LOGIN(……静かだ)
金目当ての女なら、「すごい英語ですね」と媚びてくるだろう。普通の令嬢なら、厳しい声に怯えたり、「私のことは放っておくの?」と不満を訴えたりする場面だ。
だが、この女は何も求めてこない。彼の事情に踏み込まず、かといって無視してふてくされるわけでもない。
ただ、完璧な「静寂」として、そこに存在している。 その無関心さが、今の張り詰めた神経には、不快であるどころか、妙に心地よかった。隼人はふっと肩の力を抜き、再びタブレットに視線を戻した。やがて車が減速した。
窓の外には、都心の一等地にそびえ立つ超高層タワーマンションが見える。 ガラス張りのエントランスは、ホテルのように煌びやかで、人を寄せ付けない威圧感を放っていた。車寄せに滑り込み、静かに停車する。
「着いたぞ」
隼人は短く言った。
「はい」
小夜子も短く答える。それ以外の会話は一切ないまま、2人は車を降りた。
見上げれば首が痛くなるほどの高さの「氷の城」が、夜空にそびえ立っている。オートロックのガラスドアが開き、空調の効いた乾いた風が吹き抜けた。(ここが私の新しい住処)
小夜子はタワーマンションに威圧感を感じながらも、あのカビ臭い屋敷よりはずっと清浄だと感じる。深呼吸して冷たい夜風を吸い込んだ。
◇
タワーマンションのエレベーターが音もなく上昇を止め、扉が左右に開いた。
その先に広がっていたのは、生活の場というよりも、巨大なショーケースのような空間だった。「着いた。入れ」
このエレベーターは黒崎隼人専用のもので、玄関に直結しているのだ。
壁一面がガラス張りになっている。その向こう、眼下には東京の夜景がひっくり返した宝石箱のように煌めいている。床は鏡のように磨き上げられた大理石。配置された家具はイタリア製のモダンな革張りで、どれも値札がついたまま展示されていそうなほど、使用感がない。
埃冬の鎌倉は凛とした寒さと静けさに包まれていた。 午後1時、海からの風は冷たいが空は高く澄み渡っている。 閑静な住宅街の一角にある重厚な門の前で、隼人が足を止めた。「ここだ」 彼は門の奥にある広大な敷地をにらむように見上げた。「この大河原(おおがわら)邸の土地さえ手に入れば、アーク・リゾーツの『鎌倉ヴィラ計画』は完成する。プロジェクトの成否を握る最後のピースだ」 隼人は隣に立つ小夜子を一ちらりと見た。「お前を連れてきたのは、茶飲み話の相手くらいにはなると思ったからだ。前回の旅館のように、頑固な年寄りの懐柔でもしてみせろ」 それは妻に対する言葉ではない。便利な道具、あるいは機能的な潤滑油として期待する、冷徹な経営者の言葉だった。 けれど小夜子は静かに頷いた。「承知いたしました」 彼女にとって、期待されることは喜びであり、役割を与えられることは安らぎだったからだ。 隼人はそんな彼女に一瞬だけ眉をしかめたが、すぐに気を取り直したように前を向いた。◇ 門をくぐると、そこには別世界が広がっていた。 手入れの行き届いた日本庭園。枯山水の砂紋は美しく描かれて、苔むした岩が配置されている。 そして何より目を引いたのは、庭の奥に咲き誇る椿だった。冬の寒空の下、濃い緑の葉の中に鮮烈な赤色がいくつも灯っている。地面には散った花弁が落ち、まるで赤いじゅうたんを敷き詰めたようだ。(……まあ) 小夜子は思わず息を呑んだ。美しい。どれほどの手間と愛情をかければ、これほど見事な花を咲かせることができるのだろう。冬の寒さに耐えて咲く姿は気高く、それでいてどこか哀しげだった。 だが隼人の感想は違った。「……植栽の配置が古いな」 彼は庭全体を値踏みするように見回した。「すべて抜いて更地にするには、重機を入れる必要がある。撤去コストが見積もり以上にかかりそうだ」 隼人の目には「風
「勝ち負けなど……私は、旦那様のお仕事のお邪魔にならないよう、掃除と在庫整理をしただけです」 今度は隼人が呆気にとられる番だった。「在庫整理だと? ……あれがか?」「はい。厨房は汚れていましたし、食材は余っておりましたので。家政婦として当然の処置をしたまでです」 小夜子は本気でそう思っている。彼女にとって今回の出来事は、少し規模の大きな「冷蔵庫の残り物整理」と変わらないのだ。 隼人はぽかんとして、そして低く笑い出した。「ククッ……ハハハ!」 彼にしては珍しく、声を出して笑っている。「家政婦、か。……お前は自分の価値を低く見積もりすぎだ」 隼人は楽しげにグラスを掲げた。「いいだろう。俺の知る限り、世界で一番優秀な家政婦に。……乾杯だ」 小夜子は戸惑いながらも、自分のお茶の湯呑みを持ち上げて、カチンと合わせた。 よく分からないけれど、仕事ぶりを褒められたのなら悪い気はしない。(旦那様はお優しい方だわ。私を褒めるなんて) お茶の湯呑がじんわりと温かく感じられた。◇ 一時間後、2人は『月影』を後にした。 玄関先には、小山田をはじめとする従業員総出の見送りがあった。 来た時の殺伐とした空気は消えて、温かな活気が戻っている。「ありがとうございました!」 元気な挨拶に見送られて、車に向かう。運転手がドアを開ける。小夜子が乗り込もうとした時、すっと手が差し出された。隼人の手だった。「……足元が暗い。気をつけろ」 ぶっきらぼうだが自然なエスコート。行きの車内では考えられなかった変化だ。小夜子は驚いて顔を上げたが、隼人はそっぽを向いている。「……ありがとうございます」 小夜子はその大きく温かい手に、恐る恐る自分
小山田の言葉には、心からの敬意がにじんでいた。 小夜子は困ったように微笑む。「そんな、大層なことではありません。私はただ……もったいないお化けが怖かっただけですから」「お化け、ですか?」「はい。実家では食べ物を粗末にすると、本当に怖いお化け……いえ、厳しい罰がありましたので」 小夜子の言葉に、小山田は涙ぐんだ顔でくしゃりと笑った。 厳しい罰というのを軽い冗談だと思ったようだ。「……かないませんな。これからも、ご指導お願いします」 小山田はもう一度頭を下げ、部屋を下がっていった。『小夜子! お前、こんなに食材を余して! もったいないと言えば何度分かるの!』 小夜子の脳裏にヒステリックな義母や義姉・麗華の声が蘇る。 言いがかりのような八つ当たりは、白河家では日常茶飯事だった。『お前は野菜の皮だけ食べていればいい!』 そのおかげで料理に工夫をするようになったわけだが。 小夜子は軽く頭を振って、嫌な思い出を追い出した。(もったいないお化けは本当に怖かったわ。痛くて怖くて、でも泣いたらもっと痛い目に遭って。あの人たちから離れられて、今は本当に幸せ) ふすまが閉まる音がして、部屋には隼人と小夜子の二人だけが残された。 静けさが戻る。 隼人は手酌で日本酒をグラスに注ぎ、一口飲んだ。長く息を吐く。「……完敗だ」 独り言のように、ポツリと呟いた。小夜子は給仕の手を止めた。「旦那様?」「俺の負けだと言ったんだ」 隼人はグラスを回し、透明な色の液体を見つめた。「俺はあいつらの無駄に高いプライドをへし折って、力尽くで従わせるつもりだった。リストラをして、恐怖で支配するのが一番早いと思っていたからな」 彼は顔を上げ、小夜子をまっすぐに見た。その瞳にはいつもの冷徹さではなく、どこか熱っぽい光が宿っている。
夜8時、老舗旅館『月影』の奥にある特別室にて。 山奥の夜の静寂に包まれた和室のテーブルには、湯気を立てる料理が並べられていた。けれどそれは、本来この旅館が出していたような金箔を散らした豪華な懐石料理ではなかった。 隼人はそれをやや意外そうな表情で見ている。 隣に座る小夜子は相変わらず目を伏せていて、感情がうかがえない。 大根の皮と葉を細かく刻んで混ぜ込んだ、香り高い混ぜご飯。魚のアラと、季節の野菜くずを丁寧に煮込んだ沢煮椀(さわにわん)。中骨をカリカリに揚げた骨煎餅(せんべい)。 どれも、これまでは「ゴミ」として捨てられていた部分を主役にした料理だ。 料理長の小山田が、緊張した面持ちで説明する。「奥様のきんぴらをヒントにしました。捨てていた部分を、一番の手間をかけて極上の朝食にする……名付けて『始末の料理』です」「始末、か」 隼人は箸を取り、混ぜご飯を一口運んだ。 シャキシャキとした大根の葉の食感と、皮の甘みが口の中に広がる。素朴だが味わい深く、いくらでも食べられそうな優しい味だった。「……悪くない」 隼人は短く感想を言う。「今まで通りの高級食材を使った料理と、この『始末の料理』。2つのコースを用意すれば、客の選択肢が増える」 彼の目が料理人としてではなく、経営者としての鋭い光を帯びる。「富裕層、特に海外のインバウンド客は『エコ』や『サステナビリティ』という言葉に弱い。ただ高いだけの料理よりも、こうしたストーリーのある料理のほうが高く売れる時代だからな」 コストカットと、ブランディングの両立。隼人が描いていた再建計画の最後のピースが、カチリとハマった瞬間だった。「はっ。……おっしゃる通りです」 小山田は深く頷いた。 そして彼はくるりと体の向きを変えると、小夜子に向き直った。その場に手をつき、畳に額がつくほど深々と頭を下げる。「奥様」 少し震える声だった。
高級な懐石料理の技法ばかりを追い求め、数字や体裁ばかりを気にしているうちに、小山田はその原点をいつしか忘れてしまっていた。その味が今、敵だと思っていた女の握ったおにぎりから、あふれ出していた。「……くそッ」 小山田はその場に膝をついた。ボロボロと大粒の涙が白衣の上に落ちていく。「……なんでだよ」 口の中の米を飲み込みながら、彼は子供のように涙をこぼし続けた。「なんで、あんたから……先代の味がするんだよ……」 頑固なプライドが、温かいお米の味によって内側から崩れていく。意地を張っていた心が、立ち上る湯気と共に溶けていく。 小夜子は静かに告げた。「私が作ったのではありません」 彼女は小山田の背中に向かって、深く頭を下げた。「あなた様が守ってこられたお出汁と、お米が素晴らしかったからです。私はそれを、ただ結んだに過ぎません」 相手のプライドを立て、手柄を譲る言葉だった。小山田は近くにあったアラ汁の椀を取り上げて、一気に飲み込んだ。「……美味い」 涙声で、彼は絞り出した。「……くそっ、美味いなあ……」 厨房の空気が完全に変わった。重苦しい敵意は消えて「美味しいものを食べた」という共有感と、温かな充足感だけが残っている。 壁際で見ていた隼人が、ゆっくりと歩み寄ってきた。「腹は満たされたか」 小山田は涙を袖で乱暴にぬぐい、立ち上がった。バツが悪そうに、しかし真っ直ぐに隼人を見た。「……社長」 その呼び方には、先ほどまでのトゲはなかった。「話し合いの席を設けてくれ。……あんたの嫁さんの料理に免じて、話だけは聞いてやる」「いいだろう」 隼人は短く答える。 ス
「残飯ではありません」 凛とした声が小山田の怒号をさえぎった。小夜子だった。 彼女は最後に一つ残ったおにぎりを小皿に乗せ、小山田の前に進み出た。「これは、あなたたちが守ってきた大切な食材で作った、まかないです」「うるせえ!」 小山田が乱暴に腕を振り回した。「素人の握った握り飯なんざ、食えるか! 俺たちをバカにしやがって!」 払いのけられそうになっても、小夜子は引かなかった。皿を差し出したままの格好で、彼女の黒い瞳が小山田をまっすぐに射抜く。「……では、捨てますか?」「あ?」 小山田が怒りの視線を向ける。けれど小夜子は怯まない。「あなたたちが丹精込めて選び、仕入れたこのお米を。ここでゴミ箱に捨てますか?」 小夜子の問いかけは、料理人にとって最大のタブーを突くものだった。 小山田の手がピタリと止まる。食材を粗末にすることは、料理人の魂を捨てることに等しい。 小夜子は一歩踏み出した。「お腹が空いておられるはずです」 グゥ、と小山田の腹が小さく鳴ったのを、小夜子は聞き逃さなかった。「戦うにも、腹が減ってはなんとやら、ですよ。……どうぞ」 小夜子は微笑まない。媚びもしない。ただ真剣な眼差しで、白く輝くおにぎりを差し出し続けた。 長いにらみ合いが続く。やがて小山田は舌打ちをした。「……食えばいいんだろ、食えば!」 彼はひったくるようにおにぎりを掴んだ。投げやりに、大きく口を開けてかぶりつく。「んぐッ……!?」 その瞬間。小山田の動きが止まった。咀嚼(そしゃく)するあごのリズムが、急にゆっくりになる。 彼の口の中に広がる、米本来の甘み。素人とは思えない絶妙な塩加減。そして何より、強く握りすぎずかといって崩れもしない、空気をふんわりと含んだ優しい食感。 彼の脳裏に、古い記憶が蘇った。それは