ウィーン公演の大成功から数日後。ヨーロッパツアーの全日程を終えた私たちは、次なる舞台――アジアツアーの皮切りの地である日本へと向かう機中にいた。ファーストクラスの静かなシートで、私は窓の外に広がる広大な雲海を見つめていた。膝の上には、大切に抱えた『黒のストラディバリウス』がある。かつて逃亡者として偽造パスポートを握りしめ、怯えながら渡航したあの日とは違い、今の私は世界的なヴァイオリニストとして母国へ帰ろうとしていた。「音羽、日本に着いたらすぐにレセプションと記者会見がある。体調は大丈夫かい?」隣のシートから、ケビンが優しく声をかけてきた。差し出されたミネラルウォーターのグラスを受け取り、私は小さく笑みを返した。「ええ、大丈夫よ。ありがとう、ケビン」ケビンは私の手元にそっと自分の手を重ねてきた。指先が私の肌に触れた瞬間、胸の奥で小さな緊張が走る。ウィーンでのリハーサルや本番で見せた彼のあの激しい独占欲と、「君の居場所は僕の隣以外にない」という強い言葉。表面上は以前と変わらぬ穏やかな態度を保っているものの、彼の瞳の奥には今も静かで暗い炎が揺らめいていることを、私は感じ取っていた。ケビン……あなたは私を救ってくれた。でも、その愛に応えきれない私を、あなたは許してくれないのかもしれない……。彼への深い感謝と、急速に重みを増していく「所有」としての愛への息苦しさ。私の心は、二つの感情の間で揺れ動いていた。同じ頃、東京――西園寺玲奈の小さな音楽教室。夕闇が迫る室内で、玲奈はデスクの上に置かれた一通の古びた封筒を静かに見つめていた。数日前、雨の中に現れた神崎蓮が残していったものだ。封筒の中身は、蓮が幼少期から神崎トオルによって受けさせられていた精神投薬とマインドコントロールの記録、そして蓮自身が拘留中に書き綴った、痛々しいほどの謝罪と告白の手記だった。「蓮……」玲奈は小さく息を吐いた。かつて彼女自身も神崎家の身代わりとして運命を狂わされ、音羽を憎み、そして己の罪を受け入れて贖罪の道を歩んできた。だからこそ、洗脳の呪縛から解き放たれ、身を削るような後悔の中で苦しむ蓮の気持ちが、苦しいほど理解できた。『彼女に会う資格などない。ただ、本当の僕の想いと罪の証を渡してほしい』去り際に蓮が残した掠れた声。彼は今、社会復帰プログラムを受け
Huling Na-update : 2026-09-14 Magbasa pa