Se connecter「俺は花澄を愛してる自信があった。でもそれは、理想の俺だけを見ていてほしかったっていう、ただの独りよがりだったのかとしれない」
樹が自嘲気味に笑い、視線をグラスの縁に落とした。樹は気づいていないんだろうな。私が愛していたのは、完璧で強い樹じゃなくて、迷って悩んで、それでも必死に立ち向かおうとする弱さを含めた彼の全部だったのに。「でもね、私は樹に救われてたよ。あの時の私は、確かにその優しさに救われてた。それは、それだけは絶対に嘘じゃない」反射的に言葉が飛び出した。彼に自分を全否定してほしくなかった。彼が自分を否定すればするほど、一緒に過ごしたあの温かな時間までもが消えてしまうような気がして怖かった。たとえそれが不器用で、一方的な形だったとしても、救われたという事実だけは守りたかった。彼が私を想ってくれた時間は、私にとっては人生を繋ぎ止めるための命綱だったから。「……本当のことを言えば、あの時の俺は花澄を失う怖さよりも、自分が背負っているものを失う「……似てる、か」 樹が私の言葉をなぞるように呟いた。 「二人とも、ずっと過去の自分に縛られて、自分を許してあげられないままなんだね」 口にすることで、私自身の胸のつかえも少しだけ取れた気がした。 「確かに、俺たちはあの日の景色から一歩も動けていないのかもしれない」 樹が視線を落とし、認めるように頷いた。成功し、責任を果たし、誰からも立派だと言われる今の彼が、心の中ではあの日の絶望に足を取られたままだった。 「だからさ、もう終わりにしよう? どちらかが悪者にならないと気が済まないような、そんな苦しい答え合わせは。私たちが前を向くために必要なのは謝罪じゃなくて、別の言葉だと思うから」 謝られるたびに、私の心はあの日の惨めな自分に引き戻される。 私が欲しかったのは、彼の反省でも後悔でもない。ただ、私たちの愛した時間が、間違いじゃなかったという肯定だけだった。 「俺は、花澄に一生許されないことで、自分の罪を繋ぎ止めておこうとしてたんだと思う。でも、そんなふうに真っ直ぐ見つめられたら……もう、意固地になってる自分が惨めで仕方なくなる」 樹は私の目を見つめたまま、ふっと自嘲気味に笑った。 彼の瞳の奥に、ようやく今の私が映った気がした。 「自分を責めて、そんな悲しい顔をするために、私に会いに来たわけじゃないでしょ?」 私は少しだけ小首をかしげて、樹に問いかけた。 私を傷つけた自分を責める彼は、今の私をさらに悲しませていることに気づいていない。樹が本当に私を想うなら、笑っていることが私にとっての一番の救いになる。 「そうだね。花澄を困らせたくて来たわけじ
「俺は花澄を愛してる自信があった。でもそれは、理想の俺だけを見ていてほしかったっていう、ただの独りよがりだったのかとしれない」樹が自嘲気味に笑い、視線をグラスの縁に落とした。樹は気づいていないんだろうな。私が愛していたのは、完璧で強い樹じゃなくて、迷って悩んで、それでも必死に立ち向かおうとする弱さを含めた彼の全部だったのに。「でもね、私は樹に救われてたよ。あの時の私は、確かにその優しさに救われてた。それは、それだけは絶対に嘘じゃない」反射的に言葉が飛び出した。彼に自分を全否定してほしくなかった。彼が自分を否定すればするほど、一緒に過ごしたあの温かな時間までもが消えてしまうような気がして怖かった。たとえそれが不器用で、一方的な形だったとしても、救われたという事実だけは守りたかった。彼が私を想ってくれた時間は、私にとっては人生を繋ぎ止めるための命綱だったから。「……本当のことを言えば、あの時の俺は花澄を失う怖さよりも、自分が背負っているものを失う恐怖に負けたんだと思う。愛しているとか言いながら、最低だよな」樹の瞳には、言い訳を許さない冷徹な自己嫌悪が宿っている。その青白い顔色が痛々しくて、私は思わずテーブルの上の彼の手へ手を伸ばしかけ、寸前で思いとどまって指先を丸めた。「そんなふうに言わないで。私よりも重いものが天秤の反対側にあった。ただそれだけのことだよ」私は樹を責める代わりに、その重さを肯定することを選んだ。彼が守ろうとしたのは、プライドや地位だけじゃなく、そこに繋がる大勢の生活だったはずで、それを切り捨てられるような人なら私はきっと彼を好きにはなっていないから。樹は弱々しく首を振った。「天秤にかけたなんて、そんな格好いいもんじゃないよ。俺はただ、重荷から逃げて楽な方を選んだだけ。その結果……一番大切にしなきゃいけなかった花澄を、自分から手放した」樹にとって私を選ばなかったことは、どんな理由があろうとも自分を許せない卑怯な逃げとして記憶されているようだった。
「あの時、花澄の気持ちも考えないで一人で勝手に決めたから」 明るすぎる店内に、樹の沈んだ声はひどく不釣り合いだった。 彼の告白は、数年越しに届いた遅すぎる答え合わせのようで、今さら胸の奥を焼いた。 「仕方ないよ。樹には守らなきゃいけないものがあったから」 私は努めて穏やかに、波立たない水面のような声で答えた。 「俺の守らなきゃいけないものの中に、花澄だって、間違いなく入っていたはずだったんだ」 その強い眼差しに射抜かれ、私は息を呑む。 守るという言葉が、こんなにも寂しく響くなんて。 「それなのに、会社と、そこにいる人たちの生活を守るために花澄を…」 言葉の先を飲み込んだ樹の表情が、苦痛に歪む。 「それが、正しい判断だったと思う」 本当は、私だけを選んでほしかった。けれど、そんな子供じみた我儘は許されなかった。 心の中にあるドロドロとした本音を、理性の檻に閉じ込める。 溢れんばかりの日光が、私の嘘を見透かしているような気がして、思わず目を細める。 「本当のことを言ってよ」 樹の声が低く響き、店内の喧騒が一瞬遠のいた。彼逃げ場を塞がれたような感覚に、私は視線を泳がせる。 嘘をつき通すには、私たちはあまりに長く一緒にいすぎたのかもしれない。 「本心だよ。樹があの時出せる精いっぱいの答えだったって、本当にそう思ってる」 嘘ではない。けれど、これが全てではないこともいつきには伝わっているだろう。 私は震える唇を噛み、精一杯の強がりで彼を見つめ返した。 「花澄、」 切なげに名前を呼ばれ、視界が急に潤んだ。光が乱反射して、樹の姿がキラキラと滲む。 「…でも、寂しいっていう気持ちも確かにあったよ」 ようやくこぼれ落ちた言葉は、自分でも驚くほど子供じみていた。 すべてを仕方ないという言葉で封じ込めてきた日々が、一気に溢れ出そうになる。 「…うん」 樹は短く、けれど深く頷いた。彼は私の言葉を遮ることなく、ただ受け止める器になろうとしている。 「私には、樹が抱えてる問題を解決する力なんてない。でも、話を聞くことくらいはできた。私が本当に望んでいたのは、樹の隣で一緒に傷つくことだったんだよ」 堰を切ったように言葉が溢れ出す。 守られるだけの子供ではなく、苦しみを分かち合えるパ
「えっと、今は一人暮らし?」沈黙が怖くて、私は絞り出すように声を落とした。「うん。気ままにやってるよ」樹は少しだけ椅子に深く座り直し、窓の外を流れる雲を眺めながら答えた。「そっか。……い、いい天気だね」反射的に口をついたのは、自分でも嫌になるほど中身のない言葉だった。樹に会ったら言いたいことがたくさんあったはずなのに、いざ目の前にすると、喉の奥が熱くなって言葉が形を失ってしまう。店内に流れる穏やかなBGMさえ、今の私のぎこちなさを嘲笑っているように感じる。「うん。そうだね」樹は短く同意して、ふっと表情を和らげた。その穏やかさが、余計に私の焦りを募らせる。何も言わないまま飲み物が届くのを待つことなんてできなかった。今、この瞬間に言わなければ、私は一生自分を許せないような気がしたから。「ねぇ、樹」震える唇を噛み締め、私は勇気を振り絞って彼の名前を呼んだ。「ん?」変わらない、柔らかな相槌。その声に背中を押されるようにして、私はずっと胸に蓋をしてきた感情を解き放った。「今まで、本当にごめんなさい」喉の奥に詰まっていた塊を吐き出すように、私はそれだけを口にした。途端、視界がぐにゃりと歪む。私はその滲んだ景色から逃げるように頭を下げた。「どうして謝るの。顔上げてよ」樹の声には明らかな困惑と、かつてと変わらない痛々しいほどの優しさが混じっていた。「ずっと、言わなきゃいけないって思ってたの。でも…」意を決して顔を上げた私の視界は、じわりと熱い涙で滲んでいた。けれど、今ここで泣いてしまったら、また樹の優しさに甘えてしまう。それだけはしたくなくて、私は溢れ出しそうな雫を瞳の奥へ押し戻すように、ただひたすらに奥歯を噛み締めた。「謝ったところで、私には何もできないから。何ひとつ、してあげられないから…。そんな無責任な言葉をぶつけても
「覚えてくれてたんだ」少しの気恥ずかしさが混ざった私の声。「もちろん。すみません、ブラックコーヒーとイチゴラテひとつ」樹は店員を呼ぶとき、昔から少しだけ背筋を伸ばして、穏やかな声を出す。「かしこまりました」店員が去り、静まり返った店内に、カトラリーが触れ合う音だけが響く。この空気の中にいることが、少しだけ心地よくて、切ない。「樹、」沈黙に耐えかねて、私は彼の名前を呼んだ。喉の奥に熱いものがせり上がる。「ん?」樹は少しだけ首を傾け、まっすぐに私を見つめた。その優しすぎる瞳は、私たちが別れたあの日から何一つ変わっていない。「お姉様と別れて、その…不便なこととか……」樹がお姉様と婚約したのは、倒れかけていた彼の会社を立て直すという取引のため。その後ろ盾を失った今の彼が、また荒波に飲み込まれていないか、心配でたまらなかった。「ないんだよ。それがもっと怖いというか」樹はそう言って、自嘲気味に笑った。その笑顔には、解放された喜びなど微塵も感じられない。「確かに」私は小さく頷いた。お姉様はいつだって、無償で何かを与えるような人じゃない。婚約は解消しても、支援は続けるなんてありえないはずなのに。前に樹が言っていたみたいに、これ以上婚約を続けても、私への嫌がらせにならないって飽きちゃっただけ?一方的に婚約を破棄した罪悪感から、支援だけは打ち切らなかった……。お姉様にそんな人間らしい情けがあるとは到底思えない。「何かを企んでいるのか。それとも、ただの気まぐれなのか」樹の呟きは、私の不安をそのまま代弁しているようだった。お姉様の気まぐれほど、予測不能で恐ろしいものはない。何かもっと、私たちの想像も及ばないような絶望を準備しているのではないか。そんな嫌な予感が、背筋を冷たく撫でる。「……お姉様が、無意味なことするはずないも
周囲の話し声が遠くで鳴り響く午後のカフェ。どこか落ち着かない気持ちで店内を見渡し、ようやく窓際の席に座る樹の姿を捉えた。「花澄」私の名前を呼ぶ声が耳に届き、彼が軽く腰を浮かせてこちらを気遣うように手を振る。その仕草一つで、数年前と変わらない樹の温度が伝わってきて、胸の奥がチクリと痛んだ。「樹……待たせてごめんなさい」私は早歩きで彼のもとへ駆け寄る。「謝らなくていいよ。まだ約束の時間にもなってないし。俺が勝手に早く来ちゃっただけだから、気にしないで」樹は困ったように眉を下げて笑い、優しく私を促した。その気遣いは、付き合っていた頃と何一つ変わっていなかった。「……ありがとう」その変わらない優しさが今の私には重くて、視線を伏せたまま椅子に腰を下ろす。カバンを膝の上で強く握りしめ、向き合う覚悟を固めた。「呼び出してごめんね」樹が少しだけ声を落として、私を見つめる。呼び出した彼自身も、この時間が残酷なものになると分かっているはずなのに、それでも会わなければならなかった彼の切実さが伝わってきた。「ううん。私も、ちゃんと話さないといけないと思ってたから」私は努めて静かに、けれどはっきりとした声で答えた。もう曖昧なままにしてはいけない。樹のためにも、私を信じて待っている壱馬さんのためにも。「そっか」短く、重く、樹が吐き出したその言葉は、カフェの喧騒に溶けることなく私の耳元に居座った。彼は一度だけ瞬きをして、私から視線を外す。その僅かな間に、彼が何を飲み込んだのかを想像して、私は指先をぎゅっと握り込んだ。「樹、私──────」本題を切り出し、終わりを告げようとしたその瞬間、私の言葉を遮るように、彼はあえて明るいトーンで言葉を重ねた。「せっかくカフェに来たんだし、まずは何か頼もうよ」「あ、うん。そうだね」不自然なまでに
「壱馬さん?」背後から抱きしめられている感覚に、思わず声が漏れた。包み込むような温もりが背中に広がって、心臓が落ち着かなくなる。料理をしている最中なのに、意識は包丁ではなく彼の体温に奪われていた。呼吸が浅くなり、心臓の鼓動が早まるのを自覚しながらも、振りほどく勇気は出なかった。「ん?」壱馬さんの返事は軽く、まるで何も気にしていないようだった。私の困惑を理解していないのか、それとも分かった上で甘えているのか。「動きずらいです…」必死
「俺は、何か見返りを求めて花澄と婚約したわけじゃないよ」その言葉は、まるで空気の色を変えるように、静かに、けれど確かに私の胸に届いた。それは、私の中にあった前提を根底から覆す言葉だった。私は、てっきりそうだと思っていた。家同士の都合、体裁、あるいは何かの義理。私に価値があるとすれば、それは誰かの娘という肩書きだけで、私自身には何の意味もないと思っていた。「…え、」声にならない声が、喉の奥から漏れた。
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中に柔らかな明るさをもたらしていた。私はゆっくりと目を開け、ぼんやりと天井を見つめた。やっぱり、あのまま寝ちゃったんだ。昨夜の出来事が頭の中でぼんやりと浮かび上がってくる。私の部屋じゃない。やっぱり、夢じゃなかったんだ。壱馬様の家にいて、これからずっとここに住むんだ。…ちょっと待って、「今、何時…?」枕元の時計に目をや
壱馬様の家に向かう道中、私は心の中で様々な思いが交錯していた。 車の窓から見える景色は、どこか遠い世界のように感じられた。 見慣れた街並みが、まるで別の国の風景のように流れていく。 同棲に対する不安。 あの家から逃げ出せた喜び。 そして、壱馬様に捨てられるんじゃないかという恐怖。 私は、ただ黙って座っていた。 けれど、沈黙もまた、私を締めつけた。 車内は、エンジンの低い唸り声だけが響いていた。 その音が、私たちの間に流れる気ま