تسجيل الدخول(この家に来たのは、もう10年前になるのね)
10年前の冬。11歳の小夜子が、この門をくぐった日のことを思い出す。
あの日は雪がちらついていたと、今でも覚えている。小夜子の実の母は、かつてこの家の使用人だった。父の子を身籠ったことで義母が激怒し、わずかな手切れ金と共に冬空の下へ放り出されたのだと聞いている。
それでも母は小夜子を愛し、貧しくとも2人で慎ましく温かい日々を送っていた。 けれど母は病に倒れ、帰らぬ人となった。身寄りのなくなった小夜子を、父は「世間体があるから」という理由だけで引き取った。 泣きながら連れてこられたこの屋敷は、家ではなかった。母との幸せな記憶を塗りつぶし、自尊心を削り取られるための、巨大な牢獄そのものだった。ここへ来てからというもの、楽しい記憶などほとんどない。
中学まではかろうじて通わせてもらえた。小夜子の成績は学年でトップクラスだったけれど、高校への進学は許されなかった。 赤点ばかり取っていた義姉の麗華は、お嬢様学校に金の力で進学したのに、だ。 小夜子はただ家政婦として、労働力として家に置かれていただけだった。小夜子の頭の良さに気づいた執事の藤堂が力を貸してくれたおかげで、通信制の高校で学ぶことができた。
藤堂は博識な人物で、様々な学識と知識、知恵を小夜子に教え込んでくれた。 彼との思い出だけが、この白河邸で唯一残された大事な記憶といえる。――お嬢様。奪われることを嘆いてはなりません。
――ドレスや宝石は、奪うことができます。家や土地も、奪われることがあるでしょう。ですが頭の中にある知性だけは、誰にも奪うことはできないのですから。藤堂の言葉が蘇る。
彼の言葉はどれだけ小夜子を救ってくれたことか。その藤堂も既に故人となっている今、小夜子が白河邸に残す心は一つもなかった。
車が門を抜け、公道へ出る。小夜子は一度だけ、窓越しに屋敷を振り返った。
夕闇に沈む白河家本邸。巨大な屋根が、怪物の口のように黒く口を開けている。(…&hel
「勝ち負けなど……私は、旦那様のお仕事のお邪魔にならないよう、掃除と在庫整理をしただけです」 今度は隼人が呆気にとられる番だった。「在庫整理だと? ……あれがか?」「はい。厨房は汚れていましたし、食材は余っておりましたので。家政婦として当然の処置をしたまでです」 小夜子は本気でそう思っている。彼女にとって今回の出来事は、少し規模の大きな「冷蔵庫の残り物整理」と変わらないのだ。 隼人はぽかんとして、そして低く笑い出した。「ククッ……ハハハ!」 彼にしては珍しく、声を出して笑っている。「家政婦、か。……お前は自分の価値を低く見積もりすぎだ」 隼人は楽しげにグラスを掲げた。「いいだろう。俺の知る限り、世界で一番優秀な家政婦に。……乾杯だ」 小夜子は戸惑いながらも、自分のお茶の湯呑みを持ち上げて、カチンと合わせた。 よく分からないけれど、仕事ぶりを褒められたのなら悪い気はしない。(旦那様はお優しい方だわ。私を褒めるなんて) お茶の湯呑がじんわりと温かく感じられた。◇ 一時間後、2人は『月影』を後にした。 玄関先には、小山田をはじめとする従業員総出の見送りがあった。 来た時の殺伐とした空気は消えて、温かな活気が戻っている。「ありがとうございました!」 元気な挨拶に見送られて、車に向かう。運転手がドアを開ける。小夜子が乗り込もうとした時、すっと手が差し出された。隼人の手だった。「……足元が暗い。気をつけろ」 ぶっきらぼうだが自然なエスコート。行きの車内では考えられなかった変化だ。小夜子は驚いて顔を上げたが、隼人はそっぽを向いている。「……ありがとうございます」 小夜子はその大きく温かい手に、恐る恐る自分
小山田の言葉には、心からの敬意がにじんでいた。 小夜子は困ったように微笑む。「そんな、大層なことではありません。私はただ……もったいないお化けが怖かっただけですから」「お化け、ですか?」「はい。実家では食べ物を粗末にすると、本当に怖いお化け……いえ、厳しい罰がありましたので」 小夜子の言葉に、小山田は涙ぐんだ顔でくしゃりと笑った。 厳しい罰というのを軽い冗談だと思ったようだ。「……かないませんな。これからも、ご指導お願いします」 小山田はもう一度頭を下げ、部屋を下がっていった。『小夜子! お前、こんなに食材を余して! もったいないと言えば何度分かるの!』 小夜子の脳裏にヒステリックな義母や義姉・麗華の声が蘇る。 言いがかりのような八つ当たりは、白河家では日常茶飯事だった。『お前は野菜の皮だけ食べていればいい!』 そのおかげで料理に工夫をするようになったわけだが。 小夜子は軽く頭を振って、嫌な思い出を追い出した。(もったいないお化けは本当に怖かったわ。痛くて怖くて、でも泣いたらもっと痛い目に遭って。あの人たちから離れられて、今は本当に幸せ) ふすまが閉まる音がして、部屋には隼人と小夜子の二人だけが残された。 静けさが戻る。 隼人は手酌で日本酒をグラスに注ぎ、一口飲んだ。長く息を吐く。「……完敗だ」 独り言のように、ポツリと呟いた。小夜子は給仕の手を止めた。「旦那様?」「俺の負けだと言ったんだ」 隼人はグラスを回し、透明な色の液体を見つめた。「俺はあいつらの無駄に高いプライドをへし折って、力尽くで従わせるつもりだった。リストラをして、恐怖で支配するのが一番早いと思っていたからな」 彼は顔を上げ、小夜子をまっすぐに見た。その瞳にはいつもの冷徹さではなく、どこか熱っぽい光が宿っている。
夜8時、老舗旅館『月影』の奥にある特別室にて。 山奥の夜の静寂に包まれた和室のテーブルには、湯気を立てる料理が並べられていた。けれどそれは、本来この旅館が出していたような金箔を散らした豪華な懐石料理ではなかった。 隼人はそれをやや意外そうな表情で見ている。 隣に座る小夜子は相変わらず目を伏せていて、感情がうかがえない。 大根の皮と葉を細かく刻んで混ぜ込んだ、香り高い混ぜご飯。魚のアラと、季節の野菜くずを丁寧に煮込んだ沢煮椀(さわにわん)。中骨をカリカリに揚げた骨煎餅(せんべい)。 どれも、これまでは「ゴミ」として捨てられていた部分を主役にした料理だ。 料理長の小山田が、緊張した面持ちで説明する。「奥様のきんぴらをヒントにしました。捨てていた部分を、一番の手間をかけて極上の朝食にする……名付けて『始末の料理』です」「始末、か」 隼人は箸を取り、混ぜご飯を一口運んだ。 シャキシャキとした大根の葉の食感と、皮の甘みが口の中に広がる。素朴だが味わい深く、いくらでも食べられそうな優しい味だった。「……悪くない」 隼人は短く感想を言う。「今まで通りの高級食材を使った料理と、この『始末の料理』。2つのコースを用意すれば、客の選択肢が増える」 彼の目が料理人としてではなく、経営者としての鋭い光を帯びる。「富裕層、特に海外のインバウンド客は『エコ』や『サステナビリティ』という言葉に弱い。ただ高いだけの料理よりも、こうしたストーリーのある料理のほうが高く売れる時代だからな」 コストカットと、ブランディングの両立。隼人が描いていた再建計画の最後のピースが、カチリとハマった瞬間だった。「はっ。……おっしゃる通りです」 小山田は深く頷いた。 そして彼はくるりと体の向きを変えると、小夜子に向き直った。その場に手をつき、畳に額がつくほど深々と頭を下げる。「奥様」 少し震える声だった。
高級な懐石料理の技法ばかりを追い求め、数字や体裁ばかりを気にしているうちに、小山田はその原点をいつしか忘れてしまっていた。その味が今、敵だと思っていた女の握ったおにぎりから、あふれ出していた。「……くそッ」 小山田はその場に膝をついた。ボロボロと大粒の涙が白衣の上に落ちていく。「……なんでだよ」 口の中の米を飲み込みながら、彼は子供のように涙をこぼし続けた。「なんで、あんたから……先代の味がするんだよ……」 頑固なプライドが、温かいお米の味によって内側から崩れていく。意地を張っていた心が、立ち上る湯気と共に溶けていく。 小夜子は静かに告げた。「私が作ったのではありません」 彼女は小山田の背中に向かって、深く頭を下げた。「あなた様が守ってこられたお出汁と、お米が素晴らしかったからです。私はそれを、ただ結んだに過ぎません」 相手のプライドを立て、手柄を譲る言葉だった。小山田は近くにあったアラ汁の椀を取り上げて、一気に飲み込んだ。「……美味い」 涙声で、彼は絞り出した。「……くそっ、美味いなあ……」 厨房の空気が完全に変わった。重苦しい敵意は消えて「美味しいものを食べた」という共有感と、温かな充足感だけが残っている。 壁際で見ていた隼人が、ゆっくりと歩み寄ってきた。「腹は満たされたか」 小山田は涙を袖で乱暴にぬぐい、立ち上がった。バツが悪そうに、しかし真っ直ぐに隼人を見た。「……社長」 その呼び方には、先ほどまでのトゲはなかった。「話し合いの席を設けてくれ。……あんたの嫁さんの料理に免じて、話だけは聞いてやる」「いいだろう」 隼人は短く答える。 ス
「残飯ではありません」 凛とした声が小山田の怒号をさえぎった。小夜子だった。 彼女は最後に一つ残ったおにぎりを小皿に乗せ、小山田の前に進み出た。「これは、あなたたちが守ってきた大切な食材で作った、まかないです」「うるせえ!」 小山田が乱暴に腕を振り回した。「素人の握った握り飯なんざ、食えるか! 俺たちをバカにしやがって!」 払いのけられそうになっても、小夜子は引かなかった。皿を差し出したままの格好で、彼女の黒い瞳が小山田をまっすぐに射抜く。「……では、捨てますか?」「あ?」 小山田が怒りの視線を向ける。けれど小夜子は怯まない。「あなたたちが丹精込めて選び、仕入れたこのお米を。ここでゴミ箱に捨てますか?」 小夜子の問いかけは、料理人にとって最大のタブーを突くものだった。 小山田の手がピタリと止まる。食材を粗末にすることは、料理人の魂を捨てることに等しい。 小夜子は一歩踏み出した。「お腹が空いておられるはずです」 グゥ、と小山田の腹が小さく鳴ったのを、小夜子は聞き逃さなかった。「戦うにも、腹が減ってはなんとやら、ですよ。……どうぞ」 小夜子は微笑まない。媚びもしない。ただ真剣な眼差しで、白く輝くおにぎりを差し出し続けた。 長いにらみ合いが続く。やがて小山田は舌打ちをした。「……食えばいいんだろ、食えば!」 彼はひったくるようにおにぎりを掴んだ。投げやりに、大きく口を開けてかぶりつく。「んぐッ……!?」 その瞬間。小山田の動きが止まった。咀嚼(そしゃく)するあごのリズムが、急にゆっくりになる。 彼の口の中に広がる、米本来の甘み。素人とは思えない絶妙な塩加減。そして何より、強く握りすぎずかといって崩れもしない、空気をふんわりと含んだ優しい食感。 彼の脳裏に、古い記憶が蘇った。それは
夕暮れが迫り、厨房の窓が茜色に染まり始めていた。 今までの張り詰めていた空気が、音を立てて崩れ去ろうとしている。 きっかけは若い板前の隆太の一口だった。彼が真っ白な塩むすびにかぶりついた瞬間、その表情がくしゃりと歪んだのだ。「……うめえ」 震えるような声だった。「うめえよ、これ……」 その一言が合図になる。我慢していた他の仲居や板前たちが、いっせいに動き出したのだ。 ある者は塩むすびに手を伸ばし、ある者はアラ汁のお椀を両手で包み込むようにしてすする。 ズズ、ズルッ。ハフハフ。人々が夢中で料理を食べる音が静かな厨房に満ちていく。「あったかい……」 年配の仲居が泣きそうな声で呟いた。「ああ。体に染み渡るようだよ」 別の板前もしみじみと言う。 ストライキに入ってから既に数日。彼らは冷え切った厨房の片隅で、冷たいパンや乾き物をかじって食いつないできたのだ。 厨房が彼らの職場である以上、ストライキ中は火を入れられない。 彼らは意地を張って、限界まで耐え忍んでいたのだ。 湯気の立つご飯。熱々の味噌汁。それらが食道を通って胃袋に落ちる感覚は、ただの栄養補給ではない。凍えていた心と体を内側から溶かす、救済そのものだった。 敵意が食欲と安らぎに上書きされていく。 険しかった彼らの顔つきは、いつしか柔らかい笑顔が浮かんでいた。(空気が明らかに変わったな。さて、どうなるか……) 隼人は腕を組んだまま、その光景を静かに見つめていた。 と、その時。「てめえら、何やってやがる!!」 突然、怒号が響いた。勝手口の扉が乱暴に開かれる。料理長の小山田が踏み込んできたのだ。 彼は白衣を汚し、目を血走らせている。部下たちが敵である社長側の、それも社長の奥方が作った料理を夢中で食べている姿を見て、顔を真っ赤にして怒り始めた。「お前







