Semua Bab その魔法が解ける前に: Bab 161 - Bab 170

171 Bab

第160話

「気を使わせてしまってすみません」自分の口から出た言葉は、照れ隠しと謙遜が入り交じって少しだけ上擦っていた。彼の口から飛び出した可愛いや健気でいい子なんていう身に余る褒め言葉に、私は顔から火が出そうになるのを必死に堪えていた。 親友の顔を立てるために精一杯の良いところを探して褒めてくれているだけなのだろう。 「本心なのに〜」私の生真面目すぎる反応を面白がるように目を細めた。 「壱馬さんとはどこでお会いになったんですか?」私はこれ以上の照れ隠しに耐えきれなくなり、彼の意識を私自身から逸らすために、少し早口で新たな質問を投げかけた。壱馬さんは普段から自分のことを多く語るタイプではないから、交友関係についてあまり詳しく知らない。だからこそ、壱馬さんの過去を知る人物との会話は、たまらなく心が躍るものだった。 「同じ高校でね」高校時代からということは、彼らはもう十年以上の付き合いになるということになる。それほど長い間、壱馬さんの傍にいて彼の成長を見守り、彼のすべてを知っている人物なのだと思うと、なんだかひどく感慨深い気持ちになった。 「そんな前から…」 私の素直な感嘆の漏れる声に、彼は自慢げに頷いてみせた。高校時代にはどんな顔をして笑い、どんな風に友達と過ごしていたのだろうか。ほんの少しだけ羨ましいという感情が芽生える。 「まぁ、俺がしつこく付きまとった感じではあるけど」その言葉が彼の口から出た瞬間、ドクンと心臓がひときわ大きく跳ねた。単なる自虐的な冗談として口にした言葉なのだろうけれど、今の私が最も敏感になっているそのフレーズは、嫌でも私をつけ回すあの不気味な黒い帽子の男を連想させた。私は震えそうになる声を必死に抑え込み、努めて明るい声で会話を繋ごうとした。 「壱馬さんの、学生時代の話聞いてみたいです」制服を着ていた頃の彼は一体どんな少年だったのだろう。授業中に居眠りをしたり、放課後に友達と他愛
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第161話

「そうだなぁ、こんな話を婚約者にしていいのか分からないけど…」 雄大さんはわざとらしく顎に手を当てて、勿体ぶるように視線を宙に泳がせた。 その態度は、これから語られるであろう壱馬さんの過去のエピソードが、私の想像をはるかに超える凄まじいものであることを予感させる。 少女漫画のような光景を頭に思い描きながら、私はゴクリと息を飲んだ。 「教えてください」 すると雄大さんは肩をすくめ、ニヤリと口角を吊り上げた。 「それはそれはモテ─────」 彼が言葉を口にしたその瞬間、聞き慣れた低い声が鋭く切り裂いた。 「モテてないよ」 ハッとして声のした方へ勢いよく顔を向けると、私たちが歩いていた道の数メートル先に、壱馬さんが立っていた。 数歩の距離を大股で縮め、あっという間に私の目の前までやってくると、まるで私の無事を確かめるように、頭から爪先までを素早く見下ろす。 「壱馬さん!」 壱馬さんは私の肩を抱き寄せるようにして雄大さんから私を引き離すと、雄大さんが持っていた私のエコバッグを無言で奪い取るようにして受け取った。 「ちょっと今いい所だったのに!」 雄大さんが、自分が語ろうとしていた最高の見せ場を台無しにされた子供のように、大げさに両手を広げて抗議の声を上げた。 「花澄に余計なこと言わないで」 普段、私に対して決してこんなに冷たい声音を使うことのない壱馬さんが、露骨に不機嫌な態度を隠そうともしない。 「私が聞きたいってお願いしたんです」 私が必死に庇うように言うと、壱馬さんは少しだけバツが悪そうに視線を逸らし、短くため息をついた。けれど、すぐにいつもの穏やかな、私だけに向ける優しい顔へと戻る。 彼の手が私の頭にそっと伸びてきて、髪を乱さないように優しく撫でてくれた。 「俺の学生時代の話なんて、聞いても面白くないよ」 少し困ったような、照れくさいようなトーンで甘く囁いた。その声には先ほどの冷たさは微塵もなく、ただ私への深い愛情だけが滲み出ていた。 「でも、なかなかそういう話は聞けないので」 私が少しすねたように言うと、壱馬さんは目を丸くして私を見つめ、ふわりと柔らかく微笑んだ。 「気になるなら、俺がいくらでも教えてあげるよ」 壱馬さんは私の頬にそっと手を添え、親指で優しく撫でながら、落ち着いた声で
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第162話

「あ、まだいたの」 壱馬さんの口から紡がれたのは、旧友に対するものとは到底思えない冷たくて棘のある言葉だった。 「まだって」 雄大さんは大げさに肩を竦め、傷ついたような素振りをしてみせたけれど、その口調には微塵も悲しそうな響きは含まれていなかった。むしろ、壱馬さんのその冷たい反応をどこかで面白がっているような、そんな底意地の悪さが透けて見える。 「…初めて見た」 無意識のうちに、私の唇から微かな声が零れ落ちていた。 「え?」 私の小さな呟きを拾い上げたのは、雄大さんだった。彼は壱馬さんの肩越しに私の顔を覗き込もうと、少しだけ首を傾げて小馬鹿にするような声を出した。 「壱馬さんのそんな顔、初めて見ました」いつも私に向けてくれる、あの甘くて優しい笑顔も、少し不器用で照れくさそうに笑う時の顔も、大事な話をする時の真剣な眼差しも、壱馬さんの顔なら全部知っているつもりでいた。けれど、今、雄大さんに向けられているその横顔は、完全に私の知らないものだった。 「俺にはつれないんだよねぇ〜」 雄大さんはわざとらしく溜息をつき、ひどく間の抜けた声でそう言った。まるで壱馬さんの冷酷な態度が今に始まったことではないとでも言うように。 「お前がしつこく引っ付いてくるからだろ」 「なんだとー!」 雄大さんは両手を振り上げ、子供のように声を荒げて抗議してみせた。 「…ふふっ」 私は思わず小さく吹き出してしまった。緊張の糸がほんの一瞬だけ緩み、張り詰めていた空気が抜けたような気がした。壱馬さんと雄大さんの、子供っぽくて不器用な関係性がなんだか微笑ましくて、笑みをこぼしてしまった。 「あ、笑った顔も可愛いね」 私の微かな笑い声を逃さず聞きつけた雄大さんが、パッとこちらへ顔を向けた。
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第163話

「何か、変な勘違いしてるでしょ。俺はただ、誰にも見せたくないだけだよ」 その言葉の意味を頭の中で反芻し、私の胸の奥にずっと潜んでいた劣等感がチクリと顔を出す。 見せたくないというのは、どういうことだろう。 壱馬さんは仕事もできて、誰から見ても完璧でかっこいい自慢の人で。それに比べて私は、これといって取り柄のない平凡な女でしかない。 胸の奥で渦巻くその悲しい疑念を、恐る恐る口にしてみた。 「私が恥ずかしいから…?」 その言葉を口にした瞬間、心臓がギュッと縮み上がるような痛みを覚えた。壱馬さんの眼差しはどこまでも真っ直ぐで、果てしなく優しかった。 「好きだからだよ。笑顔も見せたくなかったのに」私が恥ずかしいからではなく、ただ純粋に、私のことを自分だけのものにしておきたいという独占欲だった。長年の友人相手に本気で嫉妬して拗ねているのだ。その事実がたまらなく嬉しかった。は真っ赤になった顔を隠すように両手で頬を覆いながら、壱馬さんの可愛らしい嫉妬心を和らげるために慌てて言葉を紡いだ。 「私の事なんてなんとも思ってないですよ」 私が必死になって否定すると、壱馬さんは少しだけ不満げに眉を寄せた。客観的に見れば、雄大さんにとって私はただの親友の奥さんに過ぎず、困っていたから助けてくれただけの完全に善良な一般人だ。ストーカーの影に怯えていた私が、彼の気さくな優しさにどれほど救われたか。けれど、今の壱馬さんにそんな正論を言っても火に油を注ぐだけだろう。 「可愛いなんて言われて」まぁ、確かに雄大さんは、私をからかうような明るい調子でそう言ってくれた。けれど、それは「良いお天気ですね」と挨拶するのと同じレベルの、空気を和ませるための社交辞令でしかない。 「それは、ただのお世辞ですよ」私は壱馬さんにふさわしい妻になろうと日々必死に背
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第164話

静かで穏やかな午後。リビングのソファに深く腰掛けながら、私は読みかけの文庫本に目を落としていた。壱馬さんはいつも通り朝早くから会社へと出勤して、部屋の中は時計の秒針が刻む音だけが聞こえていた。一人の時間をどうのんびり過ごそうかとぼんやり考えていた矢先、唐突に「ピンポーン」という無機質なインターホンのチャイム音が室内の静寂を破った。平日の昼下がりに訪ねてくる予定の人物など全く心当たりがなく、何かネット通販で日用品でも注文していただろうかと記憶を巡らせる。本にしおりを挟んでテーブルに置き、ルームウェアの裾を少しだけ直しながら、私はゆっくりと立ち上がって壁に備え付けられたモニターへと足を進めた。「はい、どちら様で」通話ボタンを押しながらモニターの画面を覗き込むと、そこに映っていたのは「やっほー。急に来てごめんね」マンションのエントランスの明るい照明の下で、カメラに向かって少しおどけたように軽く手を振っている。「雄大さん…?どうして…あ、壱馬なら会社に……」平日の昼間にわざわざ来るくらいなのだから、携帯電話が繋がらなかったのだろうか、それとも直接顔を合わせて話さなければならないほど深刻な事態なのだろうか。けれど、モニターの向こうの雄大さんは、私の慌てた様子を見ても全く動じる気配がない。それどころか、カメラを見つめるその顔にはふわりとした優しい笑みが浮かんでおり、私の言葉を遮るように小さく左右に首を振った。「違うよ。花澄ちゃんに会いに来たの」あまりにも突拍子もない彼の言葉に、私は完全に返す言葉を失い、ただ呆然と瞬きを繰り返しながら裏返った声で問い返すことしかできなかった。「えっ。わ、私に?」私の戸惑いと緊張がモニター越しにも伝わったのだろうか。雄大さんは少しだけ声を立てて笑うと、安心させるようにトーンを落とした。「この前、壱馬の学生時代のこと知りたいって言ってたでしょ?」その言葉を聞いて、私はハッと思い出す。
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第165話

「おじゃましまーす。壱馬の家来るの久しぶりだなぁ」雄大さんの屈託のない明るい声が、静かな玄関に響き渡る。壱馬さんのパーソナルスペースに別の男性を招き入れてしまったことへの申し訳なさと、この後どうやって間を持たせればいいのかという焦りが入り混じり、私は玄関口で立ち尽くしてしまった。何かおもてなしをしなければと頭をフル回転させるものの、手持ち無沙汰になった私は、緊張で少し震える手を隠すように、とっさに彼に向かってある提案を口にしていた。「コーヒーを…」緊張のあまり気の利いた言葉が浮かばず、半ば逃げるように口走ってしまった。私はそわそわと視線を泳がせながら、キッチンの方へと少しだけ体を向けた。「ありがとう」雄大さんの明るく気さくな声が、部屋に優しく響いた。そもそもこんな状況になっているのは、私が壱馬さんの過去について余計な詮索をしてしまい、その流れで雄大さんを巻き込んでしまったからで。壱馬さんの大切な友人にまで手間を取らせて気を遣わせている自分が情けなくて、私は咄嗟に謝罪を口にしていた。「私が余計なこと言ったせいで、すみません」戸棚からコーヒー豆とドリッパーを取り出し、お湯を沸かしながら慎重に準備を進めた。お湯を細く円を描くように注ぎ入れると、モコモコと粉が膨らみ、深く香ばしい匂いが部屋中に広がっていく。「そんなことないよ。俺も花澄ちゃんと仲良くなりたかったし」雄大さんはそういいながらソファーに座る。そのゆったりとした動作をキッチンの端から見つめながら、私は張り詰めていた肩の力を抜き、小さく息を吐き出した。震えそうになる手で、出来上がったコーヒーをそっと差し出した。「ありがと」マグカップを受け取る時、雄大さんがふと見上げたその眼差しは、とても優しくて人懐っこいものだった。壱馬さんとはまた違う、周囲の人間を自然とリラックスさせるような不思議な魅力が彼にはある。湯気が立ち上るコーヒーを前に、彼がホッと一息つく姿を見て、私も少し
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第166話

「壱馬は…」雄大さんがふと言葉を区切り、どこか遠くを見るような目をした。彼らの間に流れる、私が立ち入れないほどの長い時間と深い絆の前に、急に自分がひどく場違いで、身の程知らずな存在に思えて仕方がなくなってしまった。「す、すみません。私なんかよりも、雄大さんの方が壱馬さんを知っていらっしゃるのに」自分の声が緊張で少し震えている。壱馬さんのことを知った風な口を利いてしまった自分が恥ずかしくて、顔が急激に熱くなっていく。どうにかしてこの気まずい空気を誤魔化そうと、私はぎこちなく口元だけで笑ってみせたけれど、きっと引き攣った表情になっていたに違いない。「いや、壱馬のことをちゃんと見てくれてるんだなって」予想に反して、雄大さんの声はどこまでも穏やかで、包み込むような温かさに満ちていた。呆れられたり、怒られたりするかもしれないという私の被害妄想は、その一言で見事に打ち砕かれる。「え?」間抜けな声が、思考よりも先に口から漏れてしまった。私は丸くした目をパチパチと瞬かせながら、雄大さんの次の言葉を待つことしかできず、ただただ固まってしまった。「よく素っ気ない奴って思われるけど、本当は誰よりも優しい奴んだよ」雄大さんの言葉が、私の心の中にある壱馬さんへの想いと完全に重なり合い、胸の奥がじんわりと熱くなっていく。「壱馬さんは、初めて会った時から私に手を差し伸べてくださって」気がつけば、溢れ出る想いを止められずに言葉が口から飛び出していた。壱馬さんの大きな手が、どれほど温かく私を引っ張り上げてくれたか。「壱馬にとって花澄ちゃんも同じだと思うよ」同じという響きが、あまりにも現実味がなくて、一瞬耳を疑う。壱馬さんにとって、私が? あの完璧で、どこか遠い世界にいそうな彼にとって、私のような存在が何か影響を与えているなんて、そんな大それたことを想像すらしたことがなかった。「壱馬さんも…?」かすれた声で、どうにかそれだ
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第167話

「え……?」ポツリと落ちた雄大さんの言葉に、私は弾かれたように顔を上げた。あんな顔って、一体どんな顔だったのだろう。私が知らない壱馬さんの表情を想像して、思わず聞き返してしまう。「あ、いや、何でもないよ。こっちの話」雄大さんは少し悪戯っぽく笑って、ひらひらと手を振った。深く追求してはいけないような気がして、私はそれ以上踏み込むことができず、微かに熱の残る頬を冷ますように小さく息を吐いた。「……でも、少し羨ましいです」ぽつりと溢れた私の声に、雄大さんが「ん?」と小首を傾げる。「壱馬さん、雄大さんと一緒にいる時はすごく自然体で…」カップの縁を指先でなぞりながら、私は自分の中にあるもどかしさを言葉にしていく。雄大さんと話す時の壱馬さんは、私が普段見ている彼とは少し違っていた。言葉遣いも少しだけ荒っぽくなって、どこか少年のような、飾らない等身大の男性という感じがする。私と一緒にいる時の壱馬さんは、いつだって完璧で、エスコートもスマートで、驚くほど優しい。雄大さんの前で見せるような、力の抜けた素の壱馬さんを引き出せるのは、長い時間を共に過ごし、深く理解し合っている雄大さんだからこそなのだと思う。私に向けてくれる甘く優しい微笑みももちろん大好きだけれど、本当はもっと、彼の中にある泥臭い部分、不器用なところにも触れてみたい。「私にはまだ……見えない壁があるというか。優しくしていただいている分、気を遣わせてしまっているんじゃないかって、時々不安になるんです」私に向けられる優しさが特別なものだとしても、彼にとって一番居心地のいい場所は、まだ私ではないのかもしれない。そんな身勝手な劣等感が、せっかくの嬉しい気持ちに薄い影を落としていた。彼が何の鎧も纏わずに、ただ息をするように傍にいられる一番安らげる場所が私であればいいのにと、そんな身の程知らずな独占欲が心の奥底で静かに渦巻いていた。沈黙が降りた数秒の間、私は自分のひねくれた感
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第168話

「花澄ちゃんがいてくれて、俺の方こそすごくホッしてるんだ」「私が……ですか?」思いがけない言葉に、私は思わず目を瞬かせた。「あいつ、昔から何でも一人で抱え込む癖があって。周りには平気な顔をして、自分だけで乗り越えようとするんだけどさ」少しだけ苦さを滲ませた声で呟き、雄大さんはふうっと短く息を吐いた。その吐息には、長年親友を見守ってきた彼ならではの、歯がゆさと慈愛が深く入り交じっているように聞こえた。 私が知っている壱馬さんの完璧な微笑みの裏側にある、決して誰にも見せようとしない脆さ。それを誰よりも知っている雄大さんの横顔は、明るく陽気な雰囲気からは想像もつかないほど静かで、どこかひどく切なげだった。「だからね、あいつが花澄ちゃんのことで一喜一憂したり、柄にもなく余裕なくしたりしてるのを見ると…。ああ、やっとあいつの心をこんなに揺さぶる人が現れたんだなって、嬉しくなるんだよね」からかうように悪戯っぽく片目を瞑ってみせる雄大さんに、私はどう返していいか分からず、再び熱を帯び始めた頬を隠すように小さく俯くしかなかった。私の些細な言動が、彼の中に波風を立てているのだとしたら。それはなんて恐ろしくて、なんて幸せなことなのだろう。「まだまだ、私にできることは少ないかもしれないですけど……」絞り出すように紡いだ私の言葉は、情けないことにかすかに震えていたかもしれない。背伸びをして彼にふさわしい自立した女性になろうとしても、その道のりは果てしなく遠く思えて、時折どうしようもない無力感に襲われる。それでも、少しでも彼の力になりたいという嘘偽りのない本音だけは、どうしても伝えたかった。「そんなことないと思うよ。ただ、そばにいてくれるだけで救われることだってあるから」その真っ直ぐで嘘のない声に、私は顔を上げた。気の利いた言葉が言えなくても、彼と対等な立場で支え合うにはまだ時間がかかるとしても、今の私なりにできることが確実にあるのだと、雄大さんが肯定
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第169話

「うわ、もうこんな時間か」 お玉でかき混ぜていたシチューの鍋からふわりと立ち上る温かな香りに包まれながら、私はゆっくりと雄大さんの方を見る。 リビングのソファでだらだらとスマートフォンを眺めていた雄大さんが、画面右上にある時計の表示でも見たのか、大きく伸びをしながら天井を仰いでいた。 窓の外はすっかり暗くなり、街灯のオレンジ色の光がカーテンの隙間から細く差し込んでいる。 今日は夕方から急に冷え込んできたから、温かい料理を作っていて正解だったかもしれない。 「よろしければ、夕食食べていきませんか?」 ちょうど多めに食材を買い込んでいたこともあり、お鍋の中には三人分でも十分に足りる量のシチューがたっぷりと煮込まれていた。 それに、賑やかな食卓になるのは私も嬉しい。 「え、マジ? いいの?」 彼の顔がパッと明るくなり、無邪気な表情が浮かんだ。ソファから勢いよく身を乗り出すあまり、クッションが床に落ちそうになるのを慌てて押さえている様子がおかしくて、私は思わずふふっと声を漏らして笑ってしまった。 まな板の上の野菜を片付けながら、私はカトラリーのセットを新しく用意しようと、食器棚の方へと歩みを進めた。 木製のスプーンとフォークを取り出しながら頷く。 「はい、多めに作ってあるので」 私の返事を聞いた雄大さんは、両手を軽く叩いて心底嬉しそうなジェスチャーを見せた。 「やった! じゃあお言葉に甘えて──────」 雄大さんの歓喜の言葉は、リビングの入り口に姿を現した長身の影によって無惨にも途中で遮られた。 「少しは遠慮しろ」 仕事帰りのはずなのに、その立ち姿には疲労感よりも特有の威圧感のようなものが漂っていて、ピシッと整ったスーツ姿がリビングの緩みきった空気を一瞬にして引き締める。 それなのに、雄大さんは悪びれる様子もなくへらへらと笑ってみせた。 「あ、壱馬。おかえりー」 雄大さんの気楽な挨拶に対して、壱馬さんは短く鼻を鳴らして応えた。 上着を脱ぎながらこちらへ歩いてくる彼の姿を追いながら、私も手を休めて正面に向き直る。 普段は夜遅くまで仕事に追われていることが多い壱馬さんが、こんなに早く帰宅するのは珍しいことだった。 「壱馬さん、おかえりなさい。今日は早かったですね」 私の問いかけに、壱馬さんはスーツのジャケットを椅子に掛けながら静
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