All Chapters of 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く: Chapter 151 - Chapter 160

196 Chapters

151:求愛

「……んっ」 ホテル『聖域』のロイヤルスイートルームで目覚めた朝のこと。 小夜子は部屋のミニキッチンに立って、コーヒーミルのハンドルを回していた。 その背中に熱い質量がのしかかる。 バスローブ姿の隼人が、背後から抱きついてきたのだ。厚い胸板が背中に密着し、首筋に熱い吐息がかかる。(心臓の音がうるさすぎて、お湯を注ぐ手が狂いそう!) 小夜子の脳内データベースが、一瞬で「緊急事態」の赤色に点滅した。 彼女はパニックを抑え込み、努めて冷静な――実務的なトーンで告げた。「旦那様。調理中の背後からの接触は、労働安全衛生法上のリスクが極めて高いです。不意の挙動により火傷を負う恐れがありますので、速やかに3歩下がってください」「今は仕事中じゃない」 隼人は退くどころか、腕の力を強めて小夜子を自分の方へ引き寄せた。 耳元で低く心地よい声が響く。「昨夜言っただろう。落としにかかると。夫が妻を愛でて、何が悪い」「落とす……とおっしゃるなら、どこかに落とし穴でも掘っておけばよろしいでしょうか。3メートルほど掘れば、旦那様でも脱出は困難かと」 小夜子は困惑した瞳を夫に向けた。「そっちの意味じゃない。まったく、お前というやつは」 隼人は苦笑し、小夜子のうなじに軽く唇を寄せた。小夜子の耳が、リンゴのように赤く染まる。「とにかく、離れてください。コーヒーが淹れられません」「分かった。だが、今日から覚悟しておけよ」 隼人は名残惜しそうに腕を解くと、不敵な笑みを浮かべてリビングへと向かった。 小夜子は深く呼吸を整え、震えそうになる手でドリップポットを握り直した。(旦那様は、本気で私を攻略しようとしていらっしゃる。私はどうすればいいの? 使用人の立場では、主人と距離を置くのが正解なのだろうけど……。これは、これまでのどの業務よりも難易度が高いわ) ◇
last updateLast Updated : 2026-02-08
Read more

152

「小夜子。今は仕事時間中だ。組み立てるのが早くないか?」 デスクから隼人が顔を上げた。「特別手当の試運転ですわ、旦那様。性能を確認しなければ、戦力としてカウントできませんから」 小夜子はそう言うと、社長室に併設された洗面所のサッシの溝に狙いを定めた。 開業準備の慌ただしさで、わずかにホコリが溜まっている。スイッチオン。 ――ッパァン! 激しい水圧の音が響いた。一瞬だった。こびりついていた頑固な汚れが、まるで魔法のように剥がれ落ち、真っ白な地肌が露出する。「素晴らしい……! この水圧、期待以上ですわ!」 小夜子の目が、獲物を追い詰める狩人のように鋭く光った。 彼女は洗浄機を抱えて、社長室のドアを開け放った。「旦那様、私、屋上へ行ってまいります! あの煤けたタイルたちが、私の『殲滅』を待っていますから!」「おい、待て……」 隼人の制止も聞かず、小夜子は張り切って執務室を飛び出していった。 数分後、小夜子は屋上テラスに到着していた。 広い屋上は、普段は社員たちの憩いの場だ。 清掃業者は入っているのだが、泥汚れや都心の排気ガスの煤がうっすらと膜を張ってタイルを覆っている。 突如現れた社長夫人を、休憩中だった社員たちが不思議そうな顔で眺めている。「さあ、お掃除の時間です」 小夜子はトリガーを引いた。 水しぶきが舞い、洗浄機の唸り声が屋上に響き渡る。彼女はミリ単位の精度でノズルを操り、タイルの一枚一枚を磨き上げていく。 汚れが消えて元の美しい石目が蘇るたびに、小夜子の心にえも言われぬ快感が突き抜けた。(ああ……心が洗われる。汚れは嘘をつかない。磨けば磨くだけ、正直な答えを返してくれる……!) しぶきを浴びて、小夜子の頬が紅潮する。その姿は掃除をしているというより、高潔な儀式を執り行っているようだった。 恍惚とした表情で、
last updateLast Updated : 2026-02-08
Read more

153

 電話を切った秘書は、慌てて社長室に飛び込んだ。 ちょうど隼人が社長室を出ようとしたところで、ぶつかりそうになる。 2人は屋上に向かいながら会話をした。「しゃ、社長……。奥様が自ら重労働をしていると報告がありました。すぐに清掃スタッフを向かわせます!」「いや、いい。邪魔をするな」 隼人は誇らしげに口角を上げた。 エレベーターはちょうど屋上に到着し、ガラス張りのドアの向こうに小夜子の姿が見える。「見ろ、あの無駄のない動きを。あいつは今、汚れを殲滅することに無上の喜びを感じているんだ。俺の妻は、世界で一番美しい掃除婦だな」「は、はぁ……」(褒めるとこ、そこなの? 社長の溺愛、悪化……いや、エスカレートしてない?) 秘書は、社長のあまりに重症な溺愛ぶりに、言葉を失って立ち尽くすしかなかった。「小夜子。やっているな」 隼人が掃除中の小夜子に声を掛けると、彼女は振り向いた。「はい、旦那様! この洗浄機は予想以上の素晴らしいパフォーマンスです。私の宝物になりました!」 水しぶきの向こうで、小夜子が輝くような笑顔を浮かべている。「そうか、そうか。存分に使ってくれ。他にも欲しいものがあれば、何でも買ってやるからな」「いけません、旦那様。欲しいものはよく吟味して、本当に必要なものを買うから価値があるのです。何でも手に入れてしまっては贅沢ですし、味気無いではないですか」「む……。それもそうか。小夜子は本当に賢い」 隼人はたしなめられても嬉しそうだ。 そんな社長夫妻の様子を、周囲の社員たちは呆れたような、でも微笑ましい表情で見守っていた。◇ その夜、2人はタワーマンションの自宅にいた。 キッチンには、香ばしい肉の焼ける匂いが充満している。小夜子が調理しているのは、もう一つの特別手当――SSSランクの黒毛和牛。
last updateLast Updated : 2026-02-09
Read more

153

 肉が口に入った瞬間。口の中に広がるのは、歯を立てる必要もないほどの肉の柔らかさ。舌の上で溶け出す、濃厚でいて上品な脂の甘み。 SSSランクの名に恥じない、とろけるような最高級の味わいだった。「……っ」 小夜子の動きが止まった。あまりの美味しさに脳が痺れる。 と同時に、暗い記憶が濁流のように押し寄せてきた。 白河家の離れで、かじかむ指で食べていた、凍りついた残り物の弁当の味が蘇る。 誰の視線もなく、ただ生存のために胃に流し込んでいた、味のしない時間だった。 高級食材を調理する機会は今までもあった。 だがそれらの料理が小夜子の口に入ったことはない。 全て白河家の家族とも呼べない人々が平らげてしまって、小夜子には無縁のものだった。(……どうして) 視界がじわりとにじんだ。 美味しい。人生で1番美味な味だ。それなのに、胸の奥が締め付けられるように苦しい。「小夜子?」 隼人が異変に気づき、顔を覗き込んできた。「どうした。焼きすぎたか?」「いいえ。……とても、美味しいです。こんなに美味しいものを、こうして旦那様と笑って食べているのが……なんだか、不思議で」 一筋の涙が、小夜子の頬を音もなく伝った。 誰かと温かいものを共有する。そんな当たり前の幸せが、欠落していた彼女の心にはあまりにも鮮やかすぎたのだ。 隼人は何も言わず、椅子を寄せて小夜子の隣に座り直した。 大きな手が伸びてきて、親指の腹で彼女の涙をやさしく拭う。「……それは、お前が『生きていて良かった』と思っている証拠だろうな」 隼人の声は夜の海のように深く、温かかった。「俺も同じだよ、小夜子。子供の頃は冷え切った食べ物ばかりだった。大人になってからは、あらゆる贅沢を尽くした食事をしてきたが。今日こうしてお前と食べる肉が、1番美味い」
last updateLast Updated : 2026-02-10
Read more

154:揺れる心

「行ってらっしゃいませ、旦那様」 タワーマンションの広々としたエントランスにて。 小夜子はいつものように、角度45度の完璧なお辞儀をした。指先を揃えて背筋を伸ばす。家政婦として非の打ち所のない「お見送り」だ。 だが、隼人の革靴の音は遠ざからなかった。カツ、と硬質な音が止まり、逆に近づいてくる気配がした。「挨拶が足りない」「え?」 顔を上げた瞬間、小夜子のあごが隼人指ですくい上げられた。 抗議の声を上げる隙もない。視界が彼の顔で埋め尽くされ、次の瞬間、柔らかな感触が唇に押し当てられる。「んっ……」 いつもの軽い挨拶ではない。食い込むように深くて甘い、キスの感触。 ミントの爽やかさと、朝食のコーヒーの苦味、それに彼特有の微かなウッド系のコロンの香りが混ざり合って、小夜子の鼻腔を満たした。 隼人の親指が小夜子の頬を愛おしむように撫でる。その指先の熱が、皮膚を通して血液の温度を跳ね上げさせた。(心拍数が140を超えているわ。これでは有酸素運動並みの負荷よ!) 酸素が足りない。膝の力が抜けそうになるのを、小夜子は気力で踏ん張った。 長い、永遠とも思える数秒間。ようやく唇が離れると、小夜子はぜえぜえと肩で息をした。顔が熱い。耳の裏まで沸騰しそうだ。「だ、旦那様……っ。このような濃厚な接触は、業務開始前の精神統一を乱す重大な要因となります。労働生産性の低下を招きますので、是正を求めます」 精一杯の実務的な抗議だったが、声は上ずり、瞳は潤んでしまっている。 そんな小夜子の様子を見て、隼人は満足げにニヤリと笑った。「乱されればいい」 彼はもう一度、今度はついばむように軽く唇を触れ合わせた。「仕事中も、俺のことしか考えられないようにな」 言い捨てると、隼人は颯爽(さっそう)と専用車に乗り込んでいった。 残された小夜子は未だ熱の残る唇に指を当て、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で耐えた。 ペースが崩
last updateLast Updated : 2026-02-10
Read more

155

 以前の隼人なら、金に物を言わせた高価だが実用性のない品を送ってきていただろう。 だが、緩衝材の中から現れたものを見て、小夜子の目が釘付けになった。「こ、これは……!」 現れたのは、ドイツ製有名ブランドの最高級包丁セットだった。刃渡りの長い牛刀から、細工用のペティナイフまで。 冷たい光を放つ鋼の刃には、美しい波紋のようなダマスカス模様が浮かんでいる。柄は手に吸い付くような人間工学に基づいたデザインだった。 小夜子は捧げ持つようにペティナイフを取り出した。 ずしりとした心地よい重みと、計算され尽くした重心のバランスが手に伝わってくる。「なんて美しい流線型……。これはもう、芸術品だわ」 小夜子は吸い寄せられるようにキッチンへ向かった。 冷蔵庫から真っ赤なトマトを取り出して、まな板の上に置く。 ナイフを構える。力を入れる必要はなかった。刃を当て、手前に引くだけ。 ――スッ。 音がしなかった。抵抗がない。まるで空気を切るように、刃がトマトの中へと吸い込まれていく。 細胞を押し潰すのではなく、繊維の一本一本を切り離していく感覚があった。「あっ……」 切り落とされたトマトの断面は鏡のように艶やかで、果汁一滴すらこぼれていなかった。 小夜子は恍惚のため息をついた。「すごい……。トマトの細胞壁を壊さずに、ミクロ単位でスライスできているわ。これなら味が薄まらない。食感も別次元になるはず」 彼女は夢中で野菜を切り続けた。 大根、人参、キュウリ。トントン、トントンと軽快なリズムがキッチンに響く。切るたびに指先に伝わる小気味よい振動が、脳内の快楽物質を刺激する。 ふと思いついて人参を花の形に飾り切りにすると、これまた面白いように切れる。 細かい部分までしっかりと形を作って、小夜子は思わず笑みを漏らした。 今までの包丁も決して悪くなかったが、これは段違いだ。
last updateLast Updated : 2026-02-11
Read more

156

 しかし目の前のプレゼントの山は、彼女がずっと欲しかったものばかり。 贅沢といえばそのとおりだ。 一度にこんなにたくさんの贈り物をもらって、戸惑う気持ちも強い。 ――でも。 小夜子は新しいエプロンを胸に抱きしめた。丈夫な生地の感触と新しい布の匂いがする。胸の奥がじんわりと熱くなる。 高価だから嬉しいのではない。 彼が「小夜子が本当に喜ぶもの」を考え、選んでくれた時間と過程が、何よりも嬉しかった。◇ 昼時、小夜子はアーク・リゾーツの本社を訪れていた。お礼と報告を兼ねた、お弁当の差し入れだ。 社長室のドアが閉まると、そこは2人だけの密室になる。 隼人はソファに小夜子を隣に座らせて、広げられた弁当箱を覗き込んだ。新しい包丁で作った、彩り豊かな野菜の煮物と、出汁巻き卵。 人参は繊細な飾り切りが施されていて、見た目にも楽しいお弁当だった。「美しいな」 隼人は箸を伸ばし、極薄にスライスされたキュウリの酢の物を口に運んだ。シャキッ、という小気味よい音が響く。「食感が違う。角が立っているのに、口当たりが滑らかだ」「はい。旦那様にいただいた、新しい包丁のおかげです。断面が荒れていないので、お酢も均一に染み込んでいます」 小夜子が嬉々として解説すると、隼人は目を細めて彼女を見た。「道具自慢か? だが、その道具を使いこなす腕があってこそだろう」 彼は次に出汁巻き卵を口にした。軽く噛めば、じゅわりと出汁があふれ出す。「……美味い」 隼人はしみじみと呟いた。「三ツ星レストランのランチなど、この卵焼きの前では霞んで見えるな」「お世辞が過ぎますわ」 小夜子は照れ隠しにお茶を淹れ直そうとしたが、隼人がその手首を掴んだ。「お世辞じゃない。俺の舌がそう言っている」 彼はグイと小夜子を引き寄せ、その口元についた米粒を親指で拭った。そのまま、その指を自分の口に含んで舐め取る。
last updateLast Updated : 2026-02-11
Read more

157

 その夜。夕食を終えたキッチンで、小夜子はもう一つの新しい贈り物に夢中になっていた。 業務用の真空パック機である。 余ったローストビーフを専用の袋に入れて、機械にセットする。ボタンを押すと、ウィィィンという低いモーター音が響き始めた。「……おお」 小夜子は食い入るように袋を見つめた。 空気が強力に吸引され、袋が肉の形状にピタリと張り付いていく。みるみるうちに酸素が追い出されて、完全な真空状態が出来上がった。「完璧だわ……。これで酸化を防ぎ、鮮度を保ったまま一ヶ月は保存できる。フードロスとも、冷凍焼けともおさらばね」 プシューッ、という音と共にシールが完了する。 小夜子は出来上がったパックを光にかざし、その美しさにうっとりと見惚れた。「なんて機能的なのかしら。この無駄のないフォルム、空気の入る隙間もない密着感……」 そこへ背後からぬっと影が伸びた。「楽しそうだな」 隼人が背後から抱きつき、小夜子の肩に顎を乗せた。「ひゃっ!?」 小夜子は驚いてパックを取り落としそうになった。隼人の腕が腰に回り、逃げ場を封じる。「だ、旦那様。今、真空パックの美しさを鑑賞していたところで……」「俺が帰ってきてからずっと、その機械ばかり構っているな」 隼人は不満げにふんと鼻を鳴らし、小夜子の耳元に唇を寄せた。「俺よりも、その機械の方がいいのか?」「そ、そのような比較はナンセンスです! これは食材保存のための道具で、旦那様は……」「俺は?」 すぐ耳元でささやかれる低い声に、小夜子はしどろもどろになった。「……私の、ええと……こ、雇用主、です」「間違いではないが、正解でもないな」 隼人は小夜子のうなじに顔を寄せて、甘噛みした
last updateLast Updated : 2026-02-12
Read more

158

 小夜子は音を立てないように寝室へ戻り、毛布を持ってきた。そっと近づいて、寝顔を覗き込む。(この方は、ずっと一人で戦ってきたのだわ) 小夜子は思った。彼の強引な求愛も、強い独占欲も。 その前の、誰も寄せ付けない冷たく厳しい態度も。 裏を返せば、それは失うことへの恐怖と冷たい孤独の裏返しなのかもしれない。(旦那様は、ずっと孤独だったとおっしゃっていた) 隼人が話してくれた過去を思い出す。 幼い頃に母親に見捨てられ、冷え切ったアパートで震えていたこと。 生き延びるのに必死で、中学から年齢を偽ってアルバイトをして食いつないだこと。 高校と大学は奨学金で進学し、楽しそうにしているクラスメイトを横目に、ひたすら勉強と起業に向けて走り抜けたこと。 若くしてホテル王に成り上がったのは、確かに彼の才覚と努力の結果だ。 けれど、かつて冷え切ったアパートで震えていた少年が、今も彼の中にいる。心の奥底で泣いている。(……温めてさしあげたい) 道具として役に立ちたいのではない。 妻として一人の人間として、彼の凍えた心を溶かしたい。 そんな感情が、湧き水のようにあふれてくるのを止められなかった。 小夜子はふわりと毛布を掛けようとした。その時。「ん……」 隼人が目を覚ました。反射的に伸びてきた手が、小夜子の手首を掴む。「あっ」 バランスを崩した小夜子は、ソファの上の隼人の胸に倒れ込んでしまった。 ドサッ。顔が彼の胸板に埋まる。 トクトクと、規則正しい心臓の音が直接耳に伝わってきた。ムスクのような彼自身の匂いに包まれる。「……逃げるなよ」 寝ぼけた声で呟くと、隼人は小夜子を抱き枕のように強く抱きしめた。 鋼のような腕が背中に回り、身動きが取れない。そのまま隼人は再び深い寝息を立て始める。「旦那様……」
last updateLast Updated : 2026-02-12
Read more

159:嫉妬と独占欲

 都内某所の超高級ホテル。 そのメインホールルームは、今夜、日本のビジネス界を牽引する重鎮たちの社交が行われていた。大手商社の創業百周年記念パーティーである。 天井には巨大なクリスタルシャンデリアが鎮座して、総額数千万円クラスのワインが湯水のように振る舞われている。「小夜子、ここで待っていろ」 黒崎隼人が小夜子の耳元で囁いた。今日の彼は、漆黒のタキシードを完璧に着こなしている。 鋭い眼光は、すでに会場の奥にいる数人の標的――有望な取引先を捉えていた。「少し挨拶回りをしてくる。変な虫がつかないように、壁際で大人しくしていろよ」「承知いたしました。……どうぞ、ご武運を」 小夜子は恭しく頭を下げた。隼人が人混みの中へと消えていく。 その背中は、人の群れを統率する若き王のようだった。残された小夜子は、言われた通り壁際の柱の陰に身を寄せた。 今日の彼女が身につけているのは、隼人がこの日のために特注したシャンパンゴールドのイブニングドレスだ。 露出は控えめだが、ボディラインに沿ったシルクの生地が歩くたびに流れるような光沢を生む。 派手な宝石はつけていない。デコルテの美しさと、凛とした立ち姿だけで十分に目を引く装いだった。(……それにしても) 小夜子はシャンパングラスを片手に、会場を見渡した。 普通の女性なら華やかな世界に陶酔するか、もしくは萎縮するところだろう。だが、最強の家政婦の視点は違っていた。(シャンデリアの電球、右から3番目が1つ切れているわ。それにあそこのカーペット。毛足が寝ているせいで、ワインの染み抜きが不十分なのが分かる) 彼女の目は会場の華やかさではなく、メンテナンスの不備自動的にスキャンしていた。(空調の音も少し大きすぎる。うちの『サンクチュアリ』の方が、空間制御のレベルは上ね) 小夜子は心の中で密かにマウントを取り、満足げにグラスを傾けた。 手持ち無沙汰になると、つい目の前の真鍮製の手すりを袖口で磨きたくなる衝動に
last updateLast Updated : 2026-02-13
Read more
PREV
1
...
1415161718
...
20
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status