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第140話

周囲の話し声が遠くで鳴り響く午後のカフェ。どこか落ち着かない気持ちで店内を見渡し、ようやく窓際の席に座る樹の姿を捉えた。「花澄」私の名前を呼ぶ声が耳に届き、彼が軽く腰を浮かせてこちらを気遣うように手を振る。その仕草一つで、数年前と変わらない樹の温度が伝わってきて、胸の奥がチクリと痛んだ。「樹……待たせてごめんなさい」私は早歩きで彼のもとへ駆け寄る。「謝らなくていいよ。まだ約束の時間にもなってないし。俺が勝手に早く来ちゃっただけだから、気にしないで」樹は困ったように眉を下げて笑い、優しく私を促した。その気遣いは、付き合っていた頃と何一つ変わっていなかった。「……ありがとう」その変わらない優しさが今の私には重くて、視線を伏せたまま椅子に腰を下ろす。カバンを膝の上で強く握りしめ、向き合う覚悟を固めた。「呼び出してごめんね」樹が少しだけ声を落として、私を見つめる。呼び出した彼自身も、この時間が残酷なものになると分かっているはずなのに、それでも会わなければならなかった彼の切実さが伝わってきた。「ううん。私も、ちゃんと話さないといけないと思ってたから」私は努めて静かに、けれどはっきりとした声で答えた。もう曖昧なままにしてはいけない。樹のためにも、私を信じて待っている壱馬さんのためにも。「そっか」短く、重く、樹が吐き出したその言葉は、カフェの喧騒に溶けることなく私の耳元に居座った。彼は一度だけ瞬きをして、私から視線を外す。その僅かな間に、彼が何を飲み込んだのかを想像して、私は指先をぎゅっと握り込んだ。「樹、私──────」本題を切り出し、終わりを告げようとしたその瞬間、私の言葉を遮るように、彼はあえて明るいトーンで言葉を重ねた。「せっかくカフェに来たんだし、まずは何か頼もうよ」「あ、うん。そうだね」不自然なまでに
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第141話

「覚えてくれてたんだ」少しの気恥ずかしさが混ざった私の声。「もちろん。すみません、ブラックコーヒーとイチゴラテひとつ」樹は店員を呼ぶとき、昔から少しだけ背筋を伸ばして、穏やかな声を出す。「かしこまりました」店員が去り、静まり返った店内に、カトラリーが触れ合う音だけが響く。この空気の中にいることが、少しだけ心地よくて、切ない。「樹、」沈黙に耐えかねて、私は彼の名前を呼んだ。喉の奥に熱いものがせり上がる。「ん?」樹は少しだけ首を傾け、まっすぐに私を見つめた。その優しすぎる瞳は、私たちが別れたあの日から何一つ変わっていない。「お姉様と別れて、その…不便なこととか……」樹がお姉様と婚約したのは、倒れかけていた彼の会社を立て直すという取引のため。その後ろ盾を失った今の彼が、また荒波に飲み込まれていないか、心配でたまらなかった。「ないんだよ。それがもっと怖いというか」樹はそう言って、自嘲気味に笑った。その笑顔には、解放された喜びなど微塵も感じられない。「確かに」私は小さく頷いた。お姉様はいつだって、無償で何かを与えるような人じゃない。婚約は解消しても、支援は続けるなんてありえないはずなのに。前に樹が言っていたみたいに、これ以上婚約を続けても、私への嫌がらせにならないって飽きちゃっただけ?一方的に婚約を破棄した罪悪感から、支援だけは打ち切らなかった……。お姉様にそんな人間らしい情けがあるとは到底思えない。「何かを企んでいるのか。それとも、ただの気まぐれなのか」樹の呟きは、私の不安をそのまま代弁しているようだった。お姉様の気まぐれほど、予測不能で恐ろしいものはない。何かもっと、私たちの想像も及ばないような絶望を準備しているのではないか。そんな嫌な予感が、背筋を冷たく撫でる。「……お姉様が、無意味なことするはずないも
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第142話

「えっと、今は一人暮らし?」沈黙が怖くて、私は絞り出すように声を落とした。「うん。気ままにやってるよ」樹は少しだけ椅子に深く座り直し、窓の外を流れる雲を眺めながら答えた。「そっか。……い、いい天気だね」反射的に口をついたのは、自分でも嫌になるほど中身のない言葉だった。樹に会ったら言いたいことがたくさんあったはずなのに、いざ目の前にすると、喉の奥が熱くなって言葉が形を失ってしまう。店内に流れる穏やかなBGMさえ、今の私のぎこちなさを嘲笑っているように感じる。「うん。そうだね」樹は短く同意して、ふっと表情を和らげた。その穏やかさが、余計に私の焦りを募らせる。何も言わないまま飲み物が届くのを待つことなんてできなかった。今、この瞬間に言わなければ、私は一生自分を許せないような気がしたから。「ねぇ、樹」震える唇を噛み締め、私は勇気を振り絞って彼の名前を呼んだ。「ん?」変わらない、柔らかな相槌。その声に背中を押されるようにして、私はずっと胸に蓋をしてきた感情を解き放った。「今まで、本当にごめんなさい」喉の奥に詰まっていた塊を吐き出すように、私はそれだけを口にした。途端、視界がぐにゃりと歪む。私はその滲んだ景色から逃げるように頭を下げた。「どうして謝るの。顔上げてよ」樹の声には明らかな困惑と、かつてと変わらない痛々しいほどの優しさが混じっていた。「ずっと、言わなきゃいけないって思ってたの。でも…」意を決して顔を上げた私の視界は、じわりと熱い涙で滲んでいた。けれど、今ここで泣いてしまったら、また樹の優しさに甘えてしまう。それだけはしたくなくて、私は溢れ出しそうな雫を瞳の奥へ押し戻すように、ただひたすらに奥歯を噛み締めた。「謝ったところで、私には何もできないから。何ひとつ、してあげられないから…。そんな無責任な言葉をぶつけても
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第143話

「あの時、花澄の気持ちも考えないで一人で勝手に決めたから」 明るすぎる店内に、樹の沈んだ声はひどく不釣り合いだった。 彼の告白は、数年越しに届いた遅すぎる答え合わせのようで、今さら胸の奥を焼いた。 「仕方ないよ。樹には守らなきゃいけないものがあったから」 私は努めて穏やかに、波立たない水面のような声で答えた。 「俺の守らなきゃいけないものの中に、花澄だって、間違いなく入っていたはずだったんだ」 その強い眼差しに射抜かれ、私は息を呑む。 守るという言葉が、こんなにも寂しく響くなんて。 「それなのに、会社と、そこにいる人たちの生活を守るために花澄を…」 言葉の先を飲み込んだ樹の表情が、苦痛に歪む。 「それが、正しい判断だったと思う」 本当は、私だけを選んでほしかった。けれど、そんな子供じみた我儘は許されなかった。 心の中にあるドロドロとした本音を、理性の檻に閉じ込める。 溢れんばかりの日光が、私の嘘を見透かしているような気がして、思わず目を細める。 「本当のことを言ってよ」 樹の声が低く響き、店内の喧騒が一瞬遠のいた。彼逃げ場を塞がれたような感覚に、私は視線を泳がせる。 嘘をつき通すには、私たちはあまりに長く一緒にいすぎたのかもしれない。 「本心だよ。樹があの時出せる精いっぱいの答えだったって、本当にそう思ってる」 嘘ではない。けれど、これが全てではないこともいつきには伝わっているだろう。 私は震える唇を噛み、精一杯の強がりで彼を見つめ返した。 「花澄、」 切なげに名前を呼ばれ、視界が急に潤んだ。光が乱反射して、樹の姿がキラキラと滲む。 「…でも、寂しいっていう気持ちも確かにあったよ」 ようやくこぼれ落ちた言葉は、自分でも驚くほど子供じみていた。 すべてを仕方ないという言葉で封じ込めてきた日々が、一気に溢れ出そうになる。 「…うん」 樹は短く、けれど深く頷いた。彼は私の言葉を遮ることなく、ただ受け止める器になろうとしている。 「私には、樹が抱えてる問題を解決する力なんてない。でも、話を聞くことくらいはできた。私が本当に望んでいたのは、樹の隣で一緒に傷つくことだったんだよ」 堰を切ったように言葉が溢れ出す。 守られるだけの子供ではなく、苦しみを分かち合えるパ
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第144話

「俺は花澄を愛してる自信があった。でもそれは、理想の俺だけを見ていてほしかったっていう、ただの独りよがりだったのかとしれない」樹が自嘲気味に笑い、視線をグラスの縁に落とした。樹は気づいていないんだろうな。私が愛していたのは、完璧で強い樹じゃなくて、迷って悩んで、それでも必死に立ち向かおうとする弱さを含めた彼の全部だったのに。「でもね、私は樹に救われてたよ。あの時の私は、確かにその優しさに救われてた。それは、それだけは絶対に嘘じゃない」反射的に言葉が飛び出した。彼に自分を全否定してほしくなかった。彼が自分を否定すればするほど、一緒に過ごしたあの温かな時間までもが消えてしまうような気がして怖かった。たとえそれが不器用で、一方的な形だったとしても、救われたという事実だけは守りたかった。彼が私を想ってくれた時間は、私にとっては人生を繋ぎ止めるための命綱だったから。「……本当のことを言えば、あの時の俺は花澄を失う怖さよりも、自分が背負っているものを失う恐怖に負けたんだと思う。愛しているとか言いながら、最低だよな」樹の瞳には、言い訳を許さない冷徹な自己嫌悪が宿っている。その青白い顔色が痛々しくて、私は思わずテーブルの上の彼の手へ手を伸ばしかけ、寸前で思いとどまって指先を丸めた。「そんなふうに言わないで。私よりも重いものが天秤の反対側にあった。ただそれだけのことだよ」私は樹を責める代わりに、その重さを肯定することを選んだ。彼が守ろうとしたのは、プライドや地位だけじゃなく、そこに繋がる大勢の生活だったはずで、それを切り捨てられるような人なら私はきっと彼を好きにはなっていないから。樹は弱々しく首を振った。「天秤にかけたなんて、そんな格好いいもんじゃないよ。俺はただ、重荷から逃げて楽な方を選んだだけ。その結果……一番大切にしなきゃいけなかった花澄を、自分から手放した」樹にとって私を選ばなかったことは、どんな理由があろうとも自分を許せない卑怯な逃げとして記憶されているようだった。
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第145話

「……似てる、か」 樹が私の言葉をなぞるように呟いた。 「二人とも、ずっと過去の自分に縛られて、自分を許してあげられないままなんだね」 口にすることで、私自身の胸のつかえも少しだけ取れた気がした。 「確かに、俺たちはあの日の景色から一歩も動けていないのかもしれない」 樹が視線を落とし、認めるように頷いた。成功し、責任を果たし、誰からも立派だと言われる今の彼が、心の中ではあの日の絶望に足を取られたままだった。 「だからさ、もう終わりにしよう? どちらかが悪者にならないと気が済まないような、そんな苦しい答え合わせは。私たちが前を向くために必要なのは謝罪じゃなくて、別の言葉だと思うから」 謝られるたびに、私の心はあの日の惨めな自分に引き戻される。 私が欲しかったのは、彼の反省でも後悔でもない。ただ、私たちの愛した時間が、間違いじゃなかったという肯定だけだった。 「俺は、花澄に一生許されないことで、自分の罪を繋ぎ止めておこうとしてたんだと思う。でも、そんなふうに真っ直ぐ見つめられたら……もう、意固地になってる自分が惨めで仕方なくなる」 樹は私の目を見つめたまま、ふっと自嘲気味に笑った。 彼の瞳の奥に、ようやく今の私が映った気がした。 「自分を責めて、そんな悲しい顔をするために、私に会いに来たわけじゃないでしょ?」 私は少しだけ小首をかしげて、樹に問いかけた。 私を傷つけた自分を責める彼は、今の私をさらに悲しませていることに気づいていない。樹が本当に私を想うなら、笑っていることが私にとっての一番の救いになる。 「そうだね。花澄を困らせたくて来たわけじ
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第146話

「こんな話してたら、コーヒー冷めちゃったんじゃない?」ーブルの端に置かれた樹の指先が微かに震えているのを見て、胸の奥がキリリと痛む。もう、二人の間に流れる時間は、温め直すことのできない温度まで下がってしまったのだと、教えてくれているようだった。「冷めても美味しいよ」樹は迷うことなくカップを手に取り、一口だけ口に含んで、穏やかに笑った。「そっか。イチゴラテもちゃんと美味しい」私も慌てて、イチゴラテをストローですすり上げた。こんな時でも、ちゃんと味覚は生きていて、それを美味しいと感じてしまう自分に少しだけ救われたような気がした。「ふふっ」ふいに、樹が声を漏らして笑った。さっきまでの張り詰めた空気が一瞬だけ緩む。私は何が可笑しいのか分からず、きょとんとして彼を見つめた。その眼差しはどこまでも柔らかく、まるで出会ったばかりの頃のような熱を帯びていて、私は一瞬、自分たちがさよならの真っ最中であることを忘れそうになる。「どうして笑うの」少しだけ拗ねたような口調になってしまったのは、動揺を隠すためだ。彼に笑われると、自分がひどく子供に戻ったような気分になる。「口にクリームついてるよ」彼の視線が私の唇に落ちる。いつもの癖だったのだろう。彼は一瞬、以前のように親指を伸ばして、私の口元をなぞろうとした。その指先が空を切るのを、私は瞬きもせず見つめていた。けれど、彼の指が私の唇に触れることはなかった。彼は途中で、自分の立場を思い出したかのように指を引っ込めると、手近な紙ナプキンを一枚取って差し出してきた。差し出された真っ白な紙が、私たちの間に引かれた決定的な境界線に見えた。「…ありがとう」ナプキンを押し当てると、紙越しに自分の唇の形が伝わってくる。樹の中に残っている私のイメージが、どうか最後くらいは綺麗な思い出であってほしいと願っているのに、私はいつもこうして、格好悪い
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第147話

「ありがとう。でも、私は彼のことが好きなの。だから樹の気持ちには答えられない」目を逸らさなかった。この言葉は、しっかり伝えないといけないと思ったから。長い沈黙が二人の間に横たわり、食器の触れ合う音だけがやけに鮮明に耳に届いた。 「その人の、どこが好きなの?」樹の問いかけに、私の脳裏にはすぐに壱馬さんの温かい笑顔が浮かんだ。優しくて、誰よりも真っ直ぐに私と向き合ってくれるあの人。どこが好きかと問われても、惹かれた部分がありすぎてすぐには的確な言葉が見つからない。それでも、一つだけ選ぶとするなら。「あの人は、私に自由をくれたの」それは、何よりも眩しく、尊いものだった。壱馬さんと出会うまでの私は、常に誰かの顔色をうかがい、自分の意志など最初から存在しないかのように振る舞うことが当たり前だった。そんな縛られた灰色の世界から、強引に私を引きずり出してくれた。「自由…」樹の唇から、私の言葉をなぞるように静かな呟きが漏れた。自由というたった一言だけでは、壱馬さんが私に与えてくれた光の半分も伝えきれていない気がした。「あの家から解放してくれただけじゃなくて、今までできなかったことを一緒にしようとしてくれて」自然と私の口元には柔らかな笑みが浮かんでいたと思う。私がどれほど彼に救われ、そして今がどれほど満たされているのか。ずっと抑圧された環境、あの重苦しい家の中で、私には許されないと最初から諦めきっていたささやかな夢の数々を、彼は一つ一つ拾い上げて叶えてくれた。決して私を馬鹿にすることなく、優しく手を引いてくれた。その温もりを思い出すだけで、胸の奥がじんわりと熱くなる。「花澄が一番欲しかったものを差し出してくれた人なんだね」樹の言葉は、酷く優しく、そしてどこまでも穏やかだった。「うん。自分のことを少しだけ好きにさせてくれたの」かつての私は、あの家で否定され続けるうちに、自分自身のことなど
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第148話

「樹……」その名を呼ぶ唇が、わずかに震える。出会った頃の、あの真っ直ぐで優しい瞳が、今は悲しみで濁っているのが分かって、胸が痛い。「でも、花澄を幸せにできるのは俺じゃないんだね」樹の絞り出すような声が、冷めきったコーヒーの表面を揺らした。否定したかった。樹が私を救ってくれたのは事実だし、彼がくれた優しさはこの世の何よりも純粋なものだったから。でも……。でも、今は壱馬さんの隣にいることが、一番幸せだった。「私も、樹は幸せになって欲しいよ」精一杯、震える声を整えて言葉を紡ぐ。私の勝手な願いだけれど、樹にはもう、誰かの顔色を伺って生きる日々から解放されてほしかった。「うん」樹は短く、けれど深く頷いた。その返事には、彼なりの諦めと、私への最後の気遣いが詰まっているようで、余計に切なくなる。「私が言えることじゃないけど、これからは、自分の人生を歩んで欲しい。幸せになれる方法は絶対あるから」偽善だと思われるかもしれない。でも、これは私の本心だった。仕事でも、恋愛でも、なんでもいい。私のいない世界で、彼が自分のために呼吸をして、自分のために空の色を綺麗だと思える日が来てほしい。「俺はきっと、これからも花澄が好き。…花澄だけが好き」その言葉は、静かなカフェの店内にあまりにも重く響く。樹の告白は、執着というにはあまりに純粋で、愛というにはあまりに残酷だった。私が壱馬さんと新しい未来を築こうとしていることを知っているけれど、それでも、自分の心に嘘をつくことができないみたいだ。「私は……」何も言えなかった。 私は壱馬さんを選んだ。彼との生活を、彼との幸せを、何よりも守りたいと思っている。でも、樹の幸せを願うのも事実だった。私の幸せを誰よりも願ってくれた樹にこそ、誰よりも幸せになってほしい。「困らせてごめん。潔悪くて自分でも嫌になる
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第149話

「花澄……」樹の口から漏れた私の名前は、ひどく掠れていて、今にも消えてしまいそうだった。「本当にごめんなさい。我儘だけど、理解して欲しい、です」絞り出した声は情けないほどに震えていた。謝罪を口にすればするほど、自分の身勝手さがどこまでも浮き彫りになっていく。理解してほしいなんて、傷つけた相手にこれ以上の思いやりを要求するなんて、本当に救いようのない我儘だ。それでも、中途半端な優しさを見せて樹を縛り続けることだけはしたくなかった。「…探してみるよ。花澄のいない世界で、幸せに生きれる方法を」その言葉に、心臓が大きく跳ねた。樹が私という存在を心から消し去って、新しい一歩を踏み出そうとしてくれていることが、途方もなく嬉しかった。「私が言えることじゃないって分かってるけど、ちゃんと幸せになって欲しい」 樹には、私のような身勝手な人間のせいで流させた涙の分まで、それ以上の笑顔と穏やかな時間で満たされてほしい。私のいない場所で、私以上に彼を大切にしてくれる誰かと出会ってほしい。「花澄も、ちゃんと幸せになってね」樹は最後まで、不器用なほどに優しかった。私の選んだ道が幸せへと繋がっていることを祈ってくれている。樹の優しさを無駄にしないためにも、私は私が選んだ道で、不幸になってはいけないのだと自分に言い聞かせた。「ありがとう」短く、けれどありったけの感情を込めて。本当はもっと言いたいことがたくさんあった。「ごめんね」も「好きだったよ」も、全てをひっくるめて、この四文字に託すしかなかった。「その人の隣で、今までできなかったこと全部、飽きるまでやりなよ」樹は、私のこれからを肯定してくれた。私の我儘を、これから始まる新しい生活を、全て包み込むように認めてくれた。「うん」「その人と、仲良くね」必死に堪えている樹の本当の感情が、痛いほどに伝わってくる。限界まで張り詰めた心の糸を、彼は私のためにギリ
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