「……んっ」 ホテル『聖域』のロイヤルスイートルームで目覚めた朝のこと。 小夜子は部屋のミニキッチンに立って、コーヒーミルのハンドルを回していた。 その背中に熱い質量がのしかかる。 バスローブ姿の隼人が、背後から抱きついてきたのだ。厚い胸板が背中に密着し、首筋に熱い吐息がかかる。(心臓の音がうるさすぎて、お湯を注ぐ手が狂いそう!) 小夜子の脳内データベースが、一瞬で「緊急事態」の赤色に点滅した。 彼女はパニックを抑え込み、努めて冷静な――実務的なトーンで告げた。「旦那様。調理中の背後からの接触は、労働安全衛生法上のリスクが極めて高いです。不意の挙動により火傷を負う恐れがありますので、速やかに3歩下がってください」「今は仕事中じゃない」 隼人は退くどころか、腕の力を強めて小夜子を自分の方へ引き寄せた。 耳元で低く心地よい声が響く。「昨夜言っただろう。落としにかかると。夫が妻を愛でて、何が悪い」「落とす……とおっしゃるなら、どこかに落とし穴でも掘っておけばよろしいでしょうか。3メートルほど掘れば、旦那様でも脱出は困難かと」 小夜子は困惑した瞳を夫に向けた。「そっちの意味じゃない。まったく、お前というやつは」 隼人は苦笑し、小夜子のうなじに軽く唇を寄せた。小夜子の耳が、リンゴのように赤く染まる。「とにかく、離れてください。コーヒーが淹れられません」「分かった。だが、今日から覚悟しておけよ」 隼人は名残惜しそうに腕を解くと、不敵な笑みを浮かべてリビングへと向かった。 小夜子は深く呼吸を整え、震えそうになる手でドリップポットを握り直した。(旦那様は、本気で私を攻略しようとしていらっしゃる。私はどうすればいいの? 使用人の立場では、主人と距離を置くのが正解なのだろうけど……。これは、これまでのどの業務よりも難易度が高いわ) ◇
Last Updated : 2026-02-08 Read more