All Chapters of 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く: Chapter 21 - Chapter 30

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(……え?) 小夜子は耳を疑った。父もハッとしたように手を打った。「そ、そうです! 小夜子がおりました! これでも戸籍上は私の娘。正真正銘、白河の血を引いております!」 倉庫の奥から埃を被った不良在庫を引っ張り出してきたような口ぶり。本来の商品の代わりに、オマケを差し出して手を打とうという、透けるような浅ましさだった。 麗華も「ああ、その手があったわね」と言わんばかりに、小夜子を嘲笑うような目で見下ろしている。 小夜子は呆然とした。自分が選ばれた喜びなど微塵もない。あるのは「麗華の身代わり」として、生贄の台座に引きずり出されたという事実だけだ。 隼人の視線が、ゆっくりと小夜子に向けられた。小夜子は思わず身を縮めた。(私のような、ボロボロの娘に……3億円の価値など……) 値踏みするような視線が痛い。当然、あり得ないと激怒されると思った。ふざけるな、と一蹴されると。 しかし隼人は眉一つ動かさなかった。「戸籍に傷はないか? 白河の籍に入っていることは間違いないな?」 感情のない声。彼は小夜子の顔も見ず、服も見ず、ただ「スペック」だけを確認した。「もちろんですとも! 亡くなった母親も……その、由緒ある家柄でしたから!」 父がこの期に及んで嘘をつく。 小夜子の母は白河家に勤めていた使用人で、平凡な出身だったのに。「ならば、構わん」 隼人は即決した。一秒の迷いもなかった。「私が欲しいのは『白河ブランド』という看板と、それを持つ配偶者だ。中身が誰であろうと興味はない」 隼人の言葉は、淡々とした事実の羅列だった。そこに侮蔑の感情すら乗っていないことが、かえって小夜子に自身の立ち位置を理解させた。(この人は私を見ているようで、見ていない。彼が見ているのは私の背後にある「白河」という家名と、戸籍上の続柄だけだ。私は人間として扱われているのではない。壊れた機械の代替部品や、棚の隙間
last updateLast Updated : 2025-12-08
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(それなら、私にもできる) 今までこの家で、感情のない「機能」として扱われてきたのと同じだ。期待されないということは、失望されることもないということ。愛されないということは、憎まれることもないということ。 それは今の小夜子にとって、これ以上ないほど気楽で救いのある条件だった。 隼人は懐から小切手帳を取り出した。万年筆が走る音だけが、静まり返った部屋に響く。「3」と、「0」が8つ。ビリリ、と紙を切り離す音がした。それは、小夜子と白河家の縁を断ち切る音のように聞こえた。 隼人が小切手をテーブルに置く。父と義母が、浅ましくそれに飛びついた。金額を確認し、歓声を上げる。 麗華も「私の新しい宝石代ね!」と目を輝かせている。もはや誰も小夜子のことなど見ていなかった。別れの言葉も、嫁ぐ娘へのはなむけもない。ただ「不用品が高く売れた」という、安堵と強欲な笑みがあるだけだ。「商談成立だ」 隼人が立ち上がり小夜子を見下ろした。膝をついたままの彼女に、手を差し伸べることすらしない。「……行くぞ」 隼人は短く告げると、踵を返した。返事を待つまでもない、という態度だ。 小夜子は床に手をつき、立ち上がった。長時間硬い床に膝をついていたせいで、足の感覚が鈍い。エプロンについた埃を払い、一度だけ家族のほうを振り返った。「お父様、お義母様。お姉様……お世話になりました」 小夜子は小さく頭を下げた。だが返事はなかった。父と義母はテーブルに置かれた小切手に吸い寄せられている。 麗華もその横から覗き込み、「ゼロがいっぱい!」とはしゃいだ声を上げていた。 誰も家を出て行く娘のことなど見ていない。別れの言葉も、嫁ぐ娘への最低限のはなむけも存在しない。あるのは「不用品が高く売れた」という、浅ましい歓喜だけだ。 (……ええ、それでいい) 小夜子は顔を上げた。自分の手を見る。 手ぶらだ。着替えも、洗面道具も、思い出の品も。何ひとつ持っていくことは許されていない。文字通り、この擦り
last updateLast Updated : 2025-12-09
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23:さよなら、牢獄

 隼人の背中を追って、小夜子は玄関を出た。背後からは、まだ父と義母の高笑いが響いている。「3億円よ、3億円! これだけあれば、しばらくは遊んで暮らせるわね!」「お母様、私、パリへ行って新作のお洋服とジュエリーを買い付けたいわ。ついでにエステも!」 それらの声は小夜子を引き止めるものではない。厄介者がいなくなったことを祝うように聞こえた。 小夜子は一度も振り返ることなく、白河邸の古く重厚な扉をくぐり抜けた。 夕暮れの冷たい空気が、頬を撫でる。屋敷の中に充満していたカビと香水の混じった腐臭に比べれば、排気ガスの混じった外気のほうがよほど心地よく感じられた。 玄関前には、威圧的な黒塗りの高級セダンが横付けされていた。 隼人は流れるような動作で、後部座席に乗り込んでいく。 制服を着て白い手袋を嵌めた運転手が、恭しくドアを開け、小夜子を待っていた。 小夜子の足が止まる。目の前に広がるのは、最高級の本革シートだ。傷ひとつなく、艶やかに磨き上げられている。 対して自分は、埃にまみれたエプロンと擦り切れたワンピース姿。(座れば汚してしまう。叱られてしまうわ) 長年染み付いた家事使用人としての習性が、高級品を汚損することへのためらいを抱かせる。 躊躇していると、車内から冷ややかな声が飛んできた。「何をしている。早く乗れ」 隼人はタブレット端末に視線を落としたまま、小夜子を一瞥もしない。小夜子は身を縮めた。「申し訳ありません。服が汚れておりますので……シートを汚してしまいます」「クリーニング代など、3億円の端数にもならん」 隼人は苛立たしげにタブレットをタップした。「時間は金だ。私の時間を無駄にするな。さっさと座れ」 その言葉に、優しさなど少しもない。あるのは徹底した効率の追求だけだ。 小夜子は「失礼いたします」と小さく詫び、逃げるように車内へ滑り込んだ。シートの端、ドアに張り付くようにして浅く腰掛ける。 バム、と音を立ててドアが閉め
last updateLast Updated : 2025-12-09
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(この家に来たのは、もう10年前になるのね) 10年前の冬。11歳の小夜子が、この門をくぐった日のことを思い出す。  あの日は雪がちらついていたと、今でも覚えている。 小夜子の実の母は、かつてこの家の使用人だった。父の子を身籠ったことで義母が激怒し、わずかな手切れ金と共に冬空の下へ放り出されたのだと聞いている。 不倫は許されないことだ。 が、小夜子は何となく察していた。雇い主である父が母に無理やり迫り、母はほとんど暴力を受けるようにして関係を持ったのだと。 それでも母は小夜子を愛し、貧しくとも2人で慎ましく温かい日々を送っていた。  けれど母は病に倒れ、帰らぬ人となった。身寄りのなくなった小夜子を、父は「世間体があるから」という理由だけで引き取った。  泣きながら連れてこられたこの屋敷は、家ではなかった。母との幸せな記憶を塗りつぶし、自尊心を削り取られるための、巨大な牢獄そのものだった。 ここへ来てからというもの、楽しい記憶などほとんどない。  中学まではかろうじて通わせてもらえた。小夜子の成績は学年でトップクラスだったけれど、高校への進学は許されなかった。  赤点ばかり取っていた義姉の麗華は、お嬢様学校に金の力で進学したのに、だ。  小夜子はただ家政婦として、労働力として家に置かれていただけだった。 小夜子の頭の良さに気づいた執事の藤堂が力を貸してくれたおかげで、通信制の高校で学ぶことができた。  藤堂は博識な人物で、様々な学識と知識、知恵を小夜子に教え込んでくれた。  彼との思い出だけが、この白河邸で唯一残された大事な記憶といえる。 ――お嬢様。奪われることを嘆いてはなりません。  ――ドレスや宝石は、奪うことができます。家や土地も、奪われることがあるでしょう。ですが頭の中にある知性だけは、誰にも奪うことはできないのですから。 藤堂の言葉が蘇る。  彼の言葉はどれだけ小夜子を救ってくれたことか。 その藤堂も既に故人となっている今、小夜子が白河邸に残す心は一つもなかった。 車が門を抜け、公道へ出る。小夜子は一度だけ、窓越しに屋敷を振り返った。  夕闇に沈む白河家本邸。巨大な屋根が、怪物の口のように黒く口を開けている。(……お母さん。藤堂さん。やっと出られたよ) 涙は出なかった。怒りも、憎しみさえも湧いてこない。  
last updateLast Updated : 2025-12-10
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25:沈黙のドライブ

 車内は深海の底のような静寂に包まれていた。 唯一の光源は、隼人の手元にあるタブレット端末が放つ蒼白い電子の光だけ。その冷たい青い光が、彫刻のように整った、しかし険しい彼の横顔を闇の中に浮かび上がらせていた。 小夜子はシートの端、ドアに張り付くようにして身を縮めていた。 高級な本革の香りが鼻孔をくすぐる。自分の纏う埃っぽい匂いがそれに混ざるのではないかと心配になって、呼吸さえ浅く保つ。 隣に座る夫――小夜子の所有者は、苛立っていた。指先が画面を叩く音が、鋭いリズムとなって車内に響く。 彼は明らかに殺気立っていた。それは、不本意な結婚を強いられた不機嫌さだけではない、もっと切迫した何かが原因のように感じられた。「はぁ……くそっ」 隼人が大きく溜息をついて、乱暴に足を組み替えた。 その拍子に、タブレットの画面が小夜子の視界に入る。英語のニュースサイトだった。赤い太字の見出しが、警告灯のように目に飛び込んでくる。『Breaking News: Major strike at logistics hub in Hamburg』(ハンブルクの物流拠点で、大規模ストライキ……?) 小夜子の脳裏で、かつて藤堂から叩き込まれた経済知識と、断片的な情報が瞬時に結びついた。 隼人が経営するアーク・リゾーツが来春、東京都港区に開業予定の旗艦ホテル。その内装に使われる大理石や建材の多くは、確かドイツ経由で調達していたはずだ。 ドイツ・ハンブルク港が止まれば、物流は大動脈を断たれたも同然。資材が届かなければ、工期は遅れる。工期の遅れは、膨大な違約金と、開業の延期を意味する。 画面の端に表示された株価チャートは、ナイアガラの滝のように急落していた。 投資家とは、良きにつけ悪きにつけ情報に敏感な生き物だ。 ハンブルグの物流ストライキとアーク・リゾーツの損益を瞬時に結びつけて、未来の経営を株価に反映してしまう。 実際に損害が出るかは、今の時点では彼らの関心にない。 損害が出るであろうニュー
last updateLast Updated : 2025-12-10
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 そんな時に古臭い屋敷で「お見合いごっこ」に時間を奪われ、さらには3億円という身代金までふんだくられたのだから、不機嫌になるのも無理はない。 ブブブブッ。 シートの上に放り出されていたスマートフォンが、低い振動音を立てた。隼人は画面を一瞥して舌打ちし、通話ボタンを押した。「It's me. Explain the situation.(私だ。状況を説明しろ)」 流暢な、だが氷のように冷たい英語だった。 電話の向こうの相手が何かを弁解しているのだろう。隼人の眉間の皺が深くなる。「Stop making excuses. I don't care about the reasons.(言い訳はいい。理由などどうでもいい)」 彼は声を荒げることはなかったが、その抑制されたトーンこそが、爆発寸前の怒りを物語っていた。「Secure an alternative route immediately. Cost is irrelevant. Just get the materials here by the deadline.(直ちに代替ルートを確保しろ。コストは問わん。期限までに資材を届けさせるんだ)」 有無を言わせぬ命令。小夜子は視線を窓の外に固定したまま、じっと動かなかった。 ここで「大変ですね」などと声をかけるのは、三流の気遣いだ。戦っている男は、他人に弱みを見せたくない。ましてや、金で買ったばかりの「訳ありの妻」に同情されるなど、プライドが許さないだろう。 今の小夜子にできることは、一つだけ。(気配を消すこと。いないものとして存在すること) 小夜子は呼吸の音さえ殺し、背景の一部になりきった。この車内には黒崎隼人しかいない。そう錯覚させるほどの「無」になること。 それが、長年虐げられる中で身につけた、小夜子の処世術だった。 通話が終わった。隼人はスマホをシートに放り投げ、荒く前髪をかき上げた。吐き出された息が重い。 ふと、彼は隣を見た。 そこには、身を縮めたまま微動だにしない小夜子がいた。 窓の外を流れる夜
last updateLast Updated : 2025-12-10
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(……静かだ) 金目当ての女なら、「すごい英語ですね」と媚びてくるだろう。普通の令嬢なら、厳しい声に怯えたり、「私のことは放っておくの?」と不満を訴えたりする場面だ。 だが、この女は何も求めてこない。彼の事情に踏み込まず、かといって無視してふてくされるわけでもない。 ただ、完璧な「静寂」として、そこに存在している。 その無関心さが、今の張り詰めた神経には、不快であるどころか、妙に心地よかった。隼人はふっと肩の力を抜き、再びタブレットに視線を戻した。 やがて車が減速した。 窓の外には、都心の一等地にそびえ立つ超高層タワーマンションが見える。 ガラス張りのエントランスは、ホテルのように煌びやかで、人を寄せ付けない威圧感を放っていた。 車寄せに滑り込み、静かに停車する。「着いたぞ」 隼人は短く言った。「はい」 小夜子も短く答える。それ以外の会話は一切ないまま、2人は車を降りた。 見上げれば首が痛くなるほどの高さの「氷の城」が、夜空にそびえ立っている。オートロックのガラスドアが開き、空調の効いた乾いた風が吹き抜けた。(ここが私の新しい住処) 小夜子はタワーマンションに威圧感を感じながらも、あのカビ臭い屋敷よりはずっと清浄だと感じる。深呼吸して冷たい夜風を吸い込んだ。 ◇  タワーマンションのエレベーターが音もなく上昇を止め、扉が左右に開いた。 その先に広がっていたのは、生活の場というよりも、巨大なショーケースのような空間だった。「着いた。入れ」 このエレベーターは黒崎隼人専用のもので、玄関に直結しているのだ。 壁一面がガラス張りになっている。その向こう、眼下には東京の夜景がひっくり返した宝石箱のように煌めいている。 床は鏡のように磨き上げられた大理石。配置された家具はイタリア製のモダンな革張りで、どれも値札がついたまま展示されていそうなほど、使用感がない。 埃
last updateLast Updated : 2025-12-11
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(ここは人が暮らす場所ではないわ。まるで氷の城ね) そんな小夜子の迷いなど意に介さず、隼人はさっさとリビングへと進んでいく。 彼は上着を脱ぎ捨て、ソファの背もたれに無造作に掛けた。 広大なリビングの中央に鎮座する、黒い革張りのソファ。 隼人はそこに深く腰掛けて、ガラステーブルの上の瓶とグラスを手に取った。中にはウィスキーだろう、琥珀色の液体が満ちている。 カラン、と氷がグラスに当たる硬質な音が、広い空間に反響する。酒が注がれる音だけが、この部屋の沈黙を埋めていた。 隼人はグラスを傾け、氷越しに小夜子を見据えた。「そこに立て」 冷たい口調だった。 小夜子は条件反射のように背筋を伸ばし、直立不動の姿勢をとった。長年実家で染み付いた使用人の所作だ。 隼人は一口酒を含んでから、感情のない声で告げた。「誤解のないように言っておく。私が欲しかったのは『白河家の娘』という肩書きと、それに付随する伝統という箔だけだ」 その視線は小夜子の顔ではなく、小夜子という存在の背後にある「機能」を見ている。「はっきり言おう。私は、君個人には1ミリも興味がない」 取り付く島もないな拒絶。新婚初夜に夫から突きつけられる言葉としては、あまりな宣言だ。 だが、小夜子の表情はピクリとも動かなかった。 隼人は続ける。「寝室は別だ。この家は広い。北側のウィングに空き部屋がいくつかある。私の視界に入らない場所を好きに使え」 彼は再びウィスキーを口に運ぶ。「家事も必要ない。週に三回、清掃業者が入る。食事も外で済ませるか、デリバリーを頼め」 彼はテーブルの上に、一枚のカードを滑らせた。黒い光沢を放つクレジットカードだ。「生活に必要なものは、そのカードで好きに買え。限度額は気にするな。……ただし」 隼人の瞳が、剣呑な光を帯びて細められる。「私の仕事や私生活には、一切干渉するな。妻としての権利など主張するな。ここに住まわせてやる代償として、君に求める
last updateLast Updated : 2025-12-11
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(ああ、よかった……) 小夜子は、知らず知らずのうちに止めていた息を、細く長く吐き出した。 この人は、私を殴らない。罵倒しながら過重労働を強いることもない。 そして何より、「愛せ」とか「愛想よく振る舞え」といった、心まで支配するような要求をしてこない。 ただ、「いないものとして扱われる」だけ。 それは実家で受けてきた扱いと同じ。しかも実家よりも遥かに好待遇だ。 雨風をしのげる頑丈な屋根があり、誰にも邪魔されない個室が与えられる。それは小夜子にとって夢のような条件だった。 小夜子は美しい所作で深く一礼した。「承知いたしました」 顔を上げた小夜子の瞳には、清々しいほどの透明な光が宿っていた。「旦那様のご意向、深く感謝いたします。ご不快にならぬよう、これからは空気のように過ごさせていただきます」 嫌味でも卑屈さでもない。心から誠実な「契約履行」の意志だった。 その反応は、隼人の予想を超えていたらしい。彼はグラスを口元へ運ぶ手を止め、怪訝そうに眉を寄せた。「……何だ、その反応は」 金をせびるでもなく愛を乞うでもなく、無視されることに感謝するかのような態度。 理解不能な生き物を見る目つきで、隼人は小夜子を一瞥した。「チッ……。勝手にしろ」 彼は舌打ちをすると、グラスを持ったまま立ち上がり、仕事部屋があると思われる方向へと消えていった。バタン、と扉が閉まる音が響く。 広大なリビングに小夜子は一人で残された。都会の喧騒はこの高層マンションの最上階まで届かず、風の音と空調の低い駆動音だけが聞こえる。 小夜子は誰にも邪魔されない空間で、初めて深く深呼吸をした。 冷たく清潔な空気が、肺を満たしていく。カビの臭いも甘ったるい香水の匂いもしない。「空気になればいい」 小夜子は呟いた。「それなら得意だわ」 10年間、ずっとそうして生きてきたのだから。
last updateLast Updated : 2025-12-11
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30:夜明けの鯛茶漬け

 小夜子は広大なシステムキッチンに立つ。  巨大な冷蔵庫の扉を開けると、中身はひどいものだった。棚にはミネラルウォーターと酒のボトルが整然と並んでいるだけで、生活の匂いがしない。  小夜子がさらに確かめると、野菜室の奥に場違いな桐箱が押し込まれているのを見つけた。(これは……) 蓋を開ける。中には、立派な尾頭付きの真鯛が入っていた。(だぶん、どなたかからの贈答品ね。箱のまま冷蔵庫に入れてしまったのね) ラップに包まれているが、目が白濁し始めている。パッケージの日付を見る。消費期限は今日の午前中まで。  隣にはしなびかけた三つ葉の束と、使いかけの生ワサビが転がっていた。(もったいない) 小夜子の胸に食材への敬意と、放置できないとの気持ちが湧き上がる。このままでは、この立派な鯛は数時間後にはゴミ箱行きだ。  これほどの食材を無駄にするなど、小夜子はできなかった。(刺身で食べるには鮮度が落ちている。でも、熱を通せばまだ十分に美味しい) 昨夜の隼人の様子を思い出す。眉間のしわと、時折、胃のあたりを押さえる仕草をしていた。激務とストレスで、胃が悲鳴を上げている証拠だ。(メニューは決まりね) 小夜子は袖をまくり、髪をきっちりと結い上げた。「在庫管理」と「廃棄ロスの削減」。それは彼女が最も得意とする業務の一つだ。 音を立てて隼人を起こさないよう、静かに進める。  米を研ぎ、土鍋で炊く。鯛は三枚におろして、薄く削ぎ切りにした。  ボウルに練り胡麻、醤油、酒、みりんを合わせ、鯛の切り身を漬け込む。濃厚な胡麻だれが、魚の臭みを消し、旨みを凝縮させていく。 一番出汁を取る。昆布と鰹節だ。最高級品が戸棚にあったので、拝借した。  黄金色の液体が鍋の中で揺れて、良い香りが立ち上る。換気扇を回しているが、その香りはキッチンからダイニングへとあふれ出していく。無機質なショールームのような空間に、初めて「生活の体温」を宿らせた。 ◇  午前5時。ようやく朝日がリビングを照らし始めた時、寝室のドアが開く音がした。  隼人が現れる。寝間着代わりのスウェット姿で、髪は無造作に乱れている。顔色は蒼白く、手でみぞおちの辺りを押さえていた。 足取りが重い。鎮痛剤を探しに来たのだろう。彼はダイニングに漂う香りに気づき、怪訝そうに眉を寄せた。  キッチンに立つ小夜子
last updateLast Updated : 2025-12-12
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