲しにかかる。「……手だけ」 耳元で囁き声がした。「手、繋ぐだけだから」「だ、ダメですってば…&helli
「やっと開きましたね」 セナさんが凍りつくような笑顔で言った。口の形だけは笑顔なのに、眼鏡の奥の瞳は全く笑っていない。「随分と優雅な朝をお迎えのようですね、レン? 電話も出ないで、マネージャーが発狂していましたよ」 セナさんの視線が、レンくんの全身を舐めるように走査する。 寝癖のついた髪。それにパステルイエローのモチ犬スウェット。「……ぷっ」 後ろでハルくんが吹き出した。「レンくん、その服マジで着てるんだ! ウケる、写真撮っていい?」 レ
「単刀直入に言いますよ」 セナさんはスマホを取り出し、画面をこちらに向けた。表示されているのは通話アプリの発信画面。 宛先には『事務所社長』、そして『警察』の文字が見える。指先一つで、私の人生を社会的に抹殺できる準備は整っていた。「綺更津レンの誘拐、および監禁、洗脳の疑いで、通報する準備はできています」「……っ」 息が止まる。 誘拐。監禁。客観的に見れば、そう見えなくもない。連絡を絶った国民的アイドルが、一般人の女性宅に軟禁され、謎の服を着せられているのだから。 しかもそのアイドル
終わった。私の人生のエンドロールが、脳内で高速再生されている。 築30年のボロアパートの玄関。そこに立っていたのは、この世で最も出会ってはいけない2人組だった。 1人は派手なオレンジ髪の青年、遊馬ハルくん。バラエティ番組で見せる無邪気な笑顔だが、その手にはしっかりとスマホが握られている。いつでも証拠写真を撮れる構えだ。 もう1人。こちらが問題だ。完璧な仕立てのスーツを着こなした、銀縁眼鏡の美青年。国民的アイドルグループ『Noix(ノア)』のリーダー、葛城セナ。彼は穏やかな笑みを浮かべていた。唇の端は優雅に上がり、非の打ち所のない「アイドル







