All Chapters of 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く: Chapter 31 - Chapter 40

120 Chapters

31

「胃薬をお探しでしたら、棚の2段目にございます。……ですが、もしよろしければ」 小夜子はダイニングテーブルの椅子を引いた。「薬を飲む前に、少しお腹を温めてはいかがですか? 空きっ腹に薬は、胃を荒らしますので」 押し付けがましさのない、淡々とした提案だった。 隼人は拒絶しようとした。他人が作った食事など、信用ならない。 幼少期、冷え切った弁当やコンビニの味しか知らなかった彼にとって、家庭的な温かさなどというものは、煩わしい幻想でしかなかった。 けれど胃の痛みとひどい空腹が、理性を超えてしまった。出汁の良い香りは食欲をそそる。隼人は無言のまま歩み寄り、椅子に腰を下ろした。 小夜子は茶碗に炊きたてのご飯をよそい、胡麻だれに漬け込んだ鯛を乗せた。その上から、熱々の出汁を回しかける。 鯛の表面が熱で白く霜降りになり、胡麻の香ばしさと出汁の香りが広がった。 刻んだ三つ葉とおろしたてのワサビを添えて、差し出す。 隼人は箸を取り、一口、すすった。(……っ) 熱い出汁が食道を通り、痙攣していた胃壁を優しく撫で落ちていく。味がどうこうと分析する前に、体が「救われた」と叫ぶようだった。 胡麻のコク、鯛の旨み、ワサビの清涼感。それらが一体となって、冷え切っていた内臓に熱を灯す。 孤独だった夜明けの胃痛が、温かな波に包まれて溶かされていく感覚。隼人は夢中で箸を動かした。一度も顔を上げず、言葉も発さず。ただ茶碗の底が見えるまで、その温もりをむさぼった。 カチリ。箸を置く音が静寂に戻った部屋に響いた。 隼人の胃の痛みは、嘘のように消えていた。 彼は長く息を吐き、椅子の背もたれに体を預ける。 小夜子は、シンクの前で片付けをしていた。「お粗末さまでした」とも、「いかがでしたか」とも聞かない。ただ、自身の業務を淡々とこなしている。 その背中が昨夜よりも少しだけ近く、そして頼もしく見えた。「余計なことを」 隼人は呟いた。素っ気ない言葉だったが、そこ
last updateLast Updated : 2025-12-12
Read more

32:ネクタイ

 カチリ、と箸を置く音が、静かなダイニングに響いた。 現在の時刻は朝7時。窓の外には都会の空が白々と広がっている。 小夜子は隼人の前に置かれた茶碗の中をそっと盗み見た。一粒の米も残っていない。 今朝の献立は土鍋で炊いた白米、焦げ目をつけないよう黄金色に焼き上げた出汁巻き卵、脂の乗った銀鮭の塩焼き、小松菜と油揚げの煮浸し、そして豆腐とわかめの味噌汁である。 旅館の朝食を模した「完璧な和定食」だ。 隼人はナプキンで口元を拭い、水を一口飲んだ。「美味い」とは言わない。「ごちそうさま」とも言わない。 けれど完食された食器こそが、何よりも彼の心を語っていた。 契約結婚から3週間。この奇妙な同居生活には、一つのルーティンができあがっていた。 小夜子が朝食を作り、隼人が無言で平らげる。ただそれだけの繰り返し。 けれど小夜子にとって、それは確かな成果を確認する時間でもあった。(顔色が良くなった) 小夜子は隼人の横顔を観察する。初めて会った時の土気色は消えて、肌に健康的な血色が戻っている。 ダイニングの棚に常備されている胃薬の減りも、目に見えて遅くなった。 そこに愛があるわけではない。あるのは、預かった動物の健康状態をチェックする飼育員のような、冷静で客観的な満足感だけだ。(動物だなんて、知られたらきっと叱られてしまうわね) 隼人は椅子を引いて立ち上がると、無言でリビングを出て行った。出勤の時間だった。◇ 玄関ホールまで行く。隼人はウォークインクローゼットから出したジャケットを羽織り、姿見の前に立った。 小夜子は数歩下がった位置で、壁の一部のように控えている。「行ってらっしゃいませ」を言うためだけの、空気としての務め。 隼人が鏡を見ながら、ネクタイの結び目に手をやった。小夜子の眉が、ピクリと動く。(……曲がっている) ダークネイビーのシルクタイ、その結び目が中心からわずかにズレており、ノットの下に作られるべき窪み――ディ
last updateLast Updated : 2025-12-13
Read more

33

 あんな歪んだネクタイで、何千人もの社員の上に立つ社長業が務まるのだろうか。だらしない結び目は、ビジネスで戦う相手に隙を見せることになるのではないか。「完璧」を知っている人間にとって、目の前の「不完全」を放置することは、物理的な不快感を伴う。 隼人が舌打ちをして、ネクタイを乱暴に引っ張ろうとした瞬間。小夜子の体は、思考よりも先に動いていた。「……失礼いたします」 小夜子は一歩、踏み出す。隼人が鏡越しに振り返った。怪訝そうに眉を寄せている。「何だ?」「ネクタイが曲がっております。恐れ入りますが、少し失礼してもよろしいでしょうか」 隼人は口を開きかけた。「自分でやる」と言おうとしたのだろう。 だが彼は腕時計をさっと見て、小さく舌打ちをした。もう時間がない。 隼人は無言で顎をしゃくった。許可の合図だ。 小夜子は音もなく近づいた。ハイヒールを履いていない小夜子の頭は、長身の隼人の胸元あたりにしかない。わずかに背伸びをして、手を伸ばす。 白く細い指先が、隼人の首元に触れた。吐息がかかるほどの距離。隼人の喉仏が、わずかに上下に動くのが見える。 彼は息を止めていた。小夜子からは、白河家の女たちがまとっていたような、鼻をつく香水の匂いはしない。漂ってくるのは、朝食の出汁の香りと、清潔な石鹸の香りだけ。 誰かに首元という急所を晒し、身なりを整えてもらう。その無防備で親密な行為に、隼人の体は強張っていた。拒絶ではなく、どう反応していいかわからないという戸惑いだった。(この女は、どうしてこここまでする) 隼人は母親の温もりを知らない。家族の温かさを知らない。 彼の母はいい加減な女で、不倫で隼人の父と離婚をした後も男の元で遊び歩いてばかりいた。 隼人はごく幼い頃から1日の生活費として千円札や500円玉を1つ渡されて、コンビニで弁当を買って食べていた。 みじめさと寂しさを押し殺す日々だった。 寂しさはいつしか怒りに変わって、二度とみじめな思いをしなくて済むように強くなると決めた。
last updateLast Updated : 2025-12-13
Read more

34

(最初の朝、あの茶漬けを食ったのが間違いだった) 隼人はそう思うが、もう一度あの場に戻れたとてまた口をつけてしまうだろうとも思っていた。 彼が人生でほとんど初めて味わう、家庭的で温かな味。認めたくないが、それは少しずつ彼の心に入り込んでいる。 そして今、小夜子は隼人のネクタイに手を掛けた。 彼は幼子のようにされるがまま。 苛立つ。人に触れられるのは嫌いだ。 だがそれ以上に、彼は完璧であらねばならない。もう二度と過去のみじめな自分に戻りたくない。 小夜子の手つきは鮮やかだった。 一度結び目を解き、流れるような動作でネクタイを絡ませる。キュッ。首元で絹が擦れる音がする。中心にくっきりと美しいディンプルを刻み、ノットを喉元まで引き上げる。 所要時間、わずか10秒だった。 小夜子は手を離し、一歩下がった。「終わりました」 その所作は、有能な従者そのものだった。 隼人は鏡を見た。シャツの襟元に、完璧な正三角形を描くウィンザーノットが収まっている。左右対称の優美な造形。彼は自分の首元に手をやり、確かめるように結び目に触れた。「……フン。余計な世話だ」 口をついて出たのは憎まれ口だったが、その声にはとげがなかった。「俺の実家では、誰もこんなことはしなかった」 ボソリと呟かれた言葉は、独り言のように小さい。 父は存在せず、母は無関心。金はあっても「世話」という概念が欠落していた家で育った彼にとって、出がけに妻にネクタイを直されるという行為は、未知の体験だった。 隼人はそれ以上何も言わず、ドアノブに手をかけた。「行ってくる」という言葉はない。無言でドアを開け、風のように出て行く。 小夜子はその背中に向かって、深く頭を下げた。「行ってらっしゃいませ」 重厚なドアが閉まり、電子ロックがかかる音が響く。 再び静けさが戻った玄関ホールで、小夜子はゆっくりと顔を上げた。自分の指先を見る。そこには男性の体温と、シルク
last updateLast Updated : 2025-12-13
Read more

35:不味いコーヒー

 黒瀬隼人が経営するアーク・リゾーツ本社、最上階。 社長室の壁一面はガラス張りになっており、眼下には東京の街並みがジオラマのように広がっていた。 午前10時。隼人はデスクに向かい、書類の山と格闘していた。 広大な執務室には、空調の低い音と隼人がペンを走らせる音だけが響いている。(ここが俺の居場所だ) 感情など不要な、数字と利益だけが支配する冷たくて快適な戦場。不渡りを出しかけた企業の再建案、新規開発エリアの用地買収、株価の変動。次々と押し寄せる決断の連続に、隼人の脳は氷のように冴え渡っていた。 ノックの音がして、秘書の工藤が入ってくる。彼は無言でデスクの端にコーヒーカップを置き、一礼して下がろうとした。いつものタイミング、いつものブルーマウンテンNo.1。 隼人は書類から目を離さず、片手でカップを引き寄せた。香り高い湯気が立つ。そのまま口に運び一口、流し込む。「……っ」 隼人の手が止まった。眉間に深いしわが寄る。(……なんだ、これは) 舌に残るのは、焦げたような苦味と舌を刺す嫌な酸味だけ。まるで泥水を飲んだような不快感だ。 いつもと同じ豆、同じ淹れ方のはずなのに、体が拒絶反応を示している。 脳裏に、今朝の朝食の味がフラッシュバックした。 優しい出汁の香り。ふっくらと炊き上がった白米の甘み。そして、あの女――小夜子が淹れた、清冽な茶の後味。 それらと比べるとこの最高級コーヒーは、ただの刺激の強い黒い液体でしかなかった。「……おい、工藤」 隼人はカップをソーサーに乱暴に戻した。カチャリと硬質な音が響く。ドアへ向かっていた工藤が、驚いて振り返る。「はい、社長。いかがなさいましたか」「豆を変えたか? 妙に酸味が強い」「いえ、いつもと同じ焙煎所のブルーマウンテンですが……。酸化しておりましたでしょうか? すぐに淹れ直してまいります」 工藤が恐縮して駆け寄
last updateLast Updated : 2025-12-14
Read more

36

 いつもなら、この時間になれば結び目は緩んで首元に隙間ができているはずだ。 だが今日は違った。朝の形のまま、喉元にぴったりとフィットしている。緩みもなければ歪みもない、完璧なウィンザーノット。シルクの感触を指でなぞると、今朝の光景がまざまざと蘇った。『終わりました』 涼やかな声。至近距離にあった白い指先。首筋に残る、柔らかな感触と体温。 その感触が戦場における「鎧」の隙間に入り込んだ異物のように、気になって仕方がない。 集中力が削がれる。完璧だったはずの日常に、ノイズが混じっている。 再びドアが開き、工藤が戻ってきた。今度はミネラルウォーターを持っている。「お水をお持ちしました」「ああ。そこに置いておけ」 工藤はグラスを置くと、ふと隼人の胸元に視線を止めた。珍しいものを見るような目つきだ。「……社長。本日のネクタイは、随分と美しく結ばれていますね」「何だと?」「いえ、いつもはもっと……その、ラフな結び方を好まれるかと存じておりましたので。左右対称で、見事なディンプルです」 隼人のネクタイが歪んでいるのは社内でも有名だったが、誰も指摘できなかったのである。それが今日は、教科書通りの完璧な仕上がりになっている。隼人はバツが悪そうに視線を逸らした。「……たまたまだ。余計な観察をするな」「失礼いたしました」 工藤が一礼して下がると、隼人は深く椅子に背を預けて天井を仰いだ。(俺は……毒されているのか) たった3週間だ。あの女が作った飯を食い、あの女が整えた服を着ているだけで、長年築き上げてきた「冷たくて快適な孤独」が侵食されている。 コンビニの弁当がプラスチックの味に感じられ、オフィスのコーヒーが泥水に感じる。 一人でいる時間が以前よりも寒々しく思える。(あの「ぬるい幸せ」のような毒が、俺を弱くしているのではないか?) 隼人は恐怖に近
last updateLast Updated : 2025-12-14
Read more

37

 トラブルの報告を聞いた瞬間、隼人の口元に冷ややかな笑みが浮かんだ。(……これだ) トラブル、反発、敵意。それこそが彼の得意とするフィールドだ。生っちょろい温もりから抜け出し、冷徹な「再生屋」としての自分を取り戻す、絶好の機会。「すぐに車を用意しろ。現地へ行く」「はっ。……お一人で向かわれますか?」 隼人は一瞬考え、意地悪な思いつきを口にした。「いや。妻も連れて行く」「奥様を、ですか? しかし現場は殺気立っておりますが……」「構わん。家に置いておくよりマシだ」 あの女に俺の本当の仕事を見せてやる。温かいご飯や整ったネクタイなど通用しない、冷酷なリストラの現場を。 彼女を「お飾りの妻」として厳しい現実に連れ出し、その無力さを露呈させれば、この奇妙な浮ついた気分も消えるはずだ。(いい思いつきだ) 隼人はジャケットをひっ掴むと、立ち上がった。歪んだ計算と、仕事への高揚感。 それらが混ざり合い、彼の瞳に鋭い光が戻っていた。 ◇  山あいの道は細く曲がりくねっており、つづら折りになっていた。車体は不規則に揺れて、カーブを曲がるたびに乗客は体を左右に振られている。 午後2時。黒崎隼人の送迎車は、深い緑に覆われた峠道を走っていた。 目指す先は、先日アーク・リゾーツが買収したばかりの老舗旅館『月影(つきかげ)』である。 後部座席で、小夜子は窓の外を流れる木々を眺めていた。 彼女は急に呼び出されて、月影への同行を命じられたのだ。拒否権があるわけもなく、また特に不満もなかったので、大人しく車に乗っている。(お飾りの妻でいいとおっしゃったのに。私は何をすればいいのかしら? このまま空気でいいのか、それとも……) 隣には隼人がいる。彼は膝の上にノートパソコンを広げて、揺れる車内でも構わず仕事を続けていた。『月
last updateLast Updated : 2025-12-14
Read more

38

 小夜子は冷静に分析した。 この山道でパソコンの画面に目を凝らせば、誰でもそうなる。このまま無理を続ければ、あと数キロもしないうちに身体的な限界を迎えてしまうだろう。そして、月影への到着はまだ先だ。「お飾りの妻」として連れてこられた以上、余計な口出しは無用だ。空気のように気配を消し、彼の仕事の邪魔をしないことが契約上の義務である。 けれど目の前の人の不調を放置するのは、小夜子の性分に合わなかった。実家での過酷な労働の中、自分自身のコンディションを維持するために培った知恵が、脳内の引き出しから飛び出してくる。 小夜子は音を立てずにバッグを開けた。中から取り出したのは小さな茶色の遮光瓶と、清潔なタオルハンカチ。 ハンカチは隼人から渡されたカードで買った、何の変哲もない安物。社長夫人に不釣り合いなほど質素な品物だったが、自分のための新品を購入する時、小夜子は少しわくわくしたものだ。 何せ白河の家では、小夜子のものなどないに等しかったので。ましてや小夜子の私物を買うなど、何年ぶりだっただろうか。 小夜子は瓶の蓋を開けて、ハンカチにオイルを数滴垂らした。 ふわり、と車内に香りが広がる。革の匂いと微かなガソリン臭が支配していた密室に、鋭く冷たい風が吹き込んだような清涼感。 隼人の肩がピクリと跳ねた。彼は口元を押さえたまま、顔をしかめてこちらを見た。「……なんだ?」 かすれた声だった。拒絶しようとしているが、言葉を続ける余裕すらないようだ。 小夜子は迷わず、香りを染み込ませたハンカチを彼の顔の前に差し出した。「ペパーミントとレモンのアロマです」 淡々と、成分表示を読み上げるように告げる。「自律神経を整え、吐き気を抑える効果があります。即効性は市販薬以上かと」「いらん……」「顔色が、お手元の書類よりも白くなっておられます」 小夜子の指摘に、隼人は睨みつけようとしたが、その眼光にはいつもの鋭さがない。嘔吐感が押し寄せているのだろう。彼は観念したように、ひったくるような
last updateLast Updated : 2025-12-15
Read more

39

 かき乱されていた平衡感覚が、香りによって繋ぎ止められる感覚。 隼人の呼吸が次第に深くなり、整っていった。強張っていた肩の力が抜け、シートの背もたれに深く体を預けた。 小夜子はその様子を見届けると、すぐに視線を窓の外に戻した。「私は空気ですので。どうぞ、お気になさらず」 恩着せがましさは少しもない。ただそこに不具合があったから、修繕しただけだと言わんばかりの態度だった。 隼人はハンカチで顔を覆ったまま、複雑な思いを噛み締めていた。(……またか) 朝食の味噌汁、出がけのネクタイ。そして今、このハンカチ。 この女の差し出すものは、なぜこうも的確に、彼の不快を取り除いてしまうのか。(悔しいが、助かった) このままでは、従業員たちの前で無様に倒れるところだった。これから彼らをリストラし支配しようという人間が、車酔いで青くなっているなど笑い話にもならない。 ハンカチに残る、清潔な石鹸の香りとアロマの香り。それは小夜子という存在そのもののように静かで、しかし鮮烈に隼人の感覚を侵食してくる。◇ やがて車が減速し、砂利を踏む音が聞こえてきた。『月影』への到着だ。 隼人はハンカチを顔から離した。顔色には赤みが戻り、目には力が宿っている。 彼はハンカチを小夜子に返すことはせず、無造作にスーツの内ポケットへとしまい込んだ。「……借りておく」 短く告げる。洗って返すという会話をする手間も、今の状況で礼を言う気恥ずかしさも、すべてを省略したぶっきらぼうな物言いだった。 だが拒絶ではなかった。 隼人の言葉に、小夜子は小さく頭を下げる。 運転手がドアを開けた。湿った山の空気と共に、張り詰めた気配が流れ込んできた。『月影』の玄関前には、料理長をはじめとする従業員たちが待ち構えているはずだ。それも歓迎ではなく、敵意を剥き出しにして。 隼人はパソコンを閉じ、ネクタイを――今朝、小夜子が結んだ結び目を――
last updateLast Updated : 2025-12-15
Read more

40:敵意の玄関

 黒塗りの車が、砂利を踏みしめて停車した。 午後2時30分、老舗旅館『月影(つきかげ)』の玄関を小夜子は車の窓から見上げた。 築百年を超えるという木造建築は、確かに歴史の重みを感じさせる。だが今の小夜子の目には、それが「重厚さ」というより「重苦しさ」として映った。どこか薄暗く空気がよどんでいる。「降りるぞ」 隼人が短く告げてドアを開けた。さきほどまでの車酔いの青白い顔はどこへやら、その横顔はすでに冷徹な「再生屋」のものに戻っている。 小夜子も後に続いて車を降りた。 玄関前には、支配人を先頭に仲居や板前たちがずらりと整列していた。 だが。「…………」 誰一人として、「いらっしゃいませ」とは言わない。頭を下げることもしない。 彼らの目は新しい社長を歓迎しているのではなく、自分たちの城を奪いに来た侵略者を睨みつけているようだった。突き刺さるような敵意の視線が隼人に、次いで小夜子に突き刺さる。(これはお出迎えではないわ。防壁ね) 小夜子は隼人の数歩後ろに控えながら、肌を刺すピリピリとした空気を感じ取った。 隼人はそんな敵意など、そよ風ほどにも感じていないようだ。彼は堂々と歩を進め、玄関の上がり框(かまち)で革靴を脱いだ。ロビーへと足を踏み入れる。 そして、開口一番に言い放った。「掃除が行き届いていない」 挨拶もなしのダメ出しである。隼人の視線がロビーの隅や柱の陰を冷ややかに射抜く。「床の四隅に埃が溜まっている。あそこの生け花、水が濁っているぞ。花が枯れかけているのに気づかないのか?」 図星を突かれたのか、支配人らしき初老の男性がうろたえた。「そ、それは……人手が足りず、その、手が回りませんで……」「言い訳はいらん」 隼人は冷たく切り捨てる。「これが、お前たちの言う『伝統あるおもてなし』か? 笑わせるな」 その言葉が火
last updateLast Updated : 2025-12-16
Read more
PREV
123456
...
12
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status