All Chapters of 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く: Chapter 171 - Chapter 180

196 Chapters

170

「だが、無理強いはしないと誓った。お前が俺を男として見られないなら、俺はここで止まる。……俺の片想いのままでいい」 あの初夜の攻防の時と同じ選択肢。拒絶すれば、彼は約束通り手を出さないだろう。 優しい雇用主のまま、適度な距離を保ってくれるはずだ。それが一番安全で、傷つかない道かもしれない。 けれど小夜子の心は、もう決まっていた。 彼女はもう知っている。隼人が彼女をどれほど大事にしてくれているか。 言葉だけでなく態度で、目一杯の愛を示してくれた。 隼人は小夜子に救われたと言うけれど、小夜子もまた彼に救われている。 白河の家で長く一人ぼっちだった彼女を、すくい上げてくれた。 最初はただの打算だったのかもしれない。有用な駒を金で買っただけだったのかもしれない。 でも彼らは、いつしか互いに互いをかけがえのない存在として生きるようになった。 関係が変わったきっかけは何だったのか、もう小夜子は思い出せない。 今はただ隼人が……愛おしいだけだ。 だから彼の思いを受け取らないという選択肢は、既になかった。 彼女はゆっくりと手を上げ、自分の頬にある隼人の手に重ねた。「……旦那様」「なんだ」「契約書第四条、『妻としての務めを果たすこと』についてですが……」 小夜子は震える声を抑え、まっすぐに彼を見つめた。「条文の破棄、および修正を提案します」 隼人の目が驚きに見開かれる。「破棄だと? ……やはり、嫌か」 彼の手が離れそうになるのを、小夜子は両手で強く押し留めた。「違います!」 小夜子は叫んだ。もう理屈や計算で誤魔化すのは終わりだ。彼女は殻を脱ぎ捨てて、心のままに言葉を続けた。「義務だから、するのではありません。私は道具ではありませんから」「小夜子……
last updateLast Updated : 2026-02-18
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171

 雨のような口づけが降ってきた。額に、瞼に、頬に、そして唇に。 先ほどの観覧車での優しいキスとは違う。渇ききった獣が水を求めるような、深くて貪欲な口づけ。 小夜子も力強さに戸惑いながらも、必死でそれに応えた。 彼が求めてくれるのが、嬉しくて。彼女もまた彼を愛しているのだと伝えたくて。 隼人は小夜子を軽々と抱き上げると、寝室へと運んだ。 部屋のドアを開けるのももどかしく、キングサイズのベッドに降ろされる。 間接照明の薄明かりの中、隼人の瞳が熱っぽく輝いていた。「もう逃がさない。朝まで離してやらないからな」「はい、あなた。……隼人さん」 小夜子は腕を伸ばして、隼人の首に回した。肌と肌が触れ合う。服越しではない、直の体温。 彼の背中には、古傷のような痕があった。それは彼が過酷な過去を生き抜いてきた証だ。 お互いの筋肉の緊張と速まる鼓動、少し荒い呼吸。(ああ……生きている) 小夜子はそのすべてを指先で感じ取った。 この温かさはどんな精密なデータでも、どれほど高額な契約金でも測れない。痛みと、それを上回る充足感が彼女を満たす。 孤独だった2つの魂が、溶け合って1つになっていく。 言葉はもう必要なかった。ただ互いの存在を確かめ合い、埋め合うように。 求め合う2つの心と体は、互いの形にぴたりと嵌まる。 欠けていたものを補って、取り戻すように。 長い夜が更けていった。◇ 翌朝。カーテンの隙間から差し込む朝日で、小夜子は目を覚ました。 身体の節々が少し痛むけれど、不快な痛みではなかった。むしろ昨夜の愛の証として、心はいっぱいに満たされている。 隣を見ると隼人が眠っていた。 その顔を見て、小夜子はふっと微笑んだ。 いつも眉間に刻まれていた深いしわが消えている。まるで少年のような穏やかで無防備な寝顔。 あの冷たい静寂に怯えていた孤独な男は、もうど
last updateLast Updated : 2026-02-19
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172:汚れた小銭

 小夜子と隼人が心から結ばれて、愛を確認し合った翌朝。 タワーマンションの最上階の部屋には、穏やかな朝日が満ちていた。 ダイニングテーブルには、土鍋で炊いた艶やかな白米、出汁の香りが立つ味噌汁、完璧な焼き色のついた鮭と、鮮やかな黄色の出汁巻き卵が並んでいる。 見た目にも優しく良い香り。もちろん味も保証されている。「美味い」 隼人は箸を動かしながら、噛み締めるように言った。 かつては機能性ゼリーやサプリメントで済ませていた朝食が、今では1日の始まりで楽しみな時間だ。 彼の顔からは、血も涙もない氷の王と呼ばれた頃の険しさが消えている。代わりに憑き物が落ちたような柔らかな表情が浮かんでいた。「ごちそうさま。こんなに美味い朝食を毎日食べられて、俺は本当に幸せだ」「お粗末様です。今日もお忙しいのですか?」 小夜子がお茶を差し出すと、隼人は頷いた。「ああ。先日のグランドオープン・パーティの成功で、株価が急騰している。取材の申し込みも殺到していてな」「それは良かった。私も家事を片付けたら、出社しますね」「ああ、頼んだ」 隼人は身支度を整えて、玄関へと向かった。 靴を履き、振り返る。そこにはエプロン姿の小夜子が立っている。 これまでは「行ってらっしゃいませ、旦那様」という業務的な挨拶だけだった。 最近は隼人からスキンシップを取るようになった。でも彼女はぎこちなく固まるばかりだった。 でも今日からは違う。「行ってきます」 隼人が小夜子の額に軽く口づけを落とす。小夜子は一瞬だけ目を見開き、それから頬を桜色に染めて微笑んだ。「行ってらっしゃいませ、隼人さん」 その言葉はどんなお守りよりも強く、隼人の背中を押した。 自分には帰る場所がある。守るべき人がいる。その事実だけで、彼はどこまでも強くなれる気がした。 エレベーターホールへ向かう隼人の足取りは軽い。 テレビのニュースでは、アーク・リゾーツの躍進と、若きホテル帝王・黒崎隼人
last updateLast Updated : 2026-02-19
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173

「いい男になったじゃない、隼人ちゃん。誰のおかげでそんなに立派になれたのかしらねぇ」 彼女の瞳には、母親としての慈愛など少しもない。 あるのはギラつくような欲望と、歪んだ所有欲だけだった。 真澄は吸殻を空き缶に押し付ける。ジュッと鈍い音がした。 そうして彼女は立ち上がる。「会いに行かなくちゃね。ママの可愛い、打ち出の小槌ちゃんに。育ててあげた恩を返してもらわなきゃ」 床に積もった酒の空き缶を蹴飛ばして、真澄は部屋を出ていった。◇ 午後、ホテル『サンクチュアリ』のメインロビー。 計算し尽くされた照明とアロマの香りに包まれた洗練された空間に、あからさまな異物が現れた。 その女は、派手すぎるピンクの安物のコートを着ていた。 ジャラジャラと音を立てる偽物の金のアクセサリーをこれみよがしに身に着けている。薄汚れたハイヒールは、カツカツと周囲を威嚇するような品のない足音を立てていた。 真澄だった。「いらっしゃいませ。お客様、チェックインでございますか?」 コンシェルジュが礼儀正しく声をかけるが、真澄は鼻で笑った。「客じゃないわ。社長を呼んでちょうだい。あたしはあの子のママよ」「……社長、でございますか? アポイントメントは……」「アポなんていらないわよ! 母親が息子に会いに来て何が悪いの!」 真澄の声がロビーに響き渡った。優雅にティータイムを楽しんでいたゲストたちが、不快そうに眉をひそめる。 真澄は悪びれもせず、さらに声を張り上げた。「隼人! 隼人ちゃん! ママよ! 久しぶりに抱きしめに来たのよ!」 騒ぎの報告を受けた隼人が、小夜子を伴ってエレベーターから降りてきた。 力強い足取りでロビーへ向かう。 だが。その視界にピンク色のコートの女が入った瞬間。 ピタリ。 隼人の足が、凍りついたように止まった。全身の血の気が引いて呼吸が
last updateLast Updated : 2026-02-20
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174

(――いい子ね、隼人) 脳裏にフラッシュバックするのは、若い頃の母の笑顔だ。 男と上手くいっている時、あるいは気まぐれに機嫌が良い時だけ、彼女は優しかった。甘いお菓子をくれて、柔らかい体で抱きしめてくれた。『隼人はママの宝物よ』 その時の甘い匂いと温もりだけが、幼い隼人にとっての全世界であり、救いだった。 だが、それは長くは続かない。男と喧嘩をした日、あるいは金がなくなった日。 彼女は一変して、隼人を「存在しないもの」として扱った。殴られるわけではない。ただ、徹底的に無視されるのだ。 お腹がすいてご飯をねだっても、泣いても、彼女の視界には隼人は映らない。 まるで汚れた家具のように、冷たい目で見下ろされるだけ。(ぼくが悪い子だからだ) 幼い隼人は誤った学習をした。 ぼくが良い子にしていれば、ママは笑ってくれる。ぼくが役に立たないから、ママは冷たいんだ。 幼い子供に特有の思考が、幼かった隼人をがんじがらめにした。 真澄はただの気まぐれで行動する。予測不能なアメとムチが、隼人の心を支配して歪めていった。 もちろん、隼人が聞き分けのいい「良い子」でいたところで、真澄は振り返らない。 隼人は何がいけなかったのか理解できず、さらに苦しむ。それが理不尽であると気付けないまま。 そして、あの日。冬の寒い日。電気も止められた薄暗いアパートで、男の車に乗るために化粧をしていた母は、テーブルの上に小銭を投げた。 チャリ、チャリ……。 冷たい硬貨の音がする。数百円分の小銭が鈍く光る。『これでパンでも買いなさい。いい子で待てるわよね?』 彼女はそう言い残し、男と出て行った。隼人は待った。 1日、2日、3日。寒さと空腹で指先の感覚がなくなっても、パンを買いに行くことすらできずに、ただ膝を抱えて待っていた。 あの硬貨を使ったら、ママとの繋がりが切れてしまう気がして。 あの硬貨の音。チャリ、という音が、今も耳の奥で鳴り響いている。
last updateLast Updated : 2026-02-20
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 大人になった隼人は、真澄が母として無責任なクズだったと理解している。 中学生になる前に母親に振り向いてもらうのは諦めた。 自分の力だけで生きていくと決めて、割り切っていたはずだった。 だが、体が動かない。母の腕の中にいると、彼は無力な4歳の子供に戻ってしまう。『いい子にしていないと、また捨てられる』という強迫観念が、全身を縛り付ける。「あらあら、感動して声も出ないの? 可愛いわねぇ」 真澄は隼人の背中を撫で回しながら、耳元で囁いた。「さ、あっちでゆっくり話しましょ。ママ、喉が渇いちゃった」◇ ホテル・サンクチュアリの上層階に設置された社長室。 真澄はイタリア製の革張りソファにふんぞり返り、出された紅茶を一口すすると、顔をしかめてカップを置いた。「なにこれ、味が薄いわね。……まあいいわ。いい部屋ねえ、ここ。これ全部あんたのもの?」 彼女は品定めするような目で、部屋中の調度品を舐め回しすように見た。それから、ようやく隼人を見る。「立派になったものね。ママ、鼻が高いわ」 隼人はデスクの前で立ち尽くしていた。 顔面蒼白で、指先が微かに震えている。 小夜子は一歩下がった位置に控えて、鋭い視線で真澄を監視していたが、隼人の異変に気づいて心を痛めていた。(旦那様……) いつもの威厳あるホテル王の姿はどこにもない。そこにいるのは虐待の記憶に怯える、傷ついた迷子だ。「それでね、隼人ちゃん」 真澄は本題に入った。猫なで声が、ねっとりと室内に広がる。「ママ、今ちょっと困ってるの。付き合ってる男に騙されちゃって、借金取りがうるさいのよぉ。怖くて夜も眠れないの」 彼女はチラリと隼人の様子を伺い、嘘泣きで涙ぐむ演技をした。「家族でしょ? 助け合うのは当たり前よね? 少しばかり、工面してくれない?」 真澄が伝えた金額は数百万。現在のアーク・リゾーツの収益からすれば、は
last updateLast Updated : 2026-02-21
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 幼い頃に刻まれた、母の愛への渇望。 断ち切ったはずだったのに、それは呪いのように隼人の魂に食い込んでいた。 隼人の呼吸が浅くなる。視界が歪む。気がつけば、彼の口は勝手に動いていた。「……いくらだ」 乾いた声だった。「いくらあれば、帰る」 真澄の顔が、パアッと明るくなった。「あら、話が早くて助かるわ! えっとね、とりあえず500万。手付金みたいなものよ。こんなに立派なホテルの社長なんだもの。お小遣いみたいなものよねぇ?」 隼人は震える手を必死に抑えながら、デスクの引き出しから小切手帳を取り出した。 万年筆を握る指に力が入らない。 彼はただ、この恐怖から逃れたかった。金を払えば一時的にでも「いい子」として認められ、この窒息しそうな不安から解放される。 母親の愛を乞うて小遣いを差し出す、哀れな子供の姿そのものだった。 そうと自覚しても、心の奥底の恐怖を振り払えない。 ペン先が紙に触れようとした、その時。 ――パシッ! 乾いた音が響いた。 小夜子の手が隼人の手首を強く叩いて、ペンを止めさせたのだ。「……え?」 隼人が虚ろな目で小夜子を見た。 小夜子は小切手帳を隼人の手から奪い取り、パタンと閉じた。毅然とした態度だった。「旦那様。この支出は、いかなる理由があろうと認められません」 彼女の声は冷たい。しかし芯が通っていた。「なによ、あんた」 真澄が眉を吊り上げた。「あんた、誰? 秘書かなんか? 親子水入らずの会話に、入ってこないでくれる?」 小夜子は隼人を背にかばうようにして、一歩前に出た。真澄の前に立ちはだかる。 彼女の背中は細くて小さい。けれど隼人にとっては難攻不落の城壁のように見えた。 小夜子は冷ややかな瞳で真澄を見下ろした。 家政婦が汚れを発見した時の、断固として対処すると決めた時と同じ目つき。
last updateLast Updated : 2026-02-21
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177:私が貴方を愛します

「……なによ、あんた」 真澄が眉を吊り上げて、不快さをあらわにした。 先ほどまでの猫なで声は消え失せ、荒っぽいドスの効いた声が漏れ出ていた。これが彼女の素なのだ。「夫だぁ? あぁそういえば、結婚していたんだっけ。雑誌で読んだわ。たかが家政婦上がりの嫁風情が。親子の愛に口出しするんじゃないわよ」「愛、ですか」 小夜子は一歩も引かなかった。冷ややかな視線を真澄に突き刺す。「貴女は先ほどから一度も、旦那様の目を見ていません。貴女が見ているのは、このイタリア製のソファと、私の背後にある小切手帳だけです」 図星を突かれて真澄はますます口調を荒らげた。「はあ? 何言ってんの。あたしは息子を見ているわよ? 当たり前でしょ、大事な大事な息子だもの!」「いいえ、明らかに見ていません。関心がないからです」 小夜子は淡々と続けた。「旦那様が今の地位を築くために、どれほど血の滲むような努力をしたか。眠れない夜をいくつ越えてきたか。貴女はご存知ですか? その間、貴女はどこにいましたか? 一度でも『頑張ったね』と声をかけましたか?」 真澄の顔が引きつった。 痛いところを突かれたからではない。邪魔をされた苛立ちが頂点に達したからだ。「うるさいわね!」 真澄がバンッ、とテーブルを叩いた。「産んでやったのはあたしよ! あたしがいなきゃ、こいつは存在しなかったの! 親には感謝するのが当たり前でしょう!?」 彼女は立ち上がり、隼人を指差した。「隼人! さっさとその女を黙らせて金をよこしなさいよ! あんた金持ちになったんでしょ? だったら親孝行するのは義務よ。産んでやった恩、育ててやった恩を忘れたわけ? 困ってる母親を助けなさいよ!」 醜い叫び声が広い部屋に響いた。 その声には、隼人が心のどこかで望んでいた「時折優しいママ」の面影など、少しもなかった。 それどころか幼い隼人を放置し、遊び歩いていた事実すらも、真澄の中では「育てた恩」になっている。
last updateLast Updated : 2026-02-22
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 心の奥底で、まだ期待していたのだ。 金を渡せば、あの頃のように優しく抱きしめてくれるのではないかと。 だがそんな温もりは最初から幻想だった。25年前、硬貨を置いて出て行ったあの日から、彼女は何も変わっていない。 プツン、と何かが切れる音がした。隼人の足から力が抜ける。 絶望というよりは空虚だった。 必死に求めていたものの正体が、こんなにも空っぽだったことへの虚無感が襲ってくる。 大人になって分かっていたはずだったのに、愚かにもまだ期待していた。 虚無感と彼自身の愚かしさを自覚して、思わずデスクに手をついた、その時。 冷え切った彼の手を、誰かの手が強く握りしめた。 小夜子だった。「黙りなさい」 小夜子の声が低く響いた。 普段は決して声を荒らげない彼女が、今は明確な怒りを込めている。「これ以上、私の大切な人を汚すことは許しません」「なっ……」「貴女は『家族』という言葉を人質に取っていますが、もう手遅れです」 小夜子は真澄を睨みつけたまま、言い放った。「隼人さんに、貴女は必要ありません」 小夜子はくるりと背を向けて、隼人に向き直った。 虚ろな目をした隼人の頬を、小夜子の両手が優しく包み込む。 その手は温かく、少しだけ震えていた。怒りと悲しみとで。「旦那様。……いいえ、隼人さん。聞いてください」 小夜子の瞳が、至近距離で隼人を捉える。そこには揺るぎない光があった。「この人は、貴方のお母様かもしれません。でも、貴方の心を救うことはできない。救うどころか傷つけてばかりいる。だからもう、いいんです。こんな人に取りすがらなくていい」 隼人の唇が微かに動く。何かを言おうとして、声にならない。 小夜子は祈るように言葉を紡いだ。「私が、あなたを愛します」 静寂を切り裂くように、その言葉は落ちた。「この人が与えなかった分まで。
last updateLast Updated : 2026-02-22
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『愛します』。 幼子が守られるための全肯定。幼かった彼が一番欲しかった言葉。一番欲しかった体温だった。 ずっと欲しくて、それでも手に入らなかったものが彼に降り注ぐ。 隼人の瞳に光が戻る。 彼は頬に添えられた小夜子の手に、自分の手を重ねた。そして、ゆっくりと立ち上がった。 隼人は真澄を見た。先ほどまでの恐怖は消えている。 そこにいるのは、ただの浅ましく金に汚い、中年の他人だった。なぜこんな小さな女に怯えていたのか、今の彼にはもう分からなかった。「……帰れ」 隼人は短く告げた。落ち着いた静かな声だった。 真澄が目を吊り上げる。「はあ? 何言ってんのよ。金はどうすんのよ!」「1円たりとも渡さない。お前に渡す金があるなら、ドブに捨てた方がマシだ」 隼人はデスクの受話器を取り上げて、短縮ダイヤルを押した。「……警備室か。社長室に不審者がいる。つまみ出せ。警察に突き出しても構わん」「ちょっと! ふざけないでよ! 私は母親よ! 親を見捨てる気!?」 真澄が顔を歪めて、金切り声を上げた。隼人に掴みかかろうとする。 だが彼は、小夜子を抱き寄せて一歩下がった。 冷たい視線は、母親だった女性を完全に拒絶していた。「二度と俺の前に現れるな」 隼人は告げた。「俺の家族は、ここにいる妻だけだ」 数十秒後、駆けつけた警備員たちによって、真澄は両脇を抱えられた。 じたばたと見苦しく暴れるが、警備員たちの力にはかなわない。「ちょっと、離しなさいよ!」「恩知らず!」とわめき散らす声が、廊下の向こうへと遠ざかっていく。そのうち完全に聞こえなくなった。 再び、社長室に静寂が戻った。 隼人は受話器を置く。その瞬間、彼の身体から糸が切れたように力が抜けた。「……っ」 グラリと傾いた体を小夜子が受け止める。 隼人は小夜
last updateLast Updated : 2026-02-23
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